労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2024年10月

平民社以後の社会主義運動(2)

先月に続き、神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第46号で、平民社後の昭和に入ってからの社会主義運動について紹介しています。日本における社会主義運動について理解する参考になると考え、紹介します。(担当)

 

 

平民社以後の社会主義運動(2)

 

「労働者くらぶ」前号(45 号)で「平民社後の社会主義運動」について述べましたが、大正末期で終わってしまい、昭和に入ってからの活動については、ほとんど触れることができず中途半端に終わってしまいました。そこで今号では、昭和に入ってからの10 年間ほどの運動(主として共産党の活動になるが)に簡単に触れて補足したいと思います。

 

先に述べましたように、日本共産党は、コミンテルンの日本支部として1922 年(大正11 年)7 月に秘密裏に結成(堺利彦委員長)されますが、党の綱領や規約もない、党とは名ばかりのもので、主要メンバーの翌年の検挙であえなく壊滅してしまいます。関東大震災の大杉らの虐殺や政府の弾圧もあって、解党論が主流になり、24 4 月に解党してしまいます(第1 次共産党)。

 

堺や山川らの解党派は、共産党を離れていきますが、解党派は、山川が第1次共産党結成時に発表した論文「無産階級の方向転換」に従って、合法的な無産政党の結成に向かっていきます。そして27 年には「労農」を創刊し、論文「政治的統一戦線――無産政党合同論の根拠」を発表し「共同戦線党」の結成を提唱します。山川の「方向転換」論と「共同戦線党」論の意義については前号で触れましたので省略します。

 

一方、再建派は、26 12 月に党再建(佐野文夫委員長)を果たします。この時、再建共産党の理論的指導者になったのは福本和夫です。福本は、思想的に純化したマルクス・レーニン主義の党を作り上げるとして、理論闘争を重視した「分離・結合」論を提唱しますが、この左翼急進的な方針は、政治運動、組合運動、さらには文化運動にまで分裂主義やセクト主義を持ち込むことになりました。この福本イズムは、コミンテルンから批判され、撤回されますが(福本も自己批判)、その後も長く共産党の運動に影響します。

 

25 年の普通選挙法(同時に治安維持法も成立)に基づいて最初の総選挙が28 2 月に実施されます。再建された共産党は、合法無産政党である労働者農民党を隠れ蓑にして、共産党の党名入りのビラを配布するなどして公然たる宣伝活動を開始しますが。無産政党各党は、計8 名の当選者を出しますが、これに恐怖した政府は、総選挙の3 週間後の3 15 日に、全国の共産党員やシンパの一斉検挙を行います(3・15 事件)。

 

さらに翌年4 16 日にも残った党員やシンパの一斉検挙が行われ(4・16 事件)、再建されたばかりの共産党は大打撃を受けます。この2度の大弾圧によって共産党は、経験豊富な幹部をことごとく失い、指導部は、未熟な活動家によって構成されることになります。416 後に再建された共産党の委員長になったのは、田中清玄(当時23 歳)でありもう一人は佐野博(24 歳、佐野学の甥)でした。彼らの打ち出した方針は、武装自衛団、武装デモ、赤色テロなどの極左的冒険主義でした(武装共産党)。

 

もっとも、これらの過激な方針が採択されたのには背景があります。当時は、29 年にアメリカから始まった大恐慌が世界に拡大していくときにあたり、コミンテルンは、社会民主主義者を敵とした急進的な「社会ファシズム」論を採用します。また国内においても金融恐慌や世界恐慌の影響が深刻になり、労働争議や小作争議が頻発し階級闘争の高まりがありました。指導部の二人は30 年に相次いで逮捕されて武装共産党は壊滅します。

 

彼らに代わって新しい指導部についたのは,クートべ(ソ連の幹部養成大学)帰りの風間丈吉(28歳)と飯塚盈(みつ)延(スパイM)です。この指導部によって武装共産党は修正されますが、しかし社会ファシズム論に基づいて、社会民主主義者との闘いに熱中し、セクト主義はそのままです。もっとも、「大衆へ」のスローガンを掲げて、この時期の共産党は、戦前で最も勢力の拡大した時期といわれます(党員は約600名ほど、「無産者新聞」2万~4万部、「赤旗」約7000部)。

 

この頃の共産党は、319月に満州事変が勃発したときにあたり、「非常時共産党」(31年~32年)と呼ばれます。しかし、この共産党も、3210月の熱海事件の大検挙で壊滅してしまいます。そのあと短期間、山本正美や野呂栄太郎の委員長が続きますが、野呂の時に幹部に昇格したのが宮本顕治です。

 

野呂が逮捕された直後に起こったのが「スパイ査問事件」(3412月)で、このとき査問の責任者になったのが宮本であり当時24歳(彼もまたスパイの通報でその直後に逮捕される)でした。

 

そして、ただ一人の中央委員に残った袴田里実が357月に逮捕されて、名実ともに戦前の共産党は消滅するのです。この間、336月に、416事件で逮捕されていた幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中から転向声明を出します。続いて田中清玄、風間丈吉等、主だった幹部や多数の党員が雪崩を打ってそれに続きます。

 

33年に野呂らによって再建された共産党も、その直後に指導部の検挙や「スパイ査問事件」などで解体してしまいます。ですから戦前の共産党の活動は、2612月に共産党が再建されて以来、33年に消滅してしまうまでの実質8年間位です。

 

22年(大正11年)に結成された第1次共産党は、山川ら社会民主主義者を含んだ、ほとんど実態のない党でしたから、今日まで続いている日本共産党とは別個に考えられます。

 

戦後の共産党を長く指導した宮本顕治の戦前の党活動も23年ほどにすぎません。戦後の共産党の幹部らは、「獄中18年」(徳田久一)とか「獄中12年」(宮本顕治)とかの「非転向」を誇っていますが、軍部ファシズムの本格的な台頭や帝国主義戦争の勃発を前にして、前衛としての共産党は、(レーニンが言った「戦争を内乱へ」どころか)どんな役割も果たすことなく、崩壊してしまったわけです。

 

こうした共産党の党活動の理論の中心にあったのが、コミンテルンの方針です。日本共産党は結成当時、理論的に未熟であったのと同時に、コミンテルンの支部として作られたのでコミンテルンの方針は絶対であったわけです。

 

第2次共産党の再建時に出されたのが27年テーゼです。この27年テーゼでは、党の闘いを理論闘争に限定した福本イズムは、党と労働組合等の大衆団体との相違を無視し、労働組合を機械的に政治化するものとしてその急進主義を批判されます。共産党はこの批判を受け入れますが、それはコミンテルンの権威に屈服したにすぎず、その後長く福本イズムは共産党の体質であるセクト主義や分裂主義となって生き続けるのです。

 

一方、27年テーゼは、日本の急速な資本主義的発展を指摘したものの、日本の革命は民主主義革命から社会主義革命へと連続するというスターリン主義の二段階革命論に立っていました。つまりロシア革命と同じ理論に基づいてコミンテルンも共産党も、天皇制の打倒を革命戦略として掲げたのです。

 

しかし第一次世界大戦後の日本は、すでに独占資本主義の段階、国外に多くの植民地を有する帝国主義の段階に達しており、天皇制はすでに独占資本の階級支配の道具、隠れ蓑になっていました。

 

確かに国内にはなお半封建的な遺物があって、それらを一掃する民主的課題はありましたが、封建制の廃止は、帝国主義段階においては、独占資本の打倒、社会主義革命のための闘いと結びつけ、それに従属して闘われねばなりません。

 

天皇制の廃止など封建制一掃のブルジョア革命を達成したのちに社会主義革命をめざすというのでは、労働者の革命闘争をブルジョア民主主義革命という誤った方向に向かわせたのです。

 

32年テーゼ(河上肇の翻訳)は、この27年テーゼをより厳密に完成したものであって、そこでは日本の支配的な制度を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有制、独占資本主義の三つの要素の結合として特徴づけ、特に天皇制については、封建的な地主階級と独占資本の利益を代表しつつ「その独自な相対的に大なる役割」を「エセ非立憲的形態」で粉飾されているに過ぎない、としました。

 

そして、天皇制こそ「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし、残存物)の主要支柱」、「搾取階級の現存の独裁の強固な背景」であると規定し、天皇制の国家機構の粉砕こそ日本の革命運動の第一義的な任務である、としました。

 

この32年テーゼは、今なお共産党によって「画期的な指針」(「共産党の70年」)として賛美されており、この党の小ブル民主派の本質を規定するものとなっています。

 

この32年テーゼと27年テーゼの間に、モスクワ帰りの風間丈吉が持ち込んだ31年テーゼというのがありますが、これは社会主義革命を戦略目標として提起したものですが、残存したトロツキー派(当時すでにトロツキーは追放されている)によって起草されたもので、すぐスターリン派の32年テーゼによって葬られているので、日本共産党に理論的影響はありません。

 

戦前の共産党の綱領的立場は、労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げにして労働者階級の闘いを、天皇制の廃止を含む封建制の一掃という、ブルジョア的課題に捻じ曲げたものでした。

 

戦前の共産党の闘いが、天皇制の打倒を掲げ、いかに表面的には戦闘的、急進的にふるまおうと(これこそ、戦前の共産党の“革命的”という神話を生み出したのですが)、プロレタリアートの社会主義のための闘いとはほど遠い小ブル民主主義派の闘いでしかありませんでした。

 

27年テーゼや32年テーゼに基づいて、日本資本主義の分析を行ったのが、野呂栄太郎などの講座派(「日本資本主義発達史講座」岩波書店)です。彼らは、32年テーゼに基づいて日本資本主義の半封建的な性格と絶対主義的な天皇制の支配を強調し、民主主義革命から社会主義革命へという二段階革命を主張したのです。

 

この講座派に対し、日本の現状を、ブルジョア国家ととらえ、日本の革命は社会主義革命である、として共産党を批判したのが、山川や荒畑、猪俣津南雄ら社会民主主義者の「労農派」です。

 

しかし、彼らも、社会主義の闘いの前に、それに移行するための民主主義的な条件を作り出さねばならないとして、彼らの戦略も結局は、二段階革命論の共産党と同じものでした。ただ彼らの「社会主義革命」論は、天皇制との闘いを回避するための日和見主義的口実にすぎなかったのです。

 

以上、これまで、1901年に幸徳らによって結成された社会民主党(即日禁止)以来の社会主義運動の戦前までの歴史を大急ぎで追究してきましたが、その歴史は政府権力による激しい弾圧の歴史でした。

 

この歴史から私たち労働者階級は、何を学ばなければならないのか? それは、マルクス主義に基づいた、公然・非公然に柔軟に対応できる強固な労働者の前衛党がなければ、資本主義と闘うことも、その打倒も、不可能だということです。

 

レーニンが『何をなすべきか』で強調した労働者階級の前衛党を、戦前も、そして戦後も、日本の労働者階級は持つことができませんでした。幸徳らの社会民主党の結成以来、120年がたっていますが、幸徳らのめざした資本主義の廃止、社会主義の実現はおろか、幸徳らを虐殺した天皇制も、象徴とはいえ残存しているのです。

 

現在、幸徳を直接行動に走らせた、ブルジョア議会主義の腐敗、堕落ぶりは、目を覆うばかりです。共産党や立憲民主党など野党が、党利党略、自党第一に走り、この絶好の機会に政権交代さえできない姿は、戦前の無産政党各党が離合集散を繰り返し、やっと実現した社会大衆党が、結局、政府のお先棒を担いで、国民を戦争協力に駆り立てていった悪夢を思い出させます。

 

共産党や社民党(旧社会党)の源流は、幸徳らの社会民主党や平民社にあります。ところが、彼らは、平民社の社会主義運動についてほとんど語りません。なぜか? それは、彼らがブルジョア議会主義の腐敗・堕落に骨の髄まで染まり、労働者の階級闘争を忘れ、「社会主義」という言葉さえ口にすることを憚っているからです。

 

幸徳らの社会主義運動の記憶を持ち出せば、彼らのブルジョア的堕落は一目瞭然だからです。彼らは、今の地位に満足していたいのです。戦後80年、日本の労働者も、いいかげんに目を覚まさなければなりません。共産党の、エセ・マルクス主義におさらばし、革命的マルクス主義の旗を高く掲げて、労働の解放をめざす労働者党に結集し、労働者の前衛党を作り上げていきましよう!(K

 

横浜労働者くらぶ学習会案内11月の予定

 

◆「資本論」第1巻学習会

日時:11月27日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室

学習範囲:第6篇19章~第722

 

◆「資本論」第2巻学習会

日時:11月13日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:第20章1節~9節

 

◆マルクス主義学習会 ―― エンゲルス「空想より科学へ」

日時:11月16日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:序文と第1章「空想的社会主義」まで

 

横浜労働者くらぶ

連絡先:Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

(日程や会場が変更になることもありますので、事前にご連絡ください。)

兵庫県前知事の斎藤元彦を批判するーーおぞましい個人的権力欲

「斎藤元彦という人物」という表題で、兵庫で闘う仲間から、パワハラなどで失職した兵庫県前知事の斎藤元彦を批判する報告が送られてきました。知事選が1031日告示、1117日投開票に決まり、斎藤は再立候補の意向を見せています。前回立候補では、自民や維新が推薦して組織選挙を行いましたが、自民も維新もかばいきれずに離れています。果たしてどんな出直し選挙戦を戦うつもりでしょうか。個人的な権力欲を労働者は支持しません。兵庫から送られた斎藤批判の報告を紹介します。(担当)

 

斎藤元彦という人物

 

 9月30日付けで失職。出直し選挙に出るらしい。政治姿勢や政策やらで、議会と対立したのではなく、人間性や素質が問われての失職。知事として、この男は、パワハラやおねだりには余念がないが、労働者の利益になることは皆無に等しい。もちろん労働者の為なんて一度なりとも考えたことはないだろうが。

 

斎藤が知事に就任してから半年後、神戸新聞(2022年2月4日)は新県政の実態を探っている。其の見出し――斎藤流「本音見えない」、「身を切る改革」にじむ維新指向――。

 

齋藤はもっぱら維新的ポピュリズムに乗り、個人的権力基盤を確立、強化しようとしたようだ。知事公用車「センチュリー」を解約、知事の退職手当5割、給料と期末手当3割カットを断行、いわゆる維新流「身を切る改革」は周知の通り。しかし率先して改革をPRしながら、権力を嵩に、おねだりする今日の姿は何ともおぞましい。

 

「新県政推進室」の新設。井戸前知事に連なる人脈を排除し、限られた側近(11人)が密室で人事や施策を決めたようだ。(なお「・・推進室」現在は解散している)。

 

新聞は言う。「斎藤氏はメディアへの露出を増やし、情報発信を強化したが、慎重な物言いは官僚的で、踏み込んだ発言をさけている。 推進室のメンバーですら、戸惑いを口にする。「知事の真意や本音が伝わってこないという職員の声が日増しにおおきくなっている」。新聞のサブ見出し---少数で決定、慎重な物言い---

 

だが権力(権限)を我がものにする為に彼なりの苦労もしたようだ。一連の言動が本心からか、それとも演技によるものなのか知る由もないが。多分、両方だろうと思う。

 

総務省から出向した宮城県財務課長時代(16年前)、大阪府財務課長(20年頃)の彼を知る記者、ジャーナリストは述懐する。「腰が低くて、礼儀正しい。およそエリート官僚らしからぬフットワークの軽さと、人当たりの良さがあった」、「東北(宮城県)の出向時代も含め、在阪記者からも軒並み評判がいい。好人物だったが・・・」(神戸新聞2024年8月2日)。

 

目玉公約だった「ワーケーション知事室」も事実上休止。「県民に身近な知事になる」という思いから斎藤が県庁を離れて地方で仕事をするという取り組みだが、5回開いただけで23年6月以降は一度も開かれていない。

 

不信任以降 テレビ番組でやたらと実績アピールに忙しい。

 

県立大無償化(県民の授業料を段階的に無償化する事業―恩恵は県内高卒者の2%程度という)、行財政改革(県の貯金が100億円を超えたとアピール――実際は行革で捻出したのではなく企業業績が好調で県税収入が増えた影響という)、外郭団体の見直し(65歳以上の天下りを制限――OBを60人削減したが前知事派の排除で終わっているようだ)。

 

もちろん 労働者の生活の改善に役立つ実績はこれっぽっちもない。当然である。彼の立ち位置は根っからのブルジョアサイドであり、個人主義的であり、偽善的である。

 

兵庫県の労働者はこんな人物に一票たりとも投じてはいけない。 
 (兵庫より)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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