「日本共産党と『資本論』」の紹介
過少消費説や「恐慌論」のドグマを一掃しよう!

 待望久しかった「日本共産党と『資本論』――マルクス主義の曲解とエセ解釈 そして教条主義と修正主義」(林紘義著)が出版されました。

 本書は、共産党の政治、政策を根底のところで支えている経済理論、とくに過少消費説と恐慌論を中心に、そしてそれをめぐる彼らの「資本論」解釈を徹底的に批判しています。

 例えば、過少消費説。これは大衆の消費制限によって恐慌(不況)を説明しようという俗説ですが、スターリンが世界の共産主義運動を支配した1920年代以来の共産党の〝伝統〟になっています。本書では、戦前の講座派の論客・山田盛太郎の「再生産表式論」までさかのぼり、彼らの恐慌論のドグマチズム、「資本論」解釈の曲解と修正を明らかにしています。

 こうした作業が現在とりわけ重要な意味を持ってくるのは、過少消費説に固執する限りは、安倍政権とまともに闘いえないからです。安倍(アベノミクス)も重点こそ違え(金融緩和や財政膨張に重きを置きつつも)、現在の不況を脱却するためには需要を拡大する必要がある、賃金の引き上げもデフレ脱却には必要だ、と言い立てているからです。こうした安倍政権に対し、大衆の消費を拡大すればいい、賃上げで懐を「温かくし」、不況を克服して資本主義の繁栄を勝ち取ろうと言い立てている限り、つまり過少消費説という共通の土台の上で闘おうとする限り、その無力とナンセンスさは明らかです。

 したがって、本書の特徴の一つは、単なる経済書、単なる「資本論」の解決書ではないということ、現実の闘争課題にこたえようとする優れて実践的な書であるということです。つまり共産党との党派闘争の書であり、そのスターリン主義との徹底的な闘いの書であるということです。このためか、時に激しい言葉が不破哲三や共産党系学者に投げかけられていますが、著者の抑えきれない怒り、憤激の吐露といえるでしょう(労働者全体を代表しての怒りと抗議の表明です)。

 とはいえ、理論的な緻密さ、厳格さをないがしろにしているわけではありません。むしろ、実践的な課題に十分にこたえるためにも、本書は理論的な緻密さや厳格さを貫いていると言えます。これがもう一つの本書の特徴です。

 難解と言われる「資本論」第2巻第3編や第3巻をめぐって、さらにはエンゲルスの修正問題やマルクス遺稿の評価など、この数十年の間に問題になってきた再生産論や恐慌についての諸問題に大胆に切り込み、分析評価を加えています。
 中でも、再生産表式をめぐる展開は注目すべき部分です。拡大再生産の〝均衡式〟は存在しない、その不均衡から恐慌の必然性が明らかになるというスターリン派のドグマに対し、拡大再生産の〝均衡式〟はあるとして、スターリン派はこの表式論の課題を何もわかっていない、ドグマをもてあそんでいるだけだと批判していますが、その論旨は極めて明快であるといえます。

 第3章の扉での「解説」では、〝均衡式〟について次のように書かれています(本書では各章の扉にその章の狙いや課題が説明されています)。
 「戦後発見されながら長らく埋もれていた、拡大再生産における〝均衡式〟の再発掘の意義を我々は確認しえたが、それは資本主義生産の根本的な矛盾や限界とその本性を明らかにし、戦前からさんざん議論されながら、混沌の中にさまよっていた〝恐慌〟の理解(いわゆる〝恐慌論〟)等々に最終的な決着をもたらし、さらには共産党の思想的、実践的な根底ともなってきた――そして共産党の度し難い日和見主義とブルジョア協調主義と政治的堕落を支え、正当化してきた――「過少消費説」の俗論の死命を制する決定的な契機ともなったのである」。

 読者は、本書によって過少消費説の俗論に対する批判的認識を深めることができるし、共産党の政治的堕落や頽廃との闘いの必要性、必然性をより確固たるものにすることができると確信します。

 「資本論」を読んだ人、読み始めた人、まだ読んでない人も、そして安倍政権への不満や怒りをうっ積させている人、共産党の政治をおかしいと感じ始めている人など、多くの労働者、勤労者、青年にぜひ読んでほしいと思います。

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