労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

朝鮮韓国史から見た「12.3 非常戒厳令事件」

 大阪の『海つばめ』読者から、「12.3 非常戒厳令事件」について投稿がありましたので、全文紹介します。

 

朝鮮韓国史から見た「12.3 非常戒厳令事件」

宋実成(ソン・シルソン)

(社会言語学者・猪飼野セッパラム文庫スタッフ


1.「12.3 非常戒厳令事件」

12322時、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が「非常戒厳令」を発令した。特殊部隊が国会と選挙管理委員会に侵入、職員たちと衝突した。銃口をつかんで「쏘라고!(ソラゴ:撃てよ)」と絶叫した女性の姿は強烈だった。国会では「非常戒厳令撤回」が緊急決議され、尹は44時に撤回に追い込まれた。金竜顕(キム・ヨンヒョン)前国防相をはじめ、警察庁長官・検察総長・ソウル警察長官など政府首脳ぐるみの企てで、尹に批判的な政治家・政党・運動団体・ジャーナリストらの拘束を狙っていた。首謀者たちは逮捕され、金竜顕は拘置所で自殺を図るも未遂に終わった。「開かれたウリ党」ほか野党が提出した7日の「大統領弾劾決議案」は、与党「国民の力」議員らのボイコットで廃案に。拘束を免れている尹錫悦は「非常戒厳令」の正当性を強弁し、いまだ大統領の座に留まる。14日、一部の与党議員の「造反」で「弾劾決議案」は可決されたが、与党議員の大半は大統領を擁護し続ける。若い女性たちをはじめ老若男女が街中に繰り出し、「尹退陣、内乱首謀者処罰」を求めて連日抗議デモを開く。弾劾裁判所は180日以内に大統領罷免の結論を出す。ところで、尹錫悦をはじめとした韓国保守がなぜこのような愚挙に出たのか、そして、なぜ失敗しても権力にしがみつくのか。朝鮮韓国の歴史から事件を考察する。

 

2.韓国保守の淵源と保革対立の本質

 李朝時代(13921910)年、朝鮮農村を支配していたのは貴族「両班(ヤンバン)」だった。ソウルから派遣された代官「郡守(クンス)」が地方行政を司ったが、年貢の徴収など行政を円滑に運ぶには、在地の両班との友好関係が必須だった。そのため在地両班は、広大な農地と奴婢(ぬひ)の保有が認められ、両班が奴婢を殺害しても罪に問われなかった。1894年の「甲午改革」によって両班や奴婢などの身分が法的には廃止されたが、社会的には維持された。旧両班たちは奴婢を引き続き所有すると共に、地主として小作人をも支配した。日本の植民地期(19101945)、朝鮮総督府は旧両班地主による奴婢の所有を黙認していた(金宅圭(キム・テッキュ)『韓国同族村落の研究:両班の文化と生活』、学生社、1981)。旧両班地主層は「面長(ミョンヂャン、村長)」として植民地支配を地域で担うことで、農村に君臨した。官憲との連携の下、あらゆる民衆運動を監視・弾圧し、日本帝国の総力戦体制に協力した。李箕永(イ・ギヨン)の小説『(タン、大地)』(1948)では、面長の身内の若者は徴用対象者から外し、他家の若者たちを徴用工として送り出した様子が描かれる。1945815日の日本敗戦=朝鮮の解放に伴って朝鮮全土に「人民委員会」が組織され、「親日派の清算」と「農地改革」が課題となった。米軍政下の南朝鮮では人民委員会が弾圧されたため、親日派が「反共保守」に衣替えして生き残った。ソ連軍政下の北朝鮮では19463月の「土地改革」で地主の土地が没収されて小作人や零細農民に分配され、両班地主の家の奴婢たちが解放されて市民となった。「8時間労働制・男女同権」も実施され、「民主改革」が急速に進んだ。この北朝鮮での「民主改革」が南朝鮮の民衆運動に波及して1946年の「大邱(テグ)10月抗争」や1948年の「済州(チェヂュ)島4.3事件」が起こり、戦後日本の民衆運動にも影響を与えた。朝鮮戦争(19501953)期に韓国社会から左翼的なものが一掃されて以降、あらゆる運動が「非左翼・反共自由民主主義」を前提にした運動へと変質した。1970年代以降「経済発展」は、民衆に低賃金労働・無権利・言論抑圧を押し付けて実現された。1960年に李承晩(イ・スンマン)大統領を退陣に追い込んだ「4.19革命」、1980年の「光州(クァンヂュ)事件」、1987年の「7月抗争」などの民主化運動は、韓国の保守体制に対する民衆の怒りの爆発であり、韓国の民主化は民衆の多大な犠牲の上に実現してきたのである。

 

3.歴史の反動としての「12.3 非常戒厳令事件」

 尹錫悦は、ソウルの南、公州(コンヂュ)の「代々、儒学者を輩出してきた名門の家柄」の出である(「朝日新聞」2021111111面)。すなわち「両班」の一族だ。両親ともに大学教授で、父親は「韓国経済学会会長」も務めた。尹は1960年ソウル生まれで、ハイソな子弟が通う名門進学校を経てソウル大学法学部を卒業、検察総長を務めた際に文在寅(ムン・ヂェイン)政権と対立して保守のヒーローに祭り上げられた。大統領選挙本部を自身の幼なじみや知人らで固め、大統領に就任するや彼らを政権中枢に据えた。進歩(革新)政権が実現した成果を覆し、保守・対北強硬・親米親日政策を推し進め、労働・市民運動を弾圧した。「女性家族省の廃止」を公約に掲げて青壮年男性の「女性嫌悪」を煽った(「朝日新聞」20223117面)。その結果、昨今韓国では、男性による女性への殺傷・性被害が頻発している。家父長制と男尊女卑の家庭環境で育った尹ならではの振る舞いだ。「徴用工問題」では、過去の清算を握りつぶして日本政府と妥協した。尹の祖父らが村の有力者として植民地支配を担った事実を隠蔽するのと、先の戦争と植民地支配を推し進めた共犯同士の同盟が目的である。尹錫悦の政治、ひいては、韓国保守の政治は、政治的主権、社会的富の所有と分配をめぐる経済的主権、教育と情報をめぐる知的主権を歴史的支配層出身者たちが独占してきた寡頭政治である。それらを民衆たちが奪い取る過程こそが、1920年代から50年代までの朝鮮の民衆運動であり、50年代から今に至る韓国の民衆運動と言える。5歩進んで3歩戻り、さらに5歩進む…。尹錫悦時代は3歩戻る反動期であり、次に5歩進むことは明らかだ。韓国の民衆はそうやって民主主義を実現してきた。アイドルグループ「New Jeans」の所属事務所に対する労働争議はこのような風土だからこそ起こったのだ。韓国でもほかの国でも市民たちは「労働者としての意識、民衆としての意識」を強く持っている。一方で、日本の市民たちの「労働者意識、民衆意識」はどうだろうか?

韓国ユン政権との闘いの課題ーー政治改革から社会革命へ進むべき

韓国ユン政権との闘いの課題

 

政治改革から社会革命へ進むべき

 

 韓国では、「非常戒厳」を宣言したユン・ソンニョル大統領の弾劾訴追は今月7日に与党議員のほとんどが欠席したために不成立になったが、労働者はユン大統領の辞任を求めて国会前の抗議集会を毎日実施するなど、闘いを継続している。14日には野党が再提出した大統領弾劾訴追案の再採決が予定されている。ユン大統領は拘束されていないのを利用して12日に、「非常戒厳」宣言への謝罪を翻し開き直って、「非常戒厳」の正当性を主張する会見を行った。

 

「いま韓国は野党の議会独裁と暴挙で国政がまひし、社会秩序が乱れ、行政と司法の正常な遂行が不可能な状況だ」、「私を弾劾しようが捜査しようが私はこれに堂々と立ち向かう」、「私は最後の瞬間まで国民と共に闘う。戒厳令で不安に思われた国民の皆さまに改めておわび申し上げる」と、謝罪のポーズをしながら、「国民と共に闘う」と、ユン大統領支持派の決起を促すような挑戦的な姿勢で労働者の闘いに対抗しようとしている。

 

ユン大統領による「非常戒厳」は、軍政下で過酷な弾圧を受けた歴史のある韓国の労働者が容認できるものではなかった。ユン大統領の「非常戒厳」策動を跳ね返したのは、直接には国会での与野党議員による「非常戒厳解除」採決であったが、国会への戒厳兵士突入への大衆的な抗議行動も大きく功を奏した。2030代の若者たちも国会本館に乱入した兵士たちを見て政治参加の必要性を痛感したようで、抗議活動は熱気にあふれていたと報道された。

 

「韓国最大の労働組合の中央組織である韓国全国民主労働組合総連盟(KCTU)は、ユン大統領に辞任を迫るため、120万人の組合員に『無期限』ストライキを呼び掛けた。KCTUは、国会の前でキャンドル集会を毎晩開く予定だ」(ブルームバーグ12 /9)。

 

こうした大衆的な抗議に押され、検察や警察も内乱容疑での捜査を強めている。今のところユン大統領こそ拘束されていないが、キム・ヨンヒョン前国防相の逮捕、警察庁チョ・ジホ長官とソウル警察庁トップのキム・ボンシクを内乱容疑で拘束し、警察庁や国会警備隊などを捜索、大統領府の家宅捜査にも着手し、「非常戒厳」宣言に関与した政治家や官僚などの逮捕が始まっている。取り調べによって、ユンが「非常戒厳」を宣言した理由やその経過が明らかにされていくだろう。ブルジョア国家機構の一部分でしかない権力装置がどこまで真実を明らかにできるか幻想はもてないが、反動的な政治への大衆的な闘いこそが歴史を切り開いていくであろう。

 

韓国は戦後の建国当時はまだ資本主義的な発展が遅れている中で、後進国における国家主導の資本主義的な発展をした。冷戦構造の中、軍政の下で一時的な民主化はあったものの労働者の闘いは押さえつけられていた。しかし1987年に光州人民虐殺の〝原罪〟を負う全斗煥政権を追い詰め、民主化宣言を勝ち取り、その後民主化を進めてきた。経済的にも資本主義的発展を勝ち取り、一人当たり名目GDPでは日本を追い抜くほどに成長し、労働者階級も形成され、反政府闘争も階級的に闘われている。さらにその闘いを、資本主義を変革する闘いに発展させなければならない。

 

今回のユン政権との闘いにおいて断固として腐敗政権を追い詰められないのは、ひとえに労働者の闘いが不十分なのだ。ユン政権は、支持率の低下(物価対策への批判だけでなく、ユン夫人のスキャンダルなどが要因)や国会で閣僚の弾劾案が次々出される中で、軍事力に依存して政権の危機打開を策動したのだから、労働者もそれに対抗する闘いが必要である。議会主義に甘んじることなく、あらゆる所で腐敗政治との闘いの組織化を強め、既成政党のブルジョア的小ブルジョア的な政治を克服して労働者の階級的な闘いを強化する必要がある。

 

与党「国民の力」のように、ユンに批判的な行動をしながら、次の大統領選への党派的な利害を優先させ、議会での勢力維持を謀ろうと策動するのは自己保身そのものである。そうした姿勢はユンの開き直りを許した。ユンの翻意に驚き野党提出の弾劾訴追案に乗っかる態度は醜態であり、深刻な総括がなされるであろう。

 

野党にしても民族主義的な傾向など、反労働者的立場が闘いを歪め弱めている。

 

ユンが「非常戒厳」宣言で、北朝鮮の動向や脅威を理由の一部にしていたからといって、「北朝鮮・中国・ロシアを敵対視し、日本中心の外交政策に固執して日本に傾倒した人物を任命するなど、国家安保と国民の保護義務をなげうった」と1度目の弾劾訴追案で言及したが、2度目の弾劾訴追案では外交政策の内容が削除された。

 

「共に民主党」のキム・ヨンミン議員は弾劾訴追案提出後、取材陣に対し「弾劾事由は内乱行為で、実質的に(1度目の弾劾訴追案と)同じだ」とし、「ただし、前回の弾劾訴追案では結論に(内乱容疑以外の)様々な内容が含まれていたが、今回はその部分を除き、戒厳に関する内容のみを盛り込んだ」と明かした。

 

1度目の弾劾訴追案に表れた民族主義的な非難は、「弾劾案に余計なことが書かれている」と反発を買い、与党の投票ボイコットに利用され、投票数不足で採決されず、ユンの弾劾を遅らせ、ユンに〝反撃〟の時間を与えた。ユンの反動的な立場に対して民族主義の立場から非難することは、労働者の国際主義とは相容れないし、資本の支配との闘いを歪めることになるのである。

 

さらに12日のユンの釈明会見では、「昨年下半期、選挙管理委員会などの機関に対し、北朝鮮によるハッキング攻撃があった」、「私は衝撃を受けた。4月の総選挙を控えて改善を求めたが、改善されたかどうか分からない」と言うように、ユンの危機意識はブルジョア国家の〝安全〟のためであったという釈明であり、野党の「国家安保と国民の保護義務をなげうった」という批判に応え、開き直りを正当化することになった。ユンが資本の国家の利益を守ろうとしたことに対して、民族主義の立場からの批判では闘えないことが示されている。

 

根底において資本主義的なユン政権に対して、民主主義を守る闘いにとどまることなく、民主主義を利用して労働者が社会の本当の主人公になるための階級的な闘いを強め、資本主義的な生産関係の変革をめざすことこそ、労働者の闘いの道である。労働の解放をめざして、世界中の労働者と連帯して共に闘おう。 (岩)
20241221日韓国の戦後の経済発展について一部修正)

平民社以後の社会主義運動(2)

先月に続き、神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第46号で、平民社後の昭和に入ってからの社会主義運動について紹介しています。日本における社会主義運動について理解する参考になると考え、紹介します。(担当)

 

 

平民社以後の社会主義運動(2)

 

「労働者くらぶ」前号(45 号)で「平民社後の社会主義運動」について述べましたが、大正末期で終わってしまい、昭和に入ってからの活動については、ほとんど触れることができず中途半端に終わってしまいました。そこで今号では、昭和に入ってからの10 年間ほどの運動(主として共産党の活動になるが)に簡単に触れて補足したいと思います。

 

先に述べましたように、日本共産党は、コミンテルンの日本支部として1922 年(大正11 年)7 月に秘密裏に結成(堺利彦委員長)されますが、党の綱領や規約もない、党とは名ばかりのもので、主要メンバーの翌年の検挙であえなく壊滅してしまいます。関東大震災の大杉らの虐殺や政府の弾圧もあって、解党論が主流になり、24 4 月に解党してしまいます(第1 次共産党)。

 

堺や山川らの解党派は、共産党を離れていきますが、解党派は、山川が第1次共産党結成時に発表した論文「無産階級の方向転換」に従って、合法的な無産政党の結成に向かっていきます。そして27 年には「労農」を創刊し、論文「政治的統一戦線――無産政党合同論の根拠」を発表し「共同戦線党」の結成を提唱します。山川の「方向転換」論と「共同戦線党」論の意義については前号で触れましたので省略します。

 

一方、再建派は、26 12 月に党再建(佐野文夫委員長)を果たします。この時、再建共産党の理論的指導者になったのは福本和夫です。福本は、思想的に純化したマルクス・レーニン主義の党を作り上げるとして、理論闘争を重視した「分離・結合」論を提唱しますが、この左翼急進的な方針は、政治運動、組合運動、さらには文化運動にまで分裂主義やセクト主義を持ち込むことになりました。この福本イズムは、コミンテルンから批判され、撤回されますが(福本も自己批判)、その後も長く共産党の運動に影響します。

 

25 年の普通選挙法(同時に治安維持法も成立)に基づいて最初の総選挙が28 2 月に実施されます。再建された共産党は、合法無産政党である労働者農民党を隠れ蓑にして、共産党の党名入りのビラを配布するなどして公然たる宣伝活動を開始しますが。無産政党各党は、計8 名の当選者を出しますが、これに恐怖した政府は、総選挙の3 週間後の3 15 日に、全国の共産党員やシンパの一斉検挙を行います(3・15 事件)。

 

さらに翌年4 16 日にも残った党員やシンパの一斉検挙が行われ(4・16 事件)、再建されたばかりの共産党は大打撃を受けます。この2度の大弾圧によって共産党は、経験豊富な幹部をことごとく失い、指導部は、未熟な活動家によって構成されることになります。416 後に再建された共産党の委員長になったのは、田中清玄(当時23 歳)でありもう一人は佐野博(24 歳、佐野学の甥)でした。彼らの打ち出した方針は、武装自衛団、武装デモ、赤色テロなどの極左的冒険主義でした(武装共産党)。

 

もっとも、これらの過激な方針が採択されたのには背景があります。当時は、29 年にアメリカから始まった大恐慌が世界に拡大していくときにあたり、コミンテルンは、社会民主主義者を敵とした急進的な「社会ファシズム」論を採用します。また国内においても金融恐慌や世界恐慌の影響が深刻になり、労働争議や小作争議が頻発し階級闘争の高まりがありました。指導部の二人は30 年に相次いで逮捕されて武装共産党は壊滅します。

 

彼らに代わって新しい指導部についたのは,クートべ(ソ連の幹部養成大学)帰りの風間丈吉(28歳)と飯塚盈(みつ)延(スパイM)です。この指導部によって武装共産党は修正されますが、しかし社会ファシズム論に基づいて、社会民主主義者との闘いに熱中し、セクト主義はそのままです。もっとも、「大衆へ」のスローガンを掲げて、この時期の共産党は、戦前で最も勢力の拡大した時期といわれます(党員は約600名ほど、「無産者新聞」2万~4万部、「赤旗」約7000部)。

 

この頃の共産党は、319月に満州事変が勃発したときにあたり、「非常時共産党」(31年~32年)と呼ばれます。しかし、この共産党も、3210月の熱海事件の大検挙で壊滅してしまいます。そのあと短期間、山本正美や野呂栄太郎の委員長が続きますが、野呂の時に幹部に昇格したのが宮本顕治です。

 

野呂が逮捕された直後に起こったのが「スパイ査問事件」(3412月)で、このとき査問の責任者になったのが宮本であり当時24歳(彼もまたスパイの通報でその直後に逮捕される)でした。

 

そして、ただ一人の中央委員に残った袴田里実が357月に逮捕されて、名実ともに戦前の共産党は消滅するのです。この間、336月に、416事件で逮捕されていた幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中から転向声明を出します。続いて田中清玄、風間丈吉等、主だった幹部や多数の党員が雪崩を打ってそれに続きます。

 

33年に野呂らによって再建された共産党も、その直後に指導部の検挙や「スパイ査問事件」などで解体してしまいます。ですから戦前の共産党の活動は、2612月に共産党が再建されて以来、33年に消滅してしまうまでの実質8年間位です。

 

22年(大正11年)に結成された第1次共産党は、山川ら社会民主主義者を含んだ、ほとんど実態のない党でしたから、今日まで続いている日本共産党とは別個に考えられます。

 

戦後の共産党を長く指導した宮本顕治の戦前の党活動も23年ほどにすぎません。戦後の共産党の幹部らは、「獄中18年」(徳田久一)とか「獄中12年」(宮本顕治)とかの「非転向」を誇っていますが、軍部ファシズムの本格的な台頭や帝国主義戦争の勃発を前にして、前衛としての共産党は、(レーニンが言った「戦争を内乱へ」どころか)どんな役割も果たすことなく、崩壊してしまったわけです。

 

こうした共産党の党活動の理論の中心にあったのが、コミンテルンの方針です。日本共産党は結成当時、理論的に未熟であったのと同時に、コミンテルンの支部として作られたのでコミンテルンの方針は絶対であったわけです。

 

第2次共産党の再建時に出されたのが27年テーゼです。この27年テーゼでは、党の闘いを理論闘争に限定した福本イズムは、党と労働組合等の大衆団体との相違を無視し、労働組合を機械的に政治化するものとしてその急進主義を批判されます。共産党はこの批判を受け入れますが、それはコミンテルンの権威に屈服したにすぎず、その後長く福本イズムは共産党の体質であるセクト主義や分裂主義となって生き続けるのです。

 

一方、27年テーゼは、日本の急速な資本主義的発展を指摘したものの、日本の革命は民主主義革命から社会主義革命へと連続するというスターリン主義の二段階革命論に立っていました。つまりロシア革命と同じ理論に基づいてコミンテルンも共産党も、天皇制の打倒を革命戦略として掲げたのです。

 

しかし第一次世界大戦後の日本は、すでに独占資本主義の段階、国外に多くの植民地を有する帝国主義の段階に達しており、天皇制はすでに独占資本の階級支配の道具、隠れ蓑になっていました。

 

確かに国内にはなお半封建的な遺物があって、それらを一掃する民主的課題はありましたが、封建制の廃止は、帝国主義段階においては、独占資本の打倒、社会主義革命のための闘いと結びつけ、それに従属して闘われねばなりません。

 

天皇制の廃止など封建制一掃のブルジョア革命を達成したのちに社会主義革命をめざすというのでは、労働者の革命闘争をブルジョア民主主義革命という誤った方向に向かわせたのです。

 

32年テーゼ(河上肇の翻訳)は、この27年テーゼをより厳密に完成したものであって、そこでは日本の支配的な制度を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有制、独占資本主義の三つの要素の結合として特徴づけ、特に天皇制については、封建的な地主階級と独占資本の利益を代表しつつ「その独自な相対的に大なる役割」を「エセ非立憲的形態」で粉飾されているに過ぎない、としました。

 

そして、天皇制こそ「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし、残存物)の主要支柱」、「搾取階級の現存の独裁の強固な背景」であると規定し、天皇制の国家機構の粉砕こそ日本の革命運動の第一義的な任務である、としました。

 

この32年テーゼは、今なお共産党によって「画期的な指針」(「共産党の70年」)として賛美されており、この党の小ブル民主派の本質を規定するものとなっています。

 

この32年テーゼと27年テーゼの間に、モスクワ帰りの風間丈吉が持ち込んだ31年テーゼというのがありますが、これは社会主義革命を戦略目標として提起したものですが、残存したトロツキー派(当時すでにトロツキーは追放されている)によって起草されたもので、すぐスターリン派の32年テーゼによって葬られているので、日本共産党に理論的影響はありません。

 

戦前の共産党の綱領的立場は、労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げにして労働者階級の闘いを、天皇制の廃止を含む封建制の一掃という、ブルジョア的課題に捻じ曲げたものでした。

 

戦前の共産党の闘いが、天皇制の打倒を掲げ、いかに表面的には戦闘的、急進的にふるまおうと(これこそ、戦前の共産党の“革命的”という神話を生み出したのですが)、プロレタリアートの社会主義のための闘いとはほど遠い小ブル民主主義派の闘いでしかありませんでした。

 

27年テーゼや32年テーゼに基づいて、日本資本主義の分析を行ったのが、野呂栄太郎などの講座派(「日本資本主義発達史講座」岩波書店)です。彼らは、32年テーゼに基づいて日本資本主義の半封建的な性格と絶対主義的な天皇制の支配を強調し、民主主義革命から社会主義革命へという二段階革命を主張したのです。

 

この講座派に対し、日本の現状を、ブルジョア国家ととらえ、日本の革命は社会主義革命である、として共産党を批判したのが、山川や荒畑、猪俣津南雄ら社会民主主義者の「労農派」です。

 

しかし、彼らも、社会主義の闘いの前に、それに移行するための民主主義的な条件を作り出さねばならないとして、彼らの戦略も結局は、二段階革命論の共産党と同じものでした。ただ彼らの「社会主義革命」論は、天皇制との闘いを回避するための日和見主義的口実にすぎなかったのです。

 

以上、これまで、1901年に幸徳らによって結成された社会民主党(即日禁止)以来の社会主義運動の戦前までの歴史を大急ぎで追究してきましたが、その歴史は政府権力による激しい弾圧の歴史でした。

 

この歴史から私たち労働者階級は、何を学ばなければならないのか? それは、マルクス主義に基づいた、公然・非公然に柔軟に対応できる強固な労働者の前衛党がなければ、資本主義と闘うことも、その打倒も、不可能だということです。

 

レーニンが『何をなすべきか』で強調した労働者階級の前衛党を、戦前も、そして戦後も、日本の労働者階級は持つことができませんでした。幸徳らの社会民主党の結成以来、120年がたっていますが、幸徳らのめざした資本主義の廃止、社会主義の実現はおろか、幸徳らを虐殺した天皇制も、象徴とはいえ残存しているのです。

 

現在、幸徳を直接行動に走らせた、ブルジョア議会主義の腐敗、堕落ぶりは、目を覆うばかりです。共産党や立憲民主党など野党が、党利党略、自党第一に走り、この絶好の機会に政権交代さえできない姿は、戦前の無産政党各党が離合集散を繰り返し、やっと実現した社会大衆党が、結局、政府のお先棒を担いで、国民を戦争協力に駆り立てていった悪夢を思い出させます。

 

共産党や社民党(旧社会党)の源流は、幸徳らの社会民主党や平民社にあります。ところが、彼らは、平民社の社会主義運動についてほとんど語りません。なぜか? それは、彼らがブルジョア議会主義の腐敗・堕落に骨の髄まで染まり、労働者の階級闘争を忘れ、「社会主義」という言葉さえ口にすることを憚っているからです。

 

幸徳らの社会主義運動の記憶を持ち出せば、彼らのブルジョア的堕落は一目瞭然だからです。彼らは、今の地位に満足していたいのです。戦後80年、日本の労働者も、いいかげんに目を覚まさなければなりません。共産党の、エセ・マルクス主義におさらばし、革命的マルクス主義の旗を高く掲げて、労働の解放をめざす労働者党に結集し、労働者の前衛党を作り上げていきましよう!(K

 

横浜労働者くらぶ学習会案内11月の予定

 

◆「資本論」第1巻学習会

日時:11月27日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室

学習範囲:第6篇19章~第722

 

◆「資本論」第2巻学習会

日時:11月13日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:第20章1節~9節

 

◆マルクス主義学習会 ―― エンゲルス「空想より科学へ」

日時:11月16日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:序文と第1章「空想的社会主義」まで

 

横浜労働者くらぶ

連絡先:Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

(日程や会場が変更になることもありますので、事前にご連絡ください。)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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