労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2020年05月

新型コロナで一儲け図る輩(やから)

 連休明け、緊急事態宣言下でめっきり減った新聞折り込みに「データ入力契約社員複数名急募」のチラシがあった。時給1700円、勤務地は県内の6市、仕事内容は「行政手続きに関する申請書類の内容確認(対面業務)、申請書類のスキャンおよびデータ入力・・・」、期間は5月中旬から7月末(更新可能性あり)、労働時間800から1700(残業月20時間程度)とある。時給1700円は当県の最低賃金790円の2倍以上、金額だけ目に付くように「赤字」で印刷されている。

 一律給付金支給業務だと一見して分かるが、時給1700円で儲けがでるとなると一体委託費はいくらなのか?募集の主は派遣会社大手のパソナだ。地方自治体が直接募集すれば派遣会社の中間搾取分だけ税金がもっと有効に使われると思うと腹が立ってくる。

 さらにパソナの会長は竹中平蔵だが、彼こそは小泉内閣で
経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、総務大臣、郵政民営化担当大臣として派遣労働・非正規労働者の増大政策を 推進してきた張本人である。安倍政権下でも経済特区諮問会議等の委員を歴任して自らが関わる企業に膨大な利益をもたらし政商と言われてきた男だ。コロナ禍により雇止めや一方的解雇で路頭に迷う仲間が増大する一方で一儲けする彼に災いあれ!  (愛媛 F)

「政治の身勝手さに呆れる」――労働者党ブログに賛同

「政治の身勝手さに呆れる」――社会の構造(階級)がますます露呈


 私は、非正規職場でコロナ収束までは職無し手当て無しの不安定感な生活です。生産手段を世界の労働者が手にしていたら、パンデミックや隠蔽など無く、計画的な人員配置、必要な物資の生産が迅速に行われ、安心して生活できるのにと思います。

 

ブログの「学校休校を問う」は現状を端的にわかりやすく書かれてあると思います。知人の教育労働者(休職中)に手紙を添えて送ったところ返事が届きました。返事の手紙の内容は以下です。

 

『デジタル機の学習がOECD最下位、教育予算が2.2%最下位という事実に驚き職場では「英語教育の次はIT教育かぁ。それよりも国語や算数を充実して欲しい。」という声をききます。機械が揃うだけでなく内容も充実させるには、教師達の研修がまず必要でかなり労力を使う、なかなか積極的に踏み込めない現実があると思う。しかしこれからの世の中を生きていく上で必要なものであるなら、一部の高所得者が通う学校だけでなく公立校すべてに必要な教育としてハード面ソフト面ともに整備していく必要があるでしょう。

 今回のコロナは百年に一度のウイルスによる困難といわれているけどオンライン教育が準備されていなかったのは海外もそうだけど全ての国民(子ども達)に行き渡らなかったのはある程度仕方なかったようにも思えます。ただ、国がオンライン教育を主にまさに全ての子ども達が教授できるかのように言うのはおかしいですよね。PCを持っていない子、使えない子、親がみてあげられない子がほとんどなんですもの。教育格差が生じているのに何も手を打たない、ほったらかしの政治家に怒りを覚えます。

 派遣や非正規の保護者の子ども達が毎日家の中でゲームをしていて、給食が無い分、食事にも困っている。 

大きな困難が生じた時、守らない人たちがこんなに沢山いるということが今回わかりました。政治の身勝手さに呆れるし、社会の構造(階級)がますます露呈したのではないでしょうか。』

 

以上が手紙の内容です。私は老眼とPCが苦手なので手紙を利用して出来るところから活動したいと思います。  (福岡 K)



危機は社会の矛盾を暴く!

  大沢真幸の気楽な「国家を超えた連帯」論に物申す


 コロナ危機、コロナパンデミックで明らかになったことがある。資本主義の矛盾が誰にも「見える化」したことである。最大の矛盾は、人が企業に雇われなければ、食っていけない、生きていけないということだ。派遣切りに合った労働者は、「俺たちに死ねということか!」と悲痛な声を上げている。首切りに合った労働者は、生活費はもちろんのこと住む家さえ失うのだ。

 

 ところで、なぜ労働者は、企業に、資本家に雇われなければ生きていけないのか?人間が犬コロのように、食べるものも住むところもなく追い出される!こんなことが、余剰食物を捨てている豊かな、この文明社会にあっていいことなのか?

 

当たり前のことだが、財産を持っていない労働者は、自分の労働力を資本家に売って、見返りに賃金を得ることによってしか生きる術を持たない。これは資本主義である限り、労働者の否定しようのない現実だ。最初から労働者は弱い立場であり、それは我われの言葉にも出ている、いわく「雇って頂く」「給料をもらう」等々。商品の売買については、売り手も買い手も対等であるのが、商品交換の、商業の原則であるはずなのだが、こと労働力という商品に限ってはそうではない。労働者は生きていくためには、日々労働せねばならず、労働するためには資本家に雇われなければならない。この事実こそ、資本主義社会(その名の通り)がまさに資本(家)の社会、企業本位の社会であることを証明している。

 

 安倍は国民生活を守るために、失業を増やさない、雇用を保障するなどと気楽に国民に約束する。しかし資本主義社会では、労働者を雇う、雇わないは、資本家の、企業の自由である。政府が資本家に労働者を雇うことを命令したら、“社会主義”になってしまう?それは資本主義の否定ではないのか?

 

 当たり前だが、労働者は企業に雇われて初めて生活できる、企業に雇われなければ生きていけないという現実、この事実をトクと考えてみなければならない。これは誰にとって正しいことなのか、また企業が労働者に生殺与奪の権を握っているが、なぜそんなことが正しいのか、また許されるのか、誰がそれを決めたのか?

 

 企業や資本家がこの社会の主人公になったのは、世界史を見てもたかだか2,300年前からのことで、そんな昔のことではない。もちろん我われ働く者は、この階級社会において被支配階級として、その時々の支配階級であった君主や貴族らに苦しめられてきた。ところが資本主義は、この僅か2,300年の間に、これまでの人類が蓄積した富をはるかに上回る巨大な生産力を獲得したのである。ところがこの生産力は、資本主義自身がその手に負えないような怪物に育ってしまった。その証拠には、この巨大な生産力は、いまでは過剰資本、過剰生産としてその行き場を失い、不況や恐慌の原因となって資本家を苦しめているのである。コロナ危機による自国封鎖によって資本の移動が禁止され、海外市場からの資本の引上げによって世界中に余剰労働力が溢れているのだ。

 

 国際協調が叫ばれてはいる。社会学者の大沢真幸は、「国家を超えた連帯」、人類は「運命共同体」だ、などと述べている(朝日朝刊、4月6日)。気楽なもんだ!大沢は、記者から「(国際連帯は)絵に描いた餅では?」と質問され、次のように答えている、「新型ウィルス問題が、そうした膠着状態を変える可能性があります。」「気候変動問題の存在を否定したトランプ大統領も、新型ウィルスについては『問題ない』の自説をすぐに引っ込め、真剣に取り組まざるを得なくなった。非常時には歴史の流れが一挙に加速されます。」バカも休み休み言ってほしいものだ。コロナ危機がもたらしたものは、歴史の流れを加速させるどころか、反対の自国封鎖であり、自国第一主義であった。バカなトランプがコロナの急速な拡大に慌てて取った措置は、海外からの入国禁止であり、国際協力とは逆のWHOに対する威嚇であった。

 

 この国際社会が、ブルジョア国家の集合体である限り、国際連帯などは夢である。大沢は、政策の決定権は、「国民国家が握っている」「それは私たちが、現時点では自国に対して一番レベルの高い連帯感・帰属意識を抱いているからです。それを超える連帯を実現させなくてはいけない」と述べて、国民の国家への帰属意識を変えろと言っている。ブルジョア国家への帰属意識が生まれるのは自然だが、それはまた反動権力によって意図的に強化される。いかにして「国家を超える連帯」を実現するのか?大沢は「実現させなくてはいけない」と理想を叫ぶだけで、せいぜい「非常時が歴史の流れを加速する」ことに期待するだけだ。彼はブルジョア社会にあって、労働者がブルジョア的な国家意識を超える階級的存在であることを見ない。人はみな平等で、個人として尊重されねばならず、階級など存在しない、国家は至高の存在であるなどと、ブルジョアジーは労働者に説教する。個人主義や人間主義は、封建制と闘う近代においてこそ意味があったが、現代の資本主義社会においては、ブルジョアジーの階級支配を隠蔽するイデオロギーに堕している。それは国家主義、愛国主義の根源である。労働者とブルジョアたちの間には、平等も連帯もない。しかしながら、資本主義経済の発展と共に拡大する労働者階級の闘いは、ブルジョア国家の枠を乗り越えて労働者の国際的連帯へと発展する。資本家階級という同じ支配階級によって搾取され抑圧されている階級として、各国の労働者階級は同一の利害関係と同一の目標を持っている。ここにこそ労働者階級の国際的連帯の基礎がある。残念ながら、現在19世紀後半に現れたような労働者の国際的連帯の動きは見られないが、しかし今度のコロナパンデミックのように資本主義世界の危機と自国本位の矛盾が明らかになり、「国家を超えた連帯」が求められれば求められるほど、労働者の国際的連帯と資本家階級に対する闘いは、必然的に発展するであろう。「国家を超えた連帯」を実現するにはそれ以外にない。

 

 すでに世界史の段階は、人間を単なるモノとして、いわゆる人材として扱うことを許さない時代に差し掛かっている。人間をモノとして扱った奴隷制や人格的隷従を強いた封建制と比べてみれば、人格はともかく労働力を商品として売ることができるようになった資本主義は、人類史の大きな進歩と言わねばならない。しかし今、その極限まで発展した商品経済は、その無政府性ゆえに過剰資本、過剰生産に苦しみ、その破綻を明らかにした。無計画的な商品経済は、喜びをもって自由に働き、必要に応じて取る社会へと移行すべき時が来たのである。商店のような自営業者や小生産者はどうなるのか、彼らも商品経済ではないか、と言われる。その通りである。彼らは確かに企業や資本家のように労働者を搾取したり、労働者をモノ扱いしたりしていない。しかし彼らも商品経済に依存している以上、その労働によって生計を立てねばならない、商品や生産物は売れなければならないし、利益を上げねばならない。顧客に対するどんなに愛想のいい笑みや親切も、その裏には利益が絡んでいる。仕事一筋の名人も、その作品が売れなければ生きていけない。殻らが自分の仕事にどんなに誇りを持ったところで、しょせん、商品世界から逃れることはできないのである。

 

 一方で医療崩壊は深刻だ。マスク、防護服、人工呼吸器、検査器等が足りない。しかしこれらを作っているのは企業である。政府がいくら要請したところで企業が動かなければ、生産も調達もできない。企業は利潤で動いているのである。コロナ禍は、いかに資本主義が突然の災害に無力であるかを明らかにした。中国は共産党の独裁国家であるが、その強権性を駆使して(その善悪は別だが)コロナを終息させた(まだ決定的ではない)。自由な人間の共同社会である共産社会であればコトは簡単だ。そこでは自分本位の商品交換もない、利潤のためにしか生産も交換もしない資本家も存在しない。必要な物資は、直ちに計画的に生産され配分される。そのために必要な材料や機械などの生産手段や必要な労働力は、統一的な計画に基づいて直ちにいき渡るだろう。社会主義を経て共産主義に到達する長い過程で、個人主義はしだいに克服され、一人は万人のために、万人は一人のために、という相互扶助の精神は、そこでは一般的なものになるだろう。もちろんこうした社会は、一朝一夕に実現されるものではなく、人類は長期にわたって苦しい闘いを経験しなければならないのだが。

 

 しかし、今の資本主義社会に生起しているあらゆる矛盾―自然破壊、原発事故、あらゆる格差と差別、過酷な労働、介護と医療等々―は、その現れ方は違っても、その根源は資本主義体制にある。個々の矛盾の現れと闘うことはもちろん必要であるが、敵は本能寺(資本主義)にあること、それを攻め落とすことが我われ労働者の最終目的であることを忘れてはならないのである。大沢真幸は、「非常時には歴史の流れが一気に加速されます」と言っている。確かにその通りだ。しかしその歴史の流れは、我われがそれをしっかり見据え抑えなければ、前にも後ろにも(ロシア革命にもファシズムにも)向かうものである。15日に、39県緊急事態解除の記者会見で、安倍は、「コロナの時代の新たな日常を取り戻していく。今日はその本格的なスタートの日だ」と述べた。我々はここに反動派の意図を見る。彼らはこの異常事態を「日常化」することによって新たな反動のスタートにすることを画策しているのである。逆に我々は、このコロナの非常時に歴史の流れを「一気に加速」させ、働く者が主人公の世界、社会主義に向かって、さらにその先の共産主義に向かって、労働者の闘いを前進させなければならない。そのための第一歩は、安倍反動政権を打倒し、労働者政権の樹立に向かって闘いを開始することである。 (神奈川 菊池)

問われる「コロナ後」社会のあり方


日本も含め全世界に広がった新型コロナウイルスの猛威は、労働者・働く者の生活に深刻な影響を及ぼしている。こうした中、コロナ対策、「コロナ後」社会に向けての様々な議論が行われている。

 

その代表的ともいえる一つは、「コロナ危機により労働問題や生活困窮、ハラスメント、差別に直面する人々の相談に応じてきた労働組合、NPO、学者、ジャーナリストからなるネットワーク」である「生存のためのコロナ対策ネットワーク」(以下「ネットワーク」の主張である。(雑誌『世界』6月号、「生存保障を徹底せよ」より)。

 

ネットワークの主張は、今回の新型コロナウイルス感染拡大のもたらした危機は、単純な感染症の拡大がもたらした社会危機ではなく、「新自由主義改革によって行政の能力が削減されてきた」ことによってもたらされた「より根本的な『社会危機』」であるとして言う。「この10年間、世界は『危機』を繰り返してきた。2008年にはリーマンショックが、2011年には東日本大震災が社会を揺るがし、社会保障制度や行政の対応力が問われてきた。しかし、度重なる危機においても、人々の生存権の保障のシステムは十分に整備されず、むしろ危機の原因を作り出してきた富裕層や大企業のための経済成長がさらに追求されてきた。金融危機時の大資本の財政支援や、巨額の防潮堤の建設、原発輸出の促進は、その最たる例であろう」。

 

安倍政権は、人々の「生存保障」をないがしろにし、富裕層や大企業のための経済成長を図ってきたが、それに続いて今回のコロナウイルスの問題でも人々の生活の困窮をもたらしているというのが彼らの主張である。

 

日本にもコロナウイルス感染が及んでくることが分かっていながら、安倍政権は、景気浮揚を当て込んだオリンピック開催を優先させ、コロナ対策は後手後手に回ったことや「行政改革」として感染症対策を担う専門機関である国立感染症研究所をはじめ保健所の大幅削減など医療、保健体制の削減がコロナウイルス感染を拡大させた要因となったというのはその通りであろう。しかし、今回の「社会危機」からどのような結論を導き出すのかが問題である。

 

彼らは、コロナ危機によって、人々の生活の危機が深刻となったとして、職や住居を失った労働者の賃金や職の保障や住居の斡旋をはじめ、感染者に対する医療、アルバイト学生に対する学費などの就学援助等々、「生存権保障」を提言している。「いま必要なことは、コロナ対策の前提である『生存権の保障』を徹底すること、そして(それにふさわしい)新しい経済モデルを打ち立てること」が大切だと訴えている。

 

コロナウイルスの蔓延によって、首を切られ職場を失ったり、賃金を切り下げられるなど困窮者に対して、政府に援助を要求することは当然である。しかし、今回の「社会危機」から、「生存権を保障する」「経済モデル」を追求することが社会運動にとって課題となっているというのはあまりに抽象的である。現在の社会に代わる「経済システム」については、どのような社会なのか。これについては「生存権を保障」する「システム」といったことが言われているだけで、その内容は定かではない。

 

「生存権の保障」ということなら、現在のブルジョア憲法でも謳っている。(25条「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」)。第二次大戦後ブルジョア国家は「福祉国家」を掲げた。それは、イギリスの「揺りかごから墓場まで」の言葉に象徴されるように、国家による社会保障などブルジョア的改良によって、失業、生活苦の増加など資本主義の矛盾から労働者の目をそらせ、労働者を体制内に囲い込み、危機に陥った資本の支配を立て直し、継続するためであった。日本の新憲法の25条の規定もこうした流れを汲む条項である。

 

敗戦直後の危機を乗り切った日本資本主義は、その後、急速な経済成長(「経済の高度成長」)を遂げ、70年代初めには「福祉元年」が謳われ、国民皆保険、国民年金制度などの「福祉」制度が導入された。ブルジョア「福祉国家」は、資本主義の経済的な繁栄に依存したものに過ぎなかった。

 

その後、経済の「高度成長」の時代が終わり、経済が停滞の時代を迎える中で、税収が落ち込む中で国家は、借金を積み重ね、消費増税など労働大衆に負担を押し付ける一方、「福祉」や社会保障の削減を行うなど「福祉国家」のメッキはすっかり剥げ落ちた。

 

「ネットワーク」が、「生存を保障する」ための社会保障制度やの自然災害や感染病に備えた行政部門を削減してきたと批判する「新自由主義」は、国家財政による「福祉国家」批判から生まれた。新自由主義は、国家の経済への介入、「大きな政府」は、資本の自由な活動を妨げ、財政破綻、経済の停滞を招いたと批判し、国家の経済への介入を少なくし、利潤追求の資本の自由な活動こそが経済の発展をもたらすと主張してきた。新自由主義はケインズ主義に基づく「福祉国家」への批判から生まれたのである。だとするなら、ブルジョア「福祉国家」をイメージさせるような「生存権を保障」する「社会システム」といったことで済む問題でないことはあきらかであろう。

 

医学的な側面からみても、新型コロナウイルスによる世界的な伝播、災厄は、資本の支配と無関係ではない。今回の中国の武漢で発生した新型コロナウイルスは、コウモリなどの野生動物を通じてヒトに伝播、ヒトへの感染能力を獲得したものと言われている。新型コロナウイルスに限らず、歴史上猛威を振るい、多くの人命を奪ってきた疫病は、人間の自然への働きかけを契機とてもたらされた。例えば、麻疹(はしか)は、人類最初の文明が勃興したころ、犬あるいは牛に起源をもつウイルスが主を超えて感染し、適応した結果ヒトの病気となったという。麻疹ウイルスは、メソポタミヤで人類初の文明社会と出会い、そこを常駐の地としながら周辺地域に広がり突発的な感染を繰り返していたが、やがて世界各地で農耕が始まり、各地に一定規模の人口を持つ社会が出現するようになると、そこを常駐地として世界各地に広がった。(山本太郎、『感染症と文明』)

 

自然界に存在するウイルスや病原菌は、人間の自然との接触によってヒトに感染し、様々な感染病をもたらしてきた。しかし、人間の活動は自然への働きかけである以上、ウイルスや病原菌との接触は避けられない。問題は自然への働きかけが利潤目当てに、その影響を考慮することなく「あとは野となれ山となれ」式に、無秩序に行われていることである。その結果として、自然の中に存在していたウイルスや病原菌がヒトに感染し、疫病として広まる。

 

まだ医学が発展しなかった時代には、人間は感染症に対応できず、ヒトの身体に抗体ができるまで待つしかなかった。しかし、現代では、ヒトに害悪を与える種類のウイルスや細菌に感染しても、それに恐れおののくというのではなく、対応できる可能性があると言えるだろう。

 

今回の新型コロナウイルスに関して、感染の有無を判定や感染者を治療する病床などの医療施設、医者、看護師の人員などの医療体制の不備が暴露されたが、その原因は利潤の獲得を目的とする資本の体制にある。資本とその国家にとって労働大衆とその家族の疾病や怪我、障害などに対する医療体制の整備は、搾取材料としての労働力の確保のために一定の程度必要であるが、それ以上ではない。

 

一方、新型コロナウイルスで、経済的に大きな被害を受けたのは、労働大衆である。とりわけ臨時労働者や派遣などの多くの労働者は、真っ先に首を切られ、日々の生活にさえ困難を強いられている。

 

こうした事実は、新型コロナウイルス感染被害の問題が、資本の支配と結びついていることを明らかにしている。ヒトが新たなウイルスとして新型コロナウイルスに感染したこと自体が問題ではなく、わずかな間に世界中に蔓延し、数百万という感染者を生み出し、多くの生命を奪っている、そして最も大きな犠牲を被っていのが労働大衆であるということが問題なのである。もし、感染の初期に適切な医療的な措置が取られ、またその情報が世界的に共通のものとされていたら、現在のような酷い状況は避け得ただろう。そうならなかったのは、資本主義の体制にこそ原因がある。

 

新型コロナウイルスの急速な世界的な拡大に関して、資本の国境を越えたグローバル的な活動の結果だとして、これを規制すべきとか、地域的に数か国がまとまり、原料獲得、生産、商品販売で相互に補うような地域的なブロック経済圏を目指すべきとの議論がある。資本によるグローバリゼーションが、ウイルス感染のパンデミックをもたらしたというのは事実であるが、ここから今後目指すべき経済として、ブロック経済とか自給力を高めた経済などを説くことは、国家対立を煽る、歴史的進歩に逆行する反動的な議論である。克服すべきは、経済の結びつき、相互依存ではなく、利潤獲得を目的とする資本による生産だからである。

 

 新型ウイルスの蔓延から導かれるべき教訓は、「生存を保障」を実現する「経済システム」の追求といったブルジョア「福祉国家」の焼き直しのようなことではなく、労働の搾取を原理とした、利潤獲得を生産の目的とする資本主義を克服した社会をめざすということである。

 

コロナ禍で失業したりした生活困窮に対して、国家に支援を要求することは必要であり、当然である。共産党ら野党は、与党も野党もない、困難に対して一致して、対応していくべきだと叫んでいる。彼らは政府の所得制限なしの一律10万円支給は元々自分らの提案であり、政府に認めさせたと喧伝している。共産党は「一人10万円だが、国民一人一人への給付は、ほとんど消費に回り、経済活動を刺激する」とその効能を訴える。国家の個人への支援は需要を喚起し、コロナウイルスによって縮小してきた経済活動回復に役立つという共産党は、資本主義的生産の復興をたすけるといって恥じないのである。

 

労働者は、階級協調主義に惑わされることなく、資本に反対する階級的闘いを前進させていかなくてはならない。  (T)

「買い物」の松井大阪市長発言――行き当たりばったりの政治彷彿

今のご時世、外出すると言えば、スーパーに買い物に行くぐらいであるという人が増えている。その際、いわゆる「三密」を避けるようにと云われ、換気が悪く、多くの人が密集し、近距離で話すことを避けることが必要であると言われている。これに関連し、大阪の松井市長が「男が云われた物だけ買って帰るなら早いが、女の人が行くと、いろいろ商品とか見ながらするので時間がかかる」と発言した。記者からは「女性や男性に限った話ではない気がする、「違和感がある」と云われ、それは「我が家での話」と補足した。

 

これに対し「ド直球の性差別」という非難が起きている。買い物という日常的な行為をする際に、計画と言えば大げさかもしれないが、事前に準備をして行くか否かの違いによって、使う時間に差が出て来るということはある。その意味で、男性であるか女性であるかにはかかわらない、と云うのはその通りである。これに対して、松井市長は「我が家での話」と限定されているが、誰にも我が家があるとするなら、自らを反省し、買い物に行く際、事前準備として、欲しいものは何か、幾らそれは欲しいのか、予算は幾らかなどをメモして出かけるようにした。私は、これはこれで好かったのであるが、問題はこうした日常的な生活態度にこそ、人の政治姿勢が現れてはいないのか、という疑念である。

 

誰か人から言われ、行き当たりばったりの政治をしているのではないか。維新の政治姿勢はそこにこそ現れているのではないか。大阪都構想に始まる、維新の政治であるが、それはいかにも東京に対抗するかのものであり、大阪府民の心情に組みしたものではないだろうか。かつて大正末期から昭和初期にかけ、東京をもしのぐ大大阪を誇ったという関一市長であるが、まるでその夢を追わんとするかのようである。それに「維新」と言えば、明治維新を彷彿とさせ、如何にも封建社会をぶっ潰し、明治維新を成し遂げたかのイメージを抱かせるに、もっともな名前である。さらには盛んに官民格差を持ち出し、公務員を批判するかであるが、現場の公務員を批判するばかりで、上級公務員はそのままで、むしろ上手く使いさえしているのである。

 

確かに商売に身を投じ、中小零細とは言え、社会を底辺で支えている人は多い。そして、資本の社会が発展すればするほど、労働者だけでなく、そうした立場の人達にさえ困難が降りかかっていることは事実である。維新がその代弁者として登場するにしても、それは歴史的に見るなら、正に行き当たりばったりの政治をしているのではないか。如何にも弱者の味方面をし、それによって、計画性のない、その場しのぎの政治をしているとするなら、むしろその点こそ改めるべきではないのだろうか。

 

欲しいものを欲しいとし、計画的にそれを達成するために、何がどれだけ必要か、そうしたことを観念することなく、政治をしているなら、あれこれと時間が経過するだけで、何時まで経っても問題解決には進めない。こうしたことは、買い物に行く時でさえ、分かるのであるから、正にそれを政治の場で生かすべきではないだろうか。

 

維新に対し、こんなことをいくら言っても時間の無駄だとするなら、普通に働いて社会を実際に支えている人々こそ、この意を汲んで頂き、労働者党に結集してほしいものである。

 

ついでながら、三密は仏教用語でもあり、それは身密、口密、そして意密というそうだ。人にとって、身体、口、そして意思の大事さを説くものである。身体が健康で、口で上手におしゃべりができ、強い意志を持っていることは、人間にとって大事である。もちろん、具体的にはどんな階級的な意思があり、労働者に対し真実を語れるのか、命の限り活動できるのかが問われている。

 

大阪・杉

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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