労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2021年11月

「パリ・コミューン」とは何であったか?

今年はパリ・コミューンの150周年に当たります。神奈川の横浜労働者くらぶ発行「労働者くらぶ第11号」の、「パリ・コミューンとは何であったか?」の論文を紹介します。

 

「パリ・コミューン」とは何であったか?

パリ・コミューンは史上初の労働者政府であった

 

マルクスは述べている、「コミューンの本当の秘密は、こうであった。それは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態であった」(『フランスの内乱』岩波文庫p101)。確かにパリ・コミューンは、「労働者階級の政府」であった。

 

それは、コミューン政府の選出された64名の議員の構成を見てみればわかる(20余名のブルジョア派は脱退した)。そのうち26名が労働者、30人以上が勤労者であり、その他は小企業主や知識人(教師、医師、ジャーナリスト、弁護士)であったが、これらの小ブルジョアも労働者に同情的であった。

 

しかしこの26名の労働者を近代的大工業のプロレタリアートと考えてはならない。第二帝政下の60年代半ばに産業革命を達成したとはいえ、この工業化は多くの小工業や家内工業を取り残したまま行われ、労働者の多くは植字工、彫金工、裁縫師といった伝統的な手工業労働者であり、大工業の労働者は全体の一割にも満たなかった。

 

とはいえ彼らの少なからずが、20年前の二月革命や6月蜂起を経験し、フランス革命以来の革命的伝統を共有している独立自尊の労働者であった。こうした労働者を中心としたコミューン政府は、マルクスの言うように労働者階級、生産者階級の政府であった。

 

パリ・コミューンを構成している党派

 

「コミューン」のイメージはさまざまだ。領主から自由を闘い取った中世の「自由都市としてのコミューン」、フランス革命時の「革命的コミューン」、ブランキ派の「革命的独裁コミューン」、それとは反対のプルードン的あるいはバクーニン的な「反権威主義的コンミューン」等々。

 

しかし何といってもフランス革命における祖国防衛戦争の勝利の記憶がコミューンのイメージの底流となっている。国防政府の防衛に消極的な姿勢に憤激したパリの市民が、自らの手で防衛に立ち上がってできたのが、パリ・コミューンであった。

 

当初はパリの防衛という一点で一致していたのである。

 

3月26日に行われたコミューン選挙の議員の構成を見てみよう。まずインターナショナル派と思われる人物は64人のうち17人、それに近い社会主義者が17人、その他はブランキ主義者9人、フランス革命や二月革命の流れをくむジャコバン派が4人、それ以外の独立革命家が17人である。

 

この区分けはまったく大まかなものであって、各党派はお互いに影響され入り混じっている。しかも党派としては成立していないが、プルードンの相互主義と連合主義の影響は、コミューン委員に広く影響していた。

 

インター派は、マルクスが第一インターナショナルの創立宣言を書いたとはいえ、マルクス派によって固められていたわけではない。そもそも第一インターそのものが、国際的な労働者の闘いと団結の発展のために創設されたもので、緩やかな連帯を目指したものであった。

 

したがってその会員には、さまざまな思想や行動の者が混在していた。また『資本論』(ドイツ語版)の出版も1867年であり、そのフランス語版は、パリ・コミューン後の1872年に出ている。そういうわけでインター派の多くがプルードンやブランキの影響を受けていたのである。マルクスと文通があったと言われるフランケルやヴァイヤンにしてもマルクス“主義者”とは言えない。

 

パリ・コミューンの成立

 

パリ・コミューンの出発点は、1870年9月4日の第二帝政の廃止と共和制宣言である。しかしブルジョア的議会共和派から成る臨時国防政府は、口先だけの防衛声明を出すだけで、裏では降伏を決めていた。ただ彼らは民衆の蜂起を恐れていた。

 

当初パリの民衆は、祖国防衛という愛国的熱情のみに駆られて、国防政府を信頼したが、政府の裏切りが明らかになるにつれて、社会変革を目指してコミューンの樹立を求めるようになった。その最初の民衆蜂起がブランキ派の主導によって起こされた1031日の事件であったが、これはブルジョア的な国民軍によって鎮圧された。その後プロイセン軍のパリ包囲網が縮まり、パリ民衆の生活はますます困難なものとなる。

 

年が明けて1月5日からはプロイセン軍のパリ砲撃が始まったが、国防政府の形だけの出撃は敵によって撃破された。28日にボルドーの国民議会で成立したティエール政府は、徹底的なパリ制圧に踏み切り、まず国民軍の給料支払い停止を手始めに、手形や家賃の支払い延期措置の停止など、パリ民衆の生活を徹底的に締め上げたのである。

 

ここに至ってパリ民衆の怒りは頂点に達するが、ティエールのパリ武装解除をきっかけに、318日の大砲事件が起こった。蜂起した民衆は鎮圧に来た正規軍をも交歓に巻き込み、一夜のうちに主要な政府機関を国民軍が占拠したのである。ティエール政府はヴェルサイユに逃亡した。326日にはコミューン議員の選挙が行われ、28日にコミューンの成立が宣言されたのである。

 

コミューンの事業

 

選挙されたコミューン政府は、執行委員会をはじめ10の委員会(財務、軍事、司法、食糧、公共業務、労働・工業・交換、教育、保安、外交)から成り、各委員会は数人の委員による集団指導体制を取った。

 

コミューンは、立法府であると同時に行政府の機能を併せ持った機関、マルクスが言うように「議会風の機関ではなく、同時に執行し立法する行動的機関」であった。すべての官吏には徹底的なリコール制(いつでも解任でき、直接人民に責任を負う代表制)が実施され、その俸給は労働者の通常の賃金を超えないことに定められた。

 

また常備軍(正規軍)が廃止されコミューンの国民軍が、市の治安と防衛に当たった。表現・結社・集会の自由などの基本的人権は(反革命勢力の取り締まりに支障をきたすほど)十分に保障された。

 

労働委員会には、インター派の革命的社会主義者が集まっており、労働者の生活改善のための社会政策や労働の解放をめざす社会主義的な政策が実施された。ティエールによって撤回された家賃や手形の延期措置はただちに復活され、家を失った市民には空き家が提供された。

 

また経営者が逃亡したあとの工場は、労働者の協同組合の手によって自主管理された。労働者に対する罰金制や賃金カットは禁止され、長時間労働に苦しむパン焼き労働者の夜勤も禁止された。

 

印刷所などの国営企業でも労働者の生産管理が実施された。食糧供給委員会は、ティエール政府の飢餓戦術にもかかわらずパンと肉の補給に成功し、また貧困者の救済は、政府の義務とされた。

 

大きな実績を上げたのは、インター派の議員を中心とする教育委員会である。ここでは宗教と国家の分離の原則に基づいて教育の世俗化が推進され、完全な無料義務教育の原則と並んで、職業教育所の必要が提起された。また芸術活動については、芸術を政府の監督から解放し、芸術の自由な発展を目指すことや芸術家の自主的活動の尊重が謳われた。

 

パリ・コミューンの問題点

 

①ヴェルサイユへの進撃問題

 

先に述べたように、3月18日にティエール政府は、パリの武装解除に失敗し、パリは武装蜂起をした。政府軍と政府機関は、混乱の中であたふたとヴェルサイユへと逃亡したが、その時、なぜコミューン側は、直ちに追撃に向かわなかったのか? 政府側は逃亡の中で混乱の極にあり、また兵力もコミューン側に比べてはるかに劣り四分五裂状態にあった。

 

それに反してコミューン側は士気も高く、もし国民軍中央委がその兵力の半分と数門の大砲をもって追撃すれば、容易に政府軍を壊滅に導くことができたはずであった。中央委の少数派であるブランキ派は追撃を主張したのだが、プルードンの連合主義の影響を受けている多数派によって退けられた。

 

多数派の念頭には、革命をパリだけの、コミューンの樹立だけがあった。彼らには国家権力について明確なイメージがなかったのである。

 

②コミューンの内部対立

 

ヴェルサイユへの進撃にも現れたが、さまざまな党派の寄り合い世帯であるコミューンでは、ことあるごとに党派間の対立が表面化した。コミューン成立時からコミューン軍事委員会と国民軍中央委員会とは軍事的指導権を争ったが、これは後々まで尾を引いた。また戦局が厳しくなってからは、急浮上した公安委員会の設置を巡って、コミューンは分裂した。

 

これらの対立の底流にあるのは、コミューンを中央集権的政府にしようとするブランキ派やジャコバン派の多数派と、分権的なコミューンをめざすインター派を中心とする少数派との対立である。その上に複雑なのは、ブランキ派内部でも過激派とインター派に与する穏健派があり、またインター派内でもブランキ派に共感する者もあった。

 

特に5月に入ってからの公安委員会の設置を巡っては、少数派のインター派は、公安委を過去の遺物と批判し、プルードン派の人民主権と直接民主主義の立場からその設置に反対した。少数派は「少数派宣言」を発表し、ボイコット戦術に出たが、それは一層多数派の独走を許す結果になった。

 

こうした事態にインター派の連合組織や多くの民主クラブから批判が寄せられたのは当然である。ヴェルサイユ軍の猛攻の中に合ってコミューンは分裂している時ではなく、一丸となって防衛に当たらなければならなかったのである。

 

③フランス銀行の接収問題

 

コミューン政府の大きな失策の一つとしてフランス銀行の接収をしなかったことがある。その任務を担ったのは財務委員会であったが、その代表はプルードン主義の合法主義者で、接収は、貨幣流通や信用を破壊し物価騰貴を招くとして、接収に応じなかったのである。

 

エンゲルスは、フランス銀行がコミューンのものになれば、1万人の敵捕虜の値打ちがあり、フランスブルジョアジー全体がヴェルサイユ政府にコミューンとの和解を勧告しただろうと述べている(『内乱』三版への序文、岩波文庫p166)。

 

コミューン政府は、フランス銀行から、4回に分けて、わずか2000万フランを引き出したに過ぎないが、フランス銀行は、ヴェルサイユ側にコミューン攻撃の資金に2億6千万フランを融資しているのである。

 

パリ・コミューンの本質

 

パリ・コミューンの評価や分析にはいろいろある。ティエールやその仲間のブルジョアどもにとっては、コミューンは火付け、強盗のブルジョア秩序を破壊する暴動に過ぎない。こうしたブルジョアたちの評価は論外としても、コミューンを愛国主義から出た祖国防衛の闘いとみるもの、あるいはフランス革命以来の民衆運動の延長線上にしかコミューンをみないもの、またバクーニンに現れたような一切の国家権力を否定する無政府的な解釈も行われている。

 

フランスの人民は、1789年のフランス革命以来、1830年の7月革命、1848年の2月革命を経験してきたが、ブルジョアジーの背後には必ずプロレタリアートの闘争があった。プロレタリアートは、自らの要求がブルジョアジーと違ったものであることを、プロレタリアート自身の成長発展とともに自覚するようになったが、それが明確な形をとったのが、二月革命であった。

 

しかし当時の労働者が目指した「社会」共和国は、まだ労働者自身にとっても、ぼんやりしたものであって、結局、ルイ・ブランの国営作業所などによって誤魔化され、革命の成果はブルジョアジーに簒奪されたのである。

 

1871年のパリ・コミューンは、労働者が搾取の廃止と労働の解放を自覚的に掲げた最初の労働者革命であった。労働者は、パリ・コミューンを、愛国主義の祖国防衛とも、無政府的な国家破壊とも解釈しない。労働者は、歴史を階級闘争と見る立場から、大革命以来の革命を労働者の解放、階級の廃絶の社会主義的な観点から評価する。

 

次に国民軍中央委員会の宣言(ヴェルサイユへの総攻撃が敗北に終わった直後の)の一部を引用する。

 

「労働者諸君、決してそれを間違わないように――それは偉大な闘争である、寄生と労働とが、搾取と生産とが、格闘しつつあるのだ。もし諸君にして、無知のうちに日を送り貧困のうちに月を暮らすことが嫌になったなら、もし諸君の子供たちが自分の労働の利益を受ける人間となることを欲するならば、もし諸君の子供たちが工場ないし戦闘向きに一種の動物となって、その汗で搾取者の財産を増やしたり、専制君主のためにその血を流したりしなくなることを欲するならば、……これを要するに、もし諸君にして、正義の支配を欲するならば、労働者諸君よ、聡明であれ、奮起せよ! そうすれば諸君の強い手は、汚らわしい反動を、諸君の踵の下にうち倒してしまうであろう。」(岩波文庫p268

 

ここにあるのは労働の解放、社会主義に向けた宣言である。コミューンはこうした方針に基づいて先に挙げた事業を次々に布告し行ったのである。エンゲルスはこのコミューンの事業を次のように評している。

 

「この従来のあらゆる国家において不可避的であった社会の下僕から社会の主人への、国家及び国家機関の転化に対して、コミューンは、2つの誤りのない手段を差し向けた。第一に、それは行政上・教育上のあらゆる地位を、関係者の一般投票による――しかも同じ関係者の随時的召喚権に基づく選挙によって、任命した。そして第二に、それは、その高いと低いとを問わず、あらゆる勤務に対して、ただ他の労働者が受け取る賃金のみを支払ったのである。……この、従来の国家権力の破壊と、新しい真に民主的なものによるそれの代替とは、『内乱』第3章の中に逐一叙述されている。……ドイツの俗物は、近頃またまたプロレタリアートの独裁という言葉についてためになる恐怖のうちにある。さて、諸君よ、この独裁がいかなるものであるかを知りたいのであるか? パリ・コミューンを見よ。それこそは、プロレタリアートの独裁だったのだ。」(「序文」上掲p171

 

マルクスは、コミューンが「労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であった」ことを次のように説明している。

 

「この最後の条件(労働の経済的解放)の下でなければ、コミューン憲法は一個の不可能事であり、一個の欺瞞であっただろう。生産者の政治的支配は、生産者の社会的隷属の永続と併存しえない。コミューンは、だから階級の存在が、したがって階級支配が、よって立つその経済的基礎を根こそぎにするための槓桿として役立つべきであった。一度び労働が解放されれば、各人は労働者となり、そして生産的労働は階級的属性であることを止めるのである。」(前掲p102) 「コミューンは――と、彼ら(現社会の代弁者ども)は叫ぶ――あらゆる文明の基礎である所有権を廃止しようとするのだ! しかり、諸君よ、コミューンは、多数者の労働を少数者の富とするところの階級的所有権を廃止しようとしたのである。それは、収奪者の収奪を目指したのである。それは、いまでは主として労働を奴隷化しこれを搾取する手段となっているところの生産手段、すなわち土地と資本とを、単なる自由で且つ(かつ)協力的な労働の用具に転化することに依って、個人的所有を一個の真実とすることを欲したのである。」(前掲p102

 

コミューン政府の崩壊

 

1848年の二月革命において漠然とイメージされていた「社会」共和国は、パリ・コミューンにおいて明確なイメージとなって実施された。祖国防衛の愛国主義から出発したコミューンの運動は、ヴェルサイユ政府とプロイセン同盟軍との闘いのなかで労働の解放を目指す社会革命へと転化したのである。

 

もちろんコミューンのこの社会主義的変革は、その緒に就いただけだ。しかしマルクスはその萌芽の中から社会主義的変革の本質を見抜いたのである。コミューン政府の目指す改革は、わずか72日間という短い生命の中で、その基礎をつくったままで潰え去ったが、しかしそのことは、コミューンが史上初めて実現された労働者権力、社会主義政府であったことは明らかである。

 

コミューン政府の72日間は、ヴェルサイユ政府軍とプロシャ軍の同盟軍との死闘であった。 マルクスは次のように述べている。

 

「(ティエールの「私は無慈悲であるであろう!」という言葉を受けて)(まったく)その通りであった。ブルジョア的秩序の文明と正義とは、その秩序の奴隷と苦役者とが彼らの主人たちに対して反逆するときは、いつもその凄惨な光のうちに姿を現すものである。所有者と生産者との間における階級闘争の新しい危機は、それぞれ、この事実をよりはっきりと表している。1848年6月におけるブルジョアどもの残虐行為でさえ、1871年の言語道断な破廉恥行為の前には三舎を避ける(おじけづく)。」(前掲p130

 

ヴェルサイユ軍は、約3万人のパリ市民が野獣化した暴兵に殺され、約4万5千人が逮捕され、そのうち多くが後に処刑され、数千人が懲役や流刑に送られたのである。エンゲルスの言う「プロレタリアートの独裁」は、この70日余りの反革命との死闘を現している。コミューンは、労働者権力が目指す階級の廃絶や社会主義の建設に着手する以前に、ブルジョアジーの圧倒的な軍事力の前に崩壊してしまった。

 

反革命に対する暴力は必然であった(それさえもコミューン政府は、その合法主義や議会主義に禍いされて反革命に甘かったと後に非難されたが)。現代のような高度に発展した資本主義国家においては、樹立された労働者権力は、その使命である社会主義社会の建設に向かって進むであろうが、パリ・コミューンは反革命との闘いで力尽きたのである。革命政府の暴力的独裁の契機のみが残ったのである。

 

パリ・コミューンから何を学ぶか

 

エンゲルスは、次のように述べている。

「革命とは政治の最高の行為である。革命を欲するものは、その手段をも欲しなければならない。すなわち、革命を準備し、革命のために労働者を教育する政治活動をも欲しなければならない。それがない限り、労働者は闘いの翌日に、必ずファーブル(国防政府の外務大臣)やピア(口先だけの急進派)のような手合いにたぶらかされてしまうだろう。だが、我われが携わらなければならない政治は、労働者の政治である。労働者党は、何らかのブルジョア政党の尻尾としてではなく、独自の目標と政策を持つ独自の政党として建設されねばならない。」(第一インターでの演説)

 

レーニンもまた、パリ・コミューンを総括して次のように述べている。

「社会革命の勝利のためには、少なくとも2つの条件のあることが必要である。すなわち生産力の高度の発展と、プロレタリアートの準備ができていることである。しかし1871年(コミューンの年)には、この条件は2つとも欠けていた。フランスの資本主義はまだ大して発展していなかったし、フランスは当時、主として小ブルジョアジー(手工業者、農民、小商人など)の国であった。他方、労働者党はなかった。労働者階級の準備と長い期間の訓練とはなかった。労働者階級の大部分はまだ、自分の任務とその実現の方法とについて十分に明らかな認識を持っていなかった。プロレタリアートの本格的な政治組織も、広範な労働組合も、協同組合もなかった。」(「パリ・コミューンの思い出」全集17巻)

 

今年はパリ・コミューンの150周年に当たる。世界は、150年前にこうした大闘争があったことを忘れているのだ。私自身も恥ずかしい話だが、横浜の大佛次郎記念館で「パリ燃える」展をやっていると知らされて気付いた次第である。しかしこのような英雄的な闘争とそれを残虐に圧殺したブルジョア階級があったことは、厳然たる事実である。

 

現代は、コミューンの時代とは違って、マルクス主義のみが労働者階級の唯一の思想であることがはっきりした。今こそ、マルクス主義に基づいた労働者党を建設し、資本の支配の廃絶と労働の解放を目指して、労働者の階級闘争を発展させていかねばならない。 (菊池)

野党共闘派の惨敗――長野から見えたもの

長野で闘う仲間から衆院選結果についてレポートが送られてきたので紹介します。


野党共闘派の惨敗――長野から見えたもの

 

 1031日に行われた衆院選は、自民党の大幅後退、場合によっては政権交代の可能性さえも言われていたにもかかわらず、実際には自民党が単独過半数を獲得、自公全体では絶対安定多数を獲得し、野党共闘派は完敗した。立民は共闘候補に一本化が行われた多くの小選挙区ではそれなりに健闘したが、比例区で大幅に議席を落とし改選前の109議席から96議席と13議席も減らし、共産党も12議席から10議席に2議席減らした。社民はかろうじて改選前と同じ1議席を確保したが、もともとほとんど消滅寸前の存在だ。唯一「れいわ」のみが比例で3議席獲得し山本も国会に復帰したが、野党共闘全体としては惨敗の結果であった。

 

 長野県では5小選挙区全てで市民と野党の共闘候補が擁立され(立民4、共産1)各候補とも政権交代をめざすことを公言して選挙戦を進めたのであったが、結果は松本を中心とした2区で立民の下条が競り勝っただけであった(しかも、2区は自民の務台の他に維新の手塚も立候補していたので保守票が分裂したことに助けられた面もあった)。1区の篠原と3区の神津はそれぞれ自民の若林と井出に6千票余りと1万票あまりの僅差で敗れ比例で復活当選したとはいえ、接戦が伝えられた5区の曽我は宮下に1.7万票余りの差をつけられ、また4区の長瀬(共産)は後藤に3.5万票余りの大差で敗れた。

 

 NHKの開票速報によると、いずれの選挙区でも支持政党では自民支持層が半分前後を占め野党共闘側は支持政党なし層をすべて含めたとしても過半数にはいっていない。自民は徹底的な組織戦を展開し、企業や業界団体を“手堅く”まとめたのに対して(TVのニュース画像には企業での小集会に工員服を着た社員の姿が何度か映し出されていたが、まさに「企業ぐるみ選挙」が行われていたのではないか)、野党共闘側は(自前の党組織が強固な共産党を除けば)ほとんど浮動票目当てのイメージ選挙でしかなかった。

 

加えて、今回は岸田の“対話姿勢”や「分配と成長の好循環」、「新しい資本主義」等々の幻想がバラまかれ、政治的訓練の薄い有権者が幻想を持ちやすかったこともあるだろうし、若林や井出などは自民党内での改革の必要性等々も吹聴していたということもあった。自公も野党側もバラマキ合戦の様相を呈していて独自色が薄れたことも影響しているだろう。

 

また、連合本部と呼応して連合長野も立民と共産の共闘に難癖を付けていたのだが、これが特に岡谷・諏訪地区等を中心とする4区共産の選挙結果にも影響したと考えられる。別に共産党の肩を持つわけではないが、労働組合ダラ官どもはまったく犯罪的な役割を果たしているのであり、“労組不在”の状態が今回の選挙でもこの沈滞した空気に大きな役割を果たしているのだ。

 

筆者個人としては自公政権にはホトホトにうんざりしていたこともあり、政権交代による野党側の真剣度を見定めてみたいという気持ちもあったのであるが、この“夢”は開票速報とともに早々に崩れ去ってしまった。今回野党共闘側は金融所得課税や法人税への課税強化、等々を多分ほとんど初めて取り上げた。これらのことは19参院選で我々労働者党も主張したことであるが、富裕層や企業側との厳しい闘いと結合してでなければ実際には簡単に(つまり単なる国会の中だけで)実現できるものではない。

 

株価の下落を見て岸田が前者を早々に引っ込めたことは、その好例だ。だから例え野党共闘が勝利したとしても、実際にはこうしたことは骨抜きになり、結局はバラマキ政策だけに収斂してしまうのではないかと感じていたし、威勢のいいことを言っていても本質的には自公政権と同じところに収斂するのではないかと感じていた。だから一般有権者にとってはなおさら、そうした違い、気迫は十分感じ取ることができず(意図的かどうかは別としてもマスコミがこうした点にほとんど触れなかったということもあるが)自公と同じようなバラマキ政策と映ったのではないのか。

 

さて、今回は立民・共産とも比例区での票と議席を前回より減らし、それが彼らの惨敗の大きな要因となった。北陸信越ブロックについて見ると、自民と維新が各1議席増やし、立民4(旧「希望」2を含む)→3、共産10と各1議席減らした。全国的には立民は比例で6239 共産は119とそれぞれ23議席、2議席失った。逆に躍進したのは維新で、比例では825、小選挙区も入れて1141と大躍進した。自民や立民への批判票を取りこんだと見られ、特に無党派層の19%は維新に投票したとの分析もある(立民24%、自民21%、『読売』新聞)。

 

また、連合票が自民と維新に流れたという説もある。維新は今回「改革々々」と喚き散らし、斬新さや“革新性”を前面に出した選挙戦を展開したが、肝心の「改革」の中身には極力触れない戦術をとっていた。彼らの「改革」とは「身を切る改革」つまり「行革」のことであり、行政職員や教員、公立病院・保健所、等々への締め付け・切り捨て政策、ゴリゴリの新自由主義的政策であるが(それが今回のコロナ禍で大阪が最もひどい医療崩壊をひき起こしたのだ)、そうしたことには一切触れないで有権者を騙したのだ。

 

かくして、岸田の自公政権はとりあえず絶対安定多数獲得の勝利を収めたのだが、しかし、この政権への幻想はたちまち剥がれ落ちる運命にある。金融所得への課税強化については既に述べたが、看護師や介護士、保育士、等々の給料引き上げについてもそのための財源がどこかに転がっているわけではなく経済が「成長してから」考えるなどとこちらも既に後退し、一般企業の賃金引き上げについても引き上げた企業への減税で実現するというのだが、引き上げ分全額を控除するというならまだしもそんなことはできないのだから掛け声倒れに終わるしかないだろう。

 

結局、経済政策として残るのは月並みの「技術立国」だとかサプライチェーンの強化、等々でしかなく、安倍や高市ら反動派の傀儡として防衛力の強化等々を推し進めるしかなす術はないのだ。菅や安倍と同じく、遠からずして国民の怨嗟の声に包まれる運命にある。我々は岸田内閣のこの「口先だけの」「幻想創出」路線を徹底的に暴露して闘っていかなければならない。

 

また、立民では枝野や福山が辞任を表明し、今後右傾化を強めるのかそれとも別の道を探るのか行方を注視していかなければならない。共産党の志位は共闘路線に誤りはなかったと居直っているが、内部の動揺は避けられないだろうし実質的な“社民化”はいっそう進むのではないか。いずれにしても日本の“左翼”は連合等の労組の現状も含めて危機的な状況に差し掛かっているように感じられる。それだけに、今ほど我々の闘いの必要性が大きくなっている時はない。我々は志を新たにいっそう奮闘していかなければならない。

(長野・YS

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