労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2023年07月

ハワイの移民事情

 多く語られることのないハワイへの移民たちによる労働者の闘いを伝える「ハワイの移民事情」について紹介します。(神奈川でマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」発行の『労働者くらぶ第312023年7月19日刊』から)

ハワイの移民事情


 世界保健機構(WHO)は世界の新型コロナウイルスの感染状況が改善傾向にあるとして、5月5日「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」を解除した。これを受け日本でも8日付けで、全世界に発出しているレベル1「十分注意してください」を解除した。

 

4月末の連休の始めには新型コロナウイルスの感染症の分類を2類相当から5類への引き下げに伴い、新型コロナウイルスに関する規制が解除され、水際対策なども無くなりいわゆるコロナ前に戻ったのである。そして5月の連休では国内旅行はコロナ前の状態に戻ったと言われ、海外旅行に関してはこれからといった状況である。円安の進行の下ではなかなか海外旅行とはいかない。そこで政府は海外旅行へのバラマキ支援策の大盤振る舞いをこれから始めようとしているのである。

 

日本人の海外旅行の人気はハワイが高い。ハワイと日本とのかかわりは古くて深く、1868年にはグアムとハワイへ向け日本人の移民が始まった。江戸幕府から明治政府への移行期にあり、パスポートなども手にすることなく外国の地を踏むことになった。ハワイへは153人が渡り、後に彼らは明治元年にちなみ「元年者」と呼ばれるようになった。

 

日本人の移民の流れはハワイ、アメリカ本土、ブラジル、そして南洋、オーストラリアへ向かい、1920年代には日本の移民政策は最盛期を迎えた。移民は受け入れ国政府の労働力補充の経済的要請であり、経済を維持し国家を守るための資本主義の延命政策、賃金奴隷の輸入である。実際移民で渡航した人々の労働は過酷で、ルナと呼ばれる現場監督が鞭で殴るなど酷使や虐待が行われ、1日炎天下の10時間労働、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を引かれた文字通り半奴隷のような生活であった。

 

当時のハワイ王国はイギリスの臨時政府の手からアメリカやフランスの支援を受け主権を回復していったが、今度はイギリスに変わりアメリカの植民地支配が広がっていくことになるのである。1893年アメリカ軍はクーデターによりハワイ王国を終焉させ、1898年にはアメリカはハワイ併合へと進んでいくのである。

 

  1868年から始まったハワイへの日本人移民は1900年までは国や民間企業の斡旋によりやってきた契約移民、そして1908年までは自由移民と呼ばれている。ハワイへの移民は日本からだけでなく1830年代には中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェーなどから移民が始まり1850年外国人による土地所有が認められるようになると、白人の投資家たちによってハワイ各地にサトウキビ農園が設立され、一大産業へと急成長した。アメリカの南北戦争などの影響によりサトウキビの需要が更に高まり、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となっていった。
製糖工場で働く日本人移民労働者

 

1900年を超える頃にはサトウキビ労働者の70%を日本人移民が占めるようになり、日本人移民は定着率が高く、この時期までに22万人がハワイへ渡ってきている。ハワイ準州となったことでアメリカ本土の法律が適用されることにより、1924年増加する日本人移民に対し移民法を成立させ、日本人移民のハワイへの移住は不可能になっていく。しかし定住した日本人の子孫が増加したことから、ハワイの全人口の日本人移民と日系人の割合が増加を続け、ハワイでの最大の民族集団になっていった。

 

ハワイ王国の時代の日本人移民は過酷な労働条件、不当な扱いの改善を要求し激しく農園主との戦いが繰り返された。1900年までには数百件のストライキが行われたが、農園労働者の待遇改善の訴えは当時の当地法によって違法とされていたため、指導者たちは牢獄へ送られ待遇改善には至らなかった。

 

アメリカのハワイ合併後は1900年までのハワイの基本法が廃止され、過酷な労働条件は緩和されていきストライキ件数も減少していった。1908年日本人移民の法学者が『日布時事』でハワイとアメリカ本土の労働条件の格差を指摘し、再び労働者の待遇改善を主張したことにより給与の引き上げを支持する「増給期成会」が結成され待遇改善運動が広がり、1909年待遇改善運動に呼応した日本人労働者によってオワフ島各地の農園で一斉に7000人規模のストライキが実施された。これに対し農園経営者の協会はストライキ参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5000人以上のストライキ難民が発生し都市に溢れた。活動家たちは耕地農業妨害罪などで逮捕され、ストライキそのものは失敗に終わったが、経営者側に労働環境の見直しを認めさせ増給をも勝ち取ることとなった。

 

その後第一次世界大戦などの影響によりインフレが進行すると、1920年には他国の労働者も合わせた全農園労働者の約77%が参加したハワイ史上最大のストライキがオワフ島を舞台に展開された。このストライキで1万人以上の日本人労働者が農園から追放されたが、結果的には5割の賃上げを勝ち取り同時に労働環境の改善も勝ち取ることとなった。しかしこうした移民の闘いは労働者の階級的闘いへ発展することは出来なかった。半奴隷的状態から抜け出すための闘いであり、賃金や住居の改善などもっぱら待遇改善の闘いに終始したものであり、従って、資本の勢力との戦いを挑むまでに成長することはなかった。

 

ハワイへの移民たちによる労働者の闘いが多く語られることはないが、日本とハワイとの関係において移民の闘いは決して忘れ去られていいことではないだろう。人気のリゾート地での日本人移民の闘いの限られた歴史や痕跡を辿るのも少し違った意味でリゾート地での過し方ではないだろうか。マリンスポーツやショッピングだけでなく機会があれば是非移民労働者の闘いのエネジーが伝わる場所へ足を運んでもらいたい。 (Ku)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

8月の予定

「経済学・哲学草稿」学習会 ・8月16日(水)1830分~2030

・県民センター 702号室

・第3草稿の2「私有財産と共産主義」 ~4「貨幣」まで

「資本論」第1巻学習会 ・8月9日(水) 1830分~2030

 ・県民センター 702号室

・第7篇「資本の蓄積過程」第22章第3節~第23章第1節まで

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

韓国徴用工裁判原告者の講演会に参加

韓国徴用工裁判原告者の講演会に参加して思う

 

最高裁勝利判決を勝ち取るも、韓日政府の政治決着糾弾

 

この5月の広島サミットでは、帝国主義国首脳が「核抑止論」を唱えて「戦争防止」を語りあう茶番劇が演じられた。78年前に米国はこの地に原爆を投下し、その圧倒的な破壊力で日本帝国主義を粉砕したが、原爆の惨禍は今なお被爆者やその子孫を苦しめている。

 

1910年、当時の大韓帝国は日本の軍事力で強引に併合され日本の植民地となった。朝鮮半島の人達は土地を奪われ、米など作物は日本への供出で多くの人民は飢餓に苦しめられ、職をもとめて日本への移住者も多く、民族差別も酷かった。併合13年後の1923年関東大震災での流言飛語による自警団等による彼らへの虐殺は、「恨みをかっている」と自覚していた政府役人や在郷軍人会の恐怖心が背景にあった。

 

日中戦争や太平洋での米英等との戦争で不足する労働力として日本に移住(企業の募集やしばしば威嚇・暴力をともなった徴用で)した人が多くいた。なかでも広島は軍事工業都市であり、工場労働者として多くの朝鮮半島出者が居住し被爆者も多い。

 

サミット終了から数日後、広島市から瀬戸内海を隔てた愛媛県松山市にて韓国徴用工裁判原告者パク(韓国京畿道原爆被害者協議会代表)さんの講演会があり参加した。彼の発言や会場でのやり取りは、通訳二人を介して以下のように行われ、一部私の補足説明も加えた。

 

パクさんの父親は広島で三菱重工徴用工として働き、194586日被爆。満足な補償もなく帰国し、後遺症に苦しみながら生計をたて家族を持ち生涯を終えた。パクさん自身も原爆症遺伝による症状があり、父親の意思を受け継いで、被爆と強制労働の補償を求めて運動してきた。

 

2019年には釜山やソウル支部の200人の原爆被害者会員で横断幕やピケット うちわ)を持って、「強制徴用問題について日本は謝罪し補償せよ」と米大使館と日本大使館前でデモや記者会見を行った。

 

201811月大韓民国大法院(日本での最高裁にあたる)で日本被告企業に損害賠償を認める確定勝利判決が出た。しかし、自民党政府は1965年の日韓条約で「賠償は解決済み」として日本企業への賠償金取り立てに反対、国際司法裁判所への提訴を主張、半導体製造材料の韓国への輸出規制を行い、韓国側も日本との軍事協力一部凍結策など、マスコミは「日韓関係は戦後最悪」と報じた。

 

なお、日韓条約での日本側からの資金援助(賠償の意味合いを主張し流布させている政府や追随するマスコミ報道は事実に反する。当時の椎名外相は国会で「賠償」を否定、「経済協力」と答弁)で韓国は資本主義的経済発展を遂げるも、元徴用工の人たちへの補償はほとんどなかった。

 

その後軍事独裁政権は打倒され、民主化された韓国では人権意識などが高まり、元徴用工の人たちは90年代から次々と日本の裁判所に損害賠償を求める訴訟を起こした。しかし、原告の訴えは退けられ、2000年以降、韓国で同様の訴訟が起こされた。

 

20232月、韓国外交部職員から「被害者は三菱重工業でなくても日本政府が謝罪すれば韓国企業が出した費用で補償を受ける案」が原告団に提案され、被害者および子孫全員が合意することにした。ところが、3月ユン大統領政府が「日本政府や企業が謝罪しなくても補償を行う」という解決策を発表した。

 

司法主権が政府によって損なわれることに最高裁は何の措置もとらないことを糾弾し、記者会見を行った。しかし、勝訴した被害者15人のうち10人は補償金を受け取った、残りの5人中3人は日本企業の謝罪があるまで受け取り拒否という意向である。(人数は講演会時点での人数)

 

なお、会場での通訳(在日2世の方)の補足説明では、韓国の平均賃金は今や日本を追い抜いていると報道されていますが、貧富の差は大きく、生活上受け取りたいとの原告者もおられるとのこと。

 

三菱重工での労働は自由な外出もできない監獄ともいえる宿舎生活で、約束の賃金は1割のみ支給、残り9割は強制預金として天引きされ日本の敗戦とともに支払われぬまま被爆した体で帰国した。賠償金額はこの時の未払9割分と賠償金という意味合いで、2013年釜山高等裁判決時で15人分5000万円だった。日本企業が支払いを拒否し続けたので利息がつき最終的には一億円以上となった。

 

なお、被爆者や徴用工に関連する団体は複数あり、今後は統一した形での運動を進めたいとも語られた。なお、韓国政府が認定した元徴用工は故人を含め226千人、損害賠償を求めて係争中の裁判は2015年末で13件、2016年に地裁判決で原告勝利は3件。被告企業はそれぞれ、新日鉄住金・、三菱重工、不二越(女子挺身隊)。原告は3件で100名未満。

 

会場には韓国から6名が同行しており、20代から30代の若者ばかり、これに対し参加者の日本人は私と同年配(60代以上)がほとんどであった。終了後、手元のメーデービラ残部を手渡し、拙い英語で、「日本の社会主義政党の者だ、ビラにはQRコードがあり是非アクセスしてくれ」と伝えた。スマホですぐアクセスしたようだったが、一人から握りこぶしで「連帯」のポーズがあった。

 

彼は主催の知り合いから「済州島で興武団という政治団体の団長だ」と聞かされた。後日交流で韓国に行ったことのある友人から「金日成派」(朝鮮民主主義人民共和国系)とは別の抗日パルチザンの系統だと聞いた。彼は「ユン政府は、韓国会社の半導体製造を世界のシェア10%までは認めてほしいと米国大統領に言った、主権国家たる韓国が自国の経済活動になぜ米国に許しを得るのか?」

「こんな卑屈な大統領なので支持率は2割から3割だ。次の選挙ではひっくり返したい、対米従属の彼らに未来はない」と語った。日本の共産党が「対米従属」を強調するのとは歴史的な事情が違うのであろうが、労働者の国際主義の立場からは民族主義的傾向を感じる。

 

日本の35年に及ぶ植民地支配を「合法」「正当」だったと開き直り、「賠償済み」として徴用工問題への謝罪や賠償を拒否し、韓国司法判断も同国政府を通じて捻じ曲げた日本政府は断固糾弾されるべきだ。組織的闘いを通じて「勝利判決」を勝ち取った原告団の人達に敬意を表した上で、日本で反動的な岸田政権と闘う労働者として連帯の挨拶をしたいと思う。

 

今回の日韓両国の政治決着には、両国を支配する資本家達の「当面」の利益が貫かれている。「当面」というのは、資本主義ではお互い競争(日韓では半導体、造船、自動車、鉄鋼生産など)して利潤獲得に励む存在だ。今回同行の若者達ではないが、賠償を韓国企業が肩代わりする方針を「売国的」と非難したグループも報道された。非難すべきは、自国の資本家やその代理人を務める政府である。民族主義や愛国主義では資本家を利することになる。日韓労働者は自国の資本家支配の打倒のため連帯して闘おう。(愛媛Y )

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
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