『海つばめ』で健筆を揮う林さんが、西部邁の自死について文章にしたためました。西部の生き様もさることながら、60年安保闘争の一断面を知ることができる興味深いものですので、紹介します。
西部邁の自死
西部が自死した。病気を苦にしていたということもあるらしいが、80代に差し掛かって「覚悟」の自殺にも見え、〝虚無主義〟(ニヒリズム、と外国語でいった方が、西部にふさしいか──北海道の田舎のくせに、彼は案外ダンディで、気取るところがあったから)を底に秘めていた、いかにも西部らしい死に方だと思った。私にそんな潔い勇気があるかは心許(こころもと)ない。
信州の片田舎から出てきた、ぽっと出の、単純素朴な〝ヒューマニスト〟だった私が〝学生運動〟に〝主体的に〟参加を決意し、自治会の常任委員に進んでなったのは、やっと2年に進級する前の春休みからであって、1年生の私は自治会の連中に反発する〝ノンポリ〟で、せいぜいクラスの自治委員をやったり、デモには〝義務感から〟参加する程度の、小説を読みふけるくらいが関の山の学生だった。
2年生になる前に「これではいけない」と反省し、常任委員に自ら自治会室に行って申し出ると、そこにいたのが坂野潤治であった。4月から西部が入学してきたが、彼は1浪している間に、考えるところがあってか知らないが、入学と同時に学生運動に積極的に参加してきたので──その点では、故樺美智子と同じだった──、たちまち私と西部の人生が交わることになった。
共産党からブントに移り、安保闘争を共に闘い、そしてプロ通派のメンバーとしてブントの〝分派闘争〟と終焉までを共にしたが、その後の道は全く分かれてしまった。彼は青木らと共に〝ブル転〟し、青木昌彦らと共にブルジョア的、反動的な陣営に移ってしまった。
青木は私より半年早く生まれ、西部は私より半年遅く生まれたので、私は年代的には丁度2人の真ん中に位置していたが、1958年早春、始めて3人は学生運動の場で出会い、61年早春のプロ通派の解散の時まで、ほとんど同じ経歴をたどったことになる。
もちろん、青木は私より1年先に入学し、私が入学してすぐ、自治委員になり、原水爆反対のデモのことで、クラス討論の相談で自治会室に行くと、そこに常任委員の青木がいたから、青木との出会いは57年4月だが、運動家として青木と関係するのは、58年の春である。付言すれば、58年5月、私を共産党に──従って社会主義、共産主義運動と名のつくものに──誘い込み、誘導し、私の運命を狂わせた悪い男は青木で、「林は小説家になりたいのだろう。そしたら、色々な経験をしておかなければ」と言葉巧みに誘惑した。
58年夏、全学連は広島の原爆反対の世界大会に動員をかけ、平和主義に反対するデモを敢行したが、そのとき、東京から広島まで夜行列車で、西部らとともに、満員列車の通路にたむろし、語り合いながら行ったことを思い出す。
西部が59年、志に反して?、駒場自治会の委員長に祭り上げられ、学生運動のヘゲモニーを巡って59年から始まったブントと共産党との泥仕合の中で奔命に疲れせしめられ、消耗し、苦悩することになったのは、青木や清水らの意思と画策のためである。
59年秋の国会突入の年、すでに私は全学連・都学連の常駐のメンバーとして、首都の学生運動のために24時間フルともいえる活動に走り回っていたが、そんなとき、日比谷野外音楽堂で駒場自治会の委員長として学生を導いてきた西部とちょっと立ち話をした時があった。
彼は、委員長職に対するグチらしきものを漏らしたが、突然どんなきっかけからかは覚えていないが、「しかし俺は林が好きだょ」と言われた。私も、西部にはどこか理解できない所があると感じつつも、人間として憎めないところがあり、彼が嫌いではなかった(これは青木や清水についても同じで、青木を「ブルジョア的だ」と毛嫌いした兄からは、「お前は青木・清水派だ」と断じられたくらいである。確かに後に兄の分派──愛知分派──でなく、プロ通派=〝プロ通左派〟に属したのだから、そういわれても仕方なかった)。
青木も西部も〝ブル転〟したり、〝バック転〟(〝保守派〟、反動派への転向)したが──私の理解しがたいところだが、彼らの根底にある、階級的な本性が出たということか──、また彼らのような器用な生き方のできない私は〝転向〟できず、彼らと道が分かれ、それ以降、どんな学生運動当時のあれこれの仲間意識の会や集まりに全く出なかった。
だから、個人的な付き合いは一切無かったが──これは兄に対しても同様である──、〝あの世〟に行ったら、彼らとも話すことができるかも知れないとも思う(樺美智子も交えて?)。 (林 紘義)