『海つばめ』1376号は「志位の『野党共闘論』批判特集」として、林論文を掲載しましたが、紙面の関係で一部省略しました。ここに全文を掲載します。


次回衆院選が終焉の地

――志位の『野党共闘』路線の行方


 志位が野党共闘の〝バージョンアップ〟を求めて策動を強めている。並みの野党共闘で3回の国政選挙を闘い、野党共闘の躍進と、それに並行しての共産党議席の上積みを狙ったが、あぶはち取らずの結果で、野党共闘は負け戦ばかり積み重ねたばかりではない、17衆院選では野党共闘自体が解体し、間に合わせの野党共闘で体裁を取り繕うしかなく、このままでは野党共闘路線を叫んで来た志位の権威も権力も、春のうたかたの夢と消えてしまうしかなさそうである。事実上破綻した志位は、今や野党共闘による政権構想で突破口を開くしかないとばかり、共産党の参加する野党政権の幻想をふりまく以外ないのだが、12年に破綻した民主党政権に、共産党が参加するような形にしたとして、どれだけ代わり映えがするというのか。


野党共闘の戦術は失敗と挫折ばかり


 しかしもともと野党共闘路線そのものが、スターリン主義の垢にまみれた、〝間違った〟戦術であり、1924年来の歴史の中で、理論的に、実践的に完全な破綻と失敗を暴露してきたのであって、そのことの総括も反省もなく、単に事実上挫折している野党共闘路線の延長線上に、その政権を持ち出したところで間違いの上塗りをする以外のどんな意義も獲得できないであろう。


歴史の中で否定されたミルラン主義=〝入閣主義〟


 いくらかでも大衆的な労働者の社会主義運動が発展し始めて以降、労働者と労働者党のメンバーがブルジョア政権(プチブル政権)に参加することは基本的に日和見主義であり、間違っていると宣告され、退けられて来た。


 第二インタナショナルの時代――1889~1914年――、第二インターの大会は明確に社会主義の党派や運動がブルジョア内閣に入閣することは間違いであると結論し、そんな党や連中を第二インターから排除し、追放したが、それは彼らが労働者階級とその運動を裏切って、ブルジョアと連帯し、協調することを意味すると結論したからである。


 19世紀末、ミルランという社会党の活動家が始め派手に活躍しながらも、1899年、ブルジョア的なワルデック・ルソーの内閣に入閣し、労働者の政治闘争を分裂させ、弱め、自らは最後には首相や大統領にまで成り上がり、労働運動の弾圧にまで手を染めたが、第二インターはこうしたミルランの裏切りを暴露し、明確に社会主義者の〝入閣主義〟を否定し、抗議する決議を行ったが、以降その立場は世界の労働運動、社会主義運動の原則となり、伝統となったが、そうした良き伝統は、第二インターを裏切った右翼社会主義者や、スターリン主義者らによって簡単に放棄されて現在に至っている。


 そしてスターリン主義が日和見主義やブルジョアとの協調主義に公然と、全世界的な規模で転向した1930年代の半ばの〝人民戦線戦術〟の時代以降、今やミルラン主義=入閣主義は今やスターリン主義共産党の影響の及ぶところ、どこでも大手を振ってまかり通っているというわけである。


 コミンテルンの時代の1930年代、スターリンの人民戦戦線戦術やブルジョア協調主義はフランスやスペインにおいて(そして第二次大戦中には米英などとの国際的な協調路線として)露骨に行われたが、ナチスドイツの武力侵攻を目前にして崩壊するか(フランスの場合)、スターリン主義者の策動や陰謀による、内部勢力の団結の喪失や分裂や抗争等々によってファシズム勢力(フランコによる軍事クーデタ)に敗北するかして(スペインにおける痛ましい、悲しむべき経験)、結局不毛で、無意味な試みとして、有害なものとして終わったのである。


とりわけフランコのファシズム勢力と闘うスペインの労働者・働く者に対する、背後から闇討ちするような裏切り、悪逆無道といえるような、世界の労働者・働く者に顔向けできないような悪行、ブルジョア的な人民戦線政府を助け、労働者・働く者の闘いを弾圧までしてアサーニャ政権を守り、結果としてフランコを勝たしめた陰謀政治を、スターリンの人民戦線戦術(野党共闘路線)の反動的本性を、志位は知っているのだろうか、そんな歴史を知っていて、なおもスターリンの戦術を、この21世紀の日本でまた繰り返したいのであろうか、知らないで、そんな歴史と事実に対する全き無知のままで、日本の労働者・働く者の闘いを導くことかできると本気で思い、うぬぼれているのだろうか。


 そうだとするなら、不破や志位らの、スターリンに勝るとも劣らない、卑しい本性について、我々は何というべきであろうか。怒りで、言葉も思い出せないほどである。


 しかしこうしたスターリン主義の政治的経験は、2次大戦後にはもっと腐敗した形で持ちこされ、イタリアやフランスの共産党はプチブル政権やブルジョア政権に加わり、あるいは入閣して堕落と混乱の限りを尽くした末、労働者の支持を完全に失って消滅してしまった(1990年代の日本の社会党と同様に)。


 インドネシヤのスカルノ政権の瓦解と敗北や、チリのアジェンダ政権の解体と敗北もまた、歴史的、実際的な条件はいくらか違うが、スターリン主義の戦術の犯罪的役割を教える経験として学ばれてしかるべきである。

「共産党の力が必要」


 〝安倍一強〟(専制政治)の中で、その権力を打倒するには、野党が一つにならなければ勝てないといった、間違った理屈がはびこり、そんな間違った幻想に基づいて、野党は安倍政権との真剣な政治闘争を忘れ、棚上げして、野党共闘のためにエネルギーを浪費し、あたふたと不毛な〝政争〟に明け暮れている。


 なぜ各野党は、それぞれの力で、それぞれのやり方で、安倍政権と全力を挙げて闘い、結果として安倍政権と自民党を敗北に追い込まないのか。かしこまった、煩わしい、形ばかり野党共闘などなくても、小選挙区でも自民党を負かす方法などいくらでもあるだろうに。


 野党なる勢力が総選挙に勝つには、共産党の力がどうしても必要だと言われている。一体どういう意味か。そもそも〝野党〟とは実際には何か。国・民や立・民の別名なのか、共産党はそこに入るのか、入らないのか。それすらも、曖昧である。 


 入るというなら、なぜその力が必要だなどと、外の存在のような言い方がされるのか。共産党は、自分自身で野党の中の存在だと思っていても、〝真正〟野党の連中は、共産党は「悪女の深情け」で、一方的に野党の仲間だと言いたいだけの単なる付和雷同組、野党というより、正体も定かでない、野党ともいない、自称〝共産主義〟の、内実のない、空っぽの自惚れ屋たち、セクト集団にすぎないとみられているのではないのか。


 そんな〝微妙な〟真実を知らないのは、ご当人の共産党の諸君だけではないのか。

 しかし真実はどうあれ、立・民も国・民も共産党に迎合し、チヤホヤとおだてるのにいとまない、というのは次の総選挙では小選挙区で100議席が必要だが、それを可能にするには、共産党の助勢がなければ不可能だからである。


 しかし本当に共産党の助けがなければ、自公に勝てないのか。民主党は09年には単独で勝ったのではないのか、あの時勝てて、今勝てないというのは、民主党政権の3年間にろくなことは何一つしなかったからではないのか、労働者・働く者の政治に徹しないで、半ブルジョア的政治に、そして人気取りの無節操なバラまき政治に明け暮れていたからではないのか。


 今二つの民主党が自公に勝てないのは、共産党の助勢があるなしではなく、立・民や国・民の政治が国民から、労働者・働く者から信用されないだけの話ではないのか。だらしのない二つの民主党ではある。諸君は3年間の民主党政権の総括をすることは決して出きない、まさにそれゆえに、決して自公勢力に決して勝つことができないのである。


 共産党が助けなければ勝てないなどと言う野党共闘が、たまたま共産党の助けで勝ったところで、どんな意味もありはしない。


 共産党は野党共闘が勝ったら閣内に入るのか、入らないのか聞かれて、今は決められない、状況を見て決めると逃げている。11年前の民主党政権に参加しないで、参加した社民党とは異なった態度を取った。そして社民党は民主党政権の沖縄基地移転問題での無責任な態度を見て、たちまち愛想を尽かして閣外に出た。


 共産党は民主党の二の舞を恐れ、野党共闘政権の〝失政〟――それは不可避なのだが――の責任を取ることを嫌って、また閣外に留まろうとするのだろうか、そんな無責任で、都合のいいことができるのか。


 共産党を含めて野党諸党が289の小選挙区で100議席を取るという話ではないのである。野党なる勢力が共産党の力を借りて100議席を取るという話である。とすると、この100議席は一体どういう数字か。共産党はせいぜい、1か2の小選挙区で勝つにすぎないであろう。したがって、これは主として立・民や国・民が100取るためには、共産党の協力が必要だという話である。立・民や国・民の利益だけの話である。共産党にはどんな利益もない。というのは、野党の候補は皆、共産党や社民党なども含めて、基本的に野党共闘派として、あるいは無所属(所属政党隠し候補)として立候補するからではないからである、それぞれ各党の候補者として立つだろうからである。有権者は選別し、共産党野候補なら票は入れないという労働者・働く者はわんさといるのである。共産党の候補者でなかったら、野党共闘派が勝てるという選挙区がいくつも出るのである。


 結果として当選可能な選挙区から共産党候補ははずさるということである。そんな形に帰着する、野党共闘派の選挙区調整がうまく行くはずはないのである。


 共産党はこれまで、自党の候補者を降ろし、他の候補者を応援し、そんな奉仕活動と引き換えに、比例区の票の積み増しを期待して闘ったが、志位の思惑にもかかわらず、共産党の比例区の票は、志位が選挙のたびに繰り返して何回も目標とした850万に、200万以上も少ない票しか獲得できなかったのである。


 有権者もしくは共産党以外の野党支持者は、小選挙区で共産党が自己犠牲の精神を発揮して、野党共闘派のために候補者を降ろしたり、両民主党の候補者に投票したのに痛く感激し、比例区で共産党に投票することもあり得たかもしれない、しかしそんな奇特な有権者はごくわずかであって、志位が期待した人の何十分の一くらいのものであった、というのは共産党が候補者を降ろしたというのは最初から当選の当て等ない候補者で、他の党との取引のための立候補であることをよく知っていたからである。


 要するに、有権者の〝善意〟や〝同情心〟や〝仲間意識〟を期待して闘った志位がバカを見たのであり、そんな戦術は失敗したのである。野党共闘に期待した有権者は野党共闘派には期待したが、別に共産党に期待などはしていなかったのである。


 つまり共産党は多くの立・民や国・民の連中を議員としてせっせと国会に送り込んだということだが、そんなことをしていいのだろうか、17年の時と同様に、今後もまた彼らの多くに裏切られないという保障があるのか、というのは立・民や国・民の議員の中には、2017年の衆院選では野党共闘勢力を割ってでも、保守の政党(小池新党)に走った多くの議員がいたことからも明らかなように、事実上与党の自公と大して変わらない立場の、ブルジョア的、保守的な政治家が数十人という規模でいるからである。


 立・民や国・民の連中は「共産党の力を借りて、小選挙区で、衆院選で勝とう」と思って、「野党統一戦線」に熱心な振りをし、共産党をそんな協調主義に引きずり込もうと策動する、そして愚かで、お人よしの志位は少々おだてられていい気になって、共産党にとってさえ、利益など何もないような野党共闘の戦術にはまり込んでいる。愚かといおうか、お人よしといおうか。


 他方、二つの民主党の方は、枝野や玉木は、「共産党の力を借りて」、小選挙区で100議席得られれば〝御の字〟だとほくそんでいるだけである。


一体いくつ統一戦線、連合政府が必要なのか


 志位は今野党共闘路線にのめりこみ、その行き詰まりの中で、野党共闘派に政府の構想がないから野党共闘に国民の支持が集まらないのだ、政府構想を明らかにし、国民に示せば、国民も野党共闘派の「本気度」を信用し、投票率も上がり、野党共闘派は勝利すると、埒もないことを主張し、熱心に説いている。


 投票率が上がれば、〝野党〟――どの党派のことやら――に有利だなどと言う、カビの生えたような神話はさておくとして、野党共闘派の政府綱領を示せば、その内容がどんなものであり、国民が、労働者・働く者がおっとり刀で馳せ参じるといった観念は全くの幻影であって、労働者・働く者を愚弄するも甚だしい。内容も何もない、野党共闘派の政治や政権幻想には、労働者・働く者は増々愛想を尽かし、飽き飽きしているのである。


 頭でっかちで、観念論者で、独断主義者、独りよがりの志位は、野党連合政権に道を開くには、野党は「追及だけでなく、希望を」という〝姿勢〟を貫く必要がある、そのためにはこういう政権を作るということを明示して行くべきだ、そうすれば国民は嬉々として野党共闘派のもとに結集してくるだろうと捕らぬ狸の皮算用にふけるのである。


 そこで我々は、野党共闘派の政権構想を一瞥し、検討して見よう。


 志位は1月の大会の中で、野党諸党の中ですでに「安倍政権を倒し、政権を変え、立憲主義を取り戻すという方向は確認できた」と報告し、具体的には、「安倍政権の破壊してきた立憲主義、格差是正、多様性」を取り戻すことを目指して闘う、消費税を5%に戻すなどの政策で一致して闘う等々と報告した。


 しかし「立憲主義」(法治主義?)や「格差是正」(同一労働同一賃金?)や「多様性」(民族主義?)といった、抽象的で、それ自体無内容なものは、安倍政権でさえ口にし、謳い、政策目標にしているのであって、そんなことで争っても安倍政権に勝てるはずもない。


 要するに野党共闘派の政策の根底は、志位の次のような立場に代表されているのであろうか、それでいいのであろうか。


 「増税で景気を悪化させ、景気対策のバラまきを行い、財政をさらに悪化させる。……この悪循環を断つ道は明瞭です。消費税を緊急に5%に減税し、社会保障充実・くらし応援に切り替える。財源は、空前の儲けをあげている、富裕層・大企業に応分の負担を求める。『消費税に頼らない別の道』でまかなう」(1月5日、党旗開きでの志位の挨拶)。


 増税で景気を悪化させ、景気対策のバラまきを行い、財政をさらに悪化させる」などと言う論理は――否、この引用文の全体も同様だが――、ただ志位のドグマの組み立ての中でのみ通用する、手前みその観念であって――ここでは論評は詳しくは展開しないが――、因果関係や客観性、したがってまた論理性はゼロの詭弁の一種である。


 12年の三党合意の5%の消費増税は、その内の4%を財政再建のために、1%はまさに「社会保障の充実」を銘打ち、そのためのものであった。


 それは現実的な課題であり、関係であって、頭の中のものではなかった。志位は事実上、消費税を5%に戻し、改めて、社会保障の充実を謳うのだが――財政再建は無視しつつ――、その財源とはただ志位の頭の中にだけあるものでしかなく、つまり純粋に観念上のもの、空想の産物であって、何とでもいえるのである。「空前の儲けをあげている富裕層・大企業に応分の負担を求める」というのだが、「応分の負担」とはどんな「負担」なのか、彼らが「求めても」拒否したらどうするかもはっきりしていない、つまり言葉だけの問題として、結局は空文句として終わるのである。


 立憲主義も回復するというが、法治主義とは区別された立憲主義、野党が言いはやしている「国民(ブルジョア)が自らの意思を、法的秩序として国家権力に強要する」権利といった意味での立憲主義なら、そんなものは1819世紀のブルジョア革命の時代のイデオロギーであって――しかも旧権力(絶対王政)を革命的に打倒し、一掃するのではなく、旧権力と和合する立憲王政のイデオロギーであって――、そんな憶病なものを今頃もち出すのは、自らの極端な日和見主義と愚劣な時代錯誤を暴露するだけである。 


 15年の安保関連法(共産党の無概念の規定によれば〝戦争法〟)をなくすというのも、ピント外れな要求でしかなく、そんなものは――原発を一掃するといった要求も同じだが――、野党共闘派の共通の要求になるはずもないし、なったとしても、野党共闘政権がそんな政治を実行に移すことは100%ないと断言できる、というのは、野党共闘派の内部には、安保関連法や原発を肯定し、その活用を期待し、持論とする強力な勢力が、獅子身中の虫が盤踞しているからである。


 共産党が野党共闘派の共通の要求を何とかをまとめ、仮に野党共闘派の政権が生まれたとしても――そんなことはありそうにないが――、そんな政権は細川政権や鳩山政権、戦後の片山政権と同じ運命をたどるだけである、容易に1年もたたないうちに、決定的な脆さ、弱さや、無力や内部矛盾を暴露し、たちまち崩壊し、その反動として、より危険で、より悪質なブルジョア政権(例えば安倍政権)に、ファシズム的政権に(もし労働者・働く者が、そんな政権を労働者・働く者の権力に止揚しないなら、できないなら)席を譲るのが関の山、という結果に帰着するのである。


一体いくつもの、あるいはいくつもの〝段階の〟共闘政権を必要とするのか


 それにしても共産党は、志位は一体いくつの、違った性格と課題を持った野党共闘政権が必要だというのか。


 それぞれの時代や社会や闘いの段階があるのだから、それに対応した共闘の形があるのは当然のことだというのか。


 彼らはコミンテルンの初期には社共――共産党と、共産党に参加しなかった、第二インターから別れたブルジョア的社会主義者ら――との統一戦線を謳ったが、それはトロツキーらの大きな影響を受けて、スターリンらがヘゲモニーを握ってのことであった。


 しかし、その路線はすでに1920年代半ば、中国革命を致命的な敗北に導き、その反動として、スターリンは「社会党主要打撃論」というプチブル的な急進主義に走り、ファシズムの勝利を助けた後、今度はさらに日和見主義的路線に急転換し、ブルジョア勢力やプチブル勢力との協調路線――人民戦線政府論――の泥沼に転進し、フランスやスペインの革命――もちろん、あり得たかもしれない革命ではあるが――を敗北に導いた。


 このスターリニズムは、第二次世界大戦末期や、その後における激動の中で、世界の労働者の解放運動や、先進国の植民地に甘んじてきた多くの後進的国家の中に、澎湃として起こってきた民族解放運動――〝民主主義的な〟革命運動――に致命的な悪影響を及ぼし、破滅させた。


スターリン主義は日本の運動にも悪影響


 もちろん日本も例外ではなく、戦後の日本革命――その性格はさておくとしても――を流産させた責任は日本共産党にこそあるといって決して言い過ぎではない。


 そんな共産党は、今また〝超〟日和見主義をふりまいて、再び、三度、日本の労働者・働く者を裏切ろうと策動するのである。


 共産党は綱領では60年代初め、ようよう採択された悪名高い宮本綱領以来、当面する革命は民族民主革命であり、それを実現するのは民主連合政府であると謳ってきた。


 彼らによると、この政府は並みの統一戦線政府と違って、日米安保条約を廃棄するなどの「根本的な民主的変革」をする政府であり、これに反して、今問題にしている、野党連合政権は、「それよりずっと手前にある、直ぐに実行する緊急的課題をやる政権」だそうである。


 しかし我々には、直ちに多くの疑問が沸き上がる。


 共産党の綱領のいう、「根本的な民主的改革」とは何か、そしてなぜその内容がまず「日米安保条約の廃棄」かということである。


 民主的改革もしくは革命というからには、民族独立ということであるから、それが革命であるからには、日本は米国の植民地ということだが、日本はいつから米国の植民地になったのであろうか。敗戦後数年間は確かに米軍が日本に駐留し、軍政下におかれたが、それと日本の植民地化とは別のことだし、しかも米国の軍政は一時的なものであって、その証拠に日本が施政権を返還されて主権を回復すると共に、米軍は基本的に日本から撤退している。


 沖縄に米軍の軍事基地は存在しているが、それは日本が米国の軍政下におかれている事とは別であり、しかも沖縄自体、70年代に入って、米国の施政権は日本に返還されている。


 そんな状態を日本の「植民地化」と誤解し、日本の独立が課題になっていると故意にいいはやし、民主(正確には、民族民主)革命を謳うのは正気の沙汰とも思われない、状況判断の間違いである。


 戦後の日本が〝民主革命〟の歴史的段階にある、というなら、日本はまだ民主国家ではなく、天皇制国家でもあると言いたいのか。


 しかし共産党自身、天皇制は憲法の下に従属する制度に変質しており、危険性のない天皇制だと自ら言って、その廃絶は謳わないことにしたのではないのか。「民主的」改革、根本的変革の内容のない、「民主革命」といったものは、共産党の腐敗した党官僚の頭の中以外どこにも存在しない幻影、蜃気楼ではないのか。


 また、今共産党が持ち出して大騒ぎしている政権は、「すぐに実行する緊急課題」だけをやる政権だというが、その「緊急課題」といっても、共産党がそう思っているだけで、歴史的、社会的、現実的な必然性のないものだとしたらどうするのか、「立憲主義の回復」であれ、「格差の是正」であれ、「多様性の実現」であれ、それが実現したら、野党共闘の政府はどうするのか、課題と使命が終わったとして自ら退陣するのか、あるいはまだその課題が解決しないとして――そしてこうした抽象的な3つの課題の解決といったものは、常にいかなる形で解決したか、しないかを判断し、結論することは至難の業であろう、それをいいことに、野党共闘の政権はいつまでたっても破廉恥に、横着に居座り続けようというのか――、あるいはより高い段階の連合政府に自動的に移行しようというのか(しかしそれは事実上、露骨な公約破り、事実上のクーデタを意味しないのか)。


 しかし共産党はこの2つの他にも、いくらでも連合政権を持ち出し、準備しているのである。選挙管理内閣といったものは、何回も、常に連発して持ち出してきたし、また15年の安保関連法の成立した時には、ヒステリー状態になって、そんな危険な新法の廃止の一点だけで合意する「国民連合政府」を謳い、そんな政府を組織して、成立したばかりの安保法を直ちに廃絶しなければ大変なことになると騒ぎ立てた。


 そして今や、今回の野党共闘政権と、国民連合政府の関係すら、ろくに、説得的に説明されていない。一体共産党はどちらの政権を作るというのか、二つの政権は、本当は密接に関係する、一つの政権だというのか。ごまかしの説明や、詭弁の数々や、意味不明の言い訳のようなたわ言はもうたくさんである。


党の方針と野党共闘の方針は別?

 

 党の考えや方針と野党共闘で闘う場合の考えや方針は別のものであり、それで問題はないと志位はいとも安易に言いなさる。


 しかしそんな偽善や欺瞞的なやり方で、二枚舌で、労働者・働く者の党が、事実と真実に基づいてのみ闘う労働者・働く者の党が、一貫して、動揺もなく闘っていけるであろうか。ブルジョアやプチブルの党が、ますます事実と真実から離れていくしかないのに対し、労働者の党は全く反対であることこそ、労働者の政治の本性、特性であり、優越性である。だからこそ労働者・働く者の党は、その本性からして、権謀術数の政治やポピュリズムの政治に断固として、一貫して反対して闘うのである。


 志位は党の方針と、野党共闘の政権との思想的、政治的違いはあって当然、野党共闘やその政権のために、何の障害にならないと言い放っている。


 「日米安保は党の方針としては、(この条約は)米国従属の根源ですから、国民多数の合意で廃棄する〔いつ、どんな時に?…林〕、日米友好条約にしていく。これが私たちの大方針で変わりません。ただこの点は他の野党と一致しませんし〔本当か〕、政権に持ち込むことはしません〔なぜ〕。政権として、日米で改善すべき内容は、日米地位協定の改定、辺野古新基地建設を止めることの2つをやっただけで大改革だ。……

 それでは野党共闘連合政権は安保条約にどういう態度を取るのか。政権としては、『継続、維持』する。閣僚をもし共産党が送った場合は、その政府の方針に従う。……

 自衛隊についても、考え方は同じです。党としては、自衛隊は憲法9条と両立しない(と考えている…ママ)。しかし自衛隊違憲論は、他の党とは一致しません。他方では、集団自衛権の国家主義容認の『閣議決定』は撤回する。そして安保法制は廃止する」(2月24日、BS朝日、「激論! クロスファイア」)。


結論。「何事も始めが難しい」?


 志位は旧ソ連や中国の社会主義を今頃否定し――我々に遅れること、60年もして――、そして今厚かましくも、中国等を社会主義と呼ぶと、それだけであんなものが社会主義か、それなら社会主義は御断わりだとして労働者・働く者が社会主義を否定するようになるからよくないと言いながら――つまり彼らは100年近く、そんな良くないこと、反革命的な犯罪を続け、従事してきたことをようやく白状したということになる(アナ、恐ろしや)――、将来の社会主義の理想郷の実現について一般的に語るのを止めないのである、丁度この世での人類の解放を否定する宗教家が、ますます熱心に頭の中だけの空想的な理想郷を必死で説くのと同様に、である。


 そしてロシアや中国は後進国であって、社会主義の建設は困難ということが分かった、しかし日本や欧米の諸国は資本主義の先進国であって、マルクスも認め、強調しているように、社会主義の建設は容易である、と言いはやし始めている。危険な楽観論である、というのは高度資本主義は生産力を発展させてはいても、他方では資本主義として腐敗し、寄生性と頽廃を深め、労働者の一部を買収し、自らの支配の一部としており、ありとあらゆる腐敗や頽廃、汚物をも抱え込んでいるのであって、そんな社会における労働者階級の勝利は異常に困難な仕事になっているからである。


 しかし日米などの社会主義の勝利は困難ではあっても、それは最初だけの話であって、最初の第一歩がうまく行けば、後は困難なことは何もなく、寝ていても社会主義はやってくるかにいうのである。


 志位は、1月の党大会で、日本などの先進国の「社会主義的変革の特別の困難性」についておしゃべりしつつも、しかしそんな〝困難〟も心配する必要はないと、次のように語った。


 我々はそんな労働者階級の最悪の裏切者の言葉を、汚い詭弁とごまかしの言葉を、永遠に記憶しておくべきである。

「一部綱領の改定案が、発達した資本主義国における社会主義的変革について、『豊かで、壮大な可能性』とともに、『特別の困難性』もつ事業だと言及した意味について述べておきたいと思います」。

「ここでいう『特別の困難性』とは、発達した資本主義国において、多数者革命を『開始する』ことの困難性――日本の場合でいえば、国民の多数の合意のもとにまず民主主義革命を実現し、さらには国民の多数の合意で社会主義的変革に進む上での困難性ということであります」。

「そして多数者革命を『開始する』ことは困難であっても、民主主義革命を実現し、社会主義的変革の道に踏み出すならば、その先にははかりしれない『豊かで壮大な可能性』が存在する――これが日本における私たちの社会主義的変革の事業の展望であります」。


 まさに社会主義の実現など本気で考えたことなど全くない、共産党の党官僚が、プチブルの俗物が頭の中だけで考え出しただけの〝社会主義的変革〟の空疎な作文ではある。


 志位の言いたいことは、「民主的な」革命、いや違った、「民主的な」改革がいったんなし得るなら――今、野党共闘路線一つがうまく形成されないことを見ても分かるように、ここには「特別の困難」がある、しかしいったんそれが成立するなら――、後は「先進国革命」は容易になされ得るといった、たわいもない幻想である、いかにして、いつかは分からないが、その政権は次の段階の、より進化した「民主連合政府」に移行し――ここでも、いかにしてかは決して明らかにされないのだが、なし得ないのだが――、そしてその後には必ず社会主義の政権が「国民の合意」を得て成立し、かくして日本の、世界の労働者・働く者は労せずして、居ながらにして、めでたく社会主義の素晴らしいパラダイス郷を手にし、享受できるというのである。


 まさにつまらないスターリン主義の〝宗教〟であり、余りに愚劣で、最初から最後まで極端にナンセンスである。


 確かにこれは、プチブルらにとっては心躍らす、楽しいおとぎ話であり、夢想かもしれないが、労働者・働く者にとっての厳しい社会主義の勝利の道でも、闘いに勝ち抜くための展望でもない。           

(林紘義)