選挙奮戦記  【2】
――かく闘いたり、一闘争委員の報告――

    
   神奈川十一区は、三浦半島にある横須賀市と三浦市から成る。横須賀市は、人口40・2万(世帯数16・2万)、三浦市は4・4万(世帯数1・7万)、合わせて40・2万(世帯数1 8・3万)、有権者数は約39万人である。こうした数字から、我々は宣伝の対象を横須賀市(横浜、川崎、相模原に次ぐ県内4位の人口をもつ)に絞った。

 我々は、ビラ配布のついでに三浦市にも出かけたが、そこはのんびりとした農漁村といった風情で、中央には広大な畑作地が広がっていた。農業もしているHさん(闘争委)は「いい黒土だ」と言っていたが、三浦大根をはじめとする畑作物の産地である。海沿いには小さな港が幾つかあるが、鮪で有名な三崎港などは、ほんとに小さな漁港で、市場の建物がぽつんと建っていた。地元の人の話によると、平日はこんなものだが、土日は観光バスが押し寄せ、多くの客で一杯だという。

 さて話を戻すと、、横須賀市は大きく中部の人口集中地域(本庁、衣笠で人口各6万・世帯数2・5万以上)、北部の工業地域(追浜、田浦で人口2~3万・世帯数2万以上) 、南部地域(久里浜、浦賀で人口4~5万、世帯数3・5万) に分けられる。

 交通は、横浜から京浜急行とJR横須賀線が走るが、圧倒的に乗降客数は京急が多い。駅の中心は、横須賀中央(乗降客3・3万人)、久里浜(2・1万人)、追浜(2万人)、北久里浜(1・3万人)、汐入(1万人)である。これらの駅から、横浜や東京方面へ多くの人々が移動する。後に、これらの駅頭は朝夕の街頭宣伝の中心となった。
       
  横須賀・三浦は、百年以上続く小泉王国(自民党王国)である。明治から小泉又次郎(後に公職追放)―純也(女婿)―純一郎(長男)―進次郎(次男)と4代に渡ってその王国を築いてきた。純一郎、進次郎は典型的な世襲議員であり、今や「強固な地盤」を世襲する職業軍人ならぬ、職業議員といって良い。

 進次郎の前回衆議院選は16万8千票(83・3%)、その前は18万4千票(7 9・9%)と圧倒的な集票マシーンぶりである。従って、前回は民進党が怖じ気づき、共産党(瀬戸、16・7%) のみが出馬。前々回は、民主(10・9%)、共産(7・7%)、無所属2(いずれも0・9%以下)であった。

 進次郎の引き継いだ「地盤」(後援会組織や町内会組織、商工会関係、婦人部や県議市議組織等々)がどのようなものであるか調査してないが、小泉一家が長年この地に税金を湯水のごとく投入し続けてきたことは確かであろう。例えば、この地には、東名横浜町田I Cから繋がる横浜横須賀道(有料バイパス)や首都高に繋がる横浜道があるが、実にりっぱな高速道である。筆者は、折り込みチラシをTさん(代表委)とともに横浜の新聞折り込み店まで運んだり、Hさん(闘争委)と選挙葉書を横浜の郵便局に運んだ折りに利用させてもらったが、わずか四〇分程で横浜の海沿いの新聞店倉庫に着いた。

 こうしたりっぱな交通網も小泉一家の「賜(たまもの)」なのであろうか。三浦の畑作物は寸時に東京の大消費地に届けられ、追浜工場の日産車も寸時に横浜港へ運ばれるということか。余談だが、横横道に一つだけ横須賀SAがあるが、そのトイレは小さなSAにしては、実に立派である。愛知の伊勢湾岸道にある刈谷SAの1億円の女子トイレとまではいかないが、金を掛けたトイレであることは間違いない。ぜひ一度ご利用あれ?
      
 さて、今回我々としては、前回同様、進次郎と共産党(瀬戸)との三つどもえの闘いを想定したが、降ってわいたように大阪から希望の党(真白、小沢の飼子)が出てきて、目算が狂った、と言わざるをえない。

 二五日、Hさん(京都)。Tさん(神奈川)らと浦賀方面へビラ配布。この日からしばらく運動員が減り、配布数が落ちた(二千二百枚)。二三、二四日の配布強化デイの運動員数で以後もこなしていけば、おそらく十万枚は達成できただろうと思う。この日は、浦賀方面へ出動した宣伝カーと海沿いのコンビニで落ち合い、流しの音量等を外で聴くことにした。

 暫くして、圷さんの運転する宣伝カーがやって来た。Mさん(静岡)の声がスピーカーから流れる。コンビニの周りの道をぐるぐる回って(ミニストップを包囲した?)、音量を確かめる。

 「さすが地方選をやってきたMさんの、場に応じた流しはうまい」とは圷さんの弁。声は近くではよく聞こえるが、車の窓を閉めてしまうと聞こえない。横須賀市は車の数がすこぶる多い。バスがあるとは言え、地理的、地形的に車がないと生活できないところがある。また、横須賀市のあちこちに群立する高層マンション内もおそらく聞こえないだろう。選挙戦における宣伝カー流しの比重は高いが、それを補足する新たな宣伝方法が考えられても良い時代になっているのではないかと筆者は思う。

 Mさんの流しの元原稿は、数日掛けて闘争委員が検討し合って作成したが、表現が抽象的(例えば、反動的、強権的、国家主義的等々)という批判が出て、何度か手直ししたり、テープに吹き込んでくれたMさんやIさん(福山)の手で修正されたりした。しかし、聴衆の耳に納得的に入っていくには、徹底して不十分なものであった。こうした、労働者にとって分かりにくく現実的でない表現や内容は、他のところでも見られて、今後の課題となった。     続く