労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2018年01月

西部邁の自死

『海つばめ』で健筆を揮う林さんが、西部邁の自死について文章にしたためました。西部の生き様もさることながら、60年安保闘争の一断面を知ることができる興味深いものですので、紹介します。

 

西部邁の自死


 西部が自死した。病気を苦にしていたということもあるらしいが、80代に差し掛かって「覚悟」の自殺にも見え、〝虚無主義〟
(ニヒリズム、と外国語でいった方が、西部にふさしいか──北海道の田舎のくせに、彼は案外ダンディで、気取るところがあったから)を底に秘めていた、いかにも西部らしい死に方だと思った。私にそんな潔い勇気があるかは心許(こころもと)ない。


 信州の片田舎から出てきた、ぽっと出の、単純素朴な〝ヒューマニスト〟だった私が〝学生運動〟に〝主体的に〟参加を決意し、自治会の常任委員に進んでなったのは、やっと2年に進級する前の春休みからであって、1年生の私は自治会の連中に反発する〝ノンポリ〟で、せいぜいクラスの自治委員をやったり、デモには〝義務感から〟参加する程度の、小説を読みふけるくらいが関の山の学生だった。


 2年生になる前に「これではいけない」と反省し、常任委員に自ら自治会室に行って申し出ると、そこにいたのが坂野潤治であった。4月から西部が入学してきたが、彼は1浪している間に、考えるところがあってか知らないが、入学と同時に学生運動に積極的に参加してきたので──その点では、故樺美智子と同じだった──、たちまち私と西部の人生が交わることになった。


 共産党からブントに移り、安保闘争を共に闘い、そしてプロ通派のメンバーとしてブントの〝分派闘争〟と終焉までを共にしたが、その後の道は全く分かれてしまった。彼は青木らと共に〝ブル転〟し、青木昌彦らと共にブルジョア的、反動的な陣営に移ってしまった。


 青木は私より半年早く生まれ、西部は私より半年遅く生まれたので、私は年代的には丁度2人の真ん中に位置していたが、1958年早春、始めて3人は学生運動の場で出会い、61年早春のプロ通派の解散の時まで、ほとんど同じ経歴をたどったことになる。


 もちろん、青木は私より1年先に入学し、私が入学してすぐ、自治委員になり、原水爆反対のデモのことで、クラス討論の相談で自治会室に行くと、そこに常任委員の青木がいたから、青木との出会いは57年4月だが、運動家として青木と関係するのは、58年の春である。付言すれば、58年5月、私を共産党に──従って社会主義、共産主義運動と名のつくものに──誘い込み、誘導し、私の運命を狂わせた悪い男は青木で、「林は小説家になりたいのだろう。そしたら、色々な経験をしておかなければ」と言葉巧みに誘惑した。


 58年夏、全学連は広島の原爆反対の世界大会に動員をかけ、平和主義に反対するデモを敢行したが、そのとき、東京から広島まで夜行列車で、西部らとともに、満員列車の通路にたむろし、語り合いながら行ったことを思い出す。


 西部が59年、志に反して?、駒場自治会の委員長に祭り上げられ、学生運動のヘゲモニーを巡って59年から始まったブントと共産党との泥仕合の中で奔命に疲れせしめられ、消耗し、苦悩することになったのは、青木や清水らの意思と画策のためである。


 59年秋の国会突入の年、すでに私は全学連・都学連の常駐のメンバーとして、首都の学生運動のために24時間フルともいえる活動に走り回っていたが、そんなとき、日比谷野外音楽堂で駒場自治会の委員長として学生を導いてきた西部とちょっと立ち話をした時があった。


 彼は、委員長職に対するグチらしきものを漏らしたが、突然どんなきっかけからかは覚えていないが、「しかし俺は林が好きだょ」と言われた。私も、西部にはどこか理解できない所があると感じつつも、人間として憎めないところがあり、彼が嫌いではなかった
(これは青木や清水についても同じで、青木を「ブルジョア的だ」と毛嫌いした兄からは、「お前は青木・清水派だ」と断じられたくらいである。確かに後に兄の分派──愛知分派──でなく、プロ通派=〝プロ通左派〟に属したのだから、そういわれても仕方なかった)


 青木も西部も〝ブル転〟したり、〝バック転〟
(〝保守派〟、反動派への転向)したが──私の理解しがたいところだが、彼らの根底にある、階級的な本性が出たということか──、また彼らのような器用な生き方のできない私は〝転向〟できず、彼らと道が分かれ、それ以降、どんな学生運動当時のあれこれの仲間意識の会や集まりに全く出なかった。


 だから、個人的な付き合いは一切無かったが──これは兄に対しても同様である──、〝あの世〟に行ったら、彼らとも話すことができるかも知れないとも思う
(樺美智子も交えて?)。 (林 紘義)

労働者党の原発に対する綱領的立場

 党HPで、小泉純一郎ら「原自連」(「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟)の「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」骨子案発表について、その策動を批判する「代表委員会メッセージ」が出ています。労働者党綱領で、原発について明解に立場を述べていますので、紹介します。


労働の解放をめざす労働者党綱領

七、社会主義の勝利と共に、あるいは社会主義をめざす闘いの過程で勝ち取るべき、労働の解放をめざす労働者党の具体的な要求

14、慢心と責任観念の欠如により、さらには利潤最優先によって重大な事故を引き起こし、またコスト的にも引き合わなくなった日本の原発事業の即時廃絶。原発事故に直接の責任を負う東電の経営者、及び原発事故に直接、間接に重い責任のある政官財学等の「原発村」関係者の告発と刑事罰の適用。」


 綱領は2017年4月の結党大会で採択されました。福島第1原発での過酷事故を踏まえ、「日本の原発事業の即時廃絶」を謳っています。そして、事故の責任について、直接的には東電資本にあると指摘し、「直接、間接に重い責任がある」関係者の告発と刑事罰の適用をするべきであることを、闘いの具体的な要求として明確にしています。


 なお、労働者党綱領第七章13項では、「ブルジョア社会の無政府的生産と利潤追求から派生する一切の害悪――この最も顕著な例がいわゆる“公害”である――の完全な除去。加害企業の規制と処罰。」ということも謳っています。原発事故もまさに「無政府的生産と利潤追求」によるものと考えます。


 また、綱領の第一章「資本主義の一般的特徴」四項の指摘も重要な意味があります。

 「一般的競争の強制の下に、各資本は資本の蓄積と技術革新に狂奔し、その中で、他の資本をほろぼして大資本が生れ、成長する。小生産者は没落し、資本の集中・集積は進み、大資本は経済と国家の指導的勢力となる。


 かくして、資本主義は、一方で生産と労働の社会化を急速におし進め、生産力の驚嘆すべき発展をもたらすが、他方ではこの巨大な生産力は一握りの大資本によって所有され、大資本の利益のためにのみ利用せられ、生産の無政府性を激化させ、多かれ少なかれ深刻な恐慌を避けられないものにする。労働者大衆のますます広汎な層の生活の不安定や失業や様々な種類の困窮や災厄は増大し、資本と賃労働のへだたりと対立は一層大きくなる。これらの事実は、資本主義のもとで形成され準備された高度な生産力を、生産者の社会的共有財産に移し、人類全体のために利用する必要性と必然性を決定的に明らかにしている。」


 ここでは原子力エネルギーそのもののことが言われているわけではありませんが、「巨大な生産力」に対する労働者党の立場が示されています。資本主義のもとでは、それが「困窮や災厄」を増大させることを指摘しています。生産者自らが、生産力を人類全体のために利用するためには、生産力を社会的共有財産にしなければならないことを強調しています。

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