労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

2025年02月

マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅦ

労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅦ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

おわりに

 アメリカ第一主義を唱え「Make America Great Again」を標榜するトランプがアメリカ大統領になったことによって、世界がますます欧米や日本などの帝国主義諸国、偉大な中華民族の復興を目指す習近平の中国、新ユーラシア主義を唱えるプーチンのロシア、そしてインドやブラジルなどのグローバルサウス諸国、これら各々のブルジョア国家がお互いに覇を競い自らの国益(ナショナル・インタレスト)をめぐって「合従連衡」しながらも激しく角逐する新たな時代に入ったと言っていいだろう。

 

こうしたなかにあってそれぞれの国内では、国民のあいだに経済的な格差が拡がり同じ国民なのかと思えるほどの埋めようのない分断が急速に進んでいる。そして既成秩序に見捨てられていると不満を抱く人々の心情に寄り添う振りをしながら彼らを取り込もうとする右翼的なポピュリストたちが跳梁跋扈している(日本でも、天皇中心の国体思想を理念にする参政党や日本保守党が国会の議席を持つようになっている)。

 

日本帝国主義も世界中(とりわけ、東南アジア)にある権益を守り、他の国家との競争戦に勝ち抜きさらなる拡大を図るために制定された‘2212月の「反撃能力(敵基地攻撃能力)」などを明文化した「安保三文書」――熾烈な戦いの死命を制するのは人類史が示す通り、結局のところ、軍事力なのである──閣議決定以来、中国・北朝鮮を仮想敵国とした沖縄西南諸島などへの自衛隊の常駐、ミサイル配備、防衛費のさらなる増額、等々が進んでいる。

 

 こうした状況にあって、そもそも革命派であるべきマルクス主義者を自認している人々の大多数は、マルクス本来の革命思想を骨抜きにして日本の帝国主義国家やブルジョアジーにとってまったく危険のない無害なマルクス思想を振りまいている。マルクスを前期と後期とに「切断」し、マルクスはエコロジストに仕立て上げた斎藤幸平氏もその代表的な一人である。最近一見左翼風の書籍などに「『人新世の資本論』の著者斎藤幸平氏推薦」という帯紙があるのをよく目にする。彼のマルクス思想解釈が斬新なマルクス思想の提示者として何の問題も抵抗なくブルジョア論壇に受け入れられたことの証である。

 

「(労働の解放をめざす)労働者党」の闘いはいまだに日本の労働者階級の深部にまで届いていない。かつて1905年ロシア革命が頓挫した時点でレーニンは自分が生きている間には革命はロシアに起きないだろうと亡命していたスイスで思っていたそうだ――ボルシェビキの党としての闘いはロシア国内で続けていた――が19172月突然、まさに突然ロマノフ王朝打倒の革命が起こり臨時革命政府が樹立された。急遽封印列車でロシアに戻ったレーニンは当時極少数だったボルシェビキを率い、臨時革命政府と労農兵士ソビエトとの二重権力状態だったロシアで「全権力をソビエトへ!」というスローガンを掲げ行動することによって労働者・農民・兵士の間で多数派になって10月ロシア革命を成功させた。

 

私は、数年前に後期高齢者になったが依然として「身体が資本」の力仕事に汗を流すの農業に携わっており、体力的な衰えを理由に現在は党を離れてシンパの一員(少額ながらカンパをする党友)として労働者党の活動を支援している。しかし、心はいつも労働者党の皆さんと共にあると思っている。世界最強の帝国主義国家の一つであるこの日本においても今後将来、いつ何時何が起こるか分からない、いつか分からないその日のための準備を常にしていくこと、賃金奴隷制の廃絶という労働の解放をめざす闘いを「 倦まず弛まず」やり抜き、マルクス・レーニン主義に基づいた国際主義的な革命党としての闘いが次の世代に何としても受け継がれていくようにしなければならない、そのためにささやかなりとも手助けしたいと私は思っている。


(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか

                  

マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅥ

労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅥ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

マルクスの「ザスーリチへの手紙」(1881年)について

「ザスーリチへの手紙」の内容については、林紘義氏の前掲書のp.87~99で詳細に論じられているし、斎藤氏の解釈に対する批判は『プロメテウス』63号の田口騏一郎氏の「斎藤幸平の“脱成長コミュニズム”論批判 」の第4項“停滞的なミール共同体の美化”(p.67~73)に詳しいので、「ザスーリチへの手紙」をどのように評価するかはこの前二者に任すとして、ここではそれとは異なった視点から少し述べたい。

 

 斎藤氏はマルクスの立場が、社会主義・共産主義へ至るには必ず資本主義を経なければならないという「単線的歴史観」から、当時ロシアに残存していた土地の共同体所有である農村(農耕)共同体だった「ミール共同体」を積極的に評価することによって資本主義の成長発展期である西欧とは異なり資本主義を経なくても社会主義・共産主義に至ることが可能であるという「複線的歴史観」へと変化したのだ、と述べている(『マルクス解体』p. 290,『人新生』p.176)。

 

 その証拠として彼が提示するのは、1875年フランス語第2版発行に際してマルクスが編集部に送った手紙である。そこには「(本源的蓄積による)資本主義体制の根底には、生産者と生産手段との根源的な分離が存在する。・・・この発展全体のすべての基礎は、耕作者の所有剥奪(収奪)である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである・・・だが、西ヨーロッパのすべての国もこれと同一の運動を経過する」(全集⑲ p.116)、「(上述の引用の後に)だから、この運動の『歴史的宿命性』は、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです」(全集⑲ p.238 、『ザスーリチの手紙への回答の下書き』に再録、〈第一稿〉p.386、〈第二稿〉p.399 、〈第3稿〉p.404)と、「ロシアの共同体に反対して人々が言い立てている論拠のうちで、最も真面目なものは、次のことに帰着する。西洋の諸社会の起源にまでさかのぼると、西洋のどこでも、土地の共同所有が見いだされるであろう。それは、どこにおいても、社会的進歩とともに、私的所有に席をゆずって姿を消した。だから、それが、ロシアにおいてのみこの同じ運命を免れることはできないはずである、と。私は、この議論が〈ヨーロッパに関係するかぎりで〉ヨーロッパの経験に立脚しているかぎりで、これを考察するであろう」(全集⑲ p.404)である。

 

ここで、現行版『資本論』(1867年)とフランス語第2版(1875年)の当該箇所(第一巻第第24章第1節「本源的蓄積の秘密」の最終部分)を比較してみよう。現行版では「農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程をなしている。この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており、この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代によって違っている。それが典型的な形をとって現れるのはただイギリスだけであって、それだからこそわれわれもイギリスを例にとるのである」(全集㉓b p.935~6)に対して、フランス語第2版では「こうした発展全体の基礎をなすもの、それは、耕作者の収奪である。この収奪が徹底的なかたちで遂行されたのは、今のところイギリスにおいてだけである。したがって、われわれの素描においては、当然、この国が主役を演じるであろう。だが、西ヨーロッパの他のすべての国々もすべて同じ運動を通過しているのであって、ただ異なるのは、この運動は、環境によってその地域的色合いが変わり、あるところではそれがより狭い範囲にとじこめられたり、あるところではあまり目だたない特徴を示したり、またあるところでは違った順序をたどったりすることだけなのである」(林直道編訳『マルクス資本論第一巻フランス語版』p.131)となっている。

 

ザスーリチへの手紙のなかでマルクスは、フランス語版の上の箇所を引用し、「この過程(耕作者の収奪)の『歴史的宿命性』は西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されている」点を強調したのである。その意味は、西欧ではすでに私有の一形態=自己労働にもとづく個人的私有が確立していたので、それの資本主義的私有への転嫁が問題となっていたのに対し、ロシアではそもそも農民による土地私有はないのだから耕作者の収奪の必然性という問題は問題として成り立たない、というのであった。

 

そして、勿論ロシアが西欧にならって資本主義国民たろうと目指すならば、その場合には共同体農民を収奪しプロレタリア化することが必要になってくるけれども、あなた方はロシアを共産主義へ進めようとしているのだから、農民収奪は何ら歴史的宿命でないばかりか、共同体自体を「社会的再生の拠点として」発展させることが可能である(ただし大工業と西欧の労働者階級の援助のもとに)と答えたのであった。

 

18821月の「『共産党宣言』ロシア語第2版序文」(マルクスは翌年の3月に亡くなっているので、エンゲルスとの連名ではあるが、これがマルクスの最後の言葉だろう)にはロシアについて、次のような文章がある。「・・・ロシアはどうか?・・・『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の解体が不可避的にせまっていることを宣言することであった。ところが、ロシアでは、資本主義の思惑が急速に開花し、ブルジョア的土地所有がようやく発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることが見られる。そこで、次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体(オプシチナ)は、ひどくくずれてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか? それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展で行われたのと同じ解体過程をたどらなければならないであろうか? この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(全集⑲ p.288)。

 

斎藤氏は、ロシアの農村(農耕)共同体が資本主義的近代化の破壊的過程を経ることなく、既にある共同体的所有に基づいて社会主義・共産主義へと飛躍できる可能性に言及しているザスーリチへの手紙を根拠に、マルクスの歴史観は1881年までに大きく変化したのだと主張する。そして上述の「ロシア語第2版序文」を引用した後、次のように言う。

 

「マルクスとエンゲルスは、ロシアの共同体が資本主義段階への移行を避けることができるだけでなく、『西欧のプロレタリア革命にたいする合図』を送ることで、コミュニズムの発展を開始すべきだとさえ言う。ここでも彼らは、歴史の原動力として、ロシア社会の積極的な主体性を認めているのである〔この箇所で彼は〈注〉として、(かつてマルクスは「アジア的またはインド的な所有形態がどこでも端緒をなしている」と主張していたが、ここでその見解を訂正したのだ)と述べているが、どこをどのように読めばそういった解釈が出てくるのか、まさしく神のみぞ知りたもう──引用者〕」。更に続けて『全集』⑲ p.389を例証にして言う、「この議論を、ロシアに限定する必要はない。同じ論理は、当時マルクスが集中的に研究していたアジア、アフリカ、ラテンアメリカといった地域の他の農耕共同体にも適用できるだろう。事実、マルクスは、アジア的共同体を、戦争や侵略による破壊を免れた最も新しいタイプの農耕共同体としてとらえていたからである」(『マルクス解体』p.292)。

 

マルクスがここで意図した内容をまったく無視して、自分の興味と関心の赴くままに「牽強付会」した見本がここにある。当時のマルクスの関心は、人類の歴史的発展段階が無階級社会だった原始共産主義社会から土地の共同所有と私的所有とが混在していた最初の階級社会である「古代的生産様式」(前掲の林氏にならって“アジア”という狭い地域に限定される印象のある「アジア的生産様式」に替えて、この名称を使っている)を当時新しく解明されつつあった古代社会の知見をノートに書き留めて深く研究することによって、唯物論的な歴史観を完成させることにあったと考えられる。

 

斎藤氏によると、晩年のマルクスはかつてあった構成員全員が土地や森林などのコモンを共同所有することによって大地にやさしい定常型の脱成長コミュニズムを研究するために亡くなるまでの数年を送ったのだと言うのである。現代の「人新世」における地球温暖化などの自然環境破壊をこれ以上進行させないためにも、今こそ、大いなる自然と共生共存していた原古の共同体の研究をしていた晩年のマルクスの諸作業を掘り起こすことによってマルクスを再生復活させなければならない、斎藤氏のこの間の試みはすべてこの一点に集約できる。

 

 的場浩司氏も斎藤氏と同じように言う、「マルクスの1870年代以降の態度の変化と研究の変化をマルクスの研究ノートの編集が新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)の中で進められている。マルクスのアジア、ロシアに対する視点の変化について、この時代のマルクスの研究ノートは重要な示唆を与えているといってよいかもしれない」、と。

 

1991年ソ連邦崩壊を転機に「死せる犬」としてマルクスを扱う“送葬派”に対して、ほとんどすべてのマルクス思想を研究している――むしろ、大学でマルクス研究を飯のタネにしている──“再生派”は、マルクスはその西欧中心主義的な世界把握や単線的歴史観を1881年の「ザスーリチへの手紙」において決定的に放棄し、その後のマルクスが本来のマルクスなのだ、と言い募るのを常としている。(斎藤氏を絶賛している佐々木隆治氏――彼はこの1月『なぜ働いても豊かになれないのか―マルクスと考える資本と労働の経済学』という新著を出しているが、それは12年前の『私たちはなぜ働くのか』という著書に若干加筆修正したもので、相も変わらず前著と同様、「マルクスは(資本という)物象の力を弱め労働の自由を拡大する」手段として、「第一に労働時間の短縮、・・・第二に生産の私的性格を弱める」こと、「第三に、労働者の生産手段にたいする従属的な関わりを変容させていくことである。・・・賃労働においては、このような生産者と生産手段の自由な結合の可能性は剥奪されているが、部分的に取り戻すことが可能である。それは、現代では、労働組合による経営権への関与というかたちで実際に実現されている」(p.219~224)と言うのである、なんという能天気な物言いだろう――もその仲間で、彼らは構造改革的な「アソシエーション」という言葉を好んで多用する特徴がある。)まったくもって、「小さな親切、大きなお世話」なのだ!

 

(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか

                  

マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅤ

労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅤ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

「アジア的生産様式」をめぐって

 マルクス批判家だけでなく、前期と後期とを峻別して前期のマルクスを否定して後期しか評価しないマルクス「再生派」にあってもこの「アジア的」という形容詞そのものが、マルクスがアジアを見下し蔑視した証拠とされている。

 

ある論者に言わせると、「アジア的生産様式」論=「アジア停滞」論というわけだ。とりわけ、この概念を使ったのは生涯にただ一度だけ、1869年に出版した『経済学批判序言』においてだけであったことからもなおさらであり、「資本の普遍化傾向」を唱え、「西洋」対「東洋」ないし「進んだヨーロッパ」対「遅れたアジア」という自分の認識図式の誤りに気付いたマルクスは自己批判的に修正して、それ以後二度と「アジア的生産様式」という言葉を使用しなかったのだ、とマルクス思想を前期と後期とを「切断」する彼らはマルクス弁護を買って出る。全くもって余計なお世話である。

 

 「アジア的生産様式」という概念については、林紘義著『人類社会の出発点、古代的清算様式―ー「アジア的生産様式」論の復活を』において詳細に述べられている。「悪名高い言葉であって、無視しなければならない」と多くのマルクス思想解釈者が言っているのとは真逆に、林氏はこの生産様式を「共同体から階級社会への第一歩を踏み出した人類最初の社会」であり、「人類史にとって普遍的なものである」とし、この社会を「古代的生産様式」と呼んでいる(前掲書 p.8)。

 

そして言う、「我々は、マルクスの『アジア的生産様式』の概念を断固として擁護するのだが、その概念は決して“アジア“の歴史に限定されるのではなく、人類史にとって普遍的であると主張する。アジア的生産様式は共同体所有から私的所有への第一歩として現れるが、同時にそれは、また人類が”未開“から”文明“へと足を踏み入れ、歴史的に前進し、進化していく第一歩でもある。共同体所有から出発したばかりの社会として、この生産様式は一つの共同体をまだ根底としているが、しかしこの共同体はすでに支配階級になり上がった──なり上がりつつあった──首長層によって簒奪され、収奪されている。そしてこれらの首長層の頂点に立ったのが、世界中のどの地域においても、歴史の初期に出現した古代の王権である。小規模な共同体権力はより大規模な共同体権力によって従属、支配され、あるいは吸収され、より大きな共同体権力に統合されたのである」(同書p.15)。「文明の出発点として、そしてまた同時に私的所有の出発点として,『アジア的生産様式』は人類史の必然的な一つの、そして最初の社会経済構成体もしくは最初の階級社会として位置づけられるのであり、またマルクスによって最初に位置付けられたのである」(同書p.17)。

 

 マルクスが「アジア的生産様式」という言葉を使ったのは上述したように生涯で一度だけではあるが、しかしだからといってこの概念を軽視していたとか、いわんや”アジア蔑視“という誤りに気付き自己批判的に反省して以後使用しなくなったということは全くありえない。

 

マルクスにこの概念を与えたのは、1850年代初め、イギリスのインド(ムガール帝国)侵略と支配の現状についてアメリカの新聞への寄稿文を書いたり、当時のインドの経済的社会構成体の研究を深めていく過程で、インドの(中国など、広くアジアの)社会を根底から規定している土地の共同体所有を発見したことにある。

 

18536月のエンゲルスあての手紙のなかで「(インドの『ムガール帝国に記述を含む旅行記』を著した)ペルニエは、正当に、オリエントのすべての現象についての基礎形態を──彼はトルコやペルシアやヒンドスタンについて語っている──土地の私的所有が存在していない、ということのうちに見いだしている。これこそがオリエントの天国に至るためにも現実の鍵なのだ」(全集㉘ p.210)とアジア的生産様式の基本的特徴を述べている。

 

『要綱』でも「生産者と生産手段との本源的所有」の諸形態としてではあるが「アジア的な・・・形態にあっては、個々人の所有ではなく占有だけがある。・・・古典古代人・・・にあっては、国家的土地所有と私的土地所有との対立的解体《があり》、・・・ゲルマン的形態では、・・・そのものとしての共同体所有は、・・・個人の土地領有にたいする共同の付属物としてのみ現れる(『要綱』Ⅲ p.417 『資本主義生産に先行する諸形態』国民文庫版p.24)」と述べている。またマルクスは言う、「種族共同社会、自然的共同団体は、土地の共同的領有(一時的な)と利用の結果としてではなく、その前提として現れる」(同書p.408)、と。

 

林氏は前掲書で次のように述べている。「マルクスが共同体に根底を置く『アジア的生産様式』と呼んだ社会経済構成体は、古代の一つの社会経済構成体の残滓であって、それは決してアジアだけに固有なものではなく、その存在自体は、すべての人類の諸集団の歴史的な──社会的において歴史的な──初期の段階、その出発点において普遍的であったという認識に到達しつつあったのであり、『先行する諸形態』ではそれを一般的な形で、一定の意味で共同体所有と関連する他の二つの社会経済構成体――古典・古代的(ギリシャ・ローマ的)及びゲルマン的な所有――との区別と比較の中で検討しているのである。彼はますます『アジア的生産様式』は人類の歴史的な出発点において普遍的なものであったという確信を強めて行ったのであ」る(p.56)。このことは1859年の『経済学批判』の中で、「原生的な共有の形態は、とくにスラブ的な、しかももっぱらロシア的な形態だというのは、近ごろひろまっている笑うべき偏見である。それは、われわれがローマ人、ゲルマン人、ケルト人のあいだで指摘することができる原初的形態であるが、これについては、さまざまな見本をそなえたりっぱな見本帳が、いまでも、一部分は廃墟としてではあるとはいえ、インド人のあいだに見いだされる。アジア的な、ことにインド的な諸共有形態のいっそうの詳しい研究は、原生的共有の種々の形態からどのようにしてその崩壊の種々の形態が出てくるかを示すであろう。こうして、たとえばローマ的およびゲルマン的私有の種々の原型が、インド的共有の種々の形態からみちびきだされるのである」(国民文庫版p.23~4の〈注〉、この文章は、全集㉓a p.104『資本論』でも〈注〉として再録されている)と述べていることからも明らかである。更にまた18683月のエンゲルスあてのマルクスの手紙には次のように書かれている。「(僕は老マウラーの)最近の著書を読んでドイツのマルクや村落などの制度について勉強した。彼は、土地の私的所有が後代に至ってはじめて発生した、ということなどをくわしく論証している。・・・ちょうどいま興味があるのは、一定の期間(ドイツでは当初は毎年)における土地の再分配というロシア的な風習がドイツでは所によっては18世紀にいたるまで、また19世紀にさえ至るまでも、保存されていた、ということだ。アジア的またはインド的な所有形態がヨーロッパのどこでも端緒をなしている、という僕の主張した見解が、ここでも(マウラーはこの見解についてなにも知らなかったのに)新たな証拠を与えられている」(『全集』㉜p.36~7 下線部強調は引用者)、と。

 

この「アジア的生産様式」の詳しい内容については、林氏の前掲書を読んでもらうとして、ここで指摘したかったのは、従来からほとんど顧みられることなく無視され足ざまに扱われてきたこの概念は、“アジア“だけに限定されたものではなくて、「それを一つの歴史的社会として、人類が原始共産主義(氏族共同体)の社会から一歩踏み出し、前進するや否や陥った最初の階級社会」(林氏前掲書.同箇所)だったということである。



(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか

                  

マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅣ

労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅣ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

「資本の文明化作用」とは

 マルクスが「西欧中心主義者=オリエンタリスト」だといった言われなき批判は、彼の『経済学批判要綱』(以下『要綱』)における「資本の文明化作用」という言葉によっても倍加されている。この「文明化」という言葉は、マルクスが生きた18世紀の西欧諸国の非西洋への植民地侵略の生々しい場面にストレートに適応される傾向が強く、極めて情緒的な思い入れとともにマルクス批判の引証にされる傾向があった。

 

この言葉は、『要綱』で3回登場するだけである。

 

    資本に関する章のはじめの箇所。交換価値を措定する活動への誘因はまず(諸民族の生活圏域の)外部からやって来る。はじめ偶然的であった剰余の交換は双方の内部に新しい欲望を目ざめさせ、さしあたりは新しい素材=使用価値の獲得だった流通は生産の組織を次第に交換価値の獲得目的に編成してゆく、「これこそひとが対外貿易の文明化作用と名づけているものであるDies ist ,was man die zivilisierende  Wirkung des auswartigen Handels nennt)大月書店版『要綱』第Ⅱ分冊p.177、下線部強調は引用者)。

 

   〈資本への移行〉の項目の箇所。「対外貿易のいわゆる文明化作用(Es ist dies die sogenannte zivilisierende Wirkung des auswartigen Handels)(同書、第Ⅴ分冊p.1043 下線部強調は引用者)内容は前掲とほとんど同じ。

 

   〈資本に関する章 第二編資本の流通過程 資本の生産過程から流通過程への移行〉の箇所。

それまでは資本が生産過程でより多くの剰余価値を吸収しようとする運動を見てきた。マルクスはこの箇所で、資本が今や流通の圏域を外に向かって拡大していく過程を分析する。

 

(a)  まず絶対的剰余価値の生産の視点から、資本が「より多くの補完的生産地点を創造する傾向」をもつ、言いかえれば「資本に基礎づけられた生産または資本に照応する生産様式を“布教”しようとすることを指摘する。つまり、資本という概念そのもののなかに、自己運動の極ついには「世界市場を創造する傾向」が当初から含蓄されているのであり、そのゆえに資本は、より以前の自然成長的な諸生産様式を交換に従属させ、それに代えて資本に基礎づけられる生産をうち建てようとするのである(同書、第Ⅱ分冊p.336)。

(b)  他方では相対的剰余価値の生産。生産力の増大にともない、資本は現在の消費の量的拡大につとめなければならないが、それだけでは十分でなくなる。消費者のあいだに新規の欲望をかきたて、新しいい消費財を買わせる工夫をこらす。そしてそのために新種の使用価値を地球上で発掘しそれを素材とした新商品の生産にのりだすことになろう。この新生産体系は労働の範囲を拡げ、多様化し細分化していくだろう。

 

 こうして、資本主義的生産は、一方では普遍的な勤労を創造すると同時に、「自然と人間の諸性質の一般的な開発(=搾取)の体系、一般的な効用性の体系」を創造する。資本は、「まず市民社会を創りだし、そして当の社会の構成員による、自然の、ならびに社会的関連そのものの普遍的領有を創りだす。かくて、資本の偉大な文明化作用(Hence the great civilizing influence of capital〔この一句だけが英語表記 下線部強調は引用者〕、つまり資本による一つの社会的段階の生産が出てくるのであり、・・・資本は不断に普遍的であろうとする本姓に駆り立てられて、自然崇拝や民族的な制限と偏見を乗りこえて、自給生活にもとづいた古い生活様式を破壊せずにおかない」(同書、p.338 下線部強調は引用者)。

 

長々と引用を重ねてきたのはほかでもない。マルクスは、相手となる共同体との間の交換の本性、より多くの剰余価値を取得しようとする資本の本姓を、まったくの感傷を交えることなく冷静に定義し、この運動と傾向とをそれが誰であるか確かめられないが、その人の表現を借りて「文明化作用」と呼んだのではと思う(勿論、「偉大な great」という形容詞もそっくりそのままいただいて)。

 

この他にも「(資本の)布教的、文明化的傾向」(同書、第Ⅲ分冊p.479 下線部強調は引用者)という別表現がある。こうして、上で強調した箇所を改めてみると、今になってははっきりしたことは不明だが、この用語がマルクスのものではなく、彼がむしろ皮肉たっぷりに使ったものであって、むしろマルクスに先行するまたは同時代の経済理論あるいは外国貿易に関する理論では、「偉大な」という形容詞も含めてこの用語が特に珍しいものではなく当時普通に使われていたものであり、その当時のヨーロッパ人の通念だったように思えてならない。

 

1848年、エンゲルスと共に書いた『共産党宣言』には次の有名な言葉がある。「ブルジョアジーは、あらゆる生産用具を急速に改善することによって、また素晴らしく便利になった交通にたよって、あらゆる国を、もっとも未開な国までも、文明に引き込む。彼らの商品の安い価格は、どんな万里の長城をもうちくずし、未開人のどんなに頑固な外国人ぎらいをも降伏させずにおかない重砲である。ブルジョアジーは、あらゆる国民、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式をとりいれるよう強制する。あらゆる国民に、いわゆる文明を自国にとりいれるよう、つまりブルジョアになるよう強制する。一言でいえば、ブルジョアジーは、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだす」(全集④ p.480 下線部強調は引用者)。

 

ここでもマルクスとエンゲルスは、注意深く「いわゆる文明」と言っている。因みにエンゲルスについて言えば、彼も「文明」を一義的にプラス・シンボルにはしていなかった。それは例えば1857年のインドで起こったインド人傭兵の反乱(セポイの乱)の終焉期にアワド王国の首都ラクナウに乱入し12昼夜にもわたって空前の大略奪と暴行をほしいままにした植民地軍の残虐ぶりを『ニューヨーク・デイリィー・トリビューン』紙で次のように記している。

 

「これは、19世紀の文明国の軍隊としては、まことにひどい事態である」、「イナゴの群れのように都市を襲い、途上にあるものは何でも手当たりしだいに食い尽くすチンギス・ハーンやティムールの群れも、これらのキリスト教的な、文明化された、騎士的な、そして生まれのよいイギリス兵に比べれば、国々にとって祝福であったに違いない」、「ブルジョア文明の深い偽善と固有の野蛮性がいかんなく発揮されたのである」(全集⑫ p.444p.472 下線部強調は引用者)。

 

またマルクスは、アメリカの黒人に対する奴隷労働にたいして、「その生産がまだ奴隷労働や夫役などという低級な形態で行われている諸民族が、資本主義生産様式の支配する世界市場に引き込まれ、世界市場が彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事になるまで発達させるようになれば、そこでは奴隷制や農奴制などの野蛮な残虐の上に過度労働の文明化された残虐が接ぎ木されるのである。それだから、アメリカ合衆国の南部諸州の黒人労働も、生産が主として直接的自家需要のためのものだったあいだは、過度な家長制的な性格を保存していたのである。ところが、綿花の輸出が南部諸州の死活問題になってきたのにつれて、黒人に過度労働をさせること、所によっては黒人の生命は7年間の労働で消費してしまうことが、計算の上に立って計算する方式の要因になったのである」(全集㉓a『資本論』p.306 下線部強調は引用者)とも述べている。

 

 マルクスを批判する人たちは、『要綱』のマルクスが西欧文明と解釈された「文明」あるいは「文明化」という事態ないし現象に絶対的に積極的な意味づけを与えていると思い込み、その上サイードの『オリエンタリズム』において「マルクスはオリエンタリストだった」といった批判が加わってこうしたバイアスにかかった固定観念がひとたび形成されてしまえば、上述したマルクスの「インド通信」のような諸時論に頻出する「半野蛮」、「半文明」、「文明」、「野蛮」、「未開」等々の用語に、西欧中心主義者だったとか、近代化主義者だったとか非ヨーロッパ地域を卑下蔑視するマルクスという思い入れを存分に注入することができるのである。

 

まさに、「資本の文明化作用」という言葉に対する批判は、マルクスが語った文章から片言隻句を取り上げて彼の意図するものとはまったくかけ離れたものとして批判する典型的なやり方である。「資本の文明化作用」という言葉はその文脈から切り離されて独り歩きしているが、この語彙にマルクスが込めたネガティブなニュアンスを読み取るべきである。

 

「東インドを例にして言うと、・・・だれひとり、そこでは〔農業と家内工業としての綿織物業とを強固に結合させていた──引用者〕土地の共同所有の廃止が、原住民を前進させないで後退させるイギリスの文化破壊行為でしかなかったことを、知らぬはずはない」(全集⑲ p.405)とも言われており、「文明化」という言葉をマルクスは逆説的な意味で、つまり「文化破壊」といった意味にでも使用しているのである。

 

そもそも、「外国貿易の『文明化』作用」を最初に指摘した論者は『法の精神』(1748年)で知られる啓蒙(=無知蒙昧な状態を人間理性の力によって啓発して教え導くこと、これこそが「文明化」の意味)主義者のモンテスキューで「アジア的」という形容詞自体も彼以来のヨーロッパ中心主義的な既成観念が固着しており、西洋による非西欧諸国への支配、人種差別的で非人間的な不平等が底流としてあった(こうした視点や態度こそがサイードの言う「オリエンタリズム」なのである)。

 

このように、マルクスの個別的な言辞にのみとらわれている論者たちは、植民地主義にたいするマルクスの評価が肯定から否定へと、あるいは民族解放闘争にたいする評価が肯定から否定を経てさらに肯定へと、二転あるいは三転したと解釈するのである。


(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか

                  

マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅢ

労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅢ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

マルクスの「インド通信」

 1853年には『イギリスのインド支配』(以下『支配』)、『イギリスのインド支配の将来の結果』(以下『結果』)の2つのアメリカの新聞への寄稿文がある。前者には、確かにインドに残存している小規模な村落共同体を「半野蛮」、「半文明」、「未開」などの言葉で表現している(『マルエン全集』⑨ p.126、以下『全集』)。また後者では「インドの社会はまったく歴史をもたない」、「イギリスはインドで二重の使命を果たさなければならない。1つは破壊の使命であり、1つは再生の使命である。――古いアジア社会を滅ぼすことと、西欧的社会の物質的基礎をアジアに据えることである」(同書 p.213)。こうした文章を見るとマルクスは、インド人を見下しイギリスによるインドの植民地支配を推進しようとするイデオロギーがほぼそのままの形で共有されており、資本主義の発展をとことん推し進める近代化論者で、世界の津々浦々をグローバル化するという考えは今日の新自由主義者の発想というより、マルクスの発想であるように思われかもしれない。

 

アジアへの軽蔑、無条件の西欧への礼賛が正しければ、マルクスはひたすら西欧の資本主義を発展させ、それを最終段階で社会主義に移せばいいということになる。1978年の『オリエンタリズム』でサイードがマルクスをアジアに批判的な「オリエンタリスト」に位置づけたことは、まさに西欧近代化主義者としてのマルクスのイメージを決定づけたと言っていい。当時のマルクスを斎藤氏がどのように否定的に見ていたかを知るためにもかなり長いが引用してみる。

 

斎藤氏はまず、サイードの「マルクスは叙述を重ねるごとにますます確信を深めながら『イギリスはアジアを破壊するというまさにそのことによって、アジアにおける真の社会革命を可能にしつつある』という見解に立ち返っていた。したがって、かりに人々の惨状によってマルクスの人間的心情が、つまり彼の同情心がそそられたことは明らかであるとしても、マルクスの経済分析は標準的なオリエンタリズム的企てと完全に合致しているということになる。結局、最後に勝利を収めるものはロマン主義的なオリエンタリズムのヴィジョンなのであって、その時マルクスの理論的な社会経済的諸考察はこの標準的イメージのなかに埋没してしまうのだ」という文章を援用した後次のように言っている(因みに少し前の個所でサイードは、「マルクスの文体を見るとき、我々は、東洋社会が力ずくで変化させられていく過程で東洋人がこうむるさまざまな苦難に対し、我々が同じ人間として当然感じるいとわしさと、この変化が歴史的必然である認識とを、いかにして両立させるかという困難な問題に嫌でも直面せざるを得なくなるのである」という文章がある)。

 

以下は『マルクス解体』のp.268~271にある文章である。

《たしかにマルクスは、当時のインドにおけるイギリス植民地主義の残虐性を認めている。だが、その口調は両義的である。イングランドの植民地主義は、インドの村落に対して「破壊的」に作用する。とはいえ、鉄道、蒸気機関、灌漑システムといった新技術をインドへと持ち込むことで、「西欧資本主義は、アジア社会を『再生』するという『二重の使命を果たさなければならない』」とマルクスは主張した。つまり、近代工業化が、共同体的土地所有を解消して、私的土地所有への置き換え、カースト制を解消するという点に、イギリス植民地主義の進歩的役割を認めているのだ。裏を返せば、マルクスは、インドの村落共同体は外界との交わりが皆無であるために、不変なままで停滞してきたと考えたわけだが、それは、マルクスが植民地支配以前のインドにおける技術革新や商品生産の存在に目を向けることができなかったからにすぎない。アジア社会が静的で受動的であるという過度の一般化を行い、「インド社会はまったく歴史をもたない」とまで述べている。このため、インド人は帝国主義の介入という外からの強制を必要としているとされるのだ。マルクスは、インド人の苦しみ、社会主義的解放に向けた人類の普遍的な進歩のための必要悪として受け入れていたのだろうか。「非ヨーロッパ社会の不変の性質は歴史の進歩の足枷であり、社会主義にとって深刻な脅威だ」とみなしていたのだろうか。だとすれば、サイードのオリエンタリズム批判は妥当に思える。〔その後の文章で斎藤はマルクスを少し擁護しながらも続けて言う──引用者〕・・・マルクスは、イギリス帝国主義を憎み、怒りや批判を表明したにもかかわらず、非西欧社会の受動的で静的な性格を信じ続けていた可能性があるのではないか。その場合これは依然として、オリエンタリズムとして特徴づけることができるはずだ。実際、当時のマルクスは、最終的に人類史全体の進歩という観点から植民地支配を受け入れていたように思われる。生産力の資本主義的発展の破壊的性格に注目し始めた1860年代の初めにも「オリエンタリズム」的な叙述は依然として見出すことができるからだ。・・・個人が犠牲になっても、生産力を高めよ! 人類解放のために、世界中に市場と資本主義を広めよ! これはまるで、マルクスが市場原理主義とグローバル化のイデオローグだったかのようである。・・・1850年代、マルクスがヨーロッパ植民地主義によるアジア社会への介入の必要性を指摘した理由は、まさにこの受動性と停滞性という革命の障害物を除くためであった。非西欧社会は労働力と天然資源を大量に供給することによって西欧資本主義の離陸にとって不可欠の貢献をしたにもかかわらず、歴史的主体性を奪われたままであった。・・・それだけではない。マルクスは『資本論(初版「序文」)』で次のような悪名高い一文を書き残している。「産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国に、ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである」。この単線的な歴史観はヨーロッパ史の軌跡をあまりにも無批判的に世界の他の地域に投影している一地域の特殊的な歴史の暴力的な普遍化は、ヨーロッパ中心主義のもう一つの特徴にほかならないし、それは、植民地主義を正当化する口実として繰り返し用いられてきたものである(『人新世』p.168~170にも同じような文章がある)。》

 

斎藤氏はこうしたマルクスの立場を批判しているが、しかし晩年には、ロシアに残存した小共同体(村落共同体)=ミールの評価と関連してこうした1868年以前の立場を修正したと言うのである。的場昭弘氏も壮年期のマルクスにあったオリエンタリズムを同じように厳しく批判し、後期マルクスを高く評価している。うがった見方をすれば、マルクスを公然と批判する人々がマルクスのアキレス腱として突いてくる「半野蛮」、「半文明」、「未開」などの言葉や次の項で検討する「資本の文明化作用」という言葉を、まず先手を打ってあらかじめ完全に否定しておき、然るのちにロシアのミール共同体での劇的な回心を顕彰し持ち上げるという手法をとる以上は、先手のところでむしろ過度にマルクスの誤謬を強調しておくほうが効果的というわけであるのかもしれない。

 

 周知のように、マルクスは、人類史における資本主義の歴史的必然性とその革命性とを認めている。しかし、このことは、マルクスが資本主義の正当性を認めたことを意味するのだろうか。断じて否である。彼の場合、資本主義の必然性と革命性を認めることがそのまま直接的に資本主義の正当性を承認することにつながらない──直接的生産者から生産手段を奪い取ってこの生産手段を所有している資本家に雇われ賃労働をすることによってしか生きることができなくしているこの資本主義社会はどんなに「自由・平等・博愛」といった美辞麗句に飾られていようとも、古代の奴隷制と同様の「賃金奴隷制」社会なのだと激しく批判告発し、にもかかわらず資本主義社会の生産・労働の社会化の進展と工場労働者たちの階級としての成長とによって物質的にも主体的にも次の社会(社会主義・共産主義者社会)への条件が整備されてくるという見通しを語った──ように、植民地主義の必然性とその革命性とを認めることもまたそのままでは植民地主義の正当性の承認を意味するものとはなりえない。

 

マルクスにあっては、植民地主義の必然性と革命性とに対する彼の認識は、植民地主義に対する彼の強い批判的態度に基礎づけられており、資本主義と同様、植民地主義もまた止揚されるべきものとして認識されていたのである。当時のインド社会の根底をなしている各々が「孤立的地位」を保ち自給自足の閉じられた小共同体(村落共同体)という古い経済社会構造にマルクスはどんな幻想も持っておらず、それを社会の停滞や後進性を規定してきた原因とみなしている。

 

『資本論』にも次のような記述がある、「このような、絶えず同じ形態で再生産され、たまたま破壊されてもまた同じ場所に同じ名称で再建される自給自足的な共同体の簡単な生産体制は、アジア諸国の不断の興亡や王朝の無休の交代とは著しい対照をなしているアジア的諸社会の不変性の秘密を解く鍵を与えるものである。社会の経済的基本要素の構造が、政治的雲上界のあらしに揺るがされることなく保たれているのである」(全集㉓a p.469~470)。

 

イギリスの植民地支配と資本主義的浸透がこうした関係を粉砕し一層する限りで、歴史的進歩の一段階として高く評価したのである。マルクスは、古い停滞したインド社会の解体・分解がイギリス植民地主義者の蛮行がどんなにおぞましく破廉恥な形をとって強行されようとも、それは歴史的には進歩であって、人類史の不可避の過程であることを強調したのである。

 

 マルクスの「インド通信」には、インドの発展段階を「半未開」とか「半文明」と呼んでいることは確かであるが、しかしその反面、ヒンドゥー文明を「偉大で気高い」と評価し、「インド人民の多数が明晰な数学的頭脳〔“ないものがある”というアラビア数字の「0(ゼロ)」を発見したのがインド人だったということは彼らの名誉である──引用者〕と計算や精密科学への才能を驚くほど備えている、彼らの知力は優れている」と記しており、「住民は温雅で・・・最下等の階級でさえ『イタリア人より洗練され器用であり』、その屈従でさえ、ある種の穏やかな気品で埋め合わされて」(全集⑨ p.216~7)いるという事実を『ニューヨーク・デイリィー・トリビューン』紙を購読しているアメリカの読者に正確に伝えようとしていたことを等閑すべきではない。

 

このようにマルクスは、インド人を卑下し見下しているわけではなく、むしろ彼らに敬意さえ払っている。「ところで、この無数の勤勉な家父長的で無害な社会組織が解体され、各構成単位に分解され、苦難の海になげおとされ、その各成員が古代そのままの形態の文化と伝来の生活手段とを同時に失うのをみることは、人間感情にとって胸いたむものであるにはちがいないけれども、われわれは、これらの牧歌的な村落共同体がたとえ無害にみえようとも、それがつねに東洋専制政治の強固な基礎となってきたこと、またそれが人間精神のありうるかぎりのもっとも狭い範囲にとじこめて、人間精神を迷信の無抵抗な道具にし、伝統的な規則の奴隷とし、人間精神からすべての雄大さと歴史的精力を奪ったことを、忘れてはならない」(同書 ⑨ p.126)。

 

つまり、このような偉大な精神の持ち主を閉じ込めている当時のインドの社会経済政治体制の革命的な変革の必要性と歴史的な必然性とを強調するために「イギリスはインドで二重の使命を果たさなければならない。1つは破壊の使命であり、1つは再生の使命である」という表現をしたのだろう。

 

 またこの箇所には、「・・・鉄道制度から生まれてくる近代工業は、世襲的な分業を解体させるであろう。そして、この世襲的な分業は、カースト制、このインドの進歩とインドの力とにたいして決定的な障害となっているものの土台なのである。イギリスのブルジョアジーが、よぎなくなにをしなければならないとしても、それらすべてを合わせても、人民大衆は解放されはしないだろうし、その社会的条件も根本的に改善されはしないであろう。この生産力を〔インド人民が──引用者〕わがものにするかどうかにもよることである。しかし、ブルジョアジーがしないわけにいかないことは、この両者のための物質的前提をつくることである。これまでブルジョアジーは、個人をも全人民をも、血と泥のなか、悲惨と堕落のなかを引きずることなく、一つの進歩でも成し遂げたことがあるか? 大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかり投げ捨てるか、このどちらになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョアジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、われわれは、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待して間違いないようである」という文章がある。

 

つまり、ここから分かるように、イギリスのブルジョアジーはその主観的意図とはかかわりなく、インド人民解放のための物質的前提をつくりださざるを得ないのであるが、しかしそれを利用して、イギリス植民地主義からのインド解放闘争を意識的に担う主体はあくまでインド人民であり、そしてイギリスのプロレタリア階級である。マルクスはこの点を強調することを忘れていない。つまりは、マルクスはインド人を受動的な人民で卑下し蔑視しているような「オリエンタリスト」では断じてないということである。

 

 彼は、『結果』を次の文章で結んでいる。「歴史のブルジョア時代は新世界の物質的基礎をつくりださなければならない。――一方では、人類の相互依存にもとづく世界的交通とこの交通の手段、他方では、人間の生産力の発展と、物質的生産を自然力の科学的支配に転化すること、これがその基礎である。ブルジョア商工業は、地質上の革命が地表を作りだしたのと同じように、つくりだしているのである。将来、偉大な社会革命が、このブルジョア時代の成果である世界市場と近代的生産力とをわがものとし、これらをもっとも先進的な諸国人民の共同管理のもとにおいたとき、そのときはじめて人類の進歩は、むごたらしく撃ち殺した人間の頭蓋骨からだけ神のうま酒を飲もうとする、あのいとうべき異教の偶像に似ることを、やめるだろう」(同書 p.217~8)。

 

このようにマルクスにあっては、当時イギリスの植民地であったアイルランドに関する彼の諸論文にも見られるように、他民族支配を基礎とする植民地主義が止揚されないかぎり、人間社会本来の歴史は始まらないとされる。この意味において、マルクスの唯物史観においては、ブルジョア時代は階級の止揚とともに民族対立の止揚を展望するものとして位置づけられていたといえる。

 

因みには後年になるが、マルクスはイギリスの植民地アイルランドについてエンゲルスへの手紙(186912月)の中で「僕が長い間考えてきたことだが、可能なのは、アイルランドの(イギリスの植民地にされている)体制をイギリスの労働者階級の興隆によってくつがえす、ということなのだ。・・・より深い研究によって、僕は今まではその反対のことを確信するようになっている。イギリスの労働者階級は、それがアイルランドから免れないうちには、けっしてなにごとも達しはしないだろう。梃子はアイルランドに据えられなければならない」(全集㉜ p.336)と反省しているようだ。

 

斎藤氏も含めてこの文章を前期の立場を修正した証拠の一つとしているが、そのようには思えない。というのは、インド「通信」の上述の『結果』を見る通り、植民地解放闘争の主役はあくまで現地の被抑圧人民であって、帝国主義本国のブルジョアジーと闘うことによって彼らを支持援助し共闘するのは帝国主義本国での階級としての労働者人民なのだということ、これはマルクスにあっては生涯一貫している立場なのだと言えるからである。

(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか

                  

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