労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

名古屋でセミナー

名古屋市で、以下の通り働く者のセミナーを開きます。
是非、ご参加ください。

テーマ  参院選の結果を労働者の立場から考える
日時 8月7日(日)午後2時より
会場 名古屋市昭和生涯学習センター
  地下鉄鶴舞線 御器所駅下車

働く者のセミナーのご案内

私たちは各地で「働く者のセミナー」を開催しています。
7月から8月上旬のセミナーは、次の通りです。

東大阪・働く者のカフェ
日時・7月31日(日)午後1時より
会場・東大阪市中鴻池リージョンセンター(JR学研都市線鴻池新田駅南東500m)
テーマ・労働者党の再建と国政への復帰――参院選の結果をふまえて 

京都・働く者のセミナー
日時・8月7日(日)午後1時半~4時半
場所・京都市下京生き生き活動センター(京都駅)
テーマ・参院選結果と選挙制度

堺・働く者のセミナー
日時・8月7日(日)午後2時より
会場・堺市総合福祉会館(堺東駅) 
テーマ・アベノミクス批判

「交換価値」は「現れる」のか「見える」のか

東京・阿佐ヶ谷の「資本論を読む会」
――資本論学習会の議論から(1)

  同志会では全国各地で、「資本論」学習会を開いています。そこでは、多くの労働者(全くの初心者も巻き込んで)が「資本論」を読み、真剣に議論し、理解を深めています。そこでの議論を紹介し、まとめ整理する場として「資本論学習会の議論から」を考えています。

  第1回目は、阿佐ヶ谷の「資本論」学習会での議論です。冒頭の「商品論」のところで、「交換価値」は「現れる」のか「見える」のかをめぐる議論です。以下紹介するのは、15年10月に開かれた「働く者のセミナー」で、「セミナー報告者から一言」(「海つばめ」1261号より)という記事から、問題になった部分を切り取ったものです。


「交換価値」は「現れる」のか「見える」のか

  まず1番目の問題(商品の“物神性”とは?)ですが、私も出席している、阿佐ヶ谷の「資本論を読む会」で経験した論争から始めたいと思います。

  問題になったのは、『資本論』の冒頭の冒頭とも言える、商品の「交換価値」とは何であり、
またそれをいかに考えるかということでした。たったこれだけのことなのに、議論をしていると、何と1、2時間はすぐに過ぎ去り、時間が足りないくらいでした。

  交換価値とは何かという問いに対しては、「価値の本質である」といった、公式通り、教科書通りの解答もありましたが、もちろんそれでは満点は取れません。“正しい”答は、『資本論』にあるように、x量の商品A=y量の商品Bというものです、つまり具体的にいえば、上衣1着=10キロの鉄に値する関係です(まさに、「そのまんま」です)。言葉でいえば、2つの商品(使用価値)の量的関係である、ということです。

  阿佐ヶ谷学習会で激しい議論となったのは、こうした「交換価値」は、そうした形で「現れる」のか、それともそのように「見える」のかというものでした。

  定年後、苦労して英文から『資本論』1部(1巻)を日本語に訳した、大変な努力家のMさんは、ここは「見える」と訳すしかないと力説し、私などは、意味からいっても「現れる」であり、ドイツ語は「エアシャイデン」であって、「現れる」となっていると主張して譲りませんでした。英語はプレゼント・イットセルフであるということでしたが、これはやはり「現れる」という訳がふさわしいのではないでしょうか。

 Mさんは、「現れる」と訳すから問題はややこしくなり、理解しがたくなる、「見える」とすれば非常に分かりやすいと強調し、頑張りました。Mさんの理解によれば、交換価値の本質は「労働」であり、交換価値の等値関係は、両項が労働時間として等しいということを示しているのであり、交換価値は単にそう見えているだけの仮象だ、「見える」と訳せば、非常に分かりやすい話になる、という論理でした。

  確かに交換価値の関係は、両辺が等しい限り、「対象化された」労働が等しいということを表しており、交換価値――使用価値の交換比率――は「見えているだけ」というのは、その通りで、だからMさんのように答を知っている人は、単に見えているだけだと簡単に結論を下すのですが、しかし結論をまだ知らない人が見たら、奇妙きてれつで、理解しがたい現象なのです、というのは、モノとしての上衣と鉄には、等しいと置かれる、どんな共通点もないからです。

重さがあるではないかといわれても、この等式は重さが等しいとはなっていませんし、仮に両商品の重さがたまたま等しくなったとしても、そんな等式には重さがたまたま等しいということ以外、何の意味もないからです。

  だからこの2つの商品の等式関係を見た人には、「見える」も何も、それ以前に、等式関係自体が奇妙で、理解しがたいものとして「現れている」のです。

  そして重要なことは、この二つの商品と等値の関係は、商品の本質的関係として、常に、一般的に見られる、現実の“実在的な”関係であって、単に「見える」だけの関係ではないのです。

  同じことではないのかといわれますが、商品の交換関係で「見える関係」と、ただ「見える」だけの関係の違いをどう説明するかを懸命に考えていて、私は一つの川柳を思い出しました。

    「幽霊の正体“見たり”枯れ尾花」

  これは臆病者が、あるいは夜びくびくして歩いている人が、枯れ尾花(枯れススキのこと)を見ると、幽霊に見えたという意味ですが、交換価値が奇妙な関係として「見える」ということと違うのは一目瞭然です。交換価値にあっては、2商品の交換価値がモノの交換関係という、奇妙な関係として現実に現象しているからこそ、そんな奇妙な関係に「見える」のですが、ススキが幽霊として「見える」というのは単なる勘違いであって、そこにはどんな不可思議なこともないのです。

  ススキの場合はススキと分かれば、単なる幻影であったということで解決するのですが、商品の交換価値は、モノの交換比率として「見える」ことによっては、その奇妙さは解消しないのです、むしろ反対にますます深まるのです、というのは、この関係の奇妙さは現存している、モノの現実的関係で、その関係自体が奇妙な関係として「現れている」からです。

  だから、我々が仮に交換価値の真実を理解したとしても、ススキの場合の幽霊と違って、交換価値の関係は不可解な現実として、依然として存在し続けるのです。そしてこのことは、商品と商品生産社会の――その限りでの「市場経済」の――深い矛盾を、「労働の疎外」の根底を、その歴史的な限界を表し、それと関係しているのです。

  私たちは、商品の交換価値を研究し、そのモノの関係として現れている背後にある、本当の関係とその内容を知ることによってのみ、初めて、この奇妙な関係の意味と真実に到達できるのですが、このモノの関係を、モノの関係としてしか見られない人は、その現象にとらわれ、この関係をモノの関係としてのみ受け取り、あれこれの観念に、つまり妄想ともいえる観念にとらわれるのです。例えば、商品の使用価値こそが、この等式を規定するのである、等々といった妄想、全くの不合理な妄想です。

  そしてマルクスは、こうした妄想――ブルジョアたちが、普通にとらわれる妄想――を物神崇拝意識と名付けたのです。

  だから、交換価値は「現れる」のか「見える」のかという対立は、些細な、どうでもいいことに見えるかもしれませんが、商品とその価値を検討し、その真実に接近するには極めて重要なことであり、その理解において正反対の結論にさえ到達しかねないのです。

  ……以下省略                      ( 林紘義 )

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
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