労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2022年05月

上野千鶴子著『これからの時代を生きるあなたへ』

上野千鶴子の反動的な「マルクス主義フェミニズム」


「家事労働」の正当化、「売春」を「性労働」として擁護


――元労働者党代表の亡き林紘義さんの論考を軸に


今やマスコミの寵児で「社会学者」で東大名誉教授の肩書を持つ上野千鶴子、「マルクス主義フェミニズム」を説く上野千鶴子がマルクス主義への批判、懐疑、不信、反感、また、敵意さえもっていることは前から明らかでしたが、それをまた確認できる上野の最近の著に『これからの時代を生きるあなたへ』(主婦の友社)があります。


上野の主張を見てみましょう。「わたしは『マルクス主義フェミニスト』と名乗っています。そういうと、すぐにマルクス大好きなんだと思われがちですが、ちょっと待ってください。マルクス主義フェミニストというひとびとは『マルクスに忠実なフェミニスト』のことでなくて、『マルクスに挑戦したフェミニスト』のことです」、「理論が経験を説明できないなら、理論が間違っている」「家事がなくてはならない必要労働であることを、認めてあげてもいいけれど、でもそれは価値を生まない不生産的労働です」、なぜなら「マルクスがそういっているから」。(37~39ページ)


「マルクス主義フェミニズムの理論的発見とは、市場には家族という外部があることでした」(49ページ)「女性学は、女の経験の言語化・理論化をやってきた学問です。日本の女性学に対するわたしの貢献は、家事は不払い労働だという定義を持ち込んだことです。~不払い労働にはふたつの合意があります。第一は『家事も労働だ』というものです。第二は、しかも、『不当に支払われない労働だ』というものです」(32ページ)「マルクス理論だけでは女の問題は解けません~それが家父長制の理論です」(40ページ)「ひとつの社会が存続可能であるためには、モノの生産とイノチの生産・再生産の両方をやらなければなりません」(53ページ)「家事の大半は労働になります。しかも市場の外にあって対価が支払われない労働です」(34ページ)。


上に見られる上野の主張は批判されるべきものです。家事労働が価値を生まないのは、「マルクスがそういっているから」からではなく、「家事」は、生産的労働ではないからです。「家事」は消費にかかわることであって生産にかかわることでないことほど明らかなことはありません。上野は個人的な「消費」(賃金を生活資料として用いる)の過程を「家事も労働だ」とか、「不払労働」だと言うことで、あたかも「生産」過程であるかのごとく言っています。「生産」と「消費」を明確に区別することなしには、資本主義社会はもちろんのこと、どんな社会経済の科学的の解明、合理的理解は不可能です。


上野は、「理論」つまり、マルクス主義は間違っていると言い、マルクスを否定しています。それなら「マルクス主義フェミニズム」とあたかもマルクス主義に従ったかのようなややこしい紛らわしい呼び方をするべきではない。上野は卑怯にもマルクスの名前だけを利用しているのです。上野は「マルクス主義」という言葉を使うことにより、「マルクス主義フェミニズム」が「家事労働」「性労働」を美化し擁護する頽廃的反動的な理論ではなく、あたかも先進的な、進歩的な、「左翼」的な理論であるかのように装い、社会を欺いているのです。


上野は世間をたぶらかしてはいけないのです。上野の主張はマルクスと正反対です。上野はマルクスを見下しているのですが、上野が語ってきたことの方が支離滅裂です。そして、我々の行ってきたように「理論」つまりマルクス主義によってのみ「経験」つまり現実を正しく理解し、説明することができるのです。間違っているのはマルクスではなく上野の方なのです。


生産的労働とは、商品を生産する労働、価値として商品に対象化されている社会的な人間労働のことです。「価値」は社会的な実体であって、自然的素材(「使用価値」は価値の担い手である)そのものではありません。それは、対象化された社会的な抽象的人間労働として「価値」なのです。価値規定において、私的な活動をもちだすなら、価値概念に限界がなくなり、客観的な内容が抜けおちてしまいます。


上野は『これからの時代を生きるあなたへ』で、「家事も労働だ」「不当に支払われない労働だ」と「主婦労働」を評価しています。上野は鈴木涼美との往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)の中で、「セックスワークは女性にとっての経済行為です」と実質的にセックスワーク論を擁護しています。


『限界から始まる』では、「賢い母親」から生まれた娘の不幸を言っていました。母親が賢くなく無知である方が娘は幸せであったかのような書かれ方でした。上野は昔には、「学歴の高い女房」は「質の良い再生産労働を子供に与えることができる」との意味を説き、この当時も上野はエリート意識を丸出しにしていました。


亡くなられた元労働党代表の林さんが「科学的共産主義研究」65号、「フェミニズムはいかにマルクス主義と闘っているか、そしてそれはいかに反動的であるか(1986年)」の中で上野の批判を行っています。


資本による労働者の搾取を隠蔽する「家事労働」論


「家事労働」について「上野の理論は、『追いつめられた』主婦の最後の自己正当化の試みだと、いえなくもない」(76ページ)と書かかれている通りです。林さんは、“家事労働”を「出産・育児」に一面化する上野の批判をしています。林さんのここでの上野への批判は今でも当たっていいます。


上野の主張。「市場の限界がイコールマルクス主義の限界であったわけです」(資本制と家事労働』9ページ)。「マルクス主義は、実は社会の領域の中で、生産に支配される領域だけを解明する社会理論であった。ところが生産に支配される領域の外に再生産という領域があったのです~生産はモノの生産、再生産はヒトの生産というように定義して使います。~伝統的マルクス主義の中では、労働の再生産と労働力の再生産の両方を『再生産』と呼んできたわけですけれど、最近の用法では、人間の再生産、マルクスのいう『他人の再生産』だけを再生産と呼んでいます。」(『資本制と家事労働』13~14ページ)


「科学的共産主義研究」65号(1986年)での林さんのこの上野の主張への批判。「みられるように、上野の概念は全くめちゃくちゃである。彼女は『生産』とか『再生産』というマルクス主義的用語を用いているが、その意味を少しも理解していない。彼女は、現代においては『モノ』の生産はまた同時に再生産であることさえ分かっていない。もし分かっているなら『モノの生産は生産』で『ヒトの生産は再生産』などと言ったたわごとがどこから出てくるようであろうか⁈そもそも『ヒト』は“生産”されたり“再生産”されたりするものではない」「上野は、そのものとしての労働力の再生産を『労働の再生産』とよび、子供の(次世代の?)労働力の育成を『労働力の再生産』と呼んで区別し、『再生産』という言葉はただ後者に対してのみ用いられると言うのであるが、ここにはどんなに多くの混乱があるだろう。一体労働者が、一日の労働のあと『家に帰って糞をして、寝て、ご飯を食べて、次の朝起きる』ということがなぜ『労働の再生産』なのか。マルクスはまさに、これは『労働』にかかわることでなくて『労働力』の再生産にかかわることだと明確に述べている、ところがマルクスが古典派経済学を越えてなしとげた一つの大きな前進(労働と労働力の区別)を上野は全然理解していない!」


「上野が積極的に言いたいことは~家事労働=主婦労働の本質、そのエッセンスは自分の夫としての労働力の再生産する“労働”ではなくて、次世代の労働力(というより“ヒト”を育てる“労働”だということである」、「上野は『ヒトの再生産』こそ家事労働のエッセンスであり、家事労働を家事労働たらしめるものである、これはただ女性(妻もしくは主婦)によってのみ担われるのであって、『他人に委ねることのできない』ものである、と叫ぶ」、「上野は、出産=子育てを『再生産労働』とよび、それは女性のみが行うものだ」と主張する。(73~75ページ)。


「マルクス主義が『生産労働だけしか扱いませんでしたから、家事使用人の再生産労働を概念化しえなかった』などと上野は思い上がって断言している。だがはたしてそうか?実際にはマルクスは『資本論』の中でも、『剰余価値学説史』の中でも、生産的労働と不生産的労働の概念を明確に提起し、収入と交換される労働、『家事使用人の行う』労働の性格をはっきり語っているのである。」(79ページ)。


「女性が家庭におしこめられ、男性に従属するのはーそしてこのことこそ、『生殖と性』に対する男性支配と同義語なのだがー現在ではヨリいっそう資本主義的生産の結果であろう。資本はいっそう有利な、効率的な搾取材料を求めるのであって、妊娠=出産=育児の機能持つ女性は、この限り、ヨリ劣った不十分な搾取材料である。この一点だけからしても、女性の地位は、資本主義的生産の本性にかかわっているのであって、何千年前からつづいている『生殖と性に関する男性支配』といった問題ではない」(86ページ)。


上野の最近の著『こらからの時代を生きるあなたへ』で、「主婦の労働の値打ち」を語っています。上野の言う「家事は労働」、ただし「見えない労働」であり「不払労働」と言う。だが、「家事」は「『労働』にかかわることでなくて『労働力』の再生産にかかわること」(前出林論文)であり、消費にかかわることであって価値を生む生産的労働ではないことは明確です。


労働力の再生産に関する活動は消費に関係しています。生産と消費の区別を明確にしなければなりません。商品としての「労働力の再生産」にとって本質的なものは、それに必要な生活資料の価値、社会的な労働であって、「家事労働」ではありません。「家事労働」は私的な行為であって、社会的な労働ではありません。資本主義社会では「子育て」も一つの私的行為であって、直接に社会的なものではありません。


労働者の個人的消費の過程を、「生産」の過程として描くことは、消費を生産というための理論的ごまかしかありません。繰り返しますが、商品としての「労働力」の再生産にとって本質的なものは、それに必要な生活資料の価値、つまり社会的な労働であって、「家事労働」ではありません。


料理するなどの「家事労働」はたしかに存在しますが、しかしこれは生活資料を消費するには私的な過程が必ずあるということであって、こうした過程がどんな形で行われるかは、生活資料の価値とはなんの関係もありません。「家事労働」は本質的に私的な活動であって社会的な労働ではなく、労働力の価値には入らないのです。


労働力の価値というのは、それを生産するのに必要な生活手段の価値、これを生産するのに必要な労働時間によって規定されます。主婦の「家事労働」は、本質的に私的な活動であって、「夫の賃金」つまりその労働力の価値には入りません。「家事も労働だ」とするなら、今の資本主義社会での基本的事実である貨幣、剰余価値などについてのどんな科学的理解も不可能です。


資本主義にとって本質的なものが生産における労働の搾取ではなく、「不払労働」である「家事労働」であるかのように上野は言っています。上野にとって、資本主義に本質的で必要不可欠なことは、労働の搾取ではなく「不払労働」である「家事労働」なのです。上野の理屈は、資本による労働者の搾取を覆い隠す反動的な理論にほかなりません。


上野はどうしても“主婦”の存在を正当化したかったのです。現在、家事労働は生活用品の電化等々のため、妻としての「家事労働」は大幅に軽減され、半ば失業状態です。それを何とか正当化するための最後の試みが上野の「マルクス主義フェミニズム」というわけです。


「『マルクス主義フェミニズム』をとたいそうな名をふりまわし、大言壮語する上野が、実際には『家庭を大事にしろ!』という古くからのモラリズムを何か学問的な、言葉使いであることを見てきた。彼女の視野は狭く、“家庭”の限界を超えて広がることはほとんどない」(「科学的共産主義研究」65号、84ページ)。


上野の堕落、退廃は、林さんがこの批判を書かれた、1986年よりも一層、今、深まっています。


「売春」を「性労働」と正当化

―性的搾取業者、ポルノ産業の理論的代弁者として現れる


林さんは林紘義著作集第5巻「女性解放と労働者」の中で、上野が“売春”を“性労働”といいその「自由化」というスローガンを掲げてきたことを批判しています。


上野。「性労働者はマッサージ師とかわらない一専門職になるだろう」、「『セックスというお仕事』があまたある労働の一つとみなされ、その労働に従事する労働者の人格が問題になってきたのは、性労働が強制ではなく、選択の結果と考えられるようになってきたからである」(朝日、1994年6月22日)。


上野が「主婦労働」「家事労働」をあたかも社会的生産的な労働であるかのごとく語ったように、「性労働」も社会的生産的な労働のように語っているのです。


林さんの批判。「ここに立派な理論家が現れて、『性』もまたサービス労働や主婦労働と同様に“生産的労働”であり、堂々と売られるべきだ」と言う。「上野が問題にするのは、女性が『性を売る』ことの資本主義社会の矛盾、もしくは退廃現象ではない(もし女性が『強制』によってではなく、カネもうけのために『性を売る』ならそれは退廃現象ではないのだ)、それはある意味で正当な女性の権利であり、女性が自らの所有する“商品”を売っているにすぎない。」(45~49ページ)。


上野と鈴木涼美との往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)の中でも、この上野の退廃・堕落は一層深化しています。


現在の「風俗」での売春の横行は、現在の資本主義の矛盾、経済的苦境、格差の拡大、失業、貧困、生活苦、シングルマザーの貧困の拡大などと深くかかわっています。金銭提供を前提とした、「大人の関係」(肉体関係)もある「パパ活」の蔓延もそうです。相手はお金を持っている年上男性です。大阪のオランダの飾り窓のような「飛田新地」、そして「信太山新地」、ここで売春に携わるその多くは女子大生です。ネットでは「飛田新地」、「信太山新地」と検索すれば若い女性の求人広告が溢れています。若い女性の風俗は非正規、低賃金、失業、無職、アルバイトの報酬減、学費の高騰、高額の利子をとる日本学生支援機構の「奨学金」、そして親世帯の収入減、貧困の加速で親が仕送りする余力がないこと、そして現実としての風俗、ポルノ産業が存在しその肥大化、旺盛があります。そもそも、この社会で風俗、ポルノ産業自体がなければ女性がこれに携わることはありえません。


風俗、「パパ活」はカネの取り引き、やり取りのある性です。多く女性がますます加速する貧困の中にあるという現実の中で、あたかも「自由な意思」で「風俗」「パパ活」を選択したかにみえても、「経済学外的強制」でなくても「経済的強制」が働いているのです。上野がいうとおり「性労働が強制ではなく、選択の結果」だったとしても、そこには貧困などの社会的問題が潜んでいるのです。


そして業者はこうした女性の弱みに巧妙につけこんでいるのです。このことは現在の資本主義の矛盾と深くかかわっているのです。しかし、上野が最近の著『限界からはじまる』でも、『これからの時代を生きるあなたへ』でもこうした視点から問題提起もなく、社会的問題として語られることはほとんどなく、問題意識すらありません。上野はこうした資本主義の退廃を擁護すらしているのです。


NHKテレビの「チコちゃんに叱られる!」にでているお笑いコンビ・ナインティナイン岡村隆史がラジオ番組で「コロナが明けたら可愛い人が風俗嬢やります」の発言、この発言は一定の現実を反映しているが、今ではこの岡村の醜悪な発言が咎められることはほとんどありません。“売春”を“性労働”として擁護する上野にこの岡村発言を批判する資格はないのです。


風俗批判が「職業差別」と声を上げている者の多くは“売春”している、あるいはせざるをえない、させられている女性自身ではなく、昔は「ポン引き」と言われたピンプ、女衒、性的搾取の業者です。上野の言うことは昔からの女衒や売春者の言い分そのままです。そして「セックスワーク論」にとらわれた「リベラル」派が彼らの理論的代弁者として、「人権論」「反差別」の体裁をとって「人権侵害」の性的搾取を擁護しているわけです。


「セックスワーク」という美しい言葉、「パパ活」などの軽い言葉は、女性の“性産業”への心理的障壁を払いのけ、女性の「風俗」「パパ活」の参入を促しているのです。上野もこれに加担しています。


上野らは高尚な言葉で性的搾取業者、ポルノ産業の業者の言い分を、「セックスワークは女性にとっての経済行為です」などと言い「学問的」な“立派”な“うつくしい”言葉で粉飾、昇華させてきただけなのです。上野が実質的に擁護するアダルトビデオなどのポルノの社会への蔓延は女性の社会的地位の低下をもたらし、女性の性的な安全性の侵害をもたらしています。『限界から始まる』の中では上野はアダルトビデオを扱いながらも、今問題になり若い女性に多くの犠牲をしいているAV強要問題については全く触れられていません。


森田成也氏はその著、「マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論―搾取と暴力に抗うために」(慶応義塾大学出版会)の中で売買春での北欧モデルを紹介しています。(この本はいろんな限界、ある意味で本質的な限界がありますが一読に値します)。「このアプローチは~一方で、売り手である被買春女性を非犯罪化して、保護・支援の対象とし、他方で、売買者、ピンプ、業者などを処罰の対象にするというものである。これはスウェーデン、ノルウェー」から初ま」った(137,138ページ)。


そして、森田氏はこの著でアダルトビデオの女性の被害も語っています。一方、上野は『限界から始まる』でアダルトビデオを語っても、それによる女性の被害を語ることはありません。


森田氏の著でアダルトビデオでの女性虐待の紹介の事例。「バクシー山下というAV監督による暴力AVシリーズ『女犯』(1990~91年)である。


『女犯』シリーズは、出演者である女性に筋書についてほとんど事前に説明せず。その上で女優にありとあらゆる暴力や屈辱的行為を強い、それに対して女性が示す『本物』の恐怖や反応をおもしろがるというパターンを売りにしたアダルトビデオだ。」「このおぞましい拷問ポルノをリベラル派の知識人や、朝日新聞系の週刊誌『AERA』」などが当時、『前衛的』『革命的』と絶賛したのである(212ページ)。


この暴力・拷問ポルノについて上野は宮台真司と対談している。「バクシー山下の一連の暴力レイプ・ビデオをそのカタルシス効果のゆえに賛美している宮台真司氏」(121ページ)。


この本文への注。「上野千鶴子、宮台真司『メディア・セックス・家族』、『論座』1998年8月号での宮台発言。この対談に対する批判として、拙稿『上野・宮台対談に見る性的リベラリズムの隘路』、『論座』1998年8月号」(129ページ)。


こうした発言をした宮台と『往復書簡 限界から始まる』刊行記念のトークイベントで2021年8月26日、上野は鈴木涼美と三人で対談しています。女性虐待の拷問・暴力ポルノを絶賛していた宮台と上野は最近でも対談していたのです。後でも、同様の拷問・暴力ポルノは続々と制作販売され、バッキ―事件という戦後最大のポルノ暴力事件にまで発展します。こうした拷問・暴力ポルノの制作販売を上野は知りながらもこうしたことに必ずしも批判的ではなかったのです。今でも上野は『限界から始まる』の中でもアダルトビデオには肯定的です。


上野が若い頃に参加していたという「新左翼」運動、学生運動、バリケードの中でも「性差別」があったと語っています。「露骨な性的役割分担」、「性解放」の名のもとに、性的に自由な女の子を、陰では男たちが「公衆便所」と呼んでいた。このことは「新左翼」、急進主義運動の限界、空虚さ、無内容、退廃を示す一例です。


上野が“性労働”として擁護してきた“売春”、このカネのため「性を売る」、あるいは売らざるをえない社会をなくすことこそが課題です。「マルクス主義フェミニズム」を説く上野は、女性を貶める存在でもあるのです。


「セックスワークは女性にとっての経済行為です」とうつくしい言葉で説く上野は、風俗などの性的搾取産業、ポルノ産業の理論的代弁者と言ってもよいような醜悪な存在になり果てています。つまるところ上野はフェミニストですらないのです。


上野のような主張は女性の真実の解放、社会主義的理想をめざす労働者の闘いとは縁もゆかりもありません。


女性差別一掃、女性の真実の解放のために

―東大入学式での上野の挨拶の欺瞞性


最後に、2019年の参議院選挙において、我々、労働の解放をめざす労働者党(労働者党)の立候補者、伊藤恵子のパンフレットの中で、林さんから伊藤さんへの励ましの言葉があり、その中の林さんの上野批判の部分を紹介してまとめにかえます。


「女性の地位改善や女性の解放――解放にも色々あって、どんな解放かが問題ですが――『男と女の対立』という図式から出発して、女性の解放を論じるフェミニスト――彼らはみなブルジョアやエリートの出です――を取り上げつつ、我々の女性解放の理論や闘いを語りたいと思います。


今年の東大の入学式にかってのマルクス主義フェミニズムなる理論を携えて、“経済学”とりわけマルクス主義経済学を援用して、主婦労働と主婦の階級的な立場を擁護する論陣を張って、ブルジョアやプチブルから喝采を浴び、出世の階段をかけあがるための令名ときっかけを手にした上野千鶴子が登壇して、次のように喝破しました。


『あなたたちのがんばりをどうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれない人々を貶めるためではなく、そういう人々を助けるために使ってください』


その言や良しですが、しかし今や彼女はエリートとして、弱い人々や貧しい人たちの対極にいる人間で、こんな挨拶できる人でしょうか。上野はかって“主婦”の地位を擁護し、正当化するフェミニストの雄でした。彼女は従来の“正統派”マルクス主義は主婦労働を正当に評価せず、非生産的労働として卑しめてきた、しかしこうした理論は主婦労働の意義を否定し、女性を軽蔑し、愚弄するものであって、マルクス主義の理論を正しく援用するなら、主婦労働の、したがってまた主婦労働者の正当な意義と役割を評価すべきものであるといったものでした。


しかし主婦労働は“主人”としての家族の関係においてのみ主婦労働であって、私的で狭隘な関係の中でのみ意義を持つにすぎず、したがって、社会的で、客観的な評価を持ちえません。別の形で言うなら、主婦労働の担い手としての女性は、自らの“労働”に対して社会的に評価された支払(賃金)を受けとりません。


つまり主婦と夫の関係は社会的なものでなく私的なものです。主婦と夫との関係は女性の男性への依存と従属の関係、奉仕の受容者と奉仕者の提供者の関係、人格的な優位と従属の関係、平たく言うなら一種の奴隷主と奴隷の関係です。つまり主婦が“家庭奴隷”である所以です。こうした関係の本性は、夫婦の間の関係で愛情や相互信頼がなくなった場合や、離婚の場合などに端的に現れます。


そして上野の“えせ”マルクス主義の破綻は、性風俗に従事する“労働者”や性を売る女性(“売春婦”等々)の存在やその(生産的)労働を擁護し、正当化する“理論”において、その究極的で、卑しく、反動的な観点に行きついてしまいました。


上野はかって1990年代“性労働(売春等々)”を主婦労働や個人的サービスと同じ、生産的労働であり、堂々売られるべきであり、それが非難されるのは強制で売られるからだ、“自由化”されれば「マッサージ師と変わらない一専門職になる」などと論じて、当時流行となり、繁盛し始めた“風俗産業”を美化し、擁護して世のブルジョアたちや男性諸君たちから喝采を浴びたのですが、上野の「あなたたちのがんばりを恵まれないひとびとを助けるために使ってください」といった貧しい人々とは「性を売る」女性たちのことでしょうか。余りにバカげています」(伊藤恵子さんとフェミニスト、比例区予定候補・林からの励まし、伊藤恵子さんを国会へ、2019年)。 (M)

※上野の『これからの時代を生きるあなたへ』の書名を一部『これからの時代を生き抜くあなたへ』と間違って表記していたのを校正しました。(2022/5/26)

世界は帝国主義的分割の時代に突入か

党員のMさんからの投稿を紹介します。

 

世界は帝国主義的分割の時代に突入か

―台頭する中国と衰退するアメリカ

 

今、マスコミなどでほとんど言及されていませんが、ウクライナと中国との今後の関わり、また、この戦争を機にした世界の戦後体制の再編成、帝国主義的世界の再分割も考えていく必要があると思っています。

 

ウクライナは中国の巨大経済圏構想、一帯一路の拠点の一つであり、ウクライナの最大の貿易相手国は中国です。EUの加盟国27ヶ国うち(そのうちの15ヶ国がNATO加盟)18ヶ国が「一帯一路」の加盟国で、中国は中欧投資協定に全力を投入してきました。ロシアにとっても最大の貿易相手国は中国です。

 

「『一帯一路』を推進する習近平には中華帝国の影響力と版図を歴代のどの帝国よりも拡大する野望が見え隠れする。アラブ半島やアフリカ、ヨーロッパ諸国を属国化する勢いで経済圏を構成し、さらには太平洋にも軍事的影響力を及ぼし、台湾併合を自分の代で実行しようとその機会を窺っている。」(「世界」臨時増刊「ウクライナ侵略戦争)15ページ)

 

「アメリカから制裁を受けている中東諸国では中国との石油取引に人民元を導入する方向で既に動いているが、ロシアとの石油や天然ガスの取引が非ドル化されることにより、石油取引のドル基軸からの離脱の素地を創り出す側面は否めない。おまけにロシアの貿易の40%ほどはEUが相手だったが、そこが封鎖されて主として中国に回って行けば、中国を中心としてアジア・ユーラシア大陸に非欧米型経済ブロックが形成されていく可能性を秘めていることになる」(「ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略」遠藤誉、11ページ)

「対露SWIET制裁は脱ドルとデジタル人民元を促進する」(同、65ページ)

 

こうした見解はともかく、中国は「一帯一路」構想のもとに世界でますますその存在感を増して台頭してきています。今は世界第二位の中国の経済力はアメリカに、いつ追いついても不思議ではない。ますます強大化、帝国主義化しつつある中国を軸にして世界の再編成がなされようとしています。中国の台頭、アメリカの衰退の中で、ロシアの利益をいかに守り拡大するかがプーチンの課題となっていました。

 

かって、レーニンが述べた「世界の再分割」、世界の帝国主義的支配の再分割・再編成、「現状変更」の時代への再突入したのではないでしょうか、ロシアによるウクライナ侵攻はこのことを教え、告げているのではないかと思います。(M)

 

南京大虐殺を否定する反動派の「歴史戦」を見よ

―ロシア侵攻の犠牲者を語る資格なし

 

 自民党・産経新聞などはロシアの事実隠蔽をいうが、彼らは南京虐殺、従軍慰安婦などを「歴史戦」(20144月より産経新聞の特集として組まれた一連の記事。阿比留瑠比によって書籍化され同年10月に産経新聞出版から出版された)で「事実隠蔽」してきた。

 

この「歴史戦」について元労働者党代表の林さんが、「海つばめ」1243、1244号、2015年1月25日、2月8日号に「反動派の『歴史戦』とは何か」で書いています。

 

「彼等は南京大虐殺や性奴隷化問題で、まず数字を問題にするが、まず確認されるべきは数字である前にその事実である。」「植民地朝鮮の、物言わぬー言えなかったー若い女性の性奴隷化を前にして、数字の誇張など言うべきでない、あるいは事実を明確に認め、その犯罪性を明らかにすることが先で」ある。「“慰安婦”の人格を最初から全て卑しいものであるかに語ったり、証言はすべて口から出任せであるかに言いはやすことの方がよほど、人格が低劣で卑しいことではないのか」。

 

産経新聞などが散々語ってきた論理によれば、今のロシア侵攻による市民の犠牲者の報道はその犠牲者の数が、正しくなければ、もしその人数が多く発表、報道されたりすれば、南京虐殺と同じく幻で、この事実そのものも半ばなかったことになるのである。彼らの論理でいえば数が不確かであれば事実は事実でなくなる。(M)

共産党のあきれたビラ

「資本論を読む会」に参加しているMさんからの投稿を紹介します。

 

共産党のあきれたビラ

宮本顕治や不破哲三の発言を想起

 

 「資本論を読む会」終了後、共産党がロシアのウクライナ侵攻を受けて街頭で配布しているビラの批判をする。このビラには心底あきれ果てた。

 

ビラで言う。「旧ソ連の時代からロシアの覇権主義を厳しく批判してきたのが日本共産党です」、「旧ソ連もロシアも社会主義とは無縁」。どの口が言っているのか。

 

共産党はソ連・ロシアを「生成期社会主義」つまり「生成期」であろうとなんであろうとソ連を「社会主義」と規定したうえで、1968年のソ連のチョコスロバキアへの侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻を単に「覇権主義」「大国主義」と批判してきたにすぎない。

 

 ソ連によるチョコスロバキアの侵攻の後に出版された「宮本顕治対談集」(新日本出版社、1972年)の中で、宮本顕治は、1956年にソ連のハンガリーに侵攻、人民を弾圧したソ連擁護の発言を再録しさえしている。

 

「ソビエトがハンガリー政府の要請で出て、暴動をおさえた、これを流血だという」、「当事者たちは、しかしそのなかに、明らかに暴動的方向、つまり流血騒ぎにもっていくような反革命分子がいた。」(65,66ページ)

 

共産党がソ連の残虐なハンガリー人民弾圧を支持・擁護してきた事実は隠せない。(詳しくは、林紘義著「宮本・不破への公開質問状―ハンガリー事件・スターリン批判・ポーランド問題―」参照)

 

不破哲三は1987年出版の「世界史のなかの社会主義」(新日本出版社)でソ連を「生成期社会主義」と規定したうえで書いている。

 

「社会主義というのは、経済のしくみ、社会のしくみのなかに、外国を侵略しないとか、軍備の拡大をやらないと社会が成り立たないといった原因を、もともともっていない体制です。だから、アフガニスタンのようなことは、社会主義の国が、社会主義の本来の立場からはずれたときに起きるのです」、「社会主義の国民が社会主義の立場を失わないかぎり、いろんなジグザグがあっても、やがてこれを直す力が働く」、「これを私たちは社会主義の『復元力』とよんでいます。」(184,185ページ)

 

不破はソ連を「社会主義」と断じたうえで「社会主義国」の単なる政策的誤りとしてソ連を「大国主義」「覇権主義」として批判してきたのにすぎなく、根本的批判ではなかった。

 

共産党はソ連を「社会主義」として散々美化してきた。「社会主義の国」が「本来の立場」を離れるとは何か。

 

ソ連の国家資本主義体制の矛盾がソ連のチェコスロバキアなどの侵略を生み出したのである。ビラでは共産党はあたかもソ連を「社会主義」と言ってきたことはこれまでまるで一度もなかったかのような書き方である。これは真っ赤な嘘である。

 

共産党はその綱領で、今のロシアなどを「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」というがここにはどんな科学的経済的な規定も概念もない。ロシアなどの社会は社会主義ではないが、どんな社会なのか、資本主義なのか、全く不明で、どんな社会経済構成体なのかが一切わからない。

 

共産党のロシアのウクライナ侵攻を受けての今回のビラは欺瞞にみちている。

 

このビラで共産党は自公政権・安部は「北方領土」について、共産党のように「全千島の返還」を言わず「返還は『歯舞、色丹だけ』に後退」させてきたという。ロシア、プーチンに強硬な姿勢をとってきたのは共産党だけと自慢げに言いたいようである。

 

そもそも共産党、自民党などがいう「固有の領土」なるものがあるわけではなく、領土とは相対的なものであり、民族国家の形成とともに成立した歴史的に限界のあるブルジョアジ的概念にしかすぎない。共産党は右翼も顔負けのウルトラ民族主義者であり、共産党は領土問題ではもはや「極右」といっても過言ではない。

 

 

プーチンだけが悪か

アメリカやウクライナの政権が絶対的に正しいわけでない

 

今、マスコミでゼレンスキーが絶対的な善でアメリカなどウクライナへの武器供与・援助は当然で、プーチンだけが悪かのような報道で溢れかえっている。

 

確かにプーチンは悪い。だが、ゼレンスキーはロシア語の抑圧政策を取ってきて絶対的善とはいえないと説明して「読む会」散会しました。

 

「読む会」の帰りに、「ウクライナ侵略戦争―世界秩序の危機」(「世界」臨時増刊)を書店で見つけ買いました。ほとんどの筆者はプーチンを批判したうえで書いている。だが、この本の中からも見えるものがあります。

 

2014年の、ウクライナの親ロ政権を打倒した“ユーロマイダン革命”にアメリカが関わりオバマもCNNのインタビューでこの政策の関与を認めている。

 

対応したのがバイデンである。「アメリカは、ただ復活し、敵対するロシアを抑え込みたいのであって、ウクライナの反ロシア政権はそのための道具でしかないように見える」(71ページ)

 

「第二次世界大戦時、ウクライナ民族主義者がナチスと手を組んだことがあったのは事実だし、ゼレンスキーがロシアとの関係を重視する政党の活動を禁止したのも、2014年に親ロ政権が米国の支援を受けたクーデターによって倒され、ロシア系市民への弾圧が行われたのも事実だ」(14ページ)

 

「ユーロマイダン革命は凄まじいばかりの暴力であり、『親露か、親欧米か』などという、それまでのウクライナ政治の対立軸をむしろ吹き飛ばしてしまった。クリミヤ人やドンパス人は、自分たちがロシア語を使う権利や、ロシアへの帰属替えを求めたのではない。右派民族主義者による暴力や殺害を逃れてウクライナから逃げ出したのである」「特徴的なのは、革命派が、これら暴力事件を携帯電話で録画し、自らソーシャルメディアに盛んに公開したことである。これらは常識ある市民を恐怖のどん底に突き落とした。実際、ユーロマイダン革命中は、凄惨な死体の録画がユーチューブに溢れていた。」「ドンパスでの2600人の民間犠牲者を国際司法や国際世論は見て見ぬふりをしていた。」(49,50,51ページ)「言語法制によりロシア語話者の母語使用を厳しく制限した」(106ページ)

 

「2014年政変で成立したウクライナの現体制がファシスト的・人種主義的傾向を持つこと、東部ウクライナの住民に対する迫害(8年間にわたる戦争状態の中で人道上の危機が発生)や、労働運動弾圧、共産党非合法化の政策がとられてきたことはこれまでも指摘・報道されてきた」(208ページ)

 

ウクライナからの避難にあたっては、白人が優先でウクライナ兵が有色人種を力づくに押し戻している。アフリカ連合はアフリカ人を中心とする有色人種が差別を受けているとして声明を発表し、避難時の人種差別は国際法違反だと訴えている。(朝日、GLOBE・国連での南アフリカの演説)

 

「米国のグレナダ侵攻、パナマ侵攻、イラク戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻など、核を持つ軍事大国が他国を侵略しその政権の転覆を図ることは、これまでも度々あった。イラクやパレスチナやシリアに関心を払わなかった欧米や日本の人々が今回ウクライナ支援のために大きな声をあげている状況は人種主義の表れだという指摘もある」(147ページ)

 

ソ連崩壊の後、アメリカ政権は東方にNATOを拡大させ、民族主義者を台頭させ、親ロ政権などを崩壊させ、欧米よりの政権を樹立させてきた。2014年のウクライナのユーロマイダン革命もそうである。

 

この「革命」で市民の死体の映像もあった。今のウクライナのブチャと同様の惨状である。ゼレンスキーもこうした残虐行為を行ってきた民族主義者と同じく民族主義を煽り立ててきた。

 

ロシア語の抑圧はまたロシア民族主義を挑発させてきた。NATO加盟を強行・実行しようとしたのもゼレンスキーである。ウクライナへのアメリカの武器供与は、昔は「軍産複合体」と呼ばれた武器産業を潤わせている。

 

ロシアのウクライナ軍事侵攻は徹底的に批判、糾弾されなければならない。だが、アメリカ政権、ウクライナ政権、ゼレンスキーが絶対的に正しく、善であるわけではない。彼らも多くの罪をおかしてきたのである。

 

「パレスチナのガザ地区ではイスラエルによる封鎖・空爆下でマリウポリのような事態はほとんど恒常的に繰り返されてきたと言ってよい」(206ページ)

 

今でも、イスラエルはガザ地区へ空爆し、ガザ地区のパレスチナ住民を人道危機におとしいれている。ガザ地区の空爆は子どもにも多くの犠牲者だしている。アメリカはイスラエルを支援し、この空爆を認めてきた。自由主義普遍的価値を説くアメリカのも厳しく問わなければならない。

『ブラックボックス』(芥川賞受賞作)はプロレタリア文学か?

〈文芸時評〉

 

『ブラックボックス』(芥川賞受賞作)はプロレタリア文学か?

 

 第166回芥川賞を受賞した砂川文次(すながわぶんじ)氏の小説『ブラックボックス』について、審査委員の一人である奥泉光(おくいずみひかる)氏は次のように評した。

 

 「格差社会の底辺で生きる人物を描いた現代のプロレタリア文学。古風なリアリズムを前提に、書かれるべき切実さが小説に滲み出てくるような力感があった」。

 

 この〝現代のプロレタリア文学〟という批評に惹かれて、この小説を読んでみることにした。

 

 28歳の青年サクマは、今はやりの〝自転車便メッセンジャー(配達人)〟として大都会東京で働き、暮らしている。それまで自衛隊や不動産屋、コンビニなど様々な職を転々としてきたが、空(くう)に拳(こぶし)を突き出すような苛立ちと、短気さ、暴力という形でしか意思を現わし得ない行動で、どれも長続きしなかった。今は、煩わしい人間関係の無い、ある面「自由」で、一定の収入を稼げる配送人として働いている。

 

 物語は、交通の激しい都心を自転車で配送先に向かう途中、車と接触し自転車ごと転倒する場面から始まる。その転倒前後のシーンの描写は実に緻密だ。接触し、転倒し、起き上がる、それを事故調書のごとく描く。また、走りながら彼の視界が捉える街の様子も、まるで住宅地図を虫眼鏡で精察しているかのようだ。ビル、行き交う人々、走り去る車……風を切って急ぐゆえに、サクマの視界は狭く、それらをいちいち認識できないであろうが、あたかも一つ一つ視界が捉えているかのごとく描く。現実的にはありえないことではある。

 

 自転車便は、急を要する依頼が多く、出来るだけ早く、1時間後くらいには希望先へ届けねばならない。金融関係や一般企業、デザイン・設計事務所など、ビジネス街からの発注が多い。東京だと丸の内・大手町周辺からということになろう。

 

 運ぶ物は、書類関係や箱物・筒状の荷物がほとんどで、自分の属する会社(事務所)から、所持するモバイル携帯に入る発注先の情報を得て、配達物を受け取り、指定された場所へ一刻も早く届けねばならない。

 

 時給は1350円~1600円で、頭数をこなせばそこそこの収入になる。届けが終了したら、また携帯に連絡が入るので、公園などで待機し、次の発注先の元へと向かう。体力が許す限り、これを毎日繰り返す。よつて、従事者は若年労働者に多く、もちろん非正規労働に入る。

 

 1日が終了したら会社(事務所、取り次ぐ正規労働者が23名いる)に戻るも良し、直接自宅に帰るも良しである。

 

 煩わしい人間関係も身分上の上下関係も無い、一見気楽な(という風に見える)個人営業の仕事である。

 

転倒したサクマは、配送物を先輩でもある同僚に急遽頼み、動かなくなった自転車を引きずって事務所に戻り、自転車の修理に取りかかる。事務所の彼のロッカーには、修理用の用具や自転車のパーツが揃えてあって、数時間で修理を終える。彼は自転車のパーツにもやたらに詳しい。

 

アパートに帰ると、円佳という女性がいる。彼と同棲しており、二人の日常会話は至極短く、肉体関係を除けば、二人の精神的交流や互いの愛情は薄く、彼は暇があればゲームをし、それぞれ勝手に暮らしているという風だ。

 

 配送便を頼んだ先輩の同僚は、近々この仕事を辞めて、アパレルショップを開くという。それを聞いて、後輩の同僚が、同調を求めるごとく、この仕事の将来への不安をサクマに語るが、サクマは関心を示さない。

 

 ただ〝遠くへ行きたい〟というのが、サクマの前からの願望で、それがただ家から離れるだけのことなのか、それとも遠い外国へ行きたいと言うのか、紛争地域のような刺激性のある世界で生きてみたいと言うのか、それがどういう意味なのかは最後までわからない。ただ、「圧迫感のある」家を出るという目的で働き始めたと言うから、家での生活は何らかの理由で居づらく、居心地の悪い環境であったことが覗える。

 

 今日、一定の目標や生きる目的が持てず、人間関係も希薄で、友人もおらず、しかも非正規労働のような不安定な生活を強いられる若者は大都会には多い。そうした生活は、自ずと孤独感を募らせ、自堕落な刹那的気持ちに陥ったり、そのはけ口として自暴自棄になったり、刹那に流されて一時の快楽を求めることもある。そういう意味では、サクマは暴力的であることを除けば、一般的な非正規労働の若者の姿であり、その心象は外からでは伺うことのできぬ「ブラックボックス」(暗箱)みたいなものである。

 

 小説の後半は、いきなり刑務所の生活を描く。突然場面が刑務所になり、読者は戸惑う。暫く読み進めるとその理由が判明する。サクマは、今まで居場所を転々としたため税の滞納があり、その請求のためにアパートにやって来た税務職員の若い方を「笑っている」という理由で、突然ぶん殴り、駆けつけた警察官にも暴力を振るい逮捕された。それで刑務所送りになったのだった。

 

 6人部屋雑居房での生活や、そこで共同生活をする人たちを描きながら、房と作業場を往復する刑務所の生活を細かく紹介する。その描写も緻密だ。これは体験した者でなければ描けないと思わせる。

 

 しかし、ここでも、仲間の一人をいじめる奴がいて、思わずそのいじめる囚人に飛びかかり、鼻骨を折るほどの怪我をさせ、とうとう独房送りとなる。

 

 この50日間にも及ぶ独居房生活を、一日中何もせず、ただひたすら部屋の中央で座り続けねばならない苦痛を描く。この刑務所生活の中で、過去の自衛隊の上官の話や、円佳が妊娠した話などが語られる。妊娠した円佳から手紙が届くが、返事は書かない。手紙を房内に置かれた読み古された少年ジャンプに挟み込む。

 

 独房生活から解放されると、彼は一日も早い出所を希望するようになる。出所という目標に向かい日々進む日常に、何故か安らぎじみたものを感じている。それは、出所という目標があり、それにのみ心を傾けられるという安定した精神からきている。出所すれば、また重い現実が待ち受けるのだが、出所という目標を得て、彼の気持ちは穏やかなものとなっていく。やはり人には、当面でもあれ、生きる目標や目的が必要なようだ。

 

 『(この先)「どうなるかは誰にもわからない。それでいい」。円佳からの手紙は忘れよう』という言葉で、なぜ「それでいいのか」を語ることなく、中途半端なままにこの小説は終わる。

 

 果たしてこの小説は〝現代のプロレタリア文学〟と言えるであろうか。奥泉光氏が評するように、「格差社会の底辺で生きる人物」をありのままに、子細に描写しているという意味では「古風なリアリズム」風ではある。しかしそれは単なる写実主義である。

 

 資本により搾取され、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描き、そうした社会を変革しようとする自覚と行動に立脚した文学、読む者、とりわけ労働者に感動と勇気と未来を指し示す文学を「プロレタリア文学」とするならば、この小説はありふれた単なる私小説である。

 

 「底辺で生きる人物」をリアリズム風に描けば、それが「プロレタリア文学」であるというわけではない。第一、作者はサクマをあくまで客観的に描こうとするが、彼の生活をプロレタリアの生活と捉え、社会からはじき出され、虐げられた厳しい現実と向き合わせるということをさせない。ただ怒りにまかせて暴力を振るわせるだけである。対談における作者の次のような下りが象徴的である。少し長いが引用しよう。

 

 「サクマは低所得者で非正規、個人事業者ですが、そうした人たちは保護するべき、希少動物でしょうか。私にとって、労働者は弱者ではなく強者なのです。現場で肉体を駆使して働いている。使う側より、そちらのほうがめちゃくちゃカッコいい。だから非正規とかギグワーカーといった文言にこめられた、保護とか弱者というニュアンスに対して拒否感や忌避感を抱いてしまう。サクマなら『か弱い人たち』の言葉だというかもしれません。……国として行政として、目指すべき制度、理想の状態はあるし、そうした議論は私もよく目にします。しかし『あちら側』の人たちは制度の話で止まっていて、サクマたちの本当の生活や感覚にもどこまで寄り添えているのか。…サクマであれば、殴って解決しようとするかもしれませんね。自分を安く使っているヤツもムカつくし、それにゴチャゴチャ言ってるヤツもムカつく。『うるせえ、ゴン!』みたいに」(『文芸春秋』3月号受賞者インタビュー、252)

 

 「労働者は弱者ではなく強者」で「現場で肉体を駆使して働いている」から、「使う側より、その方がめちゃくちゃカッコいい」。「非正規とかキグワーカー(単発で仕事を請け負う働き方をする人)と言った文言に込められた、保護とか弱者というニュアンスに拒否感や忌避感を抱いてしまう」と砂川氏は言う。

 

 彼がそう思うのは、昨今の政府や政治家議員、既成政党、評論家たち、つまり「『あちら側』の人たち」が、彼らを『か弱い人たち』として、欺瞞的な、形だけの保護政策を主張したり、取ったりしていると考えているからで、それへの怒りがある。それは全くその通りで、例えば安倍首相(当時)が唱えた非正規労働者への「同一労働同一賃金」や「非正規から正規へ」などか典型的であろう。非正規の賃金は同一どころか、正規とは益々かけ離れ、その職さえ失い、非正規労働者の数は今や四人に一人で益々増えるばかりである。

 

 労働者が「強者」となるのは、資本や権力に対し、何万、何十万と団結して立ち上がった場合であって、孤立した状態では、肉体労働だろうが、何であろうが「弱者」である。サクマが自転車便の仕事を失えば、立ち所に食うに困り、すみかも追われるであろう。妊娠した円佳が失業すれば、幼子を抱えて、どうして生きていくのか。砂川氏は労働の意味も、労働者の立場も理解していない。

 

 最後に砂川氏を紹介しよう。砂川氏は1990年大阪府吹田市生まれの32歳、デビュー作は『市街戦』(文学界新人賞)で、イラク紛争に身を投じたKを描いた。

 

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』に憧れて、自衛隊に入隊し、攻撃ヘリの操縦士となる。現在は地方公務員である。

 

 対談によると、自転車便の経験があるかどうかは不明だが、刑務所に入った経験は無く、知り合いから聞いて描いたという。きわめて「安定した」職業の経験者である。

 

 また、芥川賞授賞式で、砂川氏は次のようなスピーチをした。 

 

  「もうしゃべって大丈夫ですか?めちゃくちゃ緊張してるんですけど、っしゃあオラあ!! 海の向こうで戦争が起こっていて!くそみたいな政治家がたくさんいて!そういうものに怒りを感じながら書いていたような気もします。よく聞かれるんですけど、怒ってない気持ちがないわけないじゃないですかあ。っという気持ちです。」と絶叫した。

 

  芥川賞がどういう基準で選ばれるのかは知らないし、興味も無いが、審査員によって候補作がひとつ、またひとつとふるい落とされて、この作品がたまたま残ったというところであろうか。こんな小説が芥川賞に該当するものなら、この賞も地に落ちたものである。読みながらの退屈さはたまったものではない。自転車便という仕事や刑務所内の暮らしぶりはよくわかるが、ただそれをくっつけただけのことである。 ()

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