大阪衆院選12区の補欠選挙

野党共闘路線の破綻と崩壊の始まりを明らかにした

 
・共産党主導の野党共闘は拒否された
 統一地方選と時を同じくして行われた衆院大阪12区の補欠選挙は、自民党(北川)、維新(維新)、元民進(樽床)、共産党(宮本)の〝4党の揃い踏み〟となり、いずれが勝利するかと注目を浴びたが、自民党との積年の対決を制した維新が勝利し、自民党は涙を飲んだ。

共産党は独自候補を立て、この争いに割り込み、〝共産党主導の〟野党共闘の実績を上げ、参院選につなげようとしたが、こと志に反して、むしろ野党共闘は共産党主導でやる限り、勝利の展望はほとんどないということが明らかになっただけであった。

 志位路線には先の見通しが全くないこと、共産党が自壊の道に進むしかないことがすっかり暴露されてしまった。また樽床ではなく、共産党の宮本に肩入れすることによって、立・民の枝野もまた、最近力を入れ始めた野党共闘への主導権を失い、野党共闘など始まる前から空中分解し、その可能性さえ消えてなくなりつつある。

志位は補欠選挙に宮本を候補者に立てることによって、野党共闘の主導性を発揮することを狙ったのだが、完全に失敗に終わった。立・民の支援があり、市民派との共闘もあってなお、4人の候補のうちのラストで、わずか1・4万票(8・9%)、前回17総選挙のときの2・3万票(14・4%)からも大きく票を減らし、これまでの6回の選挙でもワーストの得票という致命的な惨敗をこうむったのである(ベストの得票は00年の3万で、今回の2倍以上の票)。

 しかも過去6回の12区の選挙の多くは野党共闘ではなく、共産党独自で闘って獲得した票だとするなら、野党共闘でやった方が票がかえって減るという、極めて志位にとっては具合の悪い、不名誉な結果となっているのである。

 自主投票の立・民の枝野がわざわざ支持の表明に訪れ、社民党も支持を表明し、国・民さえ樽床支持ではなく〝自主投票〟を謳い、党首の玉木も宮本の応援に出かけてきて、市民派も結集し、事実上の野党共闘が生まれたというのに、得票数を大きく減らしたというのは、共産党を野党共闘の候補者として擁立した時には決して勝てないことを証明したようなものであって、宮本であわよくば勝利して、今後野党共闘の主導権を手にしようとした志位の目論見と思惑は完全に裏目に出たということである。

 志位が初めて3年前の野党共闘を唱えた16参院選の時も、32の一人区のうち、四国の香川県だけが共産党の候補者の擁立する選挙区に割り振られ、他の一人区では共産党は候補者を下ろし、野党共闘の候補者――事実上、その大部分が後に「裏切った」と志位や小池が言いはやした、右派議員を多く含む民進党の候補者――を応援することになったが、香川では野党共闘は全く機能せず、共産党候補はひどい負け方をするしかなかった。というのは、野党共闘の勢力の一部(民進党系の労働組合など)が、共産党候補になったことに反発し選挙運動を完全にサボタージュしたからである。

 選挙の後には、香川ではもし共産党ではなく、民進党員の候補者だったら十分勝てたかもしれないという話がまことしやかに流れた。
大して労働者的でも左翼でもない共産党が、なぜ国民や民主や連合の組合主義者たちに必要以上に毛嫌いされるかを、志位は――もし本気で野党共闘なるものをでっちあげて、安倍政権を打倒して、それに取って代わることを考えるなら――真剣に反省してかかるべきであろう。

 

・野党共闘路線と逆行したのではないのか
 志位の大阪補選にかけた思惑は完璧に的外れのトンチンカンで、その愚昧さをさらけ出しただけだった。
 彼は共産党が無所属で立候補するなら、野党共闘のヘゲモニーを握れると勘違いしたのかどうかは知らないが、現職の衆議院議員で国会でも派手にふるまった宮本に議員を辞めさせて、あえて補選に立候補させて衆議院の議席増を狙った。宮本は衆議院比例近畿ブロックで当選しているから、宮本が辞めても次点の清水が繰り上げになるだけで、衆議院の共産党議員は減らないということを打算してのことでもあったろうか。

 それとも予想される共産党の〝基礎票〟に、無党派=市民派の有権者や、候補者を立てない立・民や国・民の票を集めればどうして当選しないことがあろうかと、自党の本当の力について過信し、また客観的な情勢にも盲目で、完全に読み違えたのであろうか。

 しかし立・民の支持層などといっても労働者・働く者のなかに浸透した分厚く、確かなものではなく、無党派や市民派と似たようなものでしかないとするなら、そんな〝浮動票〟に依存した選挙闘争で勝利を得るなどと安易に言うことができるはずもなかったのである。

 選挙後明らかになったことは、無党派の投票対象は維新や自民党であり、そして樽床であって、情けないことに、「市民との共闘」を謳い、大切にした宮本は、その〝市民たち〟つまり無党派の1割ほどの支持しか集め得たにすぎず、他の3候補の20%、30%に大きく水をあけられたのである。

 共産党は野党共闘路線の建前に逆行する党独自の候補者にこだわり、その立候補を強行したのである。党名を隠して「無所属」を名乗ったとしても、そんなものは姑息なごまかしであって、有権者も他党も宮本が共産党の独自候補であり、志位が独自候補にこだわり、自党ファーストの独断専行の試みに走ったということは余りに明らかだったのだから、実際には何の意味もなかったのである。

 元民進で無所属の樽床がすでに立候補を決めており、しかも野党共闘でやれば、それぞれ公明党との関係など問題や弱点を抱え、しかも事実上保守陣営の分裂選挙になっている維新や自民党をともに圧倒し、勝利し得る可能性があったところに、志位は一体何のために、何を考え、何を目的にして独自候補の宮本を押し立てたのか。

 志位のやったことが労働者・働く者の利益でも、野党共闘のためでないことは明らかである、野党共闘ならなぜ樽床なのか、宮本でやらないのか、あるいは他の候補はいないのかといったような相談や話し合いがあってしかるべきなのに、そして野党票を分断したら、維新や自民党を利することは明らかであったのに、そうしたことに配慮することなど一切なかったからである。
 
 宮本陣営は選挙中、「安倍政権を倒すために、宮本さんを国会に戻そう」などと呼びかけたが、自民党を落としても維新が通ったのでは、かえって余計に労働者・働く者にとって害があるとも思わなかったのであろうか。共産党は維新の会にも自民党に反対していなかったのか。大阪では、安倍政権を追い詰め、倒すためには、大阪の自民党に反対するより、維新に反対する方が重要であるということを自覚し、反省しているべきではなかったのか、というのは、安倍や菅は実際には、大阪の自民党より維新の方が頼りがいのある盟友と信じ、重視していたからである。安倍が大阪の自民党の応援に入ったのが、選挙の前日であり、しかも形だけの、心のこもらない応援で済ませたのは決して偶然ではない。

 国会議員を辞めて衆院補選に立候補しておいて、「安倍政権を倒すために、宮本さんを国会に戻そう」もクソもない、「国会に戻そう」など訴えるくらいなら、そもそも最初から議員を辞職しなければはいいだけのことである。これでは安倍が「今の経済状況の下で消費増税をしたら深刻な経済不況になる」と共産党から批判されて、「消費増税をしても、それに匹敵するカネをバラまくから安心せよ」というも同然の(それくらいなら、消費増税をしなければいいと、共産党は安倍を批判したのではなかったか)、国民愚弄のへ理屈ではないのか。

 

・原則をたちまち放棄して、本性さらけ出した立・民の枝野
 大阪補選において、立・民のやったことも理解不可能であった。彼らもまた最近は野党共闘に対する否定的態度を修正して、野党共闘を謳っていたのではなかったのか。元民進党の仲間内の候補を差し置いて、共産党候補を応援することが、どうして野党共闘なのか、それとイコールなのか。

 両者を一本化して、維新や自民党に対抗し、維新や自民党の候補を共に打倒することが、立憲民主党の、枝野のなすべきことではなかったのか。

宮本の事務所に枝野や初鹿らが行って、宮本の勝利を祈る等々ポスターを送ったり、今回の市民と野党(共産党)との共闘は、「これまでにない形の共闘。初めてのケースだ」と意味不明の誉め言葉をもてあそび、宮本の勝利が、「日本の歴史や未来を変える第一歩になる」と歯の浮くようなお世辞を振りまいたが、一体何のためだったのか。
 そして穀田は、40人の野党議員が駆けつけて来たが、「どういう方と協力するか、いつも来られた人々の名簿を懐に入れて(選挙闘争に)走っている」と、傲然と圧力をかけている。


 宮本が勝つかもしれないと予想して、先行投資でもしたかったのか知らないが、そうだとしたら、枝野らは共産党といった、ろくでもない政党の本当の姿も何も分かっていないのである。枝野は選挙において共産党系のいくばくかの〝ケチな〟票の欲しさに、それによって数議席を増やすために、原則も何もない政治にすでにどっぷり浸り始め、手を染めているということか。せいぜいそれくらいの政治家にすぎないという底が、たちまち割れたというものである。


 宮本が「党首が来たのは大きい」、「百人力だ。無所属で立った甲斐があった」、「野党共闘が組みあがった」と狂喜乱舞したのも当然であった。我々に言わせれば、双方ともお似合いであり、〝どっちもどっち〟の、たちまち腐っていく卑俗無気力の頽廃政党というだけのことだ。

 

・野党共闘がマイナスの効果しかないことを暴露
 共産党は大阪補選で決定的に敗北することによって、野党共闘で主導権を握ることを諦めざるを得なくなった、というのは、有利な客観的な条件があり、野党や市民派の総力を挙げての応援にも関わらず、元来の共産党の票さえ結集することができなかったからである、野党共闘がマイナス効果しか持たないことを暴露してしまったからである。

 志位は参院選の32の一人区で、野党各党がどんな割り振りで立候補するかを問題に、直近の国政選挙における各党の得票数に比例してやるべきだと主張した。つまり立・民と国・民と共産と社民の4野党の得票数の比が15対10対6対1だとしたら、立・民が15の一人区から、国・民が10の一人区から、共産が6の一人区から、社民が1の一人区から立候補するように調整するという提案である。


 しかし立・民や国・民は共産に野党が勝ちそうな選挙区の6つを配分するのを躊躇し、避けようとするだろう――共産がやれば、勝てるかもしれないのに惨敗するだろうから――、そして立・民や国・民は自党が立候補するなら確実に勝利し得る、有利な選挙区を取ろうとするだろう。


 しかも各党の自党ファースト主義と勝手な思惑が幅を利かし、まかり通り、衝突するなら、4党が32の一人区のどこを、いくつずつ担当するかをめぐる協議はたちまち行き詰まり、簡単に決まることは決してないだろうし、決まったとしてもすべての野党が固く一致して他党の候補のために全力を挙げるということにもならないだろう(ただでさえ仲の悪い野党同士もまたいくらでもあるのだから)。
 
 そんな話し合いや協議はたちまち難航し、至難の業となり、挙句の果てには頓挫するしかなくなるだろう。各党がいくつかの、どこの選挙区を全ての党が満足するような〝公平な〟形で配分できて、お互いに気持ちよく、全力を挙げて参院選を闘うことができるなどと言うことは幻想化、夢物語でしかないだろう。


 そんな無意味で無駄なことに労力や時間を費やすより、今こそ各党はそれぞれのやり方や内容で、またそれぞれ安倍政権との独自の闘いを、全力を挙げて開始し、貫徹することこそが必要であり、重要ではないのか。共産党らは「本気」についておしゃべりするのが趣味のようだが、必要なものは「本気の野党共闘」などではなく、各党の真剣で、「本気の闘い」だけである。