2月24日開催を予定していた、中央『資本論』学習会第1回の報告要旨を掲示します。
新型肺炎感染の拡大対応で開催を延期し、様子を見ながら日程を延期してきましたが、中途半端にずらしていては集中した闘いが出来ませんので、思い切って延ばし、メーデー後の5月から中央『資本論』学習会を開催することにします。開始にあたっては、改めてお知らせします。
中央『資本論』学習会
第1回 単純商品と資本主義的商品
――交換価値(価値)とは何か
1、問題の所在
マルクス主義とか、「生産的な労働」とか言うと、古臭い、時代遅れだ、せいぜい19世紀の、150年も昔の、すでに賞味期限が切れ、忘れられ、放置された骨董品的理屈だと言わそうですが、果たしてそうでしょうか。
しかし生産的な労働は、現世代の生活と生存を保障し、次世代につないでいくための、基本的な人類の社会的、個人的な活動の中心をなすものであって、マルクスもクーゲルマンへの手紙において、それを止めたら人類は3ヵ月といわず、3日も生きていられなくなるだろうとまで言っています。
事実我々が毎日、衣食住のための多くの生産的な労働による、多種多様な消費財(商品)を買うことなしには、まともに生き、生活していくこともできませんし、次世代を担う子供たちも生み、育てていくこともできないのは全く明らかです。
我々は確かに不可欠なものとして消費財は買いますが、生産はしていないというかもしれません。しかし仮に国内で生産されないとしても、そうしたものは海外から輸入されているから同じことです。その意味では、日本人が作らなくても、衣食にせよ、石油やスマホ等々にせよ、海外の多くの生産的に労働する人々の世話になっているのです。
今、資本主義の高度化の中で、爛熟する中で生産的な労働者や直接的生産者の比重が低下しているように見えるなら、それは、資本、とりわけ大資本による労働の搾取が絶対的、相対的に強化され、資本の取得する剰余価値(利潤)の急速な増大や、資本の海外輸出による外国の労働者の搾取等々によって社会全体において寄生的な階層や、資本の傭兵――そのものの軍隊とか検察、警察機能を持つ部分とか、政治や司法を担うブルジョア的勢力とか、役人とりわけその上層のエリート層とか等々――はいうまでもなく、〝文化人〟やマスコミやインテリ等々のブルジョア的階層や、その他にも〝主婦層〟とかの非生産的な人々も増え続け、膨大な人口を占めるようになっていること等々に原因があるのです。
したがって、どんな社会であれ、社会と個々人の生存と世代交代を根底的に支える生産的な労働と、その比重と重要性と意義がなくなったり、後退することは決してありません。
2、困難な資本家的商品の「価値規定」
交換価値(価値)の概念を理解し、受け入れた私にとって、最初から、疑問に思うというか、漠然としてであれ、分からないという感覚が残ったのは、価値の実体がその商品のために支出された、社会的に必要な人間労働であるというのはいいとしても――そして、それは〝単純商品〟の場合は、容易に理解できるとしても――、資本主義的に生産された商品の「価値規定」――労働時間による価値表現――はいくらであるかということは分かるのだろうか、分かるとするなら、いかにしてであろうか、ということでした。
マルクスは色々なところで、それについて語ってはいますが、しかしそれは抽象的に、しかも主として消費財について、さらにその分配法則に関連してだけでした。
『資本論』の冒頭の4節のロビンソン・クルーソーの例についても、孤島に暮らすたった一人の場合について論じ、1日の生活時間、労働時間をいくつかに分割して生活し、生きていく事実を上げ、こうした法則は人間社会において一般的であり、将来の社会主義社会においても適用でき、同様だと述べ、また『ゴータ綱領批判』では、「彼は自分が一つの形で社会に与えたのと同じ労働量を、別の形で返してもらうのである」、「個人的消費財が個々の生産者の間に分配されるときには、商品等価物の交換の時と同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい労働の量と交換される」というだけです。
しかし、こうしたマルクスの言葉を合理的に理解し、資本主義的商品の価値規定を、その法則を少なくとも理論的に理解することは困難であり、至難の業に見えました。
そして1990年前後、ソ連邦の解体と、ソ連共産党とその権力の瓦解という歴史的な大事件が突発し、一体社会主義社会と呼ばれて来た社会とは何であったのか、本当に社会主義であったのかという疑問とともに、社会主義の概念と、共産党国家の歴史的な意義と理解が問題となったし、ならざるを得ませんでした。
日本共産党の中でも、党を上げての大論争が始まりました。党自体も、それを正面から取り上げざるを得ず、ある程度まで党内の不満や議論を組織することで拡散させ、本当の議論を抑圧しようとして、アカハタ評論版などを利用して、議論を〝組織〟し、管理しました。
管理された党内論争の中で、主流をなしたのは、党中央に沿った意見――というより、党の中央官僚をいわば〝右から〟批判する見解――が幅を利かせ、ソ連邦とソ連共産党が破綻したのは、ブルジョア的政策を推し進めたから破綻したのでなく、反対に社会主義的政策――党内右翼の反動派は、スターリン主義の国家的な統制された資本主義を社会主義の名で攻撃し、ブルジョア的政策をさらに前進させ、深化させなかったから、スターリンらが反対に機械的な〝社会主義的な〟政策をおこなったから、ソ連やソ連共産党は破綻し、なくなったのだと言いはやしました。
そして労働の分配法則も、労働時間でやろうとしたから、そんなできっこないことをやったから失敗したのだとわめき、結論として、社会主義における分配を今と同様に賃金制度でやるしかない、やるべきだと知ったかぶりをしてわめき散らしました。つまり社会主義における分配方式も資本主義と同じだというわけです。
こうした連中は、「社会主義では、我々はもう生産物を交換しない、だから労働生産物も〝価値〟として現れない」というマルクスの単純な言葉さえ知らないふりをし、無視したのです。そもそも労賃による〝分配法則〟とは、労働の搾取と同じことであるという初歩的な知識さえ、共産党の愚者たちにはなかったということです。
こうした事態は、我々をいたく刺激し、スターリン主義者の見解やたわ言に激しく反発し、社会主義における分配法則の発見の追求を新しい熱意とエネルギーをもって開始することにつながりました。一体社会主義社会と呼ばれて来た社会とは何であったのか、本当に社会主義であったのかという疑問とともに、です。
その努力の一つの集大成が7年前の東西の首都(大阪と東京)で開かれた労働者学校とその議論でした。その段階でも我々はまだ、色々の間違い――その筆頭は「有用労働による価値移転」論――や未熟さを残しつつも、正しい方向に向かって議論を前方に押しやりました(このあたりの事実や経過や議論の内容は、プロメテウス55・56号合併後に詳しいので、参照してください)。
そしてその過程で「有用労働による価値移転」論や、ブルジョアたちが世界中で珍重している「産業連関表」等々の愚昧で、不合理に行き着くしかない俗説を克服して、正しい解決に向かって前進したのでした。
今や、共産党は中国も社会主義ではなかったとようやく認めましたが、ではどういう歴史的な生産様式の社会であったかについては、またソ連や中国のえせ社会主義とは違う、社会主義については何も語ることができませんし、しようともしていません。
その正しい解決――商品の価値規定、とりわけそれに基づく消費財の分配法則――を明らかにすることこそ、そしてそれを深めることこそ、代表委員会による『資本論』学習会の最大の意義であり、課題です。この課題は、今回の第1回から最後の第12回までを貫く、学習会の基調音であり、主旋律であるといえます。
3、2つの「価値論」
しかしその答えを語るのは、今回の課題ではありません。
我々はまず単純商品と資本主義的商品の同一性と違いを明らかにしなくてはなりません。すでに戦前から国内外のブルジョア学者を先頭に、『資本論』の第1巻と3巻の「矛盾」という形でやかましく論じられてきました。
彼らが〝大発見〟であるかに大喜び、はしゃいで語った「矛盾」とは、マルクスは1巻では、商品の「価値通りの」交換を説きながら、3巻では資本家的商品の価値通りではない、それから偏倚し、違った商品の交換(不等価交換)を語っている、論理を首尾一貫させ得なかった、マルクスの労働価値説は破綻した等々の幼稚な批判であって、単に資本主義では商品は、「費用価格+平均利潤」の価格――マルクスはこの価値の修正形態を「生産価格」という名で総括しました――で売買されるということを理解しない、ブルジョアやブルジョア学者たちの無学や愚昧を暴露しただけでした。
元来、商品の「価値説」――交換価値(俗にいえば、「価格」と理解してください)を規定し、決定するものについての理論――には、基本的に2つの理論があります。
もちろん、それは2つどころか、実際にはブルジョア的なもの、プチブル的なもの、訳の分からないようなもの等々、無数にあります。
たとえば最も俗受けするが、徹底的に無内容なものに〝需給説〟――需要と供給の状態、状況によって、それらの相互関係、相互作用によって「価格」が決まるといったもの――や、〝効用価値〟説――商品の買い手の使用価値(効用)に対する欲求や、偏愛さえによって、またその程度によって決まるなど枚挙にいとまがありません――かの悪名高い宇野理論も、結局は〝需給説〟や〝効用説〟の亜種、俗種といったものでしょう――が、基本的にブルジョア的な「価値構成説」(以後、構成説と略称)と、マルクス主義つまり労働者的な理論としての「労働価値説」(〝価値分割説〟、以後分割説と仮に呼ばせてもらいます)があります。
構成説がブルジョアの価値論(実際には〝価格論〟)だというのは、彼らが資本の〝人格的な〟存在として、日常的な経済活動に従事する限り、彼らにとって不可避の、自然の意識として生じるものだからです。
そもそもブルジョアの経済活動の目的は資本の増殖です、100万円の資本を投じて、商品を生産して110万円で売ることによって利潤を確保するためです。
そのために彼は市場から生産財(不変資本の形態転化したもの)を買い、他方では労働力の対価として、賃金(可変資本の形態転化したもの)を労働者に払って雇い、働かせます。もちろん資本家の可変資本は賃金に転化しますが、その賃金は労働者にとっては収入であり、所得であって、消費財の対価として支出されます。
しかし〝労働力〟(精神的、肉体的な力、能力)以外、何も売るべき〝経済財〟を所有しない〝無産の〟労働者は、賃金でもってブルジョアから消費財を買う(交換する)しかありません(この場合、消費財を生産するのもブルジョアであると想定します、もちろん消費財の生産を行うのは、現実には農漁民等々の小生産者、つまり〝家族経営〟で生産的労働に従事する人々であって、ブルジョアでない場合もいくらでもありますが)。
かくして賃金は、再び可変資本としてブルジョアの手元に還流しました。このことは可変資本とは事実上、ブルジョアが所有し、資本によって――否、直接生産者(労働者)によって――資本として再生産される、労働者の消費財だということです。
かくしてブルジョアにとっての費用は資本だということです。素材的にいうなら、不変資本(生産財つまり機械や工場等々の労働手段と、原材料等々の労働対象に分かれますが)及び可変資本(消費財)です。
ブルジョアはこうした資本(一般的には資本としての貨幣、つまり貨幣資本)をもって経済活動を始め、もしくは継続し、利潤(剰余価値)――実際には平均利潤――を得て、その循環を終えます。
だからブルジョアにとっては、差し当たりは経済活動の循環を保障するもの、つまり不変資本と可変資本の合計が〝費用〟として現象し、それが商品の交換価値を規定し、左右し、決定するものに見えます。これがブルジョアにとっての「商品価格」です。
しかし現実には商品は費用価格だけでなく、利潤も含めて、つまり費用価格+平均利潤(前に述べた生産価格)で売られ(交換され)ます。
したがってまたブルジョアにとっても、後者の意味での費用価格(説)こそが真実であり、労働価値説に対置されるということです。我々は、後者の意味での費用価格によって議論することにします。したがってまた、ブルジョアの費用価格説を批判する場合も、後者の観念についてのものになります。
この理論がブルジョア的な「構成説」と呼ばれるのは商品の「価値」(商品の価格)を、生産に要した諸契機の価格の合計、算術和として提示するからです。つまりこれがブルジョアたちの実際の経験に基づく〝価値論〟なのです。
商品の価値(価格)は不変資本(機械、工場等々)の価格と、可変資本(労働力の価格、つまり賃金)と利潤(剰余価値つまり労働者が生み出した資本価値を超える超過分)の合計から〝構成される〟という話になります。商品の価値は、そのものとしてまずある――そしてその後に、不変資本や可変資本に分かれ、さらに利潤が加わる――のではなく、ブルジョアにとっての諸費用(諸価格)の総計としてあるということです。
これに反して、マルクスの労働価値説はそもそも交換価値を分析して、その結果として価値概念に到達したものですから、まず商品に結晶した人間労働は、量的には異なるが、質的には全く同質のものとして1つの大きさであり、だからこそそれは資本価値や労賃や利潤として分解され、分割され得るのです。
もちろん構成説はブルジョアの自然のドグマとして、例えば「〝有用労働による〟価値移転説」等々と不可避的に結びつきますし、資本主義の理論的、内在的な批判的認識も困難にします。ブルジョア社会における、「価値」に関する、二つの基本的な理論をしっかり区別することは、マルクス主義的理論を学ぶ上で第一義的に重要です。
林 紘義