労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2020年10月

中国の民族浄化作戦を糾弾する——新疆ウイグル自治区の実態

 中国の民族浄化作戦を糾弾する!

  新疆ウイグル自治区の実態

  

 新疆ウイグル自治区における中国政府の野蛮な〝民族浄化作戦〟、政治弾圧、宗教抑圧の実態が次第に明るみに出ている。それは現代の〝ジェノサイド(民族抹殺)〟とも言えるおぞましく、えげつないものである。 欧米のメディアや調査機関が近年ようやく報じるようになった情報(その中には現地のウィグル人が命がけで欧米の知人に提供したものも含まれる)まとめてみよう。

 

 オーストラリアの戦略政策研究所が衛星写真を分析したところ、ウィグル人収容施設(中国は「職業訓練所」と称している)が2017年以降380カ所が建設あるいは拡大された。また、同じく17年以降、8500のモスクが破壊され、7500のモスクが損傷された。

 

 「収容所」には100万人を超えるウィグル人が収監され、思想改造や自己批判を強要される。虐待、拷問、レイプは日常茶飯事で、死者も出ている。数少ない生還者の証言によれば、殴る蹴るの暴行、電気ショック、水責め、心理的ないじめ、中身不明の注射を打つなどの蛮行がまかり通っている。ウィグル人を肉体的精神的に追い込み、屈服させるためだ。

 

 新疆ウィグル自治区はもともとトルコ系でイスラム教を信仰するウィグル人の居住地域である。胡錦濤政権以来、「西部大開発」の名の下に漢人が大挙送り込まれてきたが、それでもなお新疆の全体人口の50%を超える1270万人はウィグル人だ(この人口数に照らすと、人口の約一割が収容されているのだ!)。

 

 中国政府の民族同化政策や漢人優位体制、宗教弾圧に反発してしばしば抗議行動が起こり、90年代にはソ連邦の崩壊と少数民族の独立運動に刺激されて、独立志向も高まった。2009年にはウルムチ市でウィグル族と漢族が衝突して2000人近くが死傷、13年にはウィグル人が乗ったとされる車が北京の天安門前に突っ込んだ事件、14年にはウルムチ駅爆破事件などが起きている。

 

 これに対し、習近平は「対テロ撲滅」作戦により徹底的な弾圧を推進するとともに、15年の党会議で「宗教の中国化」方針を打ち出し、ウィグル族の信仰や習俗も過激思想の温床になっているとして宗教弾圧も強化してきた。モスク破壊や収容所送り(単に外国に親類がいる、パスポートを持っているイスラム教の宗教儀式に忠実だといった些細な理由でも収容される)は、こうした習近平政権の政策の一環である。

 

 さらに、17年には自治区政府は「産児制限違反ゼロ」を達成せよと号令をかけ、出産適齢期の女性の80%超に不妊手術を施すか子宮内避妊具(IUD)を装着させる作戦を展開してきた。「組織的な断種キャンペーン」である。

 

 19年と20年に公費で数十万人の女性に不妊手術が実施され、その結果、ウィグル人地域では人口増加率が84%も減少、19年には出産適齢期の既婚女性のうち出産した人は約3%にとどまった。習近平政権は、男性は収容所送り、女性は不妊手術によりウィグル族を根絶やしにしようとしているかである。

 

 習近平政権が新疆ウイグ地域〝平定〟に躍起となっているのは、大東亜共栄圏の中国版「一帯一路」構想の実現には中国からユーラシア大陸の出入り口となるこの地域の安定が不可欠だからでもある。

 

 中国の国家資本主義の利益を体現し、野蛮な民族浄化作戦を強行する習近平政権に断固抗議し、糾弾しよう。(鈴木)   

「武器としての『資本論』」(白井聡) 批判的考察(補足)

長野で『資本論』学習会をしている仲間から、労働者党ブログに掲載した「武器としての『資本論』」(白井聡)の書評を補足する参考資料が送られましたので、紹介します。

 

「武器としての資本論』」(白井聡) 批判的考察(補足)

 

労働者党ブログの書評では、①資本主義経済の定義=「商品によって商品を生産する」の一面性、②宇野派の影響、③資本論から唯物史観を排除(「収奪者が収奪される」等々)、④階級闘争を賃金闘争等に矮小化、等々が批判されている。以上の点と無関係ではないが、上記では明示的に取り上げられていない点をいくつか補足的に取り上げてみたい。

 

1.商品の価値規定において、その実体を「抽象的人間労働」といいながらその中身について説明していない。(p.111p.121、等)

 

「労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。……労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されてとおりの労働生産物の価値が得られる。……それらの価値のおおきさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた一時間とか一日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。……平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間」(第1 巻第1 章商品)

 

白井は宇野に倣って、商品価値の実体を商品論のところではなく労働力の商品化と労働の搾取(剰余価値の取得)のところで論証しようとしているように思える。そのため、商品価値の説明が不分明となり、しかも労働の搾取の説明も極めて曖昧かつ不正確、誤りを含んだものになっている。(「労働力の使用価値>労働力の価値」等々。p.121

 

2.「労働力の価値」の主観的理解(p.122125p.129p.219、等々、随所で)

 

マルクスが「労働力の価値」=「労働力の再生産、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値」等と言っていることから、「必要」は弾力的であるなどといって賃金闘争や「贅沢」の勧め、資本に「包摂」されない感性を磨け、などといっているのであるが、マルクスがここで言っている「必要」の意味と「賃金闘争」等々は別次元のものであろう。

 

「食物や衣服や採暖や住居などのような自然的欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方、いわゆる必要要望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求を以て形成されたか、によって定まるものである。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。」(第4 章貨幣の資本への転化)

 

賃金や労働時間等をめぐる労働組合の闘いは必要であり必然でもあるが、それは労働者の団結による現状の変更を要求する闘いであり、労働力の価値が「必要生活手段の平均範囲」として取り敢えずは「与えられている」こととは別のことであろう。

 

新自由主義がある意味で「資本家の側からの階級闘争」であり、それによって「労働者の賃金水準(生活水準)」等々が切り下げられてきた=資本はそれによって利潤の確保をはかろうとしてきた、というのは事実であろう。しかし、それと闘うためには単に要求水準を高く持って賃金闘争を闘う、あるいは(良く言って)さらに新自由主義と闘うというだけでは無力である。新自由主義はケインズ主義的な福祉国家路線(修正資本主義)が行き詰ったところから出てきた。資本の体制や賃金制度を前提して、何かより良い資本主義やより良い賃金等を求めるだけでは問題は解決しない。

 

p.129 でマルクスの「必要労働時間」の説明がよく理解できない、等と白井は言っているが、「必要労働時間とは労働力商品の価値の補填に必要な労働時間」のこと(この場合の「必要」も、労働力商品の価値とイコールとなる労働時間という意味で、主観的要素は全くない)。他方、賃金とは労働力商品の価格であり、他の商品と同じくその商品体(使用価値)の価格として現象する。つまり、労働力商品の使用価値とは労働であり、賃金は「労働の価格=労働に対する支払い」という外観を持つ。だから、賃金そのものをいくら見ても必要労働とか剰余労働といった区別は見えてこないし、「労働そのものに対する支払い」(労働すべてが支払われている)としてしか見えてこない。

 

3.「れいわ新選組」安冨歩の説(現代=近代国民国家システムの解体期、しかし旧ソ連=社会主義の解体によって「どうしたらいいいかわからない」のが現状)に「非常に納得できる指摘」(白井、p.237-38

 

安冨は、「資本主義システムと近代国民国家の枠組」は既に破綻しているのだと言いながら、資本主義に代わるべき社会主義を彼は信じることができないのである。それは、他の多くの学者や政党などと同じく、彼が社会主義=旧ソ連等のスターリン的”社会主義”と考えているからだ。

 

しかし、いかに多くの生産手段が国有化され経済が国家統制されていようとも生産物には”価格”が付けられ、労働者が賃金(労働力商品の対価)をもらって生活していた旧ソ連等の社会がいかなる意味でも社会主義の国でないのはあまりにも明白で単純な真実である。こんなことがどうして安冨はじめ多くの人に理解できないのか不思議なくらいだ。「だから社会主義はもはや理想たりえない」と彼らは考えるのであり、「大人」から「子供」へ、「経済から暮らしへ」などという陳腐なスローガンにしがみつくしかないのである。(長野・『資本論』に学ぶ会ブログ、2019.11「躓きの石は旧ソ連等(旧“社会主義国”)の評価」参照)

 

4.現代はポスト・フォーディズム(ネオリベラリズム)の時代(p.152-60

 

・ポスト・フォーディズム=「認知資本主義」(アントニオ・ネグリ)

・白井は、ポスト・フォーディズム=ネオリベラリズム(新自由主義)としている。

 

白井は、フォーディズム=「資本家が自社商品の販売のために労働者に気前良く振る舞うこと」のように理解しているが、フォーディズムそのものは規格化された商品を機械化された流れ作業等で効率よく生産することしか意味していないだろう。労働者の賃金等が比較的順調に上昇したのは、資本家の施しのためというよりは単に景気の好循環が続いたからにすぎない。さらに、ケインズ主義的有効需要政策等も一時期有効に機能したにすぎない。

 

現代の経済は、技術的に見れば、むしろ第4 次産業革命に差し掛かっていること。IoT AI、ビッグデーター、等々の導入・普及が目指されなければならないが、それが労働者の失業や非正規化、格差の拡大、等々をもたらし、資本の剰余価値獲得と矛盾していること、資本の過剰(過剰生産、企業の内部留保の増大や投機的資金の増大、等)をもたらし、成長の停滞・行き詰まりをもたらしている。新自由主義(市場原理主義)は戦後の経済成長が限界に達した70 年代末ないし80 年代から始まったが(サチャーリズム、レーガノニズム、日本では中曽根行革、小泉政治、等々)、その大きな政策の一つは労働組合の弱体化→長時間労働、非正規化、格差の拡大、等である。 (2020.9 長野SY)

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