政治不信が高まる中で、“民主主義”である日本だから、「金権政治も必要悪として我慢するしかない」というような“民主主義”について、神奈川で『資本論』などの学習活動をする『横浜労働者くらぶ』の会報で、「ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!」と題して論じていますので、紹介します。(担当)
ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!
レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を読もう!
★ 朝日の投書(1月25日朝刊)
政治パーティー券の裏金づくりに端を発した政治不信は高まっていく一方である。朝日朝刊(1月25日)の投書は次のように怒りをぶつけている。「この怒りは何だろうか。私たち市民だけでなく、公明党も野党も、もっと怒るべきだ。暴れるほどの強い行動が必要だと思う。」(見出し、「絶大な政治不信、もっと怒ろう」)
この筆者の怒りは頂点に達している。その怒りは連立を組む公明党ばかりでなく、国民の怒りを内閣打倒や政権交代に結び付けることができない不甲斐ない野党にもおよび、国民に暴力的な行動まで呼びかけているのである。こうした政治と金、派閥の解消等の問題は戦後何度も繰り返されてきた。そこから生じる政治不信は、とりわけ日本では国際的にも高い水準にあるという(1月25日朝日朝刊)。「国の政策に国民の考えや意見が反映されていると思うか」という質問で、「あまり、あるいはほとんど反映されていない」と答えた割合が、現在リクルート事件が発覚した88年度の63%とほとんど同じになっている(民主党政権誕生の直前の09年1月では80・7%に達したという(内閣府調査))。これは驚くべき数字であり、国民が政治に期待していないという事実が浮き彫りになっている。
しかし、この政治不信、怒りを、どうすればいいのか?
どう解決するのか? それについては投書の筆者も「この怒りは何だろうか?」と、政治不信について疑念を持つだけでなく、逆に「こんな政治家を選んだのは自分たちだけに、政治不信はつらく、悲しい。」と、自責の念(!)に駆られているありさまである。
★ 民主主義にも二通りある!
なぜ政治不信はくりかえされるのか?
それは現在の政治が、支配階級の、金持ち階級の、資本家階級の政治であるからだ。労働者人民はそれを感づいてはいるが、社会全体が金で動いている社会なのだから(自分も金で動くか!)、妥協しあきらめているのである。したがって、政治不信をなくすためには、こうした金権社会を根本から変えなければならないのであるが、ここで障害が出てくる。それは“民主主義”である。日本には、習近平の中国とは違って、国民には選挙権も被選挙権もあるし言論や集会結社の自由もまあ保障されているから、金権政治も必要悪として我慢するしかないのではないか、というわけだ。しかし“民主主義”とはいかなるものであるか、ということを考えてみなければならない。”民主主義”にも階級性があり、したがってこの階級社会にも民主主義は2種類あるのだ。1つは資本主義社会の民主主義、つまりブルジョア民主主義であり、もう一つはプロレタリア民主主義である。本書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』は、直接にはプロレタリアート独裁を否定するカウツキーの日和見主義を批判した著作であるが、レーニンは、「プロレタリアート独裁はプロレタリア民主主義であり、ブルジョア民主主義よりも百万倍も民主的である。」として、ブルジョア民主主義の虚偽性を暴露している。ぜひ本書を読んでブルジョア民主主義の欺瞞性を知ってほしい。本書の国民文庫版は、すでに廃刊になって手に入りにくいので(もちろん全集や 10 巻選集で読めるが)、すこし詳しく紹介したい。
★ “純粋民主主義”や “民主主義一般”は金持ち民主主義である
まず第1章(本書には章別はなく見出しだけだが)「カウツキーはどのようにマルクスをありふれた自由主義者に変えたか」では、レーニンは、「『民主主義的方法と独裁的方法』との『根本的区別』というカウツキーの大発見」を問題にする。カウツキーに対しレーニンは、「独裁」とは支配階級の独裁であり、ブルジョア国家はブルジョアジーの独裁でありプロレタリア国家はプロレタリアートの独裁である、として次のように述べている。「プロレタリアートの独裁の問題は、ブルジョア国家に対するプロレタリア国家の関係の問題であり、ブルジョア民主主義に対するプロレタリア民主主義の関係の問題である。」(10巻選集p21)カウツキーは、「ブルジョア民主主義という正確な階級的概念を避けて、『社会主義以前の』民主主義について語ろうと努めている。」つまりカウツキーは「18 世紀に顔を向けて、絶対主義や中世的制度に対するブルジョア民主主義の関係について百遍も言われた古臭いことを、その小冊子(カウツキー著『プロレタリアートの独裁』1918)のほとんど三分の一をブルジョアジーにはなはだ気持ちの良いおしゃべりでみたしている。」(同p21)つまりカウツキーは、封建制や絶対主義の時代に進歩的であったブルジョア民主主義を、20
世紀の帝国主義の時代に叫んでいるのだ。ブルジョア民主主義の歴史性をまったく無視しているのである。そのいい例が、いまのアメリカである。トランプのような極めつけの悪党が大統領に返り咲こうというのである。これがブルジョア民主主義のなれの果てである。誰がこんな民主主義を望むであろうか?
★ 資本主義社会はブルジョア独裁である!
さらに進んでカウツキーは、「マルクスは 1875 年に一度手紙の中でやったプロレタリアートの独裁という片言を」ボルシェヴィキが思い出したのだと述べて、マルクス主義にとって重要な概念である「プロレタリアート独裁」(マルクスは著作の随所でこれについて述べているのに)を、マルクスの単なる思い付きであったかのように述べたうえさらに、「残念なことに、マルクスは、彼がこの独裁をどう考えていたか、をもっと説明することを怠った。…文字通りに取れば、”独裁“ということばは、民主主義の廃棄を意味する。」(同)と述べるのである。このカウツキーの独裁と民主主義を対立させる概念の中には、マルクス主義者としての階級性は一切なく、単なる純粋民主主義者としてのカウツキーが現れているだけである。そしてカウツキーは、独裁とは「一個人の全一的な権力を意味する。」というのであるが、レーニンは、カウツキーに反対して、独裁は一握りの人間の独裁もあれば、寡頭制の場合も、一階級の場合もあるとして、次のように定義する。「独裁とは直接に暴力をよりどころにし、どんな法律にも拘束されない権力である。」「プロレタリアートの革命的独裁とは、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によってたたかいとられ維持され、どんな法律にも拘束されない権力である。」(同p25) レーニンは、カウツキーを次のように断罪する。「自由主義者ならば、『民主主義』一般をうんぬんするのは、当然である。マルクス主義者は、『どの階級のための?』という質問を提出することをけっして忘れないであろう。」(p24) レーニンは、カウツキーが、「マルクスが、イギリスやアメリカでは、平和的変革、すなわち民主主義的な方法による変革が可能だと考えていたことで、証明される。」と語っていることを引用し、レーニンは、カウツキーが、独裁を個人の権力を意味するというのは、プロレタリアートという階級の独裁を否定し、「平和的な変革、すなわち民主主義的な方法による変革」を考えているからであるとし、「ここに問題の眼目がある。すべての逃げ口上、詭弁、ペテン師的偽造がカウツキーに必要なのは、まさに暴力革命を拒否するためであり、自分が暴力革命を放棄したことを、自由主義的労働者の側へ、すなわちブルジョアジーの側へ移ったことを覆い隠すためなのだ。」(p28)と述べている。
★ “資本家”民主主義よ、さらば!
働く者の民主主義を実現しよう!
カウツキーは、自説を強調してパリ・コミューンをひきあいに出して次のように述べる。「パリ・コミューンは、プロレタリアートの独裁であったが、このコミューンは普通選挙によって、民主主義的に選出された。…マルクスにとっては、プロレタリアート独裁は、プロレタリアートが多数をなす場合、純粋民主主義から必然的に生まれてくる状況であった。」(p28) カウツキーは、何としてでもプロレタリアート独裁を純粋民主主義と結び付けたいのである。しかしエンゲルスは、パリ・コミューンについて次のように述べている。「革命は、たしかに、およそあらゆるもののなかで最も権威的な事柄である。革命は、住民の一部が、小銃や銃剣や大砲、つまりきわめて権威的な手段を使って、住民の他の部分に自分の意志を押し付ける行為である。…パリ・コミューンが武装した人民のこの権威をブルジョアに対して行使しなかったなら、それは、ただの一日でも持ちこたえたであろうか?
それどころか、われわれはコンミューンがこの権威を行使しなさ過ぎたこと(注、ヴェルサイユへ即時進撃しなかったこと、銀行の接収を躊躇したこと等)で、責めてよいのではなかろうか?」(p29) エンゲルスは、ここで純粋民主主義など全く問題にしていない。問題は革命を成功させるか否か、ということである。1918年当時、ドイツなど西ヨーロッパ中が革命に沸き立っていた時に、カウツキーは、民主主義だ、多数決だなどとお説教を垂れるのであるが、第1次大戦の開戦直後に(1914 年8月)に、ローザ・ルクセンブルクが、ドイツ社会民主党(カウツキーはその理論的指導者の一人)は、いまや悪臭紛々たる屍である、と言ったのも当然である。
レーニンは第1章を要約して次のように述べている。「カウツキーは、プロレタリアートの独裁の概念をまったく前代未聞のやり方でゆがめ、マルクスをありふれた自由主義者に変えてしまった。すなわち『純粋民主主義』についての俗悪な文句をしゃべりたてて、ブルジョア民主主義の階級的内容を美化し、あいまいにし、被抑圧階級による革命的暴力をなによりも忌み嫌う、あの自由主義の水準に、彼自身ころがり落ちてしまった。」(p30)
我々の周りには、純数民主主義者がうようよいる。純粋民主主義、一般民主主義に騙されてはいけない。労働者階級は、純粋民主主義=ブルジョア民主主義にたいし、働くものの民主主義を対置し、プロレタリア国家の実現をめざさなければならないのである。(第2章の「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」は次号に回します)(K)
「横浜労働者くらぶ」学習会案内
3月の予定
◆「資本論」第1巻学習会
・3月27日(水)19 時~21 時 / 県民センター703 号室
*第8章「労働日」第5節「14世紀から17世紀末」~第7節「イギリス工場立法」まで学習します。
◆「資本論」第2巻学習会
・3月13日(水)18時30分~20時30分 / 県民センター703 号室
*第5章「流通期間」~第6章「流通費」まで読みます。
◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会
・3月20日(水)18時30分~20時30分 / 県民センター703 号室
*論文「マルクス主義と改良主義」他3篇を学習します。
連絡先
Tel:080-4406-1941(菊池)
Mail:kikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp