労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2021年07月

我が党の国政選挙不参加についての「お知らせ」

 お知らせ

 

 我が党は、秋までに予定されている衆院選とその後の参院選について、「国政選挙(衆院選及び参院選)を闘える力が着くまでは撤収する」ことをお知らせします。すでに昨年4月の時点で、組織内では確認していながら、お知らせが遅くなり申し訳ありません。

 

 19参院選後の大会において、「捲土重来」のスローガンのもと、いくつかの決定的な党改革をやりぬくことを決定し、「2年後の大会で、1年後の22参院選を闘うのか闘わないのかを最終定に決定する」ことにしていました。しかし、党改革の課題解決が容易でなく困難である状況について党内の意見を集約して判断し、昨年4月の時点で、「国政選挙(衆院選及び参院選)が闘える力が着くまでは撤収する」と結論しました。

 

国政選挙への不参加問題は、大会で正式に決定してからの公表を予定していましたが、コロナがあり20年は大会が開けず、また、林党代表の死去ということもあって、党外への周知はのびのびになってしまいました。今年発行した19選挙を総括した『種は蒔かれた』の本において、「国政へのリベンジ決議」掲載にあたっては、ことわりを入れるべきだったと反省しています。

 

我が党へのご支援・ご協力をしていただいている皆さんの「国政選挙勝利」の期待にすぐには応えられないことは残念ですが、労働者の代表を国会に送り出す意義を確認しつつ、労働の解放を目指して闘いを前進させていく所存です。よろしくお願いいたします。

 
2021年7月18日    労働の解放をめざす労働者党 代表委員会

 

追記:『種は蒔かれた』校正 123頁《資料1》の下から3段目の新居浜市議選の供託金20万円は返還されましたので、「20」の数字の後に「(返還)」を挿入してください。

《横浜労働者くらぶ》の会報の紹介

神奈川で学習会活動を取り組む《横浜労働者くらぶ》の会報を紹介します。

神奈川6-1

神奈川6-2

神奈川6-3

神奈川6-4

<中国共産党100年・習近平演説>を論ず

『海つばめ』1406号で、<中国共産党100年・習近平演説>の論評を掲載しましたが、紙面の都合で「日本共産党〝批判〟」の部分を省略しました。ここに追加し、掲載します。

 

 

<中国共産党100年・習近平演説>

帝国主義大国としての中国を誇示

――だが、「隠すより露わるるはなし」

 

 71日、習近平は天安門広場を埋め尽くした7万人超の動員者を前に大演説をぶった。我々は、その演説内容を分析することによって中国の現段階とその矛盾を解明しなければならない。

 

◇人民服を着て登場

 

 習近平は背広姿の他の幹部たちを尻目に唯一人、人民服を着て登場した。自らを毛沢東になぞらえ、毛沢東の後継者であることを印象づける演出である。だが、こんな見えすいた演出で権威を高めようとすること自体が習近平の立場の危うさを象徴している。

 

 他にどんなことがあったとしても、習近平は、自らの本性を毛沢東になぞらえることはできない。何故なら、我々が50年近く前に明らかにしたように、毛沢東は資本主義的発展が遅れた中国において農民に依拠して一気に共産主義社会に移行できるかに主張し実践した(それ故に破綻した)農民的〝共産主義〟――そこでは「平等」が本質的な構成要素だった――の体現者であったのに対し(『科学的共産主義研究』31号参照)、習近平は国家資本主義、それも帝国主義化したブルジョア的体制の代表だからである。

 

 習近平は、演説の冒頭、中国は「小康社会」(大衆の生活がややゆとりある社会)を達成し、「社会主義現代化強国の全面的な実現」という次の(建国100年への)目標に向かって進んでいると宣言した(演説全文は、日本経済新聞デジタル版710日付参照)。

 

◇経済発展と強国化を誇示

 

 さらに、新中国と党の歴史を振り返り、現段階を次のように規定した――「揺るぎなく改革開放を推進し、各方面からのリスクや挑戦に打ち勝ち、中国の特色ある社会主義を創り、堅持し、守り、発展させ、高度に集中した計画経済体制から活力に満ちた社会主義市場経済体制への歴史的転換を実現した」。

 

 ここには、中国が1978年末、鄧小平の提唱により改革開放路線に転じ、外国資本の導入や民営企業の設立など〝自由化〟――国家資本主義の枠内での――に踏み切ったことが経済発展をもたらした歴史的現実が反映されている。

 

 習近平が決して語らないのは、メダルの裏側、即ち農村出身の何億人もの「農民工」を劣悪な環境で徹底的に搾取し教育や医療・福祉の機会を奪い排除してきた露骨な差別と圧迫の体制、都市と農村、都市住民と農民間の貧富の格差の絶望的な拡大、地方政府が農民の土地を奪い取り、私腹を肥やし農民の抗議行動を弾圧してきた事実、少数民族に対する容赦ない抑圧・弾圧・搾取(新疆ウイグル地区に象徴される)等々である。

 

 労働者、農民に対する激烈な搾取と抑圧こそが中国の経済発展を可能にしたというこの現実を習近平は決して認めることができないのである。

 

 習近平はなんとしてでもこの〝断絶〟を、階級分裂と対立を覆い隠さなければならない。如何にしてか。

 

◇「中華民族の偉大な復興」を鼓吹

 

 習近平の演説に頻出するのは「中華民族の偉大な復興」というスローガンで、主要な段落は、このフレーズで始まり、あるいは締めくくられる――ざっと数えて20回。

 

 冒頭の呼びかけ部分は、これから「中華民族の偉大な復興の明るい未来を展望する」で締めくくられ、1840年のアヘン戦争以来の中国の歴史を振り返る段落では、「それ以来、中華民族の偉大な復興を実現することは、中国人民と中華民族の最も偉大な夢となった」で終わる。

 

 さらに「この100年来、中国共産党が人民を束ね率いて行った全ての奮闘、全ての犠牲、全ての創造はひとつのテーマに集結する。それは中華民族の偉大な復興を実現するということだ」。

 

 他にも「中華民族の偉大な栄光」、「中華民族は世界における偉大な民族」なども頻出する。

 

 その延長上に「我々をいじめ、服従させ、奴隷にしようとする外国勢力を中国人民は決して許さない。妄想した者は14億の中国人民が血と肉で築いた鋼の長城にぶつかり血を流すことになる」という〝刺激的な〟恫喝が来る。

 

 つまりは、愛国主義、民族主義を鼓吹し、そうすることによって体制の矛盾を隠蔽し、人々の目をそらし、権力を――共産党の特権と権益を――維持しようというのだ。その悪しき意図を補強するために「マルクス主義」や「社会主義」が所々にちりばめられるといった具合である。

 

◇「人民」連発の意味

 

 習近平演説のもう一つのキーワードは「人民」である。中国研究者の興梠一郎氏(神田外語大学教授)は、「人民」は今回の演説で約80回登場と指摘している(日経ビジネス電子版、75日)。

 愛国主義、民族主義の鼓吹は〝諸刃の剣〟である。共産党が経済成長を維持できず、国民の生活を向上させることができなければ、あるいは他国との帝国主義的対立で後れを取れば、共産党は国民の利益に反し、〝国賊〟に転じるのだ。また、愛国主義が暴走し不買運動や打ち壊しとなって爆発して共産党政権を窮地に追い込むだろう(これまでも何度かあったように)。習近平が「人民」を〝乱発〟したのは、共産党と「人民」の乖離、敵対を覆い隠すためである。

 

 習近平の前任者(胡錦濤)時代には、しばしば中国全土で農民の抗議行動があったことが報じられていたが、習近平はこうした行動を徹底した弾圧によって封じ込めてきた。そのために、「人民」の不満の声や叫びが中央に届かず、逆に習近平は絶えず人民の不満や怒りを気にせざるをえない。

 〝臭いものに蓋〟をすれば、表面は平穏のように見えても、蓋の下では諸々の要素が渦巻き、絡まり合い、発酵し、爆発するだろう。習近平が「人民」を恐れる理由は有り余るほどあるのだ。

 

 習近平が中国共産党は、「自らのいかなる特殊な利益もなく、いかなる利害集団、いかなる利権団体、いかなる特権階級の利益も代表しない」と言ったのは、逆に「人民」が共産党を「特権階級」と見なしていると感じていること、民心が共産党を離れつつあることを意識せざるをえないからであろう。

 

 我々は、中国の体制とその内的矛盾の深化に細心の注意を払い、中国の労働者階級との連帯の道を模索していかなければならない。

 

日本共産党の〝批判〟

 

 最後に、日本共産党の立場に一言。志位委員長は、記者団の質問に次のように答えた――「中国による東シナ海や南シナ海での覇権主義的行動、香港やウィグルでの人権侵害は、社会主義とは無縁であり、共産党の名に値しない。国際社会が中国に対し『国際法を守れ』と求めていくことが大切だ」(「赤旗」電子版、7月2日)。

 

 「社会主義とは無縁」で「共産党の名に値しない」――もっともらしい〝批判〟だ。しかし、つい最近まで、中国を「社会主義をめざす」国と評価し、持ち上げてきたのはどこの誰だったのか、「社会主義」国でないとすれば、いかなる体制の国なのか――共産党は決して語らない、語ることができない。

 

 「共産党の名に値しない」というが、日本共産党も「社会主義市場経済」という中国共産党と同じスローガンを掲げているのではないのか。中国共産党が「共産党の名に値しない」というなら、日本共産党も同様ではないのか。「語るに落ちた」とはこのことである。       (鈴木)

これこそ正に「表現の不自由展」――会場使用許可取り消し

エル大阪で行われる予定だった「表現の不自由展」の会場使用許可が取り消されたことについて、「よく考え、行動していこう」という呼びかけがありましたので紹介します。

 

 

これこそ正に「表現の不自由展」

――「表現の不自由展」の会場使用許可取り消し

 

 

問題は、エル大阪で行われる予定だった「表現の不自由展」の会場使用許可が取り消されたことである。吉村府知事は「取り消しに賛成だ」と述べている。名古屋でも同様の事例が起きていたし、東京でも開催が延期に追い込まれている。

 

何とも胸の痛くなる事案で、今の日本社会の存在を如実に実感させられ、何をどうすればいいのかが問われている。

 

問題になっているのは「天皇に対する冒瀆」や「従軍慰安婦」などである。さらには「原発事故」も話題に上っているが、天皇の戦争責任などを考えるなら、いずれも先の戦争に日本が参戦し、敗北したことと関連し、更には、電力資本の不備によって、多くの人が移住せざるを得なくされたことと関連している。

 

それにしても、かつてなら、こうした問題はそれほど深刻化しただろうか。確かに、長崎の市長が「天皇には戦争責任がある」と発言し、右翼が襲った事例がある。しかし、他方では、河野談話や、村山総理の振る舞いなど、むしろ「過去の誤りを認める」という姿勢があった。天皇自ら、自己反省していた位であった。

 

考えられる客観的な問題は、今、現在の日本社会が陥っている深刻な資本主義の矛盾である。コロナ禍をキッカケにして広がっている格差拡大、そこに見られる労資の対立が深刻化しているのである。実際に展示に反対している人の意見を聞くと、展示の内容は「日本人」として許せないと云った声がある。それ程、何かに縋(スガ)りつきたい気分を醸成する程、階級対立は深刻化していると言わざるを得ない。

 

自らが生まれ育った「日本」に愛着を抱き、それを傷つけるかの展示物に反発心を抱くのは自然な感情ではあるが、しかし冷静に考えるべきは、その人は日本の何に愛着を抱いているのか?である。一から十まですべてにわたって、日本を無批判に肯定しているのか、という問題がある。

 

例えば、山口県生まれで22歳まで山口育ちの者にとって、吉田松陰は我が誇りであり、それを傷つけるかの言動には「腹が立つ」とは、よく言われる話である。しかし、いくら松下村塾が明治維新の立役者であったとしても、明治維新は(依然として、封建的な土地所有を伴った)ブルジョア革命以上ではなく、社会主義革命ではなかった。したがって、現在から見れば、あれこれと「難癖」を付ける人がおり、それが気になるとしても、それはそれと認めざるを得ない。

 

もし、その難癖にいたたまれないとするなら、歴史を前向きに考え、未来社会を変革していく必要があるのではないか。そして国際紛争が、戦争に発展する事態や、儲けだけの為に電力炉利用する資本の支配を克服していくことが必要である。

 

今の日本は、未だ、ブルジョア社会を克服できてはいない。戦前も、戦後も、資本の支配の下で歴史を歩んできたのであって、それに伴ういろいろな矛盾は避けられなかったのである。問題は戦争責任だけに止まらないで、公害・バブル経済など、挙げればきりがない。そうした問題は問題として、見つめ考えて行くことが必要である。

 

確かに「嫌なものは見たくない」と言う気持ちはある。しかし、コロナ禍の経験は、そんな子供っぽいことに対する反省を、逆に教えてくれたのではないか。同じ日本人だとしても、その日本が抱える問題は問題として認めた上で、冷静に考えるべきではないのか。

 

税金の使い道についても批判は出ているが、公金を担う政治にあれこれ意見するのは大賛成だ。しかし政治は一筋縄ではいかないのであって、意見の相違はつきものである。違った人の意見は聞かないと言うのでは、独裁に陥ってしまうのではないか。

 

それとも今の日本社会は、独裁体制を引かざるを得ないほど、深刻な危機に直面していることを、この事案は示しているのだろうか。いずれにせよ、今回の事案こそ、表現の不自由展を、身を以て体現する、日本の歴史的事案と言えないか。

 

十分観察し、よく考え、行動していこう。 (大阪 Sg)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
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