労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2018年11月

長野・斉藤よしあきさん が立候補の記者会見!――20もの報道各社が詰めかけて

斉藤よしあきさん(長野選挙区予定候補)が立候補の記者会見!
――全国紙、地方紙、テレビなど20もの報道各社が詰めかけて


 1121日(水)の午後、長野県庁の会見場で長野県区立候補の記者会見を行いました。

 1時半開会で3時までの予定だったのですが、準備もあるからと思い1時に会見場に着くと既に10社ほどの記者達が来ていて、いきなり氏名や生年月日、最終学歴、等々について聞かれ、また開会まで少し時間があったので各社から上半身の写真撮影が行われました。持っていった資料は、斉藤パンフ、経歴・決意文・働く者のセミナー記録、労働者党の紹介(年表)、『海つばめ』号外・最新版、綱領集、選挙本、等です。報道関係者は主要紙や地方紙、テレビ局を含め最終的には20社ほどにもなり、各社の関心の高さを感じさせられました。

記者会見-4

 

 こちらもOさんの司会で進行し、最初に支部長の鈴木から労働者党の紹介や闘いの意義について説明し、続いて斉藤が最近の経歴なども交えながら決意の表明を行いました。

 

 質疑の中では、県内で労働者の声をどのように取り上げて闘っていくのか、野党共闘がだめと考える理由は何か、長野県が立候補選挙区の一つになった理由は何か、憲法を無条件に擁護するという立場ではないのか、などの質問が出され斉藤、鈴木がその一つ一つについて答えました。各社の記者は、ミニ政党だからと軽視したり、冷やかしたりする雰囲気はなく、皆こちらの主張に真剣に耳を傾けているようでした。
(記者会見の詳細は、『海つばめ』1340号をご覧下さい)

 この日の夕方、二社の地元テレビのニュースで放映され(党員は誰もこのニュースを見ている余裕がなく、後から友人から聞いたり、ネットで知ったのですが)、翌朝には地元紙二紙と全国紙一紙で報道されました。

信毎記事(2018.11.22)

 報道内容は一部間違っていたり、表現が正確ではない部分もありましたが、公平中立的な扱いであり、むしろ好意的に扱ってくれていると感じました。記者会見の翌日には斉藤さんは実家のある栄村の友人・知人等から「テレビで見た、新聞で見た。びっくりしたけど、頑張って!」等々と声を掛けられ勇気をもらいました。

長野市内で労働者党の初街宣

長野市内で労働者党(長野支部)の初街宣 

 

 1118日午後、IR長野駅前で労働者党としての初の街宣を行いました。

 『海つばめ』と「党名」の幟旗を立て、先に購入したばかりの拡声器を三脚にセットし、そしてこれも真新しいゼッケンを付けて行いました。

街宣-2 斉藤と鈴木が交代でマイクを握り、演説者以外は『海つばめ』号外を配布しながらの街宣です。演説のテーマは第一回目という事もあり両名とも主に労働者党の紹介と企業の長時間労働、低賃金、格差や貧困の拡大、過労自殺問題や非正規などの差別労働、安倍の「働き方改革」の欺瞞性、既存労組の頼りなさ、あるいはアベノミクスの失敗や欺瞞性、等々について熱く語りかけました。

 昼下がりの駅前ということで人通りは比較的閑散としていて、『海つばめ』の受け取りもさして良くはなかったのですが、中年男性が一人、ゼッケンの「安倍政権打倒」の文字を見て「いいね、頑張って」と声をかけてきたり、信号待ちの車から窓を開けて演説に耳を傾けたりしていた姿も見られました。


 約1時間の街宣でしたが、初回としてはまずまずの街宣だったと感じます。今後、松本での発会式の後も街宣を行う予定ですし、場所や時間、演説内容も変えて時々やっていきたいと思っています。

長野支部にて「労働者党と斉藤よしあきを応援する会」の発会式

長野支部にて「労働者党と斉藤よしあきを応援する会」の発会式 

 

 1118日(日)、長野市内で「労働者党と斉藤よしあきを応援する会」の発会式を行いました。当日急用ができたり体調が悪かったりで欠席する人も何人かあり参加者は少な目だったのですが、もともと仕事があったり別の用があったりで参加したいけど今回は参加できないという人も多かったので実質的会員は結構多く、取りあえず無事に会を立ち上げることができました。午前10時半に党員のOさんの司会で始まり、ちょうど12時まで正味1時間半の発会式でした。 

発会式


 最初に党支部長の鈴木より党の紹介があり、昨年
4月に結成された新しい党であるが、源流は60年安保闘争時のブント(共産主義者同盟)の闘いにあり、1963年に結成された「全国社会主義研究会」(全国社研)が直接の起源である。1970年代、80年代頃は何度も国政選挙に出馬した。しかし、供託金等が徐々に引き上げられたりして国政選挙への参加を断念せざるを得なくなり十数年間サークル活動に後退せざるを得なくなっていた。しかし、この間、格差の拡大や新たな貧困問題などが重大な社会問題になり、安倍自民党政権への不満も日々高まっている。我々は捲土重来を期して、昨年4月に「労働の解放をめざす労働者党」を結成して参議院選挙に挑戦することを決めた。皆さんの応援をお願いしたい、と挨拶がありました。

続いて、県区予定候補の斉藤さんより挨拶があり、特にリーマンショック以後の10年間の体験等を中心に自分の経歴や決意を述べました。

 斉藤さんは、当時の年越し派遣村の開設や最近では電通高橋まつりさんの過労自殺問題などに強い衝撃を受け、長野で当時新しく結成された地域合同労組に加入して活動したり、長野市の「年越し絆村」などにも参加してきた、一昨年には仲間と「信州・働く者のセミナー」を立ち上げ、批判啓発活動などもしてきたと話し、多くの労働組合や野党が本気で闘おうとしていない、安倍政権は「働き方改革」などを見てもわかるように表面的な改善のポーズやリップサービスで国民の支持を繋ぎ止めようとする一方で、戦前の体制を美化し安保法制を成立させたり憲法改悪を企んだりしている。今こそ労働者・働く者が団結し安倍政権打倒の狼煙を上げるべき時だ。共に闘いましょう、と挨拶しました。
 
 次に、参加者のメッセージを含めた自己紹介が行われ、夜勤明けを押して隣県から駆けつけた同級生からは「斉藤さんは学生時代から自分の信念を貫いてきた。自分はそれに感動した。応援するだけではなく周りの人にも働きかけていきたい。」とありがたいメッセージを頂きました。


 続いて、司会のOさんより、活動の中身の説明と規約の提案がなされ、若干の質疑が行われました。参加者のK.Oさんは、自分は平和運動や基地問題、死刑制度の問題、困窮者の相談活動、等さまざまな運動に携わっているが政治的な闘いの意義がよくわからない、という質問がありました。鈴木と斉藤から個々の運動にはそれぞれ意義があるが、現実に国会等があり各政党がそれぞれの利害を賭けて争いあっている、労働者・働く者が全国的な政治的闘いを通じて団結を深めていくことはどうしても必要なことだと答えました。
 
 規約は提案通りに採択され、役員としては参加者
3人から幹事についてもらいました。今後、参加者それぞれが周りの人に働きかけ、カンパや支援の輪を広げ会員の獲得もめざしていくことが確認されました。

 なお、今回の発会式は「応援する会」の県センターと東北信支部の発会式を兼ねて行われたものですが、来る129日(日)には、松本市内で中南信支部の発会式を行います。今後会員を増やしていって、各市町村とか各グループ等々の支部も設立できるよう頑張っていきたいと思います。

有用労働による生産手段の「価値移転」論について

不毛な論争に終止符を打つべき


有用労働による生産手段の「価値移転」論について

 

 我々の党にとって「価値移転」論はすでに2、30年ほども執拗に続いている、一つの論争問題、今なお最終的に、したがってまた組織的に解決しない係争問題である。この問題で、代表委員会が価値移転論に反対の立場を堅持したことに反発し、大谷派もしくは共産党に接近したり、党から離れたりした人々も少なからずいたほどである。論争の根柢は、資本の運動の中で、生産手段の価値が生産過程の中で、生産された商品の価値に移り、再現するという現象に依拠した見解であり、しかもマルクス自身もその「移動」を明言しているということもあって、この理論はスターリン主義の全時代を通してマルクス主義経済学の当然の〝公式〟=ドグマとして承認され、百年にもわたって牢固たる真実として受け入れられ、通用してきた。

 

「価値移転」論は、そもそもマルクス主義の価値概念に第一歩から、根底から矛盾している

 

 いくらかでも真剣に反省してみると、商品価値の「有用労働による価値移転」という観念は、商品とは価値でもあり、使用価値でもあるという商品の概念に抵触する、根本問題を含んでおり、そうした無反省なスターリン主義〝経済学〟に対する反発と批判は、現実的に、そして歴史的に一つの必然でもあった。

 我々はここでは問題の本質的な点について、ごく簡単に論ずるに留めたいと思う。

 私が主張したい論拠の核心は、マルクスの価値論は基本的に「単純商品」の概念として与えられており、その規定が資本主義的に生産された商品(商品資本)に適用されず、労働価値説に矛盾する概念規定が与えられていいのか、ということである。

もちろん資本主義的商品が、その価値(の実体)が、その商品を生産されるために支出された、現実の生きた(抽象的な)人間労働でなく、生きた労働とともに、「過去の労働」――生産手段=生産財(資本価値)のために支出された「過去の労働」――でもあるというなら、労働価値説は根底から否定され、崩壊するし、するしかない。というのは一定の期間――例えば1――の総労働時間の結果ではなくて――、使用価値としては、その結果であるとしても――、「価値」としては、つまり抽象的労働としては、つまりその年々に支出された価値形成的労働の結果ではないという背理に行きつくしかないからである。

 この場合、有用労働は二重の働きをすると説明される。つまり新しい使用価値を生産するとともに、新しい「生きた労働」――消費財を生産する労働――に加えて、「過去の労働」も新商品に移転し、かくして全体として新商品の価値を形成するというのである。

 1年間に支出される総労働は、その年の使用価値の全体を生産するが、価値形成的労働としては、つまり「生きた労働」として消費財を生産する労働の価値だけである。原材料や機械などの生産財の価値は使用価値を生産する有用労働のもう一つの機能によって、過去の生産手段(つまり資本価値)から「移転」されてくるからである。年間の総商品資本を生み出すべき労働は、使用価値の総体は生み出すが、価値としてはただ消費財だけの「価値」を形成するだけだというのである。というのはその価値は年々の労働の結果ではなく、単に資本価値(「過去の労働」)の「移転」されてきたものだからというからである。

おそるべきドグマであり、こうした見解が百年にもわたってスターリン主義〝経済学〟として、「科学」としてもてはやされ、そんな空文句が珍重されてきたことは、スターリン主義とは何であったかを示唆して余りある。

 

冒頭の単純商品と資本論第二編の(総)商品資本

 

資本論冒頭の単純商品に規定されている素朴な労働価値説を、資本家的商品に適用するのは間違いなのか。

当然に、価値移転論者はみな無理であると口をそろえるだろう。

しかし資本家的商品も、資本家的に生産されたということを捨象すれば、それが単純商品と同じ価値規定性を、価値概念を受け取るということは、マルクスもつとに強調している真実であって、価値法則は資本主義の全体を、その根底を規定する法則であるからこそ価値法則である。

単純商品もまたある意味では、資本主義的商品と同様に、「過去の労働」でもある、あるいは「生きた労働」と「過去の労働」の合計でもあるといえる。というのは、ここでは生産者はまず生産財を作ってから、消費財を作るからである。例えば魚を取って市場にもっていこうとする漁師は、まず釣り針を作ってから、魚を取るだろうからである。彼は同時に釣り針を作りながら、魚を取ろうとはしないし、そんなことは不可能だからである。

しかし原始的な社会をロビンソン・クルーソーのような一人の社会として考えるのではなく、複数人の社会として考えることもできる。

 この場合、漁師の労働を「過去の労働」と、「生きた労働」と区別して、魚の「価値」を、そんな二つの労働の和として労働価値説を説明しようとすることに、一体どんな意義があるというのか。何もないということは自明で、そんなつまらない説明しようとすることに一体どんな意義があるのか。そんな無意味な試みは、せいぜいブルジョアたちの「費用学説」といった俗説――商品の価値もしくは価格は、資本(不変資本)の価値、賃金(可変資本の価値)、そして利潤とか地代とかの諸所得等々の総和である云々――といった俗論に行き着くしかないのは明らかではないのか。

 原始的社会を、ロビンソン・クルーソーのような一人の人間によってではなく、複数の人間(例えばもう一人フライデーという人物を加えよう)によって代表させることもできる。そしてその場合、二人が分業して、ロビンソンが魚取りし、フライデーが生産手段、つまり釣り針等々作りにもっぱら従事するとするなら、二人は時系列ではなくて同時進行的な形で生産財と消費財のすべてを作り出し、手にすることができるだろう。

我々は「過去の労働」や「価値移転論」のお世話になることなく、極めて合理的に一定の期間における、社会的なすべての生産物と、その生産のために支出される労働との関係を理解することができるのである。

 我々は発展した資本主義社会における総商品資本の価値規定の場合も、個別資本の運動に幻惑された「価値論」(価値移転論)によってではなく、むしろ広汎で全面的な、同時並行的に行われる労働者全体の生産的労働による分業関係を想定することによって解決され得るのである。

資本論の「端緒としての」商品も、資本主義的生産の結果としての商品(商品資本)も、「商品」の規定性としては同じあり、抽象的労働と具体的有用労働の結果としての、つまり「価値」と使用価値の統一としての商品である。

両者の違いは、前者が孤立した個々の生産者の労働によるものであるのに対して、資本主義的商品が無数の労働者の社会的分業による労働の結果であるということだけであって、前者は「生きた労働」による商品であるが、後者は「過去の労働」と「生きた労働」の和によるものだといったところにあるのではない。

 ある意味では単純商品もまた、一人の労働分割である限り、前の労働――生産財のための労働は、それに続く生産においては――いわんや最終の生産にとっては「過去の労働」として現象する。そして資本主義的商品にあっては、生産財のための労働は一般に「過去の労働」として現象するが――とりわけ個別資本(とりわけ貨幣資本、生産資本)の運動の場合には――、しかし広汎で、全面的な社会的分業の下では同時進行的であるし、また消費財を生産する労働の方が生産財を生産する労働に対して「過去の労働」として現れる可能性さえあり得るだろう。

 問題は資本主義的生産にあっては、生産の後先ではなくて、広汎な社会的分業であって、総体としての商品資本を考察すれば、それらは個々の商品と同様に、価値創造的な抽象的労働と使用価値を生産する有用労働の結合した労働の生産物として商品であることが確認されるのである。

 ここで注意され、確認されなくてはならないのは、過去の労働とか、前の労働とか、昨年の労働とか、生きた労働、生産財や消費財のための労働等々、そういったものの合計が商品であり、その価値だといったことでなく、資本主義的商品はただ広汎な社会的な分業による総労働の協同作業の結果としてのみ商品であるし、あり得るということだけである。

 もし総商品資本としての概念もまた、冒頭商品の概念と同様に規定されるとするなら、価値移転に対する多くの理屈のナンセンスや空虚さたちまち明らかになり、問題が極めて単純となり、明瞭なものになるのは明らかである。そしてそうして悪いという理由、間違っているという理由は何もないのである、否、むしろそうした単純な真理からこそ出発すべきであって、有害で、空っぽで、時間とエネルギーを浪費するだけの議論など徹底的に否定し、葬り去られるべきということになるし、ならざるを得ない。

 我々が――我々のみが――、社会主義社会における、消費財の分配法則の発見という偉業をなし得たのは、 「生産財の価値移転」論という空虚なドグマを克服し、断固としてそれと決別した限りで、決別したからこそであることが確認されなくてはならない。

 

「価値移転論」の隠された〝秘密〟

 

 価値移転論は、結局はブルジョアたちの観念であり、資本主義の現象にとらわれた妄説である。資本は(すでに貨幣もそうなのだが)ブルジョアたちには、「独立した価値」として、自己運動し、「自ら増殖する価値」として現象し、目に映るのだが、しかし活動家の中には、資本についてのこうした〝マルクスの〟外面的な価値概念に驚喜乱舞する、奇特な男もいたのである。それは私の同級生で、ブンド崩壊後、珍奇な急進派の小グループ「戦旗派」のリーダーにおさまった水沢史郎?であったが、生産財の〝マルクスの〟価値移転論に執着する面々も、彼とそれほど隔たった地点にいるわけではない。

しかしマルクスが資本の概念として、「自ら運動し、増殖する価値」と規定したからといって、それが正しく、称賛されるべき観念だなどといわれたら、マルクスは苦笑し、その軽薄さと無知を軽蔑するだけであろう、というのは、そんな資本の概念は、現実に物化された社会関係としての資本の、外面的で、空虚な観念、ブルジョアたちが抱く資本概念を一歩も出ない、低俗な観念だからである。

ところで、資本の価値移転についてやかましく騒ぎ立てる人々は、一体かつての水沢謀らと、どれだけ違った立場にいるというのだろうか。我々は早くから、彼らの誤りにおける根柢の本質的な同一性を明らかにし、指摘してきた。資本はそのものとしては、「独立した価値」であり、「自ら増殖する価値」として運動する。そしてそれは貨幣資本(や生産資本)として典型的である。しかし商品資本としての運動は、運動(循環)の最初と最後において、単純再生産を前提する限り、基本的に同等のものとして――価値においても、使用価値においても――現象する。

かつてMは何らかのセミナーの場か、研究会か学習会の場か忘れたが、商品の交換関係を、つまり商品の商品形態の貨幣形態への変態を、そしてまた貨幣形態の商品形態への再変態の価値移転の一つの例として言及し、林の抗議を受けて大急ぎで撤回したが、しかし商品変態を価値移転として理解する神経は途方もないものである。ブルジョアは生産を開始するにあたって、自らの貨幣資本を生産手段等々の商品資本に形態変化するが、それは価値を移転させて手放したり、失ったのではなく、単に別の形態に転化したに過ぎないのは余りに明らかである。

彼は貨幣資本を生産資本に転化したからといって、どんな「価値」も移転させず、したがって手放さず、最初に貨幣価値として保有していたものをただ生産資本の価値としてやはり所有しているのであり、またその後も価値は生産物(商品資本)の価値として彼の手もとにとどまるのである。最後に、彼はそれを売却することによって、最初の資本価値を剰余価値を伴って回収する。

彼が貨幣価値として保持していたもの(出発点の元素的資本)を、この過程の最後に生産物価値として、商品資本として、つまり当初の資本価値を剰余価値を伴って回収し得るのは、一年間なら一年間の労働者の労働の成果のすべてを――価値においても、使用価値においても――自分のものとして所有するから、できるからにすぎない。資本を保有し、それを投じたのはブルジョアとしての彼であって、実際に労働し、生産した労働者ではないから、私的所有の権利が認められるこの資本主義の社会ではそうなるしかないから、である。

資本主義の諸関係の〝物化された〟形態に幻惑されて資本主義を理解する、「価値移転」論者の軽率なブルジョア的本性が暴露されるのである。

 

『資本論』の――したがってまた資本主義社会の諸関係と諸法則の――正しい理解を

 

だからこそ資本主義的生産を、人類の物質的生産様式の歴史的段階の一つの生産様式の全体として考察しようするなら、商品資本として、しかも個々の商品資本の運動としてではなく、商品資本の総体として分析し、考察しなくてはならないのである。

資本の運動は現実には貨幣資本を契機とも動力ともして行われるのであり、したがって資本主義を表面的に観察し、現象のままに理解する能力のない人々は――つまり資本の運動の担い手であるブルジョアたちは――貨幣資本の運動に幻惑され、また支配されるのであって、彼らの目には、直接の体験では、資本――つまり資本価値――は、資本の運動中を通して〝移転〟され、保存され、剰余価値を伴って還流してくるのであり、またそうでなくてはならないのである。 

 したがってブルジョアたちの自然の価値論(価格論に堕すのだが)は〝費用学説〟である、すなわち商品の価値(価格)は資本価値+賃金+利潤(+地代等々の派生的所得)である、つまり価値移転論と不可分である。

マルクスもまた価値移転論を展開していると散々に言われてきた。しかしマルクスは資本主義を分析するにあたって、現象しているままの資本主義の現実についてもいくらでも語っている、というのは資本主義は単なる観念的存在ではなく、〝物化された〟社会関係として実在的なものだからである。モノとしての資本は自己運動して、自己増殖する貨幣である。

しかしマルクス主義がマルクス主義であるゆえんは、マルクスは、〝物化された〟社会関係を分析し、その背後にある真実の社会関係を明らかにし、暴露しているのであって――「物化された」社会関係、疎外された社会関係を一掃して、真実に人間にふさわしい、合理的な社会関係を可能にするために、勝ち取るために!――、そんな肝心かなめのことを理解せず、マルクスの言葉を、ただ言葉だけを、しかも自らの俗流意識にマッチするような言葉を持ち出し、大騒ぎする人々の呪いあれ! である。

MTらがマルクスのそうした類の言葉にひかれ、固執し、大騒ぎしたのも偶然ではない、マルクスのそうした言葉は、ある意味で資本主義の表面的な〝現実〟や〝真実〟を語ったものだからであり、彼らの俗流的な意識に直接に反応するものだったからある。Mらの有用労働や商品の使用価値に対する固執や偏見や〝過大評価〟や、有用労働の特別な能力や役割に対する賛歌は、宇野学派やバヴェルクらの効用学派の、有用労働や商品の使用価値に対する偏愛等々と大同小異であるのも決して偶然ではない。

 

マルクスは、資本主義の再生産の総体を検討し、理解するには、個別資本――とりわけ貨幣資本――のではなく、商品資本――しかも単なる個別の商品資本ではなく、総体としての、社会全体として商品資本――を取り上げ、検討しなくてはならないとして、次のような文章を残している。

「しかし、循環W´―W´は、その軌道の中にW(=A+Pm)の形態にある他の産業資本を前提にしているからこそ(またPmは色々な種類の他の資本、例えば我々の場合では、機械や石炭や油などを包括しているからこそ)、この循環そのものが次のようにことを要求するのである。すなわち、この循環を、ただ、循環の一般的な形態として、すなわち各個の産業資本を(それが最初に投下された場合を除き)そのもとで考察することができるような形態として、したがってすべて個別の産業資本に共通な運動形態として考察するだけでなく、また同時に、色々な個別資本の総計すなわち資本家階級の総資本の運動形態として考察することを要求するのであって、この運動では各個の産業資本の運動はただ一つの部分運動として現れるだけで、この部分運動はまた他の部分運動と絡み合い、他の部分運動によって制約されるのである。

 例えば、我々が一国の一年間の総商品生産物を考察して、その一部分がすべての個別事業の生産資本を補填し、他の部分が色々の階級の個人的消費に入っていく運動を分析するならば、我々はW´…W´を、社会的運動形態としても、考察するのである。社会的総資本は個別資本の総計に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、このようなことは決して次のことを排除するものではない。

[以下、重要――]すなわち、この運動は、単独な資本の個別運動としては、同じ運動が社会的資本の総運動の一部分という観点から考察される場合とは違った諸現象を呈するということ、また、同時にこの運動は、色々な問題、すなわち、個々の個別資本の循環の考察によって解決されるのではなく、そのような考察では、解決が前提されていなければならないような諸問題を解決するということと、これである。

 W´―W´という循環では、最初に前貸しされる資本価値は、ただ運動を開始する極の一部分をなしているだけであり、運動は初めから産業資本の全体運動として示されているのであるが、このような運動はただW´―W´だけである」(『資本論』二部一篇一章、全集二巻120ページ、原典100ページ)。[ここではW=商品(資本)A=労働力、Pm=生産手段]

 日本の全体の年々の商品資本の総体は、年々の総労働日(もちろんここで問題になるのは生産的労働の労働日である)の結果として実在的である。それを三千万労働日とし、そのうち二千万は生産財の、一千万は消費財の生産に支出されたとしよう。

ここではすべての関係はあまりに明白に実在的であって、どんなドグマや空理空論や、空疎な観念的おしゃべりも、その端切れさえも入り込む隙間もないだろう。消費財が単に一千万の、直接に消費財の生産のために支出された労働の結果だけでなく、二千万の生産財――機械や原材料――の生産のために支出された労働日の結果であるのは明々白々であり、したがってまた消費材の全体が三千万の労働者に等しく分配されることも当然のこととして現れる。(林 紘義)








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