労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2021年06月

「ジョブ型」賛美の裏で真実隠す――濱口桂一郎批判

「ジョブ型」賛美の裏で真実隠す

――労働や賃金の概念ない濱口桂一郎

 

 高級官僚を経て現在、「労働政策研究・研修機構」所長で有らせられる濱口桂一郎氏が労働価値説を批判している。直接には、労働者党の機関紙『海つばめ』で論じたジョブ型雇用の限界と欺まんを暴露した論考に対するものである。

 

「異なる労働異なる賃金」が最上の原理と

 

 濱口は自身のブログで労働者党に対して次の様に断ずる。

  (http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-e5a6ab.html

ジョブ型を敵視する新左翼の方々は、(今やだれも信じていない遠い将来の夢まぼろしのポエムを看板に掲げつつ)現実に目前にある企業のヒト基準の賃金制度に対して、同一労働同一賃金すなわち異なる労働異なる賃金の原理を否定し、子供の養育費や教育費を、賃金として企業に支払わせるメンバーシップ型の断固たる擁護者として立ち現れることとなるわけです」

濱口が推奨し政府と経済界が採用しつつある労働「原理」は「異なる労働異なる賃金」である。この「原理」によって、異なる労働が正当に売買され、賃金が支払われる、従って、同一ジョブ(職種)における労働者の賃金は皆同じであり、年令や性による差別は無くなるかに請け負っている。

安倍政権が「日本から差別労働を追放する」と叫び、非正規労働に対する差別待遇を無くすかに宣伝した「同一労働同一賃金」は、同一労働時間に対する同一賃金ではなく、実際には「同一職種(職務)労働同一賃金」の採用であった。安倍の労働法制改革によって、濱口の「原理」が曲がりなりにも採用され、今後大企業の中でもジョブ型雇用が進みつつあり、将来は欧米と同様にさぞかしバラ色になることであろう。

この濱口の「原理」から出て来る賃金とは、労働者が資本に売った労働(商品)の対価、つまり労働に対する支払いのことである。資本と賃労働の関係について知らない人でも、彼の「原理」が賃労働の本質からではなく賃労働の表象を述べただけの無概念であることは、物事を科学的に思考する人なら直ぐにも分かることである。濱口のような「原理」の持ち主には、労働についての本源的な意味や資本主義で取る形態について説明しなければならない(めんどうなことだ)。

 

労働と労働力の区別を知らない濱口

 

労働とは、抽象的には自然に働きかけ、また自然から与えられる人間生存のための一過程である。労働は自然素材を自分や家族の生活のために、また共同体のために人間の肉体に備わる自然力、つまり腕や脚、頭(脳)や手を動かすことによって行われる。だから、労働は人間に備わっている諸能力の発現であり、何よりもこれら諸能力の生産的支出として現れる。

文化的水準の高まりとともに、また社会的分業の広がりとともに、無数の種類の労働が生まれ、それらの労働は質的に違った形態で支出されるようになる。それらに対応するために、人間労働力(労働能力)そのものは多少とも発達していなければならないとはいえ、人間労働力の生産的支出であることには変わりない。

人間は自然力を利用しまた応用し、生産手段(労働手段と労働対象)を作り、さらに生活手段を生み出す。人々は孤立して労働するのではなく、結合する労働によって生産手段や生活手段に労働を対象化させる。そして、これらの諸手段をつくるための労働は、つまり労働過程をくぐる労働は生産的労働となる。既に、この生産的労働は、家庭での家事や日曜大工という個人的な労働ではなく、これとは区別された社会的労働である。

もちろんこの生産的労働は歴史的に規定される。例えば資本主義では単に商品を作る労働でなく、利潤を生む労働として狭く規定される――他方のサービス労働は、生産的労働による収入によって賄われる労働である。

資本主義の出現とともに、資本(企業)のもとで雇用され働く大量の労働者が生まれ、この労働者は、生産手段から切り離されて裸一貫となり、資本に雇用される間だけ生活でき、雇用されなければ生活できない存在(階級)となる。

雇用とは、資本が労働者自体を買上げることでも、労働を丸ごと買うことでもない。資本が労働者を買上げて自由に労働を発揮させるなら奴隷売買を契機とし、労働を丸ごと買いその対価として賃金を支払うというなら、資本(個別資本として、総資本として)は1円たりとも利潤(剰余価値)を得ることができない。また労働が商品であるというなら、この商品の使用価値と価値を科学的に説明することはできないであろう。

従って雇用とは、資本が原材料などの一般商品の購入と同様に労働者の労働力を購入することである。反対に労働者は労働力を売り、一時的に労働力の処分権を売った相手に手放すのである。

製造会社が経理帳簿に「労務費」と記載するが、彼らはこのことを、製品を製造するときにかかってくる「総原価」のうち「製造原価」における「労働力の消費によって発生する原価」として把握している。製造会社の方が現実的であり、かつ濱口よりも科学的である。

 

賃金とは「労働の価値」ではない

 

 労働と労働力の違いを簡単に述べた。

他方、濱口は労働と労働力を区別しないし、できない。だから濱口は「賃金を労働の価値」だと考えるのであるが、こうした言動は今から150年以上も前から言われて来た、今でも流布されている無概念な「原理」である。

 かつて産業革命の時期に、既に労働組合が結成され、労働者達は賃金を要求する根拠として、「労働の価値」を掲げていた。労働者には、自分達が毎日売っているのは労働に見え、だから「労働の価値」というものが存在すると思い込み、「労働の価値」を最低限の賃金として要求できると考えていたのである(かのリカードさえそう考えていたのだから、現在のブルジョア学徒には真実は見えないのだろう)。

 この理屈では、18時間労働の価値は8時間労働の賃金=価格であると言うことになり、同義反復どころか、全くナンセンスな代物となる。150年も前の労働者が言うならまだしも、労働問題のプロである濱口がこうした無概念を並べるのでは情けない。

 実際、「労働の価値」は現象として見えるだけで、どこにも存在しないのである。労働者が売るのは労働ではなく、労働者の肉体のうちに備わっている労働力である。労働力は一般商品と同様に労働市場で売買される。労働力の商品所有者は労働力を資本に売り、その価値を賃金として受取る契約をして資本の労働過程に入る。既に労働力を如何に使うかは資本の権原であり、労働力商品の使用価値、つまり生きた労働は資本のものになった。この生きた労働こそ、労働力の価値(必要労働)を超える剰余価値(剰余労働)の源泉なのである。

労働力の価値は、この価値の再生産に必要な、つまり労働者の生活維持に必要な生活手段に対象化されている労働時間で規定されるのであるが、さらに労働力の価値は資本主義的生産の目的であり推進動機でもある剰余価値の生産によって制約される。そのため労働者は常に最低限の生かさず殺さずの生活と労働条件のもとに置かれるのである。

資本主義の初期には、資本は労働力を破壊するような12時間労働や15時間労働を強要し、さらに子供さえ無慈悲にも大量動員し、成人労働者の賃金低下を謀ったのである。労働者の団結と闘いが行われるようになって初めて、資本は労働力の再生産が可能となる労働時間と賃金を施すようになったに過ぎない。

当時、イギリスでは(他の欧州諸国も)マニュファクチュア時代からの親方・高級労働者たちの同職賃金の伝統があり、単純労働者は親方の数分の一の賃金であった(当初、親方から弟子・単純労働者の賃金が支給された)が、これらは前時代からの同職組合が生き残り、高級労働は単純労働の倍化された労働として賃金に反映されていたのである。

だが、資本主義の広範な発展は、急速に大量の単純労働者を生み出した。S・ラングによれば、19世紀半ばのイングランド(ウエールズを含む)では、人口1800万人のうち1100万人が単純労働者であった(『国民的困窮』)。従って現在の資本主義では、圧倒的多数の単純労働者によって食料品をはじめ自動車やスマホや設備機器などの商品が生産され、彼らの労働力の支出は、平均的人間労働、いわゆる抽象的人間労働として現実に実在している。

 

労働力の価値規定は「メンバーシップ」のみならず、ジョブ型雇用にも当てはまる

 

濱口は戦前の日本では、戦時体制のもとで日本型雇用が作られ、賃金は「生活給」であったと言う(『働く女子の運命』文春新書、他)。しかし当時の家庭では長期化する戦争によって極貧生活を強いられ、生きていく為に着物や反物などを米や芋などと交換して食つないで来たように、当時の賃金は濱口の言う「生活給」以下の飢餓賃金であった。しかも多くの人々が栄養失調や病気で死んでいったのではなかったのか。

戦後も引き続いて労働組合と企業とが年功序列型の「生活給」賃金を要望し、現代まで続いて来たと濱口は述べ、続いて、マルクス主義はこれらの「生活給」賃金を支持し、従って戦前の「皇国勤労観」のもとでの「生活給」という古い思想を唱えていると決めつけている。

濱口という〝高級国民〟は何といやらしいのか。賃金が労働力の価値として現れるのは、労働力を売る以外に生きていけない労働者の大群が片方の極に存在し、他方の極に労働力を買って価値増殖を行う階級が存在するからである。このことを濱口は敢えて隠しているのだ。マルクス主義をいくらか紐解いたらしいが、濱口の本には資本の本性を明らかにする文章は一つもないのだ。結論を先に言えば、濱口の客観的な役割は、日本の雇用形態(我々はこれを擁護したことは一度もない!)が現在の非正規労働や女性の差別賃金の根本原因であるかに装い、彼ら彼女らの怒りや闘いの方向を逸らすことにある。非正規労働や女性労働の多くはジョブ型雇用にあるのだから、そのままでいろと。

しかも「生活給」は子供の養育費や教育費をも賃金として企業に押し付けることになると、労働者党を非難している。育児や教育や医療や職業学校施設が公的に完備されていない現状では、労働者の負担分は賃金に反映されるのは当然なことである。そうでなければ、賃金は実質的に大幅な値下げとなり、労働者の生活は相当に苦しくなる。

さらに濱口は日本型雇用による「生活給」(年齢給)が公的施設の完備を遅らせた原因であり、その日本型を擁護する労働者党(そしてマルクス)はまるで福祉の社会化に反対する思想の持主かに歪曲する。労働者の賃金は労働力の価値であったが、このことと福祉の社会化は全く別のことである。福祉がおざなりであるのは、資本の国家の問題、ひいては資本主義の本性の問題に帰着する。

それとも濱口は、ジョブ型雇用が福祉の社会化を自動的に進めるとでも言うつもりか? だが、ジョブ型雇用を率先して採用してきたアメリカは公的医療保険さえ整備されない徹底した個人主義と自己責任と自助の国家、搾取自由の国家である。資本主義は私的所有を基礎に置く、だからアメリカはもちろん資本主義の国家では、人々の生活は自己責任とされるのだ。

資本主義の高度な発展とともに、多少とも〝余裕のある〟国家は労働者の要求を受け入れ、義務教育以外においても福祉の社会化を進めてきた。それは資本にとっても拡大再生産を進める上でプラスであると考えたからである。だが、国家による福祉の社会化は保育でも教育でも医療でも極めて中途半端であり、むしろ公的施設を後退させ、代わりに私的資本の参入を認め、私的資本に財政支援を行うまでに堕している。およそ福祉の社会化とは大きくかけ離れているのではないか、濱口よ。

従って、過去何度も主張したように、労働者は当面、福祉の全面的な社会化を要求し、女性の社会進出の条件を整備し、その上で年令や性や人種や職種(職務)による差別の無い同一労働時間による同一賃金を要求するのである。

「労働の価値」について濱口は語ったが、濱口の「原理」は理論的でも現実的でもなかった。もし、ジョブ型雇用おいて「労働の価値」が現実に通用するのであれば、資本の剰余価値から経営者の利得と次期再生産のための前貸し資本を除いた部分は全て賃金となり、労働者の賃金は今よりずっと高くなるはずである。しかし、ジョブ型雇用のアメリカ労働者の平均賃金と日本型雇用のそれとは相違がない。

間違った「原理」にしがみつく濱口には見えないのであるが、要するにジョブ型雇用のもとでも、労働者の賃金は労働力の価値によって規定されているのである(資本の利潤運動によって制約されるが)。

 

非正規労働も女性差別も資本の本性から発生

 

ジョブ型雇用でありながら、賃金と労働条件が最悪であるのは人材派遣(とりわけ登録型)であり、生産や流通の請負である。

人材派遣が欧米をはじめ世界で広がったのは、資本主義がかつて(1960年代~70年代)の様に拡大再生産が進み高利潤を獲得できなくなり、労働力の流動化を図ることによって資本の利潤率低下傾向に歯止めをかけようと策動してきたことによる。つまり総資本と彼らの政府は、人材派遣を合法化することによって、安価でいつでも解雇できる重宝な労働力を大量に生み出して来たのである。

こうした人材派遣などの非正規労働は今や総資本にとって必要不可欠な存在となり、資本主義のもとで将来これらが無くなるとか(竹中平蔵は正社員を自由に解雇可能にすれば非正規は無くなると言う)、非正規に対する賃金差別が解消することは考えられない。現にヨーロッパでも、非正規に対する賃金差別や女性の社会進出を抑制する力が根強く働いているのである。

人材派遣とは、いわば労働力を〝レンタル(賃貸し)〟することであり、レンタル料の中からピンハネして派遣労働者に賃金として支払う。派遣労働者は当然に派遣先で働く正規労働者よりはるかに低賃金を強いられ、登録型の場合は派遣会社による社会保険や労災の補償はなく、必要ならば自己負担で加入するしかない。

この場合、濱口の「原理」では「労働の価値」として派遣労働者に賃金を支払うことになり、次に派遣業者は労働者に備わった労働力でなくて労働力の発現である生きた労働をレンタルすることになるが、現実に存在しえない不可能事である。もはや濱口は人間自体をレンタルすると逃げ口上するしかないが、濱口の「原理」の破綻は明らかである。

請負の中でも個人請負がコロナ禍の影響もあり配送などの分野で広がってきている。しかし請負は自営業者として位置付けられるため、個人請負を行う人は労働者ではなく、労働災害の補償も受けられない奴隷以下の存在である。一時的な労働ではなく、比較的長期間をこれにて生活を支えなければならない人にとっては、まさに生き地獄である。この請負業もまた、資本主義が行き詰まり政府の無策もあって、労働者の就職先が減る中で増えてきたのである。

こうした派遣や個人請負の労働者に対する一切の生活と保障は政府と総資本が負うべきである。

ジョブ型雇用が喧伝され企業の対応にも日本型雇用からの切替が見られるが、ジョブ型雇用が大きな流れになるのかは明確でない。しかも、ジョブ型雇用の欧米などでは若者の高失業率や生活難への不満が高まる傾向にあり、日本では世論調査でも明らかなように、若者や女性の将来への不安が高まっている。要するに、ジョブ型や日本型の雇用形態は資本主義の歴史的発展の違いによって形成されてきたものであり、どっちが労働者にとって有利かをおしゃべりすることではない。

労働者にとって重要なことは、非正規雇用や女性差別や職種(職務)差別や実質賃金の長期低下や若者たちの将来の不安などの根源が資本主義的生産様式(賃労働と資本)そのものにあることを科学的に認識し、同時に現実のあらゆる差別や労働者に対する資本の攻撃と断固闘っていくことである。  (W)

難民を拒む一方、増大する使い捨て外国人労働者--「入管難民法改正案」は断念したが

労働者は国籍や肌の色、正規・非正規など一切の差別に反対し、共に仲間として搾取労働を廃絶する闘いに立ち上がろう!

 

難民を拒む一方、増大する使い捨て外国人労働者

 

入管難民法改正案」は断念したが

 

名古屋入管に“不法滞在者”として収容されていたスリランカ人のウィシュマさんが、病気にも関わらず満足な治療を受けることなく死亡した事件は、連日のように全国放送やローカルニュースでも取り上げられ、来日した姉妹が法務大臣に対して入管施設でのビデオの公開を求め抗議した。今国会に提出されていた「入管難民法改正案」は国連人権委員会からも内容について「国際基準」に反していると批判を受け、反対運動が盛り上がる中で起きたウィシュマさんの死亡事件で、菅政権は今国会での法案成立を断念した。

 

 日本の難民認定は19年の申請者のわずか0・4 %と欧米に比べて圧倒的に低い。自国での政治的迫害や弾圧、内戦から逃れてきた人々のうち少なからぬ人々が日本に難民として入国し難民認定を申請した人数は、19年に1万375人いたが、難民として認定され日本に滞在することが認められた数は44人でしかない。

 

日本政府は、難民を認めると犯罪者やトロリストが紛れ込んでくる、難民は受け入れている、と言うが、難民として認定する条件が余りにも厳しく難民を受け入れないための方便でしかない。

 

つい最近、「在留期間が満了となった後、在留を希望するミャンマー人に対し(この中には日本国内でミャンマーの民主派を支援する人もいる)、法相が個別に活動を指定する在留資格の『特定活動』を付与し、6か月間の在留と在留期間中の就労を認める。ミャンマーの国内情勢が改善しない場合は在留資格の更新を可能とする」という方針を発表したが、軍のクーデターという非常事態の国に送還することはいくらなんでも出来ないからであるが、「国内情勢が改善すれば」その限りではないと謳われている。

 

 日本政府が難民の認定をかたくなに拒み、難民申請3回目以降で強制送還を可能とする入管難民法改正案を成立させようとしたのは、難民に対する狭い後れた民族主義的な反発(日本は単一民族だ、財政的負担が増す、など)とともに、国家権力が支配秩序を維持する上で多くの難民を受け入れることが治安維持にとってマイナスと考えるからである。

 

 日本政府が国際的な人権問題=中東の内戦による難民や東欧、ロシア国内の人権抑圧、そして中国のウイグル人の〝民族浄化〟に対して真面目に向き合おうとしないのは、戦前戦中の韓国に対する従軍慰安婦(若い女性の性奴隷)や朝鮮人労働者の強制徴用問題、中国に対する侵略と植民地支配に対して、日本の支配階級は真摯な反省と謝罪をすることなく言いつくろい、数百万の日本国民と数千万人のアジアの人々に犠牲を強いた侵略戦争を「正義の戦争」「祖国防衛戦争」と開き直る「歴史修正主義」の立場が自民党政権(安倍政権はその筆頭)の主流になってきたからである。

 

 難民を受け入れない国家主義的、民族主義的政治が事実上破綻しているのは、19年に成立した改正出入国管理法によって在留資格5年の特定技能職35万人受け入れを決定し、人手不足に悩む企業の要求に応じたことに見られる。これは移民労働者の受け入れ拡大にほかならない。

労働者数 

既に日本には技能実習生や日系外国人などの外国人労働者が172万人も就労している。彼らの中にはコロナ禍の中で、失業し金銭的に追い詰められ犯罪に手を染める人や、帰りたくても帰れない技能実習生がおり、愛知県内の寺で共同生活している実態が報道されていた。

自民党政権は、企業の求めに応じて派遣労働を86年に専門的職業に限って認可したが、その後派遣労働の業種職種を広げ今ではほとんど全ての業種職種で派遣労働者を企業が雇い入れることが可能となっている。

 

派遣労働は企業にとって、自動車生産ラインにおけるジャストインタイム(必要な時に必要な量を供給補充することによって、生産効率を高めて無駄を排除し利潤の増大を目的とする方式)と全く同じである、必要な労働者を必要な時に必要な人数、雇い入れ(できるだけ低賃金で)、必要なくなれば解雇できるという企業にとって天国のような制度が日本を覆い尽くしている。

 

企業にとっての天国は労働者にとっては地獄で、2000万人を越える労働者が年収200万円台の低賃金での生活を強いられている。日本の労働者の賃金は欧米各国やお隣の韓国も下回っている。

 

強欲な資本は、日本の労働者を搾取するだけでは飽き足らず、さらに低賃金な労働力を外国から求め、技能実習生制度を作り上げ、様々な在留資格によって外国人労働者が就労している。

 

愛知県の外国人技能実習生は3万8283人(2019年6月末現在)で、全国1位。県内に在留する外国人数は27万2855人(同前)で、全国2位となっている。

 

自民党政権は、難民の受け入れは頑なに拒みながら、資本の要求に応じて労働力の受け入れを拡大してきた。技能実習生として日本で〝技能〟を習得する目的でブローカーに多額の斡旋料を支払い借金を背負って日本に来ても、劣悪な労働条件である。

 

少し前には岐阜に技能実習制度で就労した会社の残業代の時給が300円という信じられない低賃金を悪びれることなく支払う悪徳中小企業やパスポートを取り上げ、パワハラ、セクハラが横行する実態が幾度となく暴露されてきた。

 

とりわけコロナ感染拡大が深刻化する中で倒産や実習生の解雇、賃金未払いが急増している。技能実習制度を法的制度として日本政府が成立させながら実際の運用は「監理団体」(非営利が建前)が行い(天下り先であり、利権の温床にほかならない)、技能実習生受け入れの96・6%が監理団体経由で、利用している企業の半数が19人以下の中小零細企業である。

 

このことからも明らかなように、求人募集をしても人が集まらない会社(給料が安かったり、仕事がキツかったり)が、手っ取り早く働き手を確保する手段として、技能実習制度を利用しているのが実際のところである。

 

 その中小零細企業は自民党の支持基盤であり、低賃金と劣悪な労働条件で労働者を過酷に搾取することによって経営を維持している。前近代的な労務管理や後れた設備による低い生産力は低賃金労働を生み出す温床である。

 

 労働者は外国人労働者であろうが日本人労働者であろうが、技能実習生や非正規労働者を、一切区別することなく資本に搾取され収奪されている存在に変わりはない。共に仲間として認め合い連帯して搾取に立ち向かわなければならない。(愛知 古川)

 

(愛知支部6月ビラより。一部修正)

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