神奈川でマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の発行している「労働者くらぶ」第26号から、的場昭弘氏に対する批判を紹介します。(一部書き直しています)
的場氏の「プルードン擁護」に反対する
★『哲学の貧困』はなぜ難しいか
『哲学の貧困』の学習会もようやく2回目に入ろうとしています。参加者の皆さんは、私同様、難解な本書の理解にご苦労していることと思いますが、その原因には、本書がマルクスの思想形成の途上に書かれた著作であることもありますが、また私たちが、プルードンの主張をマルクスの要約を通して理解せねばならず、その要約もマルクス独特の皮肉を含んだもので、なかなか理解できないからです。要するに、プルードンの主張とマルクスの批判がともにすっきりと把握できないからです。そこで私がお勧めしたいのは、どの文庫本の翻訳にも付録としてついている「マルクスからアンネンコフへの手紙」(1846年12月28日)です。この手紙は、マルクスがプルードンの『貧困の哲学』をわずか二日間で読んで、直ちにロシア人の友人にその感想を送ったものですが、マルクスは、この手紙でプルードンの小ブルジョア的、空想的な思想を完膚なきまでに批判しており、これを読めば『哲学の貧困』を読む必要がない、とまで感じるほどです。
ところで、「労働者くらぶ」24号で、Aさんが神奈川大学の的場さんの「プルードン擁護」を紹介してくれています。的場さんはマルクスの翻訳や紹介で有名ですが、その分、氏の影響も少なくないと思います。氏のプルードン擁護を批判する必要があると考えました。
★経済こそ人間社会を解明するカギである
Aさんの的場論文の要約を読みますと、的場さんはマルクスの唯物史観や経済理論を評価しながらも、「マルクスは、経済学の延長線上で、プルードンの論理の矛盾を指摘し、(プルードンの)経済学への無理解がプルードンによる貧困の経済的解決を不可能にしていると(マルクスは)批判する。マルクスのその点の指摘は、けっしてまちがっているわけではない。むしろマルクスは、きわめてシャープであり、論理の一貫性もある。そしてそれは『資本論』にまでつながっている側面を持っている」と、論じています。しかし、的場さんの論じ方(評価の仕方)では、経済学が他の学問と同列になり、人間や社会にとって経済がもつ本質的な重要性が見失われてしまいます。
的場さんは、マルクスが「経済学の延長線上」でプルードンを批判するのは、「けっしてまちがっていない」と述べています。わたくしは、的場さんが、マルクス研究者として唯物史観つまり人間にとって経済のもつ意義を十分に理解していると思いましたが、マルクスが間違っていないというのなら、プルードンの方が間違っていることにならないでしょうか。的場さんは、「プルードンは、価値や、競争、分業といった経済的カテゴリーは、歴史的に廃棄されるものではなく、ただ調節されるものである」と主張した、と述べています。しかしこれこそ、マルクスがプルードンを批判する、その小ブル性、非歴史性ではないでしょうか。マルクスは、商品経済の基礎である価値、競争、分業といった概念が、永遠のものではなく歴史的なものであること、そんなものが長く存在しなかった時代があったこと等を述べて、プルードンを批判しているのです。
★「人間の意志」は社会の生産関係から独立したものではない
さらに的場さんは、「プルードンが見つけた新たな視点」として「資本主義の矛盾が生産力の発展と生産関係の矛盾によってたとえ起こるとしても、それを乗り越えるために、人間の意志と社会に対する組織化の問題を解決できない限り、新しい社会の展望はないという視点」を挙げています。「資本主義の矛盾」(その必然性を「たとえ」などと言ってごまかしていますが)を「人間の意志と社会の組織化によって乗り越える」と言っています。しかし、これこそマルクスがあまたの空想的社会主義者たちを批判してきた点です。人間の意志はその人間が属する社会、その生産関係から独立したものではありません。その社会の矛盾の中から矛盾を解決する人間の意志も方便も成長してくるのです。「社会の組織化」も同様です。社会の組織化も、自由にその社会を組織できるのではなく、その社会の矛盾の中から新しい社会の組織化の方向や手段も成長してくるのです。
的場さんは「マルクスとプルードンのこのすれ違いのなかに、新たなる未来社会の可能性があるように思える。」と言っていますが、これは、すれ違い(すれ違いではなく対立です)と言ったものではなく、マルクスとプルードンのどっちも否定したくない、評価したいという的場さんの折衷主義的立場が表れています。そんな折衷主義は、この両者の論争では通用しません。マルクスが正しいか、プルードンが正しいか、どちらかです。的場さんともあろうものが、「人間の意志」を「新しい視点」などと評価するのは驚きです。彼は唯物史観を本当に理解しているのでしょうか。
★プルードンの小ブル性―人間主義、その他
以前、私はプルードンを読まないでプルードンを批判するのはよくないということで、彼の思想をよく表しているという『19 世紀における革命思想の一般的理念』(「世界の名著」53)を読んでみましたが、その中でプルードンは革命と反動について次のように述べています。
「反動の本能がすべての社会制度にとって固有のものであるように、革命の必要もまた同様に不可抗的である。これら二つの事態、つまり反動と革命は、両者間の対立関係にもかかわらず、人類にとって必要不可欠であること、したがって、社会を左右から脅威する暗礁を回避するための唯一の手段は、…反動を革命と永久に妥協せしむることである。」(p82)
見られるように、プルードンの立場は、革命と反動との妥協主義、協調主義です。また同書の中でプルードンは、「私は、人間の意図の善良性を常に信じていることを誇りにしている。この善良性がなければ、政治家の無罪はどうゆうことになるだろうか?」(p95)などと述べています。ここにはプルードンの人間観―性善説や小ブル的な人間主義が表れています。またプルードンは、所有(財産)権に対する攻撃で有名ですが、その財産に対する攻撃(「所有とはなにか」「それは窃盗である」)自体が、私的な所有権に対する全面否定ではなく、大きな所有、巨額な財産に対する攻撃であって、小さな所有、生産手段の小所有はむしろ人間にとって不可欠であり、自立した人間にとって必要であるとして擁護し、むしろ社会改革の目標としているのです。
★マルクスとプルードンの決裂は必然
このような小ブル的思想家のプルードンとマルクスが決裂するのは、当然すぎるほど当然と言わねばなりません。プルードンは、ヘーゲルや経済学者たち(アダム・スミスをはじめとする古典派経済学者)を批判し、あたかも自分を彼らに比肩する思想家を気取っていますが、ヘーゲルのような壮大な観念弁証法の体系も作れず、またブルジョア社会の経済を徹底的に解剖することもできなかったプルードンのやったことと言えば、両者の成果の切れ切れをとってきて、折衷的、空想的な体系(?)を作ったにすぎません。
また的場氏は、プルードンは、「当時は明確に存在していなかった社会学という分野を切りひらきつつあったのに対し、マルクスは、従来の経済学という土俵の上から批判していた。」として、社会学を経済学の上におき、プルードンを社会学の先駆者として、マルクスより優れていたと評価するのです。しかし社会学は、社会現象を深く掘り下げもせず、その表面を“這いずり回る”だけのブルジョア的学問であり、マルクスの経済学に代わるような学問ではありません。このような学問を評価するところに的場氏のブルジョア性が表れています。
★唯物史観に立ち、労働者の階級闘争を発展させよう
最後に、Aさんも指摘していましたが、的場氏は、大方の学者やマスコミ同様、旧ソ連邦などを社会主義国家と規定していること、また最近はやりの“アソシアシオン”論などについても言及していますが、ここでは省略します。
マルクスは、プルードンの様々な側面を徹底的に批判し、プルードンが、資本主義的生産様式をそのままにして、彼の平等社会を実現しようという空想的試みを嘲笑しています。しかし現代の資本主義社会には、さまざまに形を変えて第二、第三のプルードンが次々と登場し、また的場氏のようにその擁護を買ってでるインテリも少なくありません。彼らに共通するのは、資本主義を廃絶することではなく、資本主義の様々な改良を提案していることです。唯物史観を基礎に剰余価値説を中心にしたマルクスの経済理論を武器に、労働者の階級闘争を発展させていくこと、これこそ労働者派、社会主義派の使命ではないでしょうか。(K)
「横浜労働者くらぶ」学習会案内
― 3月の予定—
◆「資本論」第1巻学習会
・3 月8日(水)18 時 30 分~20 時 30 分
・県民センター 703 号室
・相対的剰余価値の生産
― 第13 章「機械設備と大工業」(続き)
◆「哲学の貧困」学習会
・3 月 15 日(水)18 時 30 分~20 時 30 分
・県民センター 703 号室
・第2章「経済学の形而上学」2節以下全部(付録含む)
◆「経済学批判」学習会
・3 月 22日(水)18 時 30 分~20 時 30 分
・県民センター 701 号室
・「経済学批判序説」
◆「資本論」第3巻学習会
・3 月 22 日(水)18 時 10 分~20 時 30 分
・県民センター 704 号室
・第 7 篇「諸収入とその源泉」50 章から終わりまで(エンゲルスの補足含む)
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