労働者党の第2回大会の決議第Ⅰ部を紹介します。 (4)
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□しかし安倍政権もさすがにすべて口先だけのものとして、総選挙を闘うことができないと自覚してか、目玉商品として、教育無償化といったテーマを押し出し、19年秋に予定されている消費増税――これまでは、消費を萎縮させてデフレ脱却に水をかけるとか、勝手な理屈で二度にわたって引き延ばしてきたのだが――を断固として行い、しかも決まっていた増税の使い道を変えて、教育無償化や「全世代型の」社会保障制度を実現すると大見得を切ったのである。
□彼は、消費増税は消費を冷やし、デフレ脱却を困難にすると以前のように語らないで、今度は自分の都合いいような理屈を並べるのである。かつては消費増税の延期が景気回復にためになると言ったのに、今回は、消費増税の強行もまた同様に経済にプラスの影響を及ぼすと言うのである。つまり自分の都合のいいような理屈ばかり並べるのだが、安倍の無原則と場当たり主義は、ここに極まれりである。
□安倍のこうした主張は全くご都合主義的であり、相互に矛盾するのだが、安倍は一向に困惑することはなかった、というのは、安倍の目的は一貫した、筋道の通った政策や政治をすることではなく、当面の権力維持と延命が目的であり、〝政策〟や政治はただこの目的に従属してのみ意味を持つものだったからである。
□彼は14年の総選挙のときも、その前のときも、デフレ克服が為されていない、そんなときに消費増税をするなら消費を冷まし、デフレ脱却という課題を台無しにする、という口実で、増税を延期した。
□ところが今回は、デフレ脱却はいまだ達成されていない、道半ばだといいながら、消費増税に走るのであり、体よく、消費増税によってこそアベノミクスも貫徹され、「加速する」かに、したがってまた少子高齢化という〝国難〟も一掃されるかにいうのである。
□消費増税の本来の使い道を変えて、教育無償化だ、全世代型社会保障だと叫んだのだが、なぜ教育無償化――とりわけ乳幼児の――が、少子高齢化という〝国難〟の特効薬なのか、そんなものになりえるかについて、そもそも安倍は国民を納得させるような論理を全く持ち合わせていなかった。
□唯一言われるのは、それが「人づくり革命」の出発点、核心だといったドグマであるが、しかし乳幼児の教育が「人づくり」に結びつき、その核心になるというのは、一概に、論理必然的にいえることでないのは容易に確認することができる。そもそも安倍一派は「乳幼児教育」といったものに対して、どんな明確な概念も示さなかったし、示し得なかったのだから、彼らの論議は最初から無意味な空論でしかなかったのである。
□例えば「少子化」と闘うとしても、幼児教育無償化についておしゃべりすることと、保育施設にカネを集中、充実し、待機児童の解消を現実的に実行することと、どちらが「少子化」傾向に対して〝効果〟があるか問いただすだけで、安倍政権や小泉らがいいはやす「幼児教育無償化」のナンセンスは明らかである。
□安倍が持ち出した教育無償化の概念はあやふや、その意義や具体的な内容もあいまいなままで、実際には、教育無償化の名を借りた、安倍政権の新手のバラまき政治であり、結局はそこに行きつくような不真面目で、無責任な、最悪のポピュリズム政治でしかなかったのである。
□そして、そんな策は最初から矛盾したものであった。国民から事実上所得の2%といった大増税を課すことは、これまでの安倍の観念からすれば、デフレ脱却を異常に困難にするようなもの、アベノミクスの成功のためには、決してやってはならない政策であったはずである。そんなことを強行すること自体、安倍の政策の首尾一貫性も、確固たる論理性も、概念もないことを明らかにし、アベノミクスと安倍政治の破綻を自ら暴露するものであった。
□教育無償化が安倍の言うような意義があるものならまだしも、それはまさに「海のものとも山のものともいえない」空論政治であり、政策だというなら、こうしたアベノミクスの修正は、本家本物のアベノミクスが国も経済も救うどころか、ますます解体と泥沼に導いたと同様の意義と役割しか持ち得ないであろう。