労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2023年10月

部落と解放運動の過去と今――解放同盟の腐敗堕落と共産党の退廃

部落と部落解放運動の現状についての投稿があったので掲載します。部落差別の根本的な解決に向けて、部落解放同盟の運動の総括や共産党系「全国地域人権連合」の運動を批判しています。労働の解放を目指す闘いとの結合の重要性を訴える内容です。

 

部落と解放運動の過去と今

――解放同盟の腐敗堕落と共産党の退廃

 

昨年は部落解放運動にとっては水平社創立100年の記念すべき年でした。しかし、今の部落解放運動の現状は水平社創立の先人が知れば驚き嘆き悲しむほどの惨状です。最近、部落と部落解放運動について思い出し感じることがあり、それを記してみます。まずは1967年から1975年までの部落解放同盟が全盛期の時の委員長の朝田善之助氏の「解放理論」から語りたいと思います。

 

資本との闘いを提起しない解放同盟の「解放理論」の欺瞞性

――闘いを「行政闘争」に一面化し解放同盟の経済主義的堕落を促進する

 

朝田善之助氏は行政闘争を主な内容とする「三つの命題」からなる「解放理論」を提唱しました。この「解放理論」は部落解放同盟の一時代に大きな影響と問題を引き起こしました。この時代「解放理論」はまさに部落解放運動において一世一時代を風靡して部落解放同盟員のみならず、多くの自治体職員も研究会を組織し冊子を発行するなどして学んだのです。

 

「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛み知っている被差別者にしかわからない」。「日々生起する一切の問題を部落問題として、差別として、で、部落民にとって、不利益なことは一切差別である」(「ウィキペディア、「朝田理論」)。これは新左翼の革共同の指導者黒田寛一的な「プロレタリアートの立場にたたなければ真実、事実は認識できない」という、主観的観念論に相通じる理論でした。この頃、解放同盟内でよく言われたことばに「痛みは踏まれたものでしかわからない」があります。この言葉は一見もっともらしく聞こえますが認識論における一種の不可知論です。客観的認識はその立場にたつことなくしては不可能だというのです。

 

「解放理論」の三つの命題「部落差別の本質」「部落差別の社会的存在意義」「社会的意識としての差別観念」とは次のようなものです。

 

「部落差別の本質は、部落民に市民的権利が行政的に不完全にしか保障されてないことにある。~すなわち部落民は主要な生産関係から除外されているのである。~部落差別の社会的存在意義は~私的所有の属性から生まれたものであり~部落民と労働者及び一般人民とを対立、抗争させる分割支配の役割を持たされている。~階級社会における社会意識は、ブルジョア的であるか、プロレタリア的であるかのいずれかであり、その中間は存在しない。~部落民に対する社会意識としての差別観念は~自己が意識するとしないとのかかわらず、客観的には空気を吸うように労働者および一般人民の意識の中に入りこんでいる」(「『矢田教育差別事件』とはなにか、部落解放同盟中央本部、1974年」)。「社会意識に差別があるという時、私達は率直にいって、差別している者とされている者との社会関係であると見ています」(朝田氏の発言「大阪の同和問題」、1967年)

 

(この当時の解放同盟は「解放理論」を引用、紹介するのにそのすべて全文を引用しなければ、その理論の一行でも抜かせば「歪曲」と言い出すほどでしたから、個々の記述で以上書いた「解放理論」の紹介も当時の解放同盟からすれば「歪曲」と言われかねません。「解放理論」を「歪曲」しないでおこうと思えばそれを全部丸暗記する以外にはないようなほどの状況でした。)

 

「解放理論」社会科学的用語、マルクス主義的用語を恣意的にちりばめたモザイクのような理論であり、その実践的内容はといえば経済主義、部落排外主義と観念的な糾弾路線でした。それはスターリンの民族問題にも似たテーゼ風のドグマです。

 

「解放理論」は行政闘争、経済主義を社会科学的用語、マルクス主義的用語で粉飾したものでした。「主要な生産関係から除外」が言われていますが、この社会に生きている部落民が「主要な生産関係」である資本主義から除外されることなどありえません。

 

「解放理論」は闘いを行政闘争に限定するだけで、資本との闘いを提起するものではありませんでした。この理論は部落差別のすべての問題の解決を行政に求め、資本の支配は問題としない一種の階級協調主義でした。現実の「行政闘争」の実際的中身は、同和予算獲得であり、自治体への雇用促進であり、企業への税の減免であり、「解放理論」の「社会意識としての部落差別観念」論にもとづく観念的な糾弾闘争でした。

 

「差別観念」が支配的だったとしても「普遍的」ではなく、意識的労働者にとっては無縁のものです。「解放理論」は部落民以外のすべての労働者を差別する側に追いやったのです。「解放理論」は部落民とそれ以外の人民とを仕切り、部落民とそれ以外とを絶対化する部落排外主義の理論でもあったのです。まさしく分断の理論でもありました。

 

部落解放闘争は労働者の階級闘争と結びつけては提起されなかったのです。これは、大阪での企業連合会の活動などにブルジョア的階層が加わり、解放同盟のブルジョア的変質をさらに加速させることになります。「部落民」を絶対化し、部落解放闘争を行政闘争に一面化する「解放理論」は、企業=資本とも連携して資本の利益さえも守るような理論に帰着したのです。

 

「解放理論」の企業=資本の利益を守る「企業連」の活動を通じて税の減免などの活動は部落の外の企業=資本とも連携することとなります。水平社創立当初の部落解放運動の革命的ともいえる先進的性格は見るかげもなくなっていきます。

 

解放同盟は、「解放理論」を絶対化し、この「解放理論」は水平社以来の部落民の闘い、部落民の血と汗と涙の結晶として闘いの中で勝ちとられたものであるとして、この理論を批判するものは「差別者」として解放同盟から批判、糾弾されることになりました。「解放理論」は誤謬のない絶対的理論として流布されたのです。

 

「解放理論」による糾弾闘争とは

――共産党とのセクト的対立と「解放理論」のもたらしたもの

 

解放同盟が問題にした1970年代前半におきたR乳児保育所保母「差別事件」があります。解放同盟はその職場での保母らの乳児に関する直接の「差別発言」を主たる問題としたのではありません。この「差別発言」を論議した職員会議において「解放理論」を「朝田理論」述べたS保母の発言が部落民の血と汗と涙の闘いの結晶である「解放理論」を「朝田理論」と矮小化し貶めた最大の差別であるとして解放同盟から糾弾されたのです。この事件は共産党によって解放同盟による人権侵害問題だとして、共産党と解放同盟の全面的対決となり大きな問題となりました。

 

共産党は1969年に「今日の部落問題」、1970年に「部落解放運動とイデオロギー問題」を発刊し、解放同盟はこれらの著作を「差別文書」として糾弾しましたが、部落問題を「米日独占資本主義」に対する「民主主義的闘い」と規定するなど根本的な限界はあるものの解放同盟への批判の内容には正しく、的を得ているところもありました。だが、共産党は後に部落問題における「国民的融合論」を唱え、「国民的融合論」とこれらの著作の内容との理論的整合性がとれなくなり共産党はこれらの著作を廃刊とします。

 

「解放理論」の一見、マルクス主義的、左翼的な装いは絶対的に正しい理論として部落内での知的な青年層もとらえることとなりました。「解放理論」の大きな罪の一つは部落解放運動を将来担うべきであろう有望な真面目で知的な部落の若者をドグマ的理論でとらえたことにあると思っています。後に朝田氏が解放同盟の主流派から追放されたとき、彼らも朝田氏とともに運命を共にしました。彼らは「家賃値上げ反対同盟」を結成しましたが、解放同盟の主流を担うことはありませんでした。解放同盟は有為な人材を失ったのです。その後、堕落しているとしか思えないような人物が多く解放同盟に加入するようになりました。

 

「解放理論」は解放同盟の理論的武器として行政闘争、糾弾闘争においてその「威力」を発揮することとなりました。1973年の解放同盟による西宮市役所占拠事件、1974年の解放同盟による監禁、暴行の八鹿高校事件はこの「解放理論」なくしてはありえなかったと思っています。「解放理論」はすべての行為を正当化するかのように見えたのです。1970年頃から朝田善之助氏が解放同盟委員長の座を追放される1975年頃までは「解放理論」が解放同盟内で全盛でした。

 

「解放理論」全盛期の部落と解放運動の実像

――「同和事業」の促進と解放同盟の堕落

 

この当時、部落(行政用語で「同和地区」)内にある行政の福祉の総合的窓口的施設、セツルメントに隣保館があります。この当時、京都市内の都市部落は不良住宅も多い時代でした。多くの隣保館では識字教室の事業もありました。30代のお母さんでも字が読めない女性もかなりいたのです。ある公的試験で中学卒業の証明書が必要となったとき、中学卒業証明書が取れない女性もすくなからずいたのです。失業対策事業に従事する女性も多い時代でした。(今は京都市ではすべての隣保館は既に廃館となっています。)

 

だが、この頃は地域の住民同士の交流も盛んで、通りには絶えず人がいて、話をしている。共同浴場も住民の交流の場となっていました。

 

部落差別の現実があり、1969年から国の施策として「同和対策特別措置法」にもとづき「同和対策事業」が行われ、その後、法の名前を変えながらも施行された国策としての「同和対策事業」は2002年に終焉します。この間に部落の環境改善は進み、高校進学率も上がり、部落民の多くも「同和選考採用」などで現業職であっても公務員になるなどの一定の安定した職を得ることになります。だが、「同和対策事業」に群がったのが解放同盟の一部特権的幹部と、それに連なる利権屋です。

 

1970年代前半に解放同盟内で多く使われていた言葉が、部落差別は「一般差別」と異なる、違うとの言葉です。「一般差別」とは、女性差別、朝鮮人などの民族差別のことです。つまり、部落差別は女性差別、民族差別よりも特別で、重大な問題であるとの意識です。

 

この時代には、部落内には、まだ多くの在日朝鮮人が居住していました。これは行政の「属地属人主義」(「同和施策」の対象者は「同和地区」に居住し部落に系譜を持つものに限定するとの施策)ともあいまって、不良住宅を除却して建設された「改良住宅」には在日朝鮮人は入居できず部落内から在日朝鮮人を追放することになりました。解放同盟がこれに異議を唱えることはありませんでした。この当時の解放同盟は女性差別、朝鮮人差別、民族差別にはきわめて冷淡であったのです。

 

この頃の解放同盟員の多くは在日の人も独自の運動をして、彼らは彼らで解放同盟のような成果を勝ちとればよいと言っていました。地区内では日本人、在日の区別なく交流があり共存し地域社会を形成していたにも関わらず、そう言ったのです。その後、解放同盟は在日朝鮮人も含む「被差別統一戦線」を唱えるようになりますが内実のあるものとはなりえませんでした。

 

当時の解放同盟の論理は「闘わざるものとるべからず」です。これは当時の解放同盟大阪府連大賀正行書記長の言葉です。この「闘い」には、解放同盟員を動員しての大衆交渉、行政闘争も含みます。京都市においては、吊し上げのような大衆交渉、行政闘争で権限が限られている京都市の課長級らの職員を責め立てることです。この交渉は長時間、しばしば深夜に及ぶこともありました.課長級の職員にはたいした権限は与えられていなく、いろんな要求を出されてもその回答をする権限はなく、立ち往生するのが常でした。

 

「闘わざるものとるべからず」の論理は大阪などで「同和行政」からの施策が解放同盟を通じてしか行わない「窓口一本化」にもつながり解放同盟のさらなる堕落をもたらすことになります。

 

解放同盟の「糾弾闘争」「大衆交渉」「行政闘争」とは

―行政と癒着の「行政闘争」、利権屋の横行をもたらす

 

そしてこの「大衆交渉」「行政闘争」「糾弾闘争」に加わる解放同盟員には「同和選考」で採用された京都市職員も少なからずいました。京都市職員が課長級などの京都市職員を責めるという構図です。しかも、この「大衆交渉」「行政闘争」が日中に行われる場合には、京都市職員であれば「職免」(「職務に関する義務の免除」)が乱発されました。これは年休などの休暇ではなく、仕事職務をしなくても勤務と同様にこの時間の給与は保障されるのです。

 

この当時の言葉が「つぶれる」です。「行政闘争」でノイローゼなどになった課長級などの職員が精神的に病み休むことなどを言います。

 

解放同盟による同盟員への研修費用が京都市の「裏金」で賄かなわれていたこともありました。この裏金作りに加わった職員はその一部は「公金詐取」として逮捕されました。行政のカネでの「運動」なんか本来ありえませんが、この当時の解放同盟にはほとんどこれに疑問を持つものはいませんでした。

 

この朝田善之助氏が委員長の時代に解放同盟は行政を糾弾するような形態をとりながらも、行政と癒着し解放同盟の経済主義的堕落はより深化していきました。無実の石川さんが冤罪で逮捕された狭山事件があります。だが、この狭山糾弾闘争はもっぱら解放同盟一部特権的幹部の経済主義的堕落の隠れ蓑として利用されてきました。

 

当時の全共闘運動の「大衆交渉」を真似た部落解放同盟員を動員しての自治体、行政に対しての「大衆交渉」の形をとった「糾弾闘争」「行政闘争」も盛んに行われました。「差別」を御旗にし「解放理論」を掲げた「行政闘争」に多くの自治体当局、行政はこれに屈服していくこととなりました。

 

国税当局も同じでした。解放同盟を通した案件には税の優遇措置が取られるようになったのです。当然、部落とは関係ない業者も群がります。「差別」を「特権」ととらえるような解放同盟幹部が多くいたのです。彼らはこれまでの差別の歴史と現実の差別に苦しめられできた多くの部落民を踏み台にして自らの利権的行為に走ったのです。利権と化した公共事業も含む「同和行政」に多くの特権化した解放同盟幹部に利権屋が群がるようになったのです。

 

解放同盟の分裂とは

――驚くほどの「同和利権」の横行、労働者党の前身「マル労同」は1975年には解放同盟の経済主義的堕落、観念的な糾弾闘争の全面的暴露を行っている

 

朝田氏は60年代後半に、部落解放運動の独自性を強調し解放同盟から共産党系の三木一平氏らを除名し解放同盟の分裂をまねきました。朝田氏の共産党批判はどちらかといえば右からの批判でした。三木一平氏らは部落解放同盟正常化全国連絡会議(「正常化連」)をたちあげました。この正常化連は、後に全国部落解放全国連合会(「全解連」)となりました。現在は全国地域人権総連合(全国人権連)となっています。

 

だが、1975年には、朝田氏による解放同盟京都府連の私物化が問題とされ、京都の解放同盟内で「民主化闘争」が起こり、解放同盟内の利権をめぐる内紛もあり朝田氏はその「利権」を糾弾され、追放され、解放同盟は再び分裂を招くことになりました。もっぱら「解放理論」の理屈を掲げこの分裂を闘った朝田派は敗北することになります。朝田派より経済主義的な利権的特権幹部が実権を握ることになったのです。

 

2006年には、大阪でヤクザが部落解放同盟支部長の名で巨額の利権をほしいままにした飛鳥会事件が発覚し、メディアもこの事件を報道するようになりました。ところが、この報道に対して解放同盟大阪府連は「差別を助長、再生産」すると抗議をしたのです。暴力行為をも伴う解放同盟一部特権幹部の利権あさりは枚挙にいとまがありません。

 

共産党系の全解連の末端組織では小粒で解放同盟ほどではないにしても担当行政職員にたかるなどの行為に走るものもいました。

 

解放同盟は「同和利権」が横行するまでに堕落していき、解放同盟は自滅し、今日の衰退を招くこととなりました。「同和行政」に直接あたる自治体職員にとっては解放同盟が単なる圧力団体か利権団体としてしかみえなくなっていました。

 

寺園敦史氏が「同和利権の真相」の著で暴露した事実に噓は含まれていません。「同和」といえば「利権」が連想されるようになったのです。書いてある内容が事実真実であるにも関わらず「同和利権の真相」については、部落解放同盟中央本部は「偏見を扇動する」と抗議の見解を出しています。当時の解放同盟は解放同盟員による利権的行為に真摯に向き合おうとはしなかったのです。

 

この当時、部落解放運動が「行政闘争」の形態をとりながらも一定の大衆を巻き込んで解放闘争が旺盛を極めたのは厳しい差別の現状があったからです。だが、一部特権幹部は部落差別を利用したのです。

 

この当時の部落問題については、労働者党の前身の「マルクス主義労働者同盟」、理論誌「科学的共産主義研究」の2回の号の中で明らかにされています。40号「現代の部落差別とは何か、それとどう闘うか」(1975年)、47号「部落解放運動の現状と課題―既成の運動の退廃を止揚し、社会主義的闘争との結合をかちとるために」(1978年)

 

当時の新左翼、急進派のほとんどすべてが、解放同盟の運動の内実を検証もすることなく解放同盟が共産党と対決しているためか、解放同盟に無批判的でその運動に追随していました。この当時、解放同盟の批判をしていたのは共産党以外には「マル労同」だけぐらいでした。1975年の論文は部落問題を全面的に論じ、共産党の新融和主義を批判するとともに、解放同盟の経済主義、部落排外主義も詳細に批判しています。「解放理論」も基本的に批判しています。この論文で、その後の解放同盟の経済主義的堕落の更なる深化も予測しています。

 

また、この当時「マルクス主義労働者同盟部落解放委員会」があり冊子「解放運動」を発刊していました。この中での6号には、「映画『橋のない川』上映問題と先進的労働者の立場」(1975年)、「差別意識」が労働者も含む社会に一般的「普遍的」に存在しているという解放同盟の「解放理論」に基づき行われた映画「『橋のない川』上映阻止闘争」、「糾弾闘争」を批判しています。

 

この当時の新左翼、急進派はほとんどすべてが上映阻止闘争に加担し同調していました。解放同盟は「橋のない川」を「差別映画」だとしました。その批判の観点は、映画の個々のシーンをバラバラにとりあげ、部落民が差別されているシーンに対しては、いちいちその背景を説明しろ、闘いが描かれていないといった矮小な批判であり「部落差別をことさら売り物にし、一般観客の部落民に対する好奇心と猟奇心を満足させる」といったものでした。だが、差別の現実、実際を明らかにすることなく差別を告発するがどうしてできるのでしょうか。「橋のない川」は解放同盟のいう「差別映画」ではなく自由主義的限界があったとしても「差別を告発する」映画でした。

 

現在の部落と解放運動の実態

――都市部落の過疎化の進行、部落解放運動の衰退

 

今部落がどうなっているかといえば、この間に環境改善は進んだというものの都市部落の過疎化は急速に進行してきています。京都のみならず大阪などの都市部落の過疎化も進行していると聞きます。最近ある地域に先日、行く機会がありましたが、人通りもなく閑散とした状況には知識としては知っていたもののその実情には啞然としました。現業職でも京都市に採用されるなどして職を得た多くの人の地区外流失が進んだのです。転出者の多くは部落内で居住することによる差別を避けたのです。狭小な改良住宅、市営住宅からより良い住居を求めての転居という理由もあります。地区からの転出者には多くの解放同盟幹部も含まれていました。解放同盟は部落には現在でも「土地差別」があると言っています。

 

都市部落の地区内の市営住宅、改良住宅に居住しているその多くは老人か、資力のない経済的弱者、流れから取り残された貧困な人達です。都市部落では50年前には活発で住民の交流のあった地域社会は半ば崩壊しています。また、それと同時に同和施策の終焉とともに行政に寄生した部落解放運動も衰退し衰弱していくこととなります。これには利権のうまみがなくなったこともあります。

都市部落では、「生活安定層」の地区外転出は進行したものの、いったん地区外に転出した世帯が再び地区へ戻ってくるという「リターン流入」がみられています。その多くはシングルマザーです。非正規雇用などの低収入で子育てを余儀なくされている世帯が増えているのです。従来の「生活不安定層」の滞留に加えて新たな貧困化ともいえる事態が進行しているのです。資本主義的矛盾の深化はこうした世帯を直撃して、再び都市部落へより戻しているのです。

全国三大部落の一つに京都駅東北部に位置する、京都駅から歩いて10分ほどで行ける崇仁地域があります。都市部落の崇仁も過疎化が進み、一時は9000人を超えていた人口が今は1300人にまで減少してきています。この崇仁は京都駅に近く、交通に便利な土地だというのに空き地が多く異様な光景です。この要因の一つに「住宅地区改良法」による地区指定での建築行為を制限する「住宅地区改良法」の存在があります。

今、京都市は今年10月に郊外にあった京都市立芸術大学を崇仁地域に移転させ地域の活性化を目指しています。崇仁には崇仁情報発信委員会があり、小冊子「崇仁~ひと・まち・れきし」を発行して崇仁地域からの発信が行われています。

都市部落とは異なり、農村部落ではまだ地域社会が崩壊していない地域が多くあります。

部落解放同盟の組坂繁之前執行委員長は過去の運動を振り返り語っています。「一部の利権問題が部落解放運動の全てのように思われてしまったのは本当に残念で、深く反省している」(「毎日新聞」2017,7,11)。だが、解放同盟がこれまでの運動をキチンと総括できているかは疑問です。

 

水平社創立100年を記念して昨年「京都の部落解放運動史」が刊行されましたが、朝田氏を追放した解放同盟第二次分裂の記述は解放同盟の「民主化闘争」として、「勝者」の「史観」に立っており、とうてい利権的行為を真摯に反省、総括しているとは思えません。

 

現在の部落解放同盟の取り組み

――組織力の衰退、部落差別がなぜあるかの問いかけなし

 

解放同盟が現在取り組んでいる主な運動は、2016年に成立した理念法である「部落差別解消推進法」の具体化、自治体での条例化、「部落解放基本法」の制定、「鳥取ループ」「示現社」なるものが行うネット上の「全国部落調査」復刻版の取り消し訴訟、ネットでのヘイト・差別書き込みへの抗議、ネット上の差別の規制への取り組み、狭山事件の再審などです。機関紙としては「解放新聞」がありますが中身は薄く大幅な部数減となってきています。京都市内でも解放同盟の組織力は衰退の一方です。

 

解放同盟は現在でも部落差別はあると強調していますが、現在、何故に部落差別が今もあるのかと問うことはほとんどなくなりました。昔は多少なりとも、資本主義との関連で部落問題を解き明かそうという試みはありましたが、今はなぜあるのかというその問いかけすらみかけることはありません。

 

あまりにも卑小な共産党系「全国地域人権連合」の運動

――部落問題を「解同問題」とする

 

一方、共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)は、部落差別はなくなったとして2004年に終結大会を開き、「部落解放運動の発展的転換」を掲げ全国地域人権総連合(全国人権連)を結成しています。(組織の名称に「部落」はふくまれていません)。機関紙としては「地域と人権」を発行しています(「全解連」の時代には機関紙「解放の道」を発行)

 

全国人権連は「部落問題解決の4つの指標である、格差是正、偏見の克服、自立、自由な社会的交流」は「基本的に達成された」としています。

 

部落問題については「『解同問題』に終止符を打たなければ完全な解決は実現できない」としています。彼らにとっては部落問題とは「解同問題」なのです。2017年の「部落差別解消推進法」にも、今日において部落を問題にすることは新たな差別を生むと反対しています。

 

彼らは、「京都新聞」「毎日新聞」などが部落問題を取り上げた特集記事を掲載するごとに抗議をしていました。あまりにも卑小で無意味なチンケな活動としか思えません。

 

この全国人権連の京都で事務局をやっているらしい人物とたまたま出くわしたとき、私が「ネットで差別が横行している」と言ったところこの人物「ネットぐらいにしか差別は見当たらないということだ」と語っていました。

 

社会主義的闘いとの結合を

 

部落問題、同和行政史を執筆、研究している人と話をする機会がありましたが、今、部落に関する歴史的資料は急速に散失しつつあるとのことです。部落問題の資料があるべきところへあるものがなくなっているとのことでした。

 

部落と部落解放運動の過去と今を書きましたが、社会主義、マルクス主義と結びつかない運動はどんな結末を迎えるかを今日の部落解放運動の現実は示していると思っています。

 

部落差別の根底には、階級差別、資本主義的搾取がありました。部落差別の根本的な解決は、労働の解放、資本主義打倒の社会主義を目指す闘いとともにあります。    (S)

 

大谷禎之介氏の「一般的利潤率」の形成の「説明」について

資本論学習会を行う仲間からの投稿を紹介します。資本論第3巻第2篇「利潤の平均利潤への転化」10章「競争による一般的利潤率の平均化」について、大谷禎之介氏の「一般的利潤率」の形成の「説明」を検討しています。

 

恣意的な表式で「一般的利潤率」の形成を「説明」する大谷氏

 

 『資本論』でのマルクスの分析・考察は、価値通りの交換から出発して、価値概念と剰余価値、したがって価値法則を科学的に論証してきた。しかし、価値通りの交換によれば、諸資本は資本の構成の相違によって違った利潤(剰余価値)を取得することになるが、現実の資本主義的生産社会では、どの生産部門の資本も同じ大きさの利潤(率)をあげている。この現実を価値法則と矛盾することなく科学的に解明することが『資本論』第3巻の主要な課題ともなっていた(第3巻「序文」参照)。

 

 筆者が参加する『資本論』学習会は、まさにこの課題に応える第2篇「利潤の平均利潤への転化」の10章「競争による一般的利潤率の平均化」の検討が最後の数段落を残すのみとなった。次回で10章を終える締め括りとして、報告を担当していたMさんから、大谷禎之介氏の『図解・社会経済学』からの《一回の資本の移動で平均利潤が形成される表式》のコピーが参考資料として配布され、検討することになった。

 

 この表式は煩雑で、読み下すのも大変なこともあり、ここでは簡略化して紹介する。

 

 有機的構成が高い生産部門Ⅰ(大工業部門)から最も低いⅤ部門(零細軽工業部門)まで五つの生産部門の費用価格(c+v)=投下資本は同じ100でも、価値通りでの利潤率はⅠの5%からⅤの35%と違いがあるが、それぞれの生産部門の需給が一致している所から出発している。

 

 ここから大谷氏は利潤率の高い部門へ資本が移動すると(Ⅰから20、Ⅱから10の30がⅣへ10、Ⅴへ20移動する)、需給関係が変化して移動元では「ⅠおよびⅡの商品にたいする需要がそれぞれ9.11および7.08だけ減退し、〔移動先の〕およびの商品にたいする需要がそれぞれで7.08および9.11だけ増大したとしよう」と突然任意だとする数字を出し、実現利潤率が全部門で21.4%になるという表式なのだ。実は、この需給関係の小数点以下2桁の増減は、任意の数字ではなく移動先で需給を一致させる作為的な数字だったのだ!?

 

 3巻9章では、平均利潤率と生産価格の概念が、需給関係が商品価格に作用しない均衡状態において導き出された。10章ではその現実のメカニズムが追究され、市場における生産者の商品価格=市場価格を巡る競争として現出するが、競争は「一つの平均水準に落ち着かせる」がこの「平均水準を規定するための要素は競争には絶対にない」と、剰余価値の限界、価値法則の支配という限界の中で需要供給などの影響という具体的な事情も視野に入れ、資本は利潤率の低い生産部門から利潤率のより高い部門に移動する。この資本の不断の移動による諸商品価格の変動を通じて、一般的利潤率を獲得できる生産価格に諸商品の価格を導いていくというのがマルクスの見解なのだ。

 

 大谷氏も、資本の移動による需給関係の変動が諸商品の価格を「一般的利潤率を獲得できる生産価格へと導く」と述べるが、資本の移動には、より大きな剰余価値を社会的総剰余価値から分け前として獲得できる限りで移動するのである。大谷氏の出発点の表式で有機的構成の低いⅤの(零細軽工業部門だが利潤率は35%)の部門に、有機的構成は高いが5%の利潤率しかない大工業部門であるⅠ部門の資本が移動すると「想定する」!? また100の資本で需要を満たしていた部門で20の資本が流出すれば、残った80の資本では需要が増えて商品価格は騰貴するはずだが、大谷氏は需要は-9.11%、商品価格も下がると「想定する」!? 移動先のの零細軽工業部門でも、競争相手が20も増えて供給過多となり商品価格は暴落するはずだが、表式では逆に騰貴すると「想定する」!? 実はそれは、大谷氏が設定した一般的利潤率と生産価格という「結果」から逆算して操作したからである!?

 

 マルクスは、需給関係の作用を排除して導き出すという方法(下向の道)による一般的利潤率と生産価格の最も抽象的で一般的な概念規定から、資本主義の現実の具体的な諸契機の問題へと分析と認識を深めていく方法(上向の道)によって科学的に正しい分析をおこなっている。しかし大谷氏は、資本の移動による需給関係と商品価格の変動という「上向の道」から出発するものの、利潤獲得を至上命題とする資本の運動からはおよそあり得ない「想定」と、「結果」から逆算した恣意的な数字で一般的利潤率と生産価格へと導かれると述べているのだ。

 

 こうした指摘にM氏は、「大谷氏の表式を絶対化するつもりはない。資本主義の現実のメカニズムを分析する手法の試論として紹介した」と弁解するしかなかった。後日のメールでは、「マルクスの記述に直接対応しようとして、かなり強引な辻褄合わせになっているような気がします」と書いてきた。

 

 『資本論』を曲解する多くの本を出してきた不破哲三に、資料提供で協力してきた共産党系学者の大谷氏の「説明」に対するマルクスの、〝厳しい批判〟を紹介する。

 

 「諸商品の価値どおりの交換または販売は、合理的なものであり、諸商品の均衡の自然的法則である。この法則から出発して偏差を説明するべきであって、逆に偏差から法則そのものを説明してはならないのである」(『資本論』3巻10章、原頁197)  (Y)

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