Ⅿ氏の非難に答えて 中傷したのはどちらか
――価値移転論をめぐって
◆ようやく「事実」が明らかに
ブログの私の価値移転論に対する一節に対して、M氏から「事実と違っているから撤回せよ」と言う要請を受けています。
かつてM氏と同じ支部に所属していた坂井氏に寄せられたM氏からの抗議は、林は虚偽を語っている、ねつ造だといった、激しいものでした。M氏の抗議は以下のようなものだったそうです。
「この件については、林さんを除く三名の代表委から個別に坂井に連絡をもらい、話をしましたが、森氏の反応は以下のようなものです。
しかし私の小論でM氏について言われていることは、基本的に全て事実であり、真実であって、撤回することはもちろん、訂正することも何一つありません。
問題は2015年10月に行われた働く者のセミナーにおいて、Ⅿ氏は、林の観点を批判して「価値移転」論を擁護する【資本主義的生産過程(価値増殖過程)においては価値移転(価値保存)は現実のものである】という名の文書を発表し、「価値移転は資本主義的生産と流通において現実(実際に起きている現象)であって、単に『見えるの』ではなく、現実に『現れる』から『見え』のである(交換価値と同様に)」と主張し、林と対立しました。
そのとき、わたしはその文章を挙げてⅯ氏を批判し、いくらかの議論になりました。録音が残っていれば、どんな議論だったかも明らかになりますが、私の記憶によれば、Ⅿ氏は弁解して、自分の意図は商品の交換においては(流通過程では)価値移転があるとは考えていない、価値移転は生産過程の問題だといったようなものでした。
個々の商品の価値(商品資本の価値)の流通過程の中で、貨幣(貨幣資本)、商品(商品資本)、再度貨幣(貨幣資本)と形態変化を遂げていきますが、しかしこの過程は如何なる意味においても、価値移転といったものではありません。
私が異議を唱えたのは、商品の貨幣の商品の形態転化(流通)においては、両者は最初から共に価値物として相対し、ただ貨幣は商品に形態転化し、反対に、商品はただ貨幣に形態変化するだけだからです。「価値移転」といった、わけの分からないことが起こる余地はどこにもありません。流通過程でそんなことが生じたら、価値法則は一つのわけの分からない呪文と化すしかないのです。
セミナーでは、M氏は一旦は林の批判を受け入れたかに見えましたが、しかし、とはいえ、それは流通過程の話であって、真実に価値移転が行われる生産過程の話ではないと、生産過程における、一層ますます混沌とした価値転論のドグマを展開するのです。
M氏が林がどんな事実にあわないことを書いたと憤慨するのかはっきりしないのですが、それが流通過程における価値移転論に賛成したかに言ったことをいうなら、その点では、私は自信はありません。M氏が言った覚えはないというなら、それはそれでいいのです。私は、Ⅿ氏がそれを言った、言わなかったかで争う気はありません。いずれにせよ、M氏は流通過程にしろ、生産過程にしろ、価値移転論にこだわっていること自体が根本問題だからです。
◆流通過程における価値移転問題
しかし、流通過程における価値移転を否定しながら、生産過程における価値移転論に固執するなら、価値移転論の矛盾や困難は一層深まるしかありません。資本は貨幣、商品、さらにまた貨幣と価値形態を変えながら存続し、機能し続けるから、それは資本価値の移動の、移転の何よりもの生きた証拠ではないのかと、ブルジョア氏は、そして我らのM氏も考えるのです。
資本の典型的な貨幣資本の運動においては――例えば、綿花から綿糸を製造するというマルクスの例でいえば――、資本家は、当初、自らの貨幣(貨幣資本)を一方では、生産手段――原材料(綿花)と労働手段(紡績工場とその施設機械、マルクスは紡錘で代表させています)――に、他方では、労働力に転化します。もちろんこの過程は商品交換の過程、流通過程以外ではありません。資本家は貨幣を手放して、生産手段と労働力を手にしますが、その過程がいかに資本家には「価値移転」と意識されようとも、それが幻影でしかないことは、すでに見た通りです。
またマルクスは再生産表式を利用して、資本家的再生産の年々の総商品資本が使用価値と価値の2側面において全面的に入れ替わり、再配置されることを明らかにしました。その最も重要な契機が、生産財部門(第一部門)と消費財部門(第二部門)との間の配置転換です。もちろんそれを媒介するのは流通過程以外ありませんが、またここでもどんな価値移転もありません。
◆生産的消費と個人的消費
生産過程は新しい商品の生産の場であると共に、古い商品が消費され、その目的を達して、命を終える場でもあります。商品の消費には、2つの契機がありますが――実際の商品を生産する〝生産的消費〟と個人的消費――、どちらも価値移転論などを持ちだしたら収拾のつかない混乱に陥るしかありません。
そもそも綿糸を生産する機械(紡錘、スピン)の価値はどこから来たのでょうか。Ⅿ氏の理論によれば、流通の前段階の商品からの「価値移転」によってもたらされたものというしかありません。Ⅿ氏は流通過程では「価値移転」はないといいますが、生産過程での「価値移転」を主張するなら、流通過程でもいわなくては首尾一貫できないように見えます。
Ⅿ氏らは、価値移転は生産財を生産する第一部門だけの問題だといいます。しかしそのこと自体大問題です。第一部門と第二部門で違った法則で再生産が行われるというなら、それは、それぞれどんな法則だというのでしょうか、価値法則の統一性はどうなるのでしょうか。
例えば、生産財の生産では、人間労働が生産財 (使用価値としての)の全てを生産するが、価値としてはその一部しか生産しないといったドグマは、神様でさえ論証しえない、余りに奇妙な見解に思えます。
さらに消費材の生産部門では、使用価値ではこんどは生産財でなく、すべて消費財を生産するのですが、価値としては、その一部しか生産しないといった、無意味な、訳の分からないたわ言に帰着するのがオチです。
なぜかⅯ氏らは生産財生産部分についてだけ語って消費財生産部分の「価値移転」論については、沈黙を守っていますが、「価値移転」をそこでも論証する義務があるのではないしょうか。
◆商品は価値と使用価値との融合体として二つにして一つの存在
商品は使用価値と「価値」の統一体としてのみ、その意味では、二つにして一つの融合体としてのみ商品であって、それ以外のかたわのような商品は、現実にも概念としても存在し得ないのです。
そもそも価値と使用価値の統一体としての商品は、何らかの消費を目的に生産されるからこそ商品であって、だからこそ、二つの消費形態の区別と共通性が問題となるのです。
一つが生産財を生産する限りの生産的消費です。最終的消費を生産しない限りで、生産的消費と命名されています。もう一つは消費財を生産する限りの個人的消費です。結局個人的な消費に入る商品を生産する限り、そのように呼ばれています。しかしどちらも価値と使用価値の統一体としての諸商品であるという点では、どんな違いもありません。
商品の生産過程は、諸商品――一方における生産手段であり、他方における労働力――によって、その結合によって、新しく諸商品を生産する過程であって、そこでは再生産のための諸商品は消費されて、その使用価値を失うのであって、したがってまた価値をも失うのです。このことは、生産的消費においても、個人的消費においても全く同様です。
生産的労働者の全体が、総商品を年々再生産するのであって、年々生産される総商品は労働者全体の生産的労働の結果として現実的なのです。
◆では生産過程における価値移転はあり得るのか
M氏は、自分がいうのは流通過程における価値移転ではなく、生産過程における価値移転であると。しかし、失礼ながら流通過程においてさえ価値移転があり得ないとするなら、まして生産過程において、価値移転がさらにあり得ないのは明らかではないのでしょうか。
というのは、生産過程においては、生産財の使用価値はその消費と共に失われるのであって――生産的消費――、それは、その交換価値が失われるのと同様です。またこのことは、消費財においても――個人的消費の場合――同じであることを、我々が確認しておくことも極めて重要です。喪失するものが「移転する」ことが不可能なのは、さすがのМ氏も承認するしかないのではないですか。
生産過程で行われるのは、古い生産財の使用価値の喪失であり、同時にその交換価値(価値)の喪失で、それは商品が価値であって、同時に使用価値であることからくる、一つの必然性です。
そして商品の生産過程は再生産過程でもあり、新しい生産財と消費財の生産です。もちろんそれらは商品としての生産財、消費財である限り、交換価値(価値)と使用価値の統一物としての商品であるのはいうまでもありません。
M氏は価値移転という事実は、生産財部門においてのみ生ずる事態だと言います。しかしなぜ消費財部門では価値移転がないのか、なくていいのでしょうか。生産財部門でそれがあるなら、消費財部門ではそれがないというなら、なぜそうなのかが説明されなくはなりません、そしてまた消費財部門でもあるというなら、どんな形でいかにしてあるのかが明らかにされなくはなりません。もし、それが不可能だというなら、Ⅿ氏は資本主義的生産の再生産過程の表式に、その総体的な姿について語る資格はないのではないですか。M氏は宜しく消費財部門における価値移転も含めたところの、資本主義の全体的な再生産表式を提示すべきではないでしょうか。
しかしM氏がどんなに苦労し、苦闘しようとも、その仕事をなし遂げることは出来ないでしょう、というのは、M氏の根底の概念が間違っているからであり、非合理的なものだからですが、それはあたかも現代のブルジョア経済学が国民経済学・ケインズ主義の混沌のごった煮以外になりようがないのが、「スミスのドグマ」に基づく一つのたわごとに立脚したためであったのと同様です。
◆結局、商品とは何か。
人々は、そもそも人類は、自らと、さらに社会全体の消費と生活と生存のために、自らの労働――現代では徹底的な社会的形態を取った――によって生産手段(生産財)を生産し、またそれを用いて消費財も生産してきました。
現代社会の諸商品の膨大な山は、そうした生産財や消費財の歴史的に規定された形態に他なりません。商品は一方では交換価値=「価値」であり、他方では使用価値です。商品は、したがって価値であり、使用価値であって、この商品の二つの契機は商品に内在的であって、何らの理由で、そのどちらかが欠けても商品はすでに商品でありません。価値移転という観念は、こうした商品の本質的な概念に一致しません。商品に内在的である「価値」が移転して、どこかに移って行ってしまうというのでから。
Ⅿ氏は、問題は流通過程ではなくて――そこでは「価値移転」はなくても、あってもどうでもいい――、というのは、自分は生産過程において「価値移転」があると主張しているにすぎないからだと言っています。
◆消費と生産の〝弁証法〟
商品の生産過程において、重要なことは、それはそこが一方では、商品の生産的消費の場であり、他方で、諸商品が全面的に再生産される場だということです。
生産的消費という言葉は二様に使われます。例えば、上記のように、一般的な意味で使われ得ますが、個人的消費の対概念として、生産財を生産する場合にも使われます。生産的消費とは生産されるものが生産財である――再生産表式でいえば、第一部門――ということですが、それは、他方では個人的消費が消費財を生産する場――再生産表式では第二部門――であることに対応しています。
生産過程で行われることは、生産財と労働力の結合であり、生産財の消費――使用価値と価値の喪失――であり、したがってまた同時に、新しい諸商品の再生産です。消費は、同時に生産であり、再生産です。ここでは、生産の主体である労働力(労働者)は、ただ資本の運動の一契機としか現れないのですが、それは、社会関係が資本という〝物的な〟形態を取った、この転倒した資本主義の一つの必然性です。
とはいえ、個人的な消費もまた第一部門と同様に、生産的消費です、というのは、それもまた消費財という富を生産するからです。そして再生産された富が個人的な消費に行くからです。しかし一体、消費財の再生産は、結局何を再生産するのでしょうか。個人的に消費されるというのは、それが個々の労働者の生産過程で消費された労働者の労働力を再生産ということになるのですが、ただそれは生産財の再生産と違って、いわば間接的になされるという点で区別されるのです。
かくして生産過程における商品――生産財と消費財――の消費は、同時にその再生産ではあり得ても、「価値移転」といったものでは全くないことが明らかにされるのです。生産的労働の意義を否定する「価値移転」論の珍奇さや途方もない反動性は余りに明らかです。
『資本論』の冒頭で、商品の概念について学んだ人々は、むしろ商品の「(有用労働による)価値移転」といった奇妙な観念に違和感を持つでしょう、というのは、そんな観念は全く述べられていないからです。ただ資本主義の表面的な現象に幻惑される人々だけが、資本家の後を追って、「価値移転」などという卑俗な見解に夢中になるのであり、なることができるのです。
最後にもう一つ、「生産的消費」という言葉の意義をよく考えてみることが重要です。ともすると生産過程の問題だということで、「消費」の意義が確認されていませんが、生産過程は生産過程であるとともに、商品の消費の過程でもあるということです。消費を目的に生産された商品が、その任務を終える場もあるということです。消費の場であり、同時に生産の場であり、再生産の場なのです。
そして、こうしたことは生産財の生産の場合だけでなく、消費財の生産の場合でも同じです。本来なら、生産過程で消費されたものは労働力です。しかし消費財は直接には、労働力ではありません。しかしそれを消費し、労働力を再生産するのは労働者自身です。
こうした回り道がありますが、こうした回り道によって消費財生産部門でも、生産的消費の原則が貫徹されていることが確認できます。
商品の「消費」とは、その使用価値の喪失だけでなく、また価値の消失でもあります。一方だけということは、商品の場合あり得ません、だから消失する価値が移転するといった、ばかげた、不合理なことは当然起こり得ません。生産過程によって、年々の生産的労働によって、商品は――したがってまた――使用価値も価値も再生産されるのです。これが人間社会の自然の法則であり、その生活と継続を保証するのです。
◆最後に
泥仕合になるので、あまり言いたくはないのですが、Ⅿ氏はブログを読んだその瞬間から、事実を全く点検することもなく、林の言うことは「事実ではない、ねつ造だ、卑劣だ」といい続けてきました。私は代表委員の人たちには、早くから東京でやったセミナーの時か何かの時に、Ⅿ氏が出した文書があるから探してみたらといったのですが、簡単には見つからなかったようです。
しかし3年ほど前のその文書が見つかり、Ⅿ氏のいうことの方が事実でなく、中傷だということが明らかになった後でも――もしⅯ氏が忘れていたと言うなら、忘れることは誰にもあるから仕方ないとしても――屁理屈を並べて、まだ林が悪いかに言うことことは感心できることではありません。何か少しきつい表現をしたことでも「悪意に満ちている」と非難していますが、何をいまさら、という感じです。すでに「価値移転」論については、我々は10年ほども議論を続けてきました。
その間、私は一度として「価値移転」論を支持したことはなく、一貫してナンセンスとみなしてきました。他方、Ⅿ氏らは、「マルクスが」明言しているということを唯一の拠り所として、それを擁護し続けて来ました。参院選の決戦を前に、この問題に決着をつけるときがきたと、我々が判断したとしても党外の人にとやかく言われることありません。
Ⅿ氏は、また「シンパを追いやるようなことをしていいのか」と激高して言っています。しかし問題は、「シンパを追いやる」かどうかと言ったことでなく、参院選の闘いがようやく本格的に開始されようとしたときに、Ⅿ氏が「価値移転」論での意見の相違を口実に党から、したがってまた、実際の闘争から逃走したことではないのですか。東京の闘いが、身障者の坂井さんが中心にならなければないことに象徴されるように、決定的に弱体であるということを百も承知していながら、です。
Ⅿ氏の今、なすべき唯一のことは、「価値移転」論で、自分が間違っていることを確認できたら党に戻るという約束を守って党に戻り、参院選闘争の先頭にたってあと半年、全力をあげて闘いぬくことではないですか。
仮にⅯ氏がそうしても、党内のだれ一人、Ⅿ氏の行動を歓迎こそすれ、非難する人はいないと断言することができます。
2018年12月25日 K病院にて 林紘義