我々の闘いに参加とご支援を
          ――来春に党に移行、国政選挙への体制整える


 マルクス主義同志会は、今春の大会で新しい労働者、勤労者の党を再建し、国政選挙を中心に選挙闘争に復帰し、闘い抜く方針をすでに決定、確認しましたが、代表委員会は、さらに来春の大会で新しい労働者、勤労者の政党を再建し、そのために実際的に活動を開始することを明らかにし、再建大会に向けて、綱領、規約の草案の作成などを中心に、現在、その具体的な準備に入っています。

 こうした時にあたり、マルクス主義同志会は、全国の労働者、勤労者の地位や生活を守り、改善するために、そしてまたその究極的な解放を目ざして闘っている全ての労働者、勤労者に呼びかけます。
 こうした闘いに参加し、共に闘おうではないか、と。

 もちろん我々がこうした闘いを提起するのは、20世紀から21世紀にかけて、一方で資本主義の“グローバル化”が徹底的に進むと共に、他方では、資本主義の矛盾や頽廃がますます深化し、慢性的な不況や〝デフレ〟がはびこり、あるいは新しく民族主義や軍国主義、帝国主義がはびこり、わが物顔で徘徊するような時代、そしてまた、労働者、勤労者の政党を自称する民進党とか共産党などのブルジョア的な腐敗や解体、転向が究極的な所にまで来てしまったことを、その結果、国政がまるでブルジョア政党や反動たちの好きなように支配され、牛耳られて、労働者、勤労者が無力化され、まるで虫けらのように扱われて、搾取されている現状を確認するからです。

 労働者、勤労者が再び国政の中でも、大きな影響力を発揮し、闘っていく必要があるのです、またそのことなくしては、労働者、勤労者の経済的、政治的立場を高め、自分たちの生活を守り、また未来を切り開いていくことはできません。

 労働者、勤労者の政党が存在しないということは、ブルジョア独裁が存在していると同様です。
 経済的には、すでにブルジョア独裁は現実のものです、というのは、経済的に権力を握っている――つまり、「資本」を独占しているのはブルジョアであり、まさにそうであるからこそ、現在の体制は資本主義なのですから――、しかし彼等は今や、政治的にも独裁体制を敷いています、というのは、労働者、勤労者を代表する政治勢力が消えてなくなってしまったから、労働者、勤労者の立場に立ち、その利益を守って闘う政治勢力がいなくなってしまったからです。

 今では労働者、勤労者のなかで、民進党や共産党が労働者、勤労者の政党だなどと考え、信じている労働者、勤労者はますます少なくなっていますが、それはちょうど20年ほど前、労働者、勤労者が社会党をそう見なして見捨てたのと同様です。その結果、社会党は選挙で大敗し、消えてなくなってしまいました。

 そして今や、共産党もまたその後を追って、急いでいます。
 野党や市民派やインテリたちは、最近の選挙でも――もちろんその時だけに限らず、いつものことですが――、日本に「民主主義」――もちろん、これは政治的、歴史的な概念としての「民主主義」です、つまり日本国憲法に保障されているような、“法的な”権利としての民主主義です――が失われた、それを取りもどせとか大騒ぎを、空騒ぎを演じ、そんな空騒ぎによって安倍政権と、つまりブルジョアの政治的独占と闘っているかにうぬぼれ、装いました。

 「立憲主義」の回復こそが、現今の緊急で、最重要な課題である、等々ということだったのですが、その「立憲主義」とは、「憲法の意義は、権力を、あるいは政権党を抑制し、規制するところにある」といった、つまらない独りよがりの空論でしかありませんでした。それが、民主主義の究極の姿であるというのですが、そんなものは実際には、単なるプチブル党や市民派の幻想であり、思い違い――というより、思い上がり――でしかありませんでした。

 今では、民進党はもう一つの自民党(ブルジョア党)であり、共産党は第二の民進党(半ブルジョア党)でしかありません。
 憲法が民主主義を保障した体制なら、それは民主主義の体制である、つまり“法治主義”の政治体制です。

 もし政治的なブルジョア独裁を抑制し、制約するこができるとするなら、それは労働者、勤労者が自らを政治的に組織し、ブルジョア政党と断固として、最後まで闘う以外ないことは自明です、そして憲法の意義をいうなら、そのことを法的に保障していることだけであって、憲法自身が自らブルジョア政党やブルジョア独裁と闘うことを謳い、また憲法そのものがそうするといったことでないのは余りに明らかではないでしょうか。単なる“法”でしかない“憲法”そのものに、そんな意義や役割があるなどと思うとは、民共や市民派は何というばか者揃いであることでしょうか。冗談もいい加減にすべきです。

 自分たちにブルジョアの政治的独裁と闘う意思も実力もないからといって、その代わりに、憲法を持ち出すとは、諸君は一体何のために存在しているのでしょうか、どんな存在意義があるのでしょうか。民主主義がないのではない、諸君が民主主義が何であるかさえ知らないのであり、わきまえていないだけです。民主主義は厳然としてすでに存在しており(したがって、民主主義の存在のもとで、「新しい」か、「眞の」かは知りませんが、またまた、あるいはさらに“民主主義革命”とやらを実行せよという、共産党の諸君の時代錯誤と愚かしさについては、労働者、勤労者はただただ呆れるしかありません)、問題は野党や市民派に、そのもとで闘っていく意思も能力もないということにすぎません。

 甘えるにもほどがあります。
 諸君がブルジョアの政治と闘い、その政治的独占を掘り崩していかないとするなら、民主主義などあってなきものと同様であり、ブルジョアの政治的独裁のもとで、労働者、勤労者の地位は低落し、その権利も生活も未来も希望もみな失われ、ますますブルジョア次第となっていくしかないのであり、事実そうなってきているのです。
 労働者、勤労者は政治的にも力を持つべきであり、議会の中でも大きな勢力を確保して行かなくてはならなりません。政治をブルジョア勢力が独占するままにしておいて、労働者、勤労者の生活や未来を守っていくとはできないのであり、ますますそうなっているのです。

 我々はブルジョアや反動の勢力だけがのさばり、議席を占有しているような議会を必要としません、労働者、勤労者が議会の中でも大きな勢力を持つ必要が、労働者、勤労者の本当の代表を何十人と国会に送り込んでいく必要があるのです。

 マルクス主義同志会の代表委員会は、労働者党の再建と国政への復帰を実現し、実行に移して行くために、来春の党再建大会開催を決定し、すでに今月の初め、それに向けて次のように呼びかけました。

 「選挙闘争も含めた我々の党派的な闘いは、かつての総括の上に立って、徹底的に階級的で、革命的なものにして行かなくてはなりません、つまり我々の闘いは、もちろん様々な具体的な闘いや要求と結びつけてですが、公然と労働者、勤労者に「労働の解放」を、搾取労働、差別労働の一掃と廃絶を呼びかけるもの、賃労働の廃止を呼びかけるものですし、またそうしたものとして貫徹されなくてはなりません。

 選挙においては、我々は数千万の労働者に、とりわけ抑圧され、搾取され、差別されている多くの労働者に、みな揃って「労働者党」に投票し、労働者の本当の代表を何人も国会に送り込むように、そのことが労働者の政治的、経済的な闘いにとって一つの決定的な重要事であることを訴え、当選を目ざして闘っていきます。

 我々が議席の獲得のために本気で、全力を尽くして闘っていることを、広汎な労働者が見なかったら、信じられなかったら、彼等が我々に投票することはありません。同志会がその決意を固めることが出発点です」。

 また新しい党の名称についても、「我々の組織の性格や本性を明らかにし、また選挙においても効果的な名前にすべきであって、過去に汚されたり、姑息、陳腐であったりするものを避け、新鮮で、資本のもとで搾取され、疎外されている広汎な労働者、勤労者に訴え、希望を持って受け入れられるようなものにすべき」とも提起し、党名についても真剣に検討していくように呼びかけました。

 民進党はいうまでもありませんが、共産党もまた労働者、勤労者の政党としては腐敗し、解体し、消えて無くなりつつあります。彼等はその日和見主義と、プチブル的根性やブルジョア的本性ゆえに、まさに20年前の社会党と同じ運命をたどるしかないのです。もちろん矮小な個人主義に生きるインテリや“市民派”に、期待し得るものは何もありません。

 我々は、全国の闘う意思のある、心ある労働者、勤労者の諸君、闘いを欲する活動家の諸君の全てに、今こそ立ち上がり、団結して本当の闘いを開始するように訴えます。
 共に闘いましょう。