労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2020年09月

米トランプ政権 国際刑事裁判所を制裁

沖縄で闘う仲間からの投稿です。

米トランプ政権 国際刑事裁判所を制裁

――アメリカの「自由と民主主義」とは何なのか

 

アメリカのトランプ政権は、アメリカ軍の兵士がアフガニスタンで拷問を行った疑いがあるとして、国際刑事裁判所(ICC)が捜査をしていることへの対抗処置として、9月3日、主任検察官ら二人に制裁を科すと発表した。

国際刑事裁判所(ICC)は戦争犯罪、ジェノサイド、人道に対する罪等を裁く常設の国際裁判所である。

ICCは、東西冷戦終結後の民族紛争等が頻発する中で準備されてきたが、2002年7月、ローマ規程が発効し、オランダのハーグに設置された。

世界中で戦争を繰り返してきたアメリカは、当初からアメリカ兵の訴追の可能性が言われる中、終始批判的で、当時の民主党のクリントン大統領はしぶしぶ署名をしたのであるが、民主党内にも反対派がおり、批准は見込めず議会には上げられなかった。そして、アフガニスタン侵攻、イラク戦争を起こした次の共和党のブッシュ大統領によって署名は撤回された、という経緯がある。

6月にトランプが大統領令(行政命令)に署名した後、ポンペイオ国務長官は、国防長官と司法長官との共同会見で、アメリカ軍や連合軍兵士を捜査しようとするICCの動きに、直接協力及び物的支援した外国人に経済制裁を科すことを表明していた。

これには経済制裁のほか、責任者らとその家族のアメリカへの入国禁止処置も含まれるというものだった。曰く、彼らはアメリカの自由を守っている者を裁いているときに、アメリカに来てその自由を楽しむことは許せない、というのである。

また、エスパー国防長官は、アメリカは国際刑事裁判所の設置に関するローマ規定への署名を撤回している。(だから関係ない?)

アメリカは国に尽くした国民が正当性のない捜査の対象になることを許さない、などと述べている。

 他方、バー司法長官は、「ロシアのような外国勢力が・・・
ICCを操り、自国の利益を追求している」と、証拠を示さずに主張して、国外に矛先を向けることで国内の引き締めを図るという常套手段を使い、アメリカのICC批判を増大させた。


だが、これらは単に、アメリカ兵は裁かせない、アメリカの国益を損なうものは容認しない、と言っているに過ぎない。

アメリカは世界中に8百余もの軍事基地を要する帝国主義国家である。そんな国家が、超大国としての力を振りかざして、アメリカ軍は特別扱いしろ!と怒鳴っているのである。利己主義の極みであり、恥ずかしい限りである!

 アメリカはこれまで「自由と民主主義」の守護者であるかに振舞ってきたが、しかし、アメリカの言う「自由と民主主義」とは、いわば人類にとっての普遍的価値といった御大層なものではなく、アメリカにとっての「自由」であり、アメリカという国家の利益に沿う限りのものであり、それはケチ臭いアメリカン ナショナリズムの代名詞に他ならない、ということが再び三たび明らかになっただけである。


これは、アメリカ ファーストを掲げる、粗野なトランプ政権に特徴的な事では決してない、以前からそうだったのをトランプ政権が明け透けに表現したに過ぎない。

 そもそもアメリカは、その国家の誕生時から戦争犯罪とは無縁ではなかった。奴隷制度以来現在に至るまで黒人差別を温存している事を別にしても、先住民との戦争では虐殺を繰り返し、差別と貧困とともに、彼らを荒野の保留地に押し込めてきたことはアメリカ史の中に深く刻まれている。そして、朝鮮戦争時の
老斤里事件、ベトナム戦争時のソンミ村虐殺事件、あるいは焦土化を意図した無差別爆撃、あるいはイラク戦争におけるアブグレイブ刑務所の捕虜虐待等々、多くの戦争犯罪を繰り返してきた国家なのである。当然、これらの作戦に関わった米軍人は告発され裁かれるべきなのだ。


それができるには、巨大な軍需産業と軍が融合した強大な軍産複合体との闘いが避けられない。それにはアメリカの労働者階級が主体となるも、全世界の労働者の団結した力の高揚が不可欠となろう。

(沖縄 S

負けるな、日本の労働者!——「人を物扱い」する差別の構造

定年間近に退職された大阪の杉さんから、「差別」について考えさせる投稿がありましたので、紹介します。

 

負けるな、日本の労働者!

「人を物扱い」する差別の構造

 

最近、話題の大坂なおみについて、924日の「毎日新聞」夕刊に記事が載っていた。「黒人運動」「なぜ日本で批判」と題するもので、「黒人の命は大事だ」というBLMに対し「支持を表明した」「大坂選手にも(批判の)矛先」が向いているという。そして「差別構造に理解が無い」、そこに日本の問題があるとしている。

 

記事を読むと、しかし、BLMに対するアメリカ国民の支持率も複雑な様子を示している。6月上旬には53%まで支持率が上昇したが、その後、911日には49%に低下したという。対する反対は、同じ時期に28%から38%に伸びている。BLMに対する反対が目立つのは、65歳以上の男性、共和党支持者、そして白人だと言い、他方、18から34歳の若者、大学院卒業生、民主党支持者、そして黒人のあいだでは、支持者が多いという。こうしたことを読んで考えるなら、いわゆる差別は日本だけの問題ではないことが伺われる。

 

大坂なおみのツイッターが掲載されている。見ると、彼女の問題意識が伺える。英文であるが、「私はトレイボン(2013年に自警団員に射殺された黒人高校生)の死をはっきりと覚えている。子供の頃であったが、怯えを感じた。彼の死が最初ではないことは知っていたが、私にとっては、何が行われているか、ということに目を開かされた。未だに同じことが、次から次へと行われていることは悲しい。問題は変えなければならない」というのが、彼女のメッセージである。これを読むと共感を覚える。

 

新聞では「差別構造への理解」が課題であるかに言われている。しかし、実際には支配と奴隷の関係が未だに続いているのではなかろうか。と言っても、黒人奴隷は制度的には解消されているし、法の下での平等や、貴族の廃止が戦後の日本の憲法では謳われている。しかし生産現場においては、依然として、賃労働と資本という関係が継続しているし、そしてさらに、支配する資本と、奴隷的地位に甘んじざるを得ない賃金労働者との関係こそ、現代社会を歴史的に特徴づける人間の関係と言えるからである。経済的な困難が深刻化するのに従って、「資本論」に対する需要が増している。人々の憤懣やるかたない憤りは、政治のあちこちで日々噴出していないだろうか。

 

昨年、退職した身として、実際、生産現場での経験を思い出すなら、最も深刻だった問題は、支配者面をした管理者から、奴隷のごとき扱いを受けたことである。仕事は郵便局での配達で、実際に約35年間それに従事していた。その賃金契約において、搾取されているとか、やたらに仕事量が多いとか、当局は人を物扱いし、むしろ物を人扱いするような管理が横行していた。ただし、個人的には「資本論」を読んで理解しようとしていたこともあって、こうした労使関係に対する覚悟は出来ていた。

 

定年まであと少しという時になって、或る事件が発生した。何処の誰かは忘れたが、郵便物が紛失し、それを紛失した人の責任追及が始まっただけではなかった。紛失や盗難を防ぐという謳い文句の下に、やたらに厳しい監視が始まった。それに目を付けられたのか、やるべきことをやっていないとして、バイクではなく、自転車で行くよう強制された。昔は、全員が自転車配達であったが、配達物数が増えたので、バイクに切り替わった経緯があったので、再び自転車配達をすることには何の問題もなかった。しかし、それを「強制された」ことは酷い「見せしめ」であり「罪人である」かに思うことを強いられた。他の会社では、「窓際族」と言って、定年間際の労働者に嫌がらせをして、早期退職を強いる話があるが、それを体験したと言って好い。

 

諺に「災い転じて福となす」と言う。こうした支配と奴隷とも言うべき関係について、ヘーゲルの「精神現象学」を読んで、人間の「承認をめぐる生死を賭けた争い」があることに気づいた。そして、管理サイドが何を求めているかが分かった。彼らは自らを支配者として認めてほしいのであり、いい加減な扱いはしないでほしいのである。そういう願いが分かったという次第で、その意味では、実際の労働に携わりながら、資本の問題を考え、理解する機会を得た。

 

実際の労働現場においてこそ、人と物との違いを付けることが求められていると観念する。未だそんな分別が社会的には付けられていないのであるが、そこには、生産手段に対する私的な所有制度が、支配していることが暴露されている。そしてこの私的所有制度こそ、生産現場における支配と隷属と言うべき労資関係を維持させている。

 

頑張るのは、大坂なおみだけに任せては置けない。日本の自覚的な労働者こそ、世界に先駆け資本との闘いに奮起すべき時である。
 (テニス歴20年の大阪・杉)

育鵬社版歴史教科書を不採択に

育鵬社版教科書採択に反対して闘っている仲間からのレポートです。

 

育鵬社版歴史教科書を不採択に

――菅政権は反動教育も継承か警戒

 

 

 821日、私の住む市の教育委員会(以下教育委)は、20214月から中学校で使用する歴史教科書として東京書籍版を採択した。教育委は2015年、2019年と過去2回続けて育鵬社版を採択してきた。2015年の採択委員会ではまともな議事録が作成されておらず、情報公開請求や再審査請求をしてきた。その却下をうけて教育委を被告として行政裁判を行っている原告の1人として、今回育鵬社版採択を断念させたことをまずは喜びたい。

 

 過去2回の採択を振り返ってみる。

 

 2015年の採択では学校票(各中学校の教員の多数意見が反映されたもので学校ごとに採択候補一位、二位を決定)は12校中10校が東京書籍版を推したが、教育委が人選した3人の調査員は育鵬社版を推した。採択委員会(教育委に答申する機関、以下採択委)は育鵬社版を支持、他の教科のほとんどは学校票と調査員票が一致しており、歴史教科書のみ意見が分かれ、地元の新聞は「異例のねじれ」と報道した。教育委は「採択委意見を尊重する」として育鵬社版を採択した。

 

 2019年はなぜか2020年の採択があるので調査員票は2015年のものを使うとされ、学校票のみ作成された。4年間育鵬社版を使用した(させられたというべきか)現場教師達はまたも育鵬社版を拒否して学校票の多数は東京書籍版を推した。2015年の調査員票と2019年の学校票の「ねじれ」が前回同様あったが、採択委は東京書籍版を第一位として答申。公開された採択委の議論では「実際に育鵬社版を4年間使ってみた教師の意見は尊重すべき」等の意見が出て、採択委の対応は前回と違った。ところが、2015年には「採択委意見を尊重する」と言っていた教育委は採択委意見を無視し、またもや育鵬社を採択した。

 

 今回は育鵬社版が採択されなかったとはいえ、「採択権限は教育委員会にある」という安倍政権の遺産は有効であり、採択では現場教員等の意見はほとんど言及されることはなく、5人の委員の多数決で決定された。学校票は東京書籍8、帝国書院7、育鵬社5、調査員票は東京書籍A、帝国書院B、育鵬社Cを受けて、教育委に答申する採択委の意見は一位東京書籍、二位帝国書院であった。

 

育鵬社版にただ一人賛成した委員(開業医)は「東京書籍は日本色(?)が少ない、トルコと日本の友好の記述が少ない、ベルトール号事件、赤穂浪士、日出処天子など育鵬社版はよく書いている。日本書記など神話が必要。武士道、歴史上の人物よく書かれている、歴史はヒストリー、ストーリーだから物語、育鵬社版は物語として楽しく読める」と推す理由を述べている。

 

この委員は国語、地理、英語、理科などでは発言せず、歴史では饒舌だった。しかし社会(歴史、地理、公民)だけでも各社合計5000ページを読みこなし、比較・検討したのか?教科書と一般書籍との違いも認識していない。「歴史は物語」と思うのは自由だが、教育委員としては余りにも無定見。

 

また、教育長は「育鵬社版は日本人としての誇りを大切にしている。女性の活躍が書かれている。東京書籍版は神話の記述が増えている。領土問題のバランスが良い」と発言して東京書籍版を支持。この方は元体育の先生で教育委のなかでおそらく教員免許を持つただ一人の方だが、無理に育鵬社版でなくてもよい理由が「神話」「領土問題」なのだ。

 

社会科の先生なら「日露戦争について、育鵬社は乃木希典や東郷平八郎は書いても、他社が載せているこの戦争に反対した内村鑑三、幸徳秋水、与謝野晶子は無視している」と比較検討しているはずだが、先の医師の委員同様、全教科書を読みこんでの発言なのか、単なる自分の見解(日本会議や政府への忖度か)の披露なのか。

 

 201547日の文科省通知では「教科書採択は・・・教育委員会その他の採択権者の判断と責任により」と書かれてあって、採択権は教育委員会にあるとする行政側解釈が幅をきかせ、それに悪乗りする教育委員が上記のように存在する。しかし通知には先の引用に続いて「綿密な調査研究に基づき、適切に行われる必要があります」とある。「綿密な調査研究」とは何か?「必要な専門性を有し、公正・公平に教科書の調査研究を行うことのできる調査員等を選任し、教科ごとに適切な数配置するなど体制の充実を図る」等とされている。

 

教育委員が三カ月の期間で9教科、15分野、130点あまりの膨大な教科書を読みかつ比較検討することなど、通知から導き出すのは無理であり、誰も期待していないし、実際無理である。各科の教員免許を持つ現場教員こそが、日々の授業、研究、実践によって合理的・効率的に教科書を比較検討できる。従って、学校票や調査員票を踏まえない判断は文科省の立場からも許されないはずである。

 

 安倍政権の反動教育を継承すると宣言する菅政権のもと、反動的な教科書採択が今後もなされない保障はなく、今後も監視・暴露を強めていく必要がある。

(F・Y)

 

        

 

トヨタ新「成果主義賃金」へ!——攻める資本に、服従する労組

『海つばめ』1386号に掲載した記事ですが、紙面の都合で一部省略しましたので、ここに全文を掲載します。トヨタイズムの実態を暴露しています。

トヨタ新「成果主義賃金」へ!

——攻める資本に、服従する労組

トヨタ自動車は2021年1月から新賃金制度に移行しようとしている。9月30日に行われるトヨタ労組の大会で新賃金制度導入が決定されると、トヨタ自動車において「成果賃金制度」が本格的に導入されることになる。トヨタにおいて「成果賃金制度」が導入されるとその影響は大きい、今後多くの会社がトヨタに倣って「成果賃金制度」を導入するだろう。会社側は「成果賃金制度」を根拠に、賃下げや労働条件全般の引き下げを行い利潤を搾り取るだろうし。労働者に分断をもたらし、資本による労働者支配は制度化され、組合は組合員に会社への忠誠と会社が期待する仕事の取組みの旗を振るだろう。

新賃金制度(成果賃金制度)の具体的内容と目的

新賃金制度の内容についてトヨタ労組の発行する「評議会ニュース」(8月5日発行)によれば「第15回労使専門委員会」で、事務技術職(事技職)では、賃金水準の見直しを行い、これまで「上限」を設けていたのをやめて、「頑張り続ければ上限なく昇給し続ける」に変更されたと報じられている。

トヨタの基本給は2種類の基本給で構成されている。一つは「職能基準給」と評価によって決まる「職能個人給」で今後は「職能個人給」に一本化したうえで、定期昇給を従来の事技職(主任職)の評価がA~Dまでの4段階であった考課を6段階に細分化する。

A~C評価は全体の90%(資格期待通りかそれ以上)D1、D2評価は10%(資格期待を下回る、FB[フィードバック=教育しても改善せず)、D2評価はゼロ昇給、以上までで5段階。6段階目のE評価(周囲に悪影響を及ぼしているorFBしても改善の努力が見られない)はゼロ昇給に止まらない配置転換や解雇を会社側が考えていることを予想させる(明示されてはいない)。

工場で働く労働者(技能職)の考課は4段階でA~C評価は全体の90%(A期待を大きく上回る10%、B一部上回る30%、C期待通り60%)D評価(資格の期待を下回りチームワークやルールを遵守に問題あり。FBしても改善が見られない)としてゼロ昇給。

新賃金制度が何を目論んでいるのかは明確である。会社に盲目的に従い会社の期待通りかそれ以上の成果を生み出す者には、青天井の昇給を行う。チームワークやルールを遵守しない者(QC活動や労務管理、会社や組合の方針に異議を唱える労働者)は根こそぎ刈り取り、「トヨタマン」として疑うことなく会社に忠実に従う労働者を作り出そうとすることにある。

驚くべきことに新賃金制度(成果賃金制度)を正式に申し入れたのは会社側からではなく、組合側からの申し入れという事である。組合は新賃金制度を提案し、春闘恒例の会社側回答日直前の大集会(19年は5100名参加)を取りやめ、組合員の団結を鼓舞し資本に要求を突きつけるガンバローを唱和(たとえ形だけとはいえ)することさえ中止して(コロナ対策が表向き)、資本の軍門に下った。

新賃金制度導入の背景

2018年、豊田章男社長は自動車業界が「100年に一度の大変革期」にあり、「生きるか死ぬかの瀬戸際にある」と危機感を強調し、トヨタは自動車会社からモビリティカンパニーにチェンジすると宣言し、19年には東富士工場を閉鎖した跡地に水素エネルギーや自動運転、コネクティツド技術を実証する2000人が住み生活する「コネクティツド・シティ」を2021年末から建設すると発表し、CASE(コネクティツド、自動運転、シェアリング、電動化)関連の新会社を相次いで立ち上げ、新たな競合相手=GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)との戦いに乗り出している。

コロナ禍の中でも21年度の第1四半期に1588億円の黒字を生み出した。世界中の自動車会社が赤字を強いられる中で、売り上げを前年比マイナス41%まで落とす中でも1588億円もの利益を上げる事が出来た理由の一つが、労使一体化や運命共同体のトヨタイムズの徹底的な浸透(洗脳)を組合や社員に行ってきたことにある。

新賃金制度導入の背景は、「百年に一度の変革期」の危機とそれに対するトヨタイズムのトヨタ資本の回答である。

〝家族としての助け合い〟や〝産業報国会〟を持ち出す資本に、恭順の体で従うトヨタ労組

今回の新賃金制度を導入するに先駆けて19年には豊田社長は「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」と記者会見で発表。トヨタの春闘(トヨタ春交渉と彼らは呼ぶ)でも18年以降賃上げ額が非公表になり、19年はベア要求額も非公表、冬のボーナス回答が秋季交渉まで保留された、19年3月13日の労使交渉では「皆さんが『仕事のやり方を変える』事が出来なければ、トヨタは終焉を迎えることになると思う。『生きるか死ぬかの闘い』というものは、そういうことである」(豊田社長)

「トヨタ資本が100年に一度の変革期で生きるか死ぬかの瀬戸際にあると危機感を強調し、モビリティカンパニーにチェンジする必要がある。家族として助け合い結束しなければならない。」という会社側の要求に対して、「組合も自分たちの認識が甘かった。よそを向いている組合員も同じ方向を向くようにする。と約束した。」(トヨタ春交渉2019より)その結果19年6月にQC運動(「カイゼン」「創意くふう」)に参加した社員の参加率が60%だったのが9月には90%まで上昇したと報じられた。

今年の春闘では19年に会社が「『頑張った人がより報われる』『お天道様が見ている』会社を目指す」という要求にこたえて、新賃金制度で基本給を職能個人給に一本化することを組合側から要求し、資本の期待に応えた割合で賃金を決定するという分断と差別、恭順の姿勢を明らかにした。会社との運命共同体、労使一体を中心軸に据えるトヨタ労組にとっては、それに反発する社員や会社の利益に貢献しない社員は、組合にとっても排除すべき社員とみなしている。

トヨタでは最近、トヨタ自動車創業者の豊田佐吉が提唱した「豊田綱領」(1935年)や1962年に締結した「労使宣言3つの誓い」を取り上げ豊田社長による社員に向けた発信が繰り返されている。

「労使宣言3つの誓い」では第3項の「生産の向上を通じて企業の繁栄と、労働条件の維持改善を図る、の中にある『共通の基盤』に立つ意味は『会社は従業員の幸せを願い、従業員は会社の発展を願う。そのためにも、従業員の雇用を何よりも大切に考え、労使で守り抜いていく』と労資交渉の中でも繰り返した。

雇用を大切に考えることに異論はない、しかし労資で守り抜いていくことではない。労働者は自らの雇用を会社と一体化することによってではなく、労働者の団結した力で守り抜く、ストライキや実力行使によって資本に要求し貫徹するのだ。

「豊田綱領」からは最初に挙げられている「上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙(あ)ぐべし」を社長の豊田は「『産業報国』の精神はあるか、……『お国のため、社会のため』となれているか、この価値観を全員が共有できているか」「『至福』とはきわめて誠実であること、……誠実に業務に向き合い、最後の最後まで、業務を遂行しようと努めているか。やる気のある人や、努力を続けている人に、ぶら下がっている人はいないか」「この2つの認識について、会社も組合も、上司も部下も、トヨタで働くすべての人が一致していなければならない」。

社長の豊田はリーマンショックとリコールを乗り越えトヨタを強靭な競争力を持つ資本に作り替えたことで、絶対的権力者として、戦前の「大産業報国会」を思い起こすような発言を繰り返している。豊田綱領の最後には「神仏を尊崇し、報恩感謝の生活をなすべし」。トヨタ労組の西野委員長は答える「……労働組合としても、この豊田綱領をベースに原点に立ち返って取り組んでまいりたい」。

(愛知 古川)

書評「武器としての『資本論』」――何のために、何と闘うのか?

書評「武器としての『資本論』」(白井聡著)

――何のために、何と闘うのか? 

 

 「武器としての『資本論』」、まことに魅力的な書名である。なぜなら私たちの「資本論を読む会」は、資本論を単に知的な関心や暇つぶしのためではなく、まさに資本論「闘いの武器」にすることを目ざしてしてきたからである。その意味で本書は、まことに私たちの関心を大いに惹くものであった。

 

著者によれば、本書は若い読者のために書かれたというだけあって、叙述は巧みな比喩や実例にあふれており、大変読みやすいものになっている。しかし、この種の著作としての問題は、単に読みやすくわかり易ければよい、というものではない。

 

本当に働く者の未来を切り開くための武器となっているか、ということである。そのための資本論の読解になっていなければ、本書のわかり易さは、逆に労働者の闘いを誤った方向にも導きかねないのである。当然のことながら、こうした観点から本書の評価を試みることにしたい。

 

資本主義は、単なる「商品による商品の生産」社会か?

 

 第1章(講となっている)で著者は、環境破壊、経済危機、戦争など、世界はおかしくなっている。その原因は、間違いなく資本主義である。この資本主義をどうにかしなければ、現代社会の矛盾は乗り越えられないと述べている。

 

「マルクスの目を通して見ると、言い換えれば、マルクスの創造した概念を通じてみると、今起こっている現象の本質が『資本論』の中に鮮やかに描かれていることがわかるし、逆に『資本論』から現在を見ると、現実の見方がガラッと変わってきます。」(p20)まったく同感である。

 

ただ著者は一方で、「『こんな世の中をどうやって生き延びたらいいのか』という知恵を『資本論』の中に探っていく。マルクスをきちんと読めば、そのヒントが得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。」(p20)とも述べているが、『資本論』は、人々に「生き延びる」といった、消極的な「知恵」を与えるのではなく、資本主義に至るまでの人類に長い歴史の成果に立って、積極的に働く者に、未来の豊かな共同社会を提示した著作であり、著者のように、資本主義を逃避的、悲観的に見ることは、資本主義の歴史的進歩性に対する不信感の表現と思われる。

 

 それはともかく第2章に入ると、著者は資本主義社会を次のように定義する。資本主義社会は、「『物質代謝の大半を商品の生産、流通(交換)、消費を通じて行う社会』(第2章の見出しでは「万物の商品化」と言う)であり、『商品による商品の生産』が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)というものです。」(p31)つまり社会全体が商品化された社会、それが資本主義社会である、というのだ。そこから『資本論』冒頭の有名な文章、「われわれの研究は、商品の分析をもって始まる。」が出てくる、と著者は言う。

 

資本主義とは、商品生産が一般化した社会である、まさにその通りだ。そしてそのことを可能にしたのは、人間の労働力が商品になったこと、つまり労働力という商品によって商品が生産される(「商品による商品の生産」)ようになったことこそ、資本主義社会の特徴だと言う。これもその通りだが、しかしここに一つ問題がある。

 

「万物の商品化」は、単に商品生産が一般化したということでは済まない、生産様式の大きな変化があったということである。このことを著者は忘れているか無視している。つまり商品生産の一般化は、著者も言うようにその要因は、人間の労働能力が商品となったことにあるが、労働力が商品になった背景には、封建社会の崩壊による、「自由な労働者」の出現がなければならない。

 

このように、一般の商品とは異質な、この労働力というものが商品になるということは、単に商品生産や流通が拡大したり一般化するということとは、同じ次元のことではないのだ。労働力商品による商品の生産の背後には、生産様式の革命的変化がなければならないのであり、単に商品経済の拡大、普遍化といった問題ではないのである。

 

そればかりではない。この労働力の商品化の意義は、この労働力の使用によって生まれる剰余価値の取得こそが、資本主義的生産の動機となることにある。著者は資本主義社会を「価値の生産が目的となる社会」と述べているが、同じ価値でも、資本主義社会は、資本家による剰余価値の生産と取得を目的とするものであり、これこそ資本主義を他の歴史的社会と区別するものである。著者は、資本主義社会を、単に量的に拡大した商品社会に解消してしまっているのである。

 

★資本家による生産手段の私有こそ、労働者搾取の根源!

 

 もちろん著者は剰余価値について、特別な1章(第7講「すべては資本の増殖のために―剰余価値」)を設けて説明している。そこでは、「このように労働力の費用(?)以上の価値を労働者が生産することを、剰余価値の搾取とも言うわけですが、これは資本主義社会においては必ず起こることです。」(p121)と述べている。

 

しかしここで問題なのは、「剰余価値の搾取」が問題にされながら、その搾取を可能にする、資本家による生産手段の所有については、全く言及されていないことである。剰余価値の搾取の権原が資本家の生産手段の所有にあり、生産手段の私有こそ資本主義的生産のあらゆる矛盾の根源であるにもかかわらず、資本家による生産手段の私有には全く触れていないのだ。

 

その代わりに著者は、妙な説明に及び、「なぜ、剰余価値の搾取が可能なのか。それは資本主義における労働の二重性に関係しています。…その労働が達成する価値、生産する価値が抽象的人間労働として評価され、それに従った支払いを受けます。それが労働力の交換価値ということになります。つまり労働力商品の使用価値が交換価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれるわけです。」(p121,2)

 

剰余価値の搾取は、資本家が生産手段の所有者であることから、その生産手段と労働力(これもまた時間決めで資本家の所有になっている)の結合によって生まれた生産物も資本家の所有になる。資本家は全生産物の価値の中から、労働力の価値を賃金として支払う、残りの価値のうち前貸ししていた生産手段の価値を引けば、残りが剰余価値として資本家の手に残る。これが剰余価値の搾取である。

 

剰余価値の搾取にとって肝心(白井流に言えば“肝”)なのは、資本家による生産手段の私有なのだ。「資本家による生産手段の私有」を抜きにして剰余価値の搾取を語ることは全く意味がない。

 

労働の二重性(具体的有用労働と抽象的人間労働)などここでは関係なく、しかも「労働力商品の使用価値が交換価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれる」と言うならば、「労働力商品の使用価値である労働が生み出した価値が労働力の価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれる」と言うべきである(「労働力の使用価値>労働力の交換価値」という著者の図式も使用価値と交換価値という、比較できないものを比較する錯誤を生む)。

 

こうした、剰余価値の搾取、資本家による労働者の搾取という、労働者にとって最重要な問題を、著者は、単純な商品交換の法則の派生的な現象としてしか説明しないのだ。

 

★宇野派のエセ『資本論』解釈をまねる!

 

 なぜこういうことになるかと言えば、著者は結局、労働力の商品化を、単に商品生産や商品交換の一般化としか見ないで、生産様式の変化(封建制社会から資本制社会への変化)と捉えないからである。ここには、資本主義の本質的特徴を、労働力までもが商品化されたという商品社会の単なる一般化に求める宇野派の影響がみられる。

 

宇野派は、生産過程における労働の搾取を重視せず、剰余価値の搾取を単純な商品交換の法則、つまり価値法則(白井氏は、なぜか「価値法則」という言葉を使わない)によって、剰余価値の法則をも説明できるとしている。

 

しかし剰余価値の搾取は、資本主義的生産の本質を規定し、他の生産様式との本質的相違を明らかにするものであり、エンゲルスが、剰余価値の理論と唯物史観がマルクスの二大発見だと言っているのも、剰余価値説が資本主義分析の要だからである。

 

剰余価値の生産とその搾取を商品交換の法則つまり価値法則に解消するのは、資本主義的搾取の秘密を隠蔽するものである。白井氏は、宇野弘蔵氏を「日本のマルクス研究者として最重要人物のひとり」(p254)として高く評価しており、参考文献の中にも宇野氏の著作(「経済原論」)を挙げているほどだ。

 

宇野氏のマルクス経済学の曲解は、これまでしばしば指摘されてきているが、本書でもその誤りが随所に見られる。例えば、白井氏は、価値は抽象的人間労働の結晶であると言いながら、価値の説明では、「商品として店頭に並んで値段が付いた以上は、価値の量的な比較が可能となります。」(p110)といった、宇野流の、価値論を抜きにした価格論に迷い込んでいる。

 

「交換価値とは、資本主義社会というシステムの中で初めて発生する抽象的な属性、社会的な属性なのです。」(p111)交換価値は商品交換のある所に存在するものだが、これでは資本主義社会にしか存在しないことになる。また、「その労働が達成する価値、生産する価値が抽象的人間労働として評価され、それに従った支払いを受けます。」(121)ということになれば、労働者は、全労働時間に支払いを受けることになり、剰余価値はなくなる、等々。最近のマルクス関係の出版物における宇野派の影響に驚かされる。我々は大いに宇野派のマルクス解釈の偽造を警戒せねばならないと思う。

 

★「収奪者は収奪される」は、正しくないのか?―唯物史観の否定

 

 剰余価値について述べたが、唯物史観についても触れておこう。第2章の1節「資本主義は続くよ、永遠に?!」において資本主義の特殊歴史性を論じられるものと期待したが全く裏切られた。

 

そこではヘーゲルやアメリカの政治学者のフランシス・フクヤマなどを引合いに出して、歴史を自由と理性の実現の過程とみるならば、東西対立で自由主義陣営が勝利したことは、市場経済と議会制民主主義こそが自由と理性を体現していることを証明した、かくして資本主義は人類の到達点であり永遠であることが分かった、というフクヤマの見解を紹介することで終わっているのだ。

 

いまさら人類の歴史が、自由と理性の実現だなどと(ヘーゲルの時代ならともかく)一体誰が考えるというのであろうか!そして白井氏は、フクヤマのこのバカバカしい主張に対して「正しいかどうかは脇において」などと判断せず、「資本主義が永遠なら、資本主義はいつ始まったのか?」と論点を移動してごま化す。

 

13章「はじまったものは必ず終わる」では、マルクスの「収奪者が収奪される」を引用し、あたかも資本主義の没落の必然性を語るのかと思いきや、「『資本論』のこの部分の記述を読んで、『収奪者を収奪すればいいんだな』と思い込み、ひと暴れすることが正しいかというと、果たしてそれはどうでしょうか。実はこの部分は『資本論』全体の体系から見て、いささか疑問を感じざるを得ない(?)記述です。」(p252)などと言って、「収奪者の収奪」を否定しているのだ。

 

そして白井氏は、宇野弘蔵の理屈を引用して次のように述べる、「『資本論』には二つの魂がある。二つの魂の一つは、化学的な資本主義分析(マルクス経済学)、もう一つは革命のアジテーション(史的唯物論)。これらはどこまでいっても相容れないものなので、どちらかを捨てなければならない」とし、「『科学としての経済学』を取り出す一方で、史的唯物論は捨象するという判断を下したのです。」(p254)

 

著者の白井氏は、宇野に対して、「確かにこれは、一つの考え方でありましょう。」などと言って、必ずしも宇野を支持するわけではないかに装っているが、実際には、宇野説に従って史的唯物論を、一種のイデオロギーであり真理ではないとしているのだ(本書の随所にみられる、小ブルインテリのコスイやり方)。というわけで白井氏には、資本主義没落の必然性も、そのための労働者の階級的闘いも、さらには働く者の未来社会(共産社会)の展望も何もないのである。

 

★階級闘争は、単なる賃金闘争か?―物取り主義のお説教

 

 「では、これからどうしたらいいのか。まずどこから始めるのか。それを『資本論』をベースに考えていきましょう。」(p239)と白井氏は、提案する。白井氏の結論は、この最後の章(第14講「『こんなものが食えるか!』と言えますか?」)の最後の節(「階級闘争のアリーナとしての感性」)で説明されている。

 

 そこで白石氏は、「(労働者は)生活レベルの低下に耐えられるか、それとも耐えられないか、…実はそこに階級闘争の原点がある」(p277)とし、「『これ以上は耐えられない』という原点を設けて、それ以下に『必要』を切り下げようとする圧力に対しては、徹底的に闘う。…それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということです。」(p278)

 

これはまさに、賃金切り下げ反対闘争、賃上げ闘争の主張に外ならない。もちろん労働者は、賃金を含めた労働条件の切り下げに反対し、さらには労働条件の向上のために闘わねばならないが、その段階に留まってはならず、最終的には賃金奴隷制の廃止、資本の支配の打倒を目ざして闘わねばならない、というのがマルクスおよび私たちの主張だ。

 

しかるに白井氏は、「『私たちは、もっと贅沢を享受していいのだ』と確信することです。贅沢を享受する主体になる、つまり豊かさを得る。私たちは誰もがこの資格を持っているのです。」(p279)しかしこの白井氏の主張こそ、労働者の階級闘争を、資本家からより多くのパイを得ようとするだけの賃上げ闘争、経済闘争に貶(おとし)めるものではないのか。

 

マルクスは、『賃金・価格・利潤』の著書の最後で、賃金のための闘いは、資本主義的生産の結果と闘っているのであって、その原因(つまり賃金制度、資本主義そのもの)と闘っているのではない、賃上げは、一時しのぎの薬に過ぎないのであって、病気を根治することではない、と賃金闘争に埋没することを労働者に諫めているのだが、まさに白井氏の述べていることは、繰り返されてきた物取り主義、賃上げ至上主義そのものではないだろうか(白井さん、『賃金・価格・利潤』を読んでください)。

 

★贅沢を享受する“感性”が階級闘争の原点だと!?

 

 他方で白井氏は、階級闘争の基礎として、人間の「感性」を持ち出す。彼は次のように言う、「どうしたらもう一度人間の尊厳を取り戻すために闘争ができる主体を再建できるのか。そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。」(p280)

 

いったいこの白井氏の言う「感性」とは何であろうか?「今日の貧困者が食べているコンビニ弁当やカップ麺、チェーン店の牛丼のような貧しい食生活ではなく、」(p281)「贅沢をめざせ!」と言うのだ。「資本の側は、『そんな贅沢をしなくていいじゃないか』とささやいてくるが、」「そのとき『それはいやだ』と言えるかどうか。そこが階級闘争の原点になる。」(p277)つまり感性を磨いて、より良い贅沢な生活を目指せ!、そのための階級闘争だ、これが白井氏の「感性の再建」ということである。

 

なんともヒドイ結論である。彼は第4章で、「肉体を資本によって包摂されているうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、」(p66)とフランスの哲学者を引用した後、「新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。」(p71)と述べている。

 

しかし資本に魂を奪われ、感性、センスまで資本に包摂され、毒され「人間の尊厳」を否定されているのなら、「もうこんな社会(資本主義)は、いやだ!こんな社会は、ひっくり返せ!」(著者は「はじめに」で「『こんなバカバカしいことをやっていられるか。(社会を)ひっくりかえしてやれ。」ということにもなってきます。』と言っているにもかかわらず)となるのが当然なのだが、白井氏は、資本に奪われた感性を再建せよ、と叫ぶのだ。

 

社会制度の変化があってこそ魂、感性、センスの変化も再建もあるのである。資本主義をそのままにして資本主義による感性の包摂を免れることはできない。感性を過小評価するわけではないけれども、感性に依存して労働者の階級闘争を成功させることはできないのだ。感性の爆発によって闘争が開始されることはあっても、感性だけで闘争を永続させ勝利をかち取ることは不可能である。感性も理論や理性に裏打ちされなければならない。『資本論』を学ぶ意義もそこにあるのだ。

 

★労働者階級を小ブルに貶(おとし)める『資本論』の曲解!

 

 本書の問題点は数限りない。他に一つ二つ挙げてみれば、「『資本論』では「本源的蓄積を起点とする資本制社会の始まりは、基本的に一回きりのこととして描かれています。…しかし実はその後も形を変えながら幾度となく繰り返されてきたのではないかと考えています。」(p173)とか、あるいは、「『階級闘争』を闘ってきたのは『金持ち』だった」(p216)といった首を傾げたくなるような説明もある。

 

はじめに述べたように、「武器としての『資本論』」とは誠に魅力的な書名である。しかしこの武器を、何のために、何と闘うのか、を正しく認識しなければ意味がないのだ。書名に惹かれて読んではみたものの、案の定というか、大山鳴動して鼠一匹という結果であった。

 

著者のような若いインテリにとっては、本書にかなりのページをとって説明されている、20世紀のフォーディズム、ポストフォーディズムなどによって、何か資本主義の本質が変化したという印象があるように思える。

 

白井氏(に限らず小ブルインテリ)の叙述の特徴は、一見マルクスの概念を使ってマルクスを解説しているように見せかけながら、宇野説にみられるような、とんでもないマルクスの曲解、歪曲のマルクス解釈を平気で行っていることである。

 

本書のような、「資本論」の学習を勧める出版物が出ることは、歓迎すべきことだろうが、宣伝文句に惑わされて、これこそマルクスだ、と誤解する読者も出てくることも危惧される。この種の出版物には大いに警戒し、批判的に読むように呼び掛ける必要があるだろう。

(神奈川 菊池)

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