赤旗の『ペスト』書評に異議あり
――人間賛歌でいいのか
カミュの「ペスト」が爆発的に売れているそうだ。唯一の文庫本である新潮文庫は増刷に次ぐ増刷という。「ペスト」の設定が現在のコロナによる都市封鎖とそっくりだからであろう。“赤旗の書評欄で「ペスト」を紹介しているから読んでみたら”、という誘いがあったので、再度(数十年前の若いころに呼んだが、内容はほとんど忘れてしまった)読んでみることにした。
物語は194*年のアルジェリアの地方都市オランがペストに襲われたことに始まる。主要な登場人物は、主人公であり物語の語り手である医師のリウーである。また後にリウーの親友になるタルーは、検察官の息子でかってはニヒリストだったが、ペストでは自ら保健隊を組織して献身的に働くが最後にペストに斃れる。新聞記者のランベールは、本国に恋人を残してきて、たまたまペストに遭遇した個人主義者で、何とかオラン脱出を試みるが、市民の惨状を目の当たりにし予防隔離所で働くことになる。その他、戦闘的なイエズス会士のパヌルー神父(やはりペストで死ぬ)、年寄りだが事実上衛生隊の代表になるグラン、気が違ってしまうコタールなど多彩である。これら様々な経歴や職業を持つ市民たちが、連帯し協力してペストに立ち向かう、これが小説「ペスト」のテーマである。
問題は、この多彩な登場人物の中に、労働者を思わせるような人物がほとんどいないことだ。作者によれば、主人公のリウーは貧しい労働者の出ということになっているが、ただそれだけで、特に労働者の階級的な活動をしてはいない。アパートの門番や市役所の吏員など下層の庶民も出てくるが、彼らも市民の一人として描かれているだけである。疫病感染は、今回のコロナ禍でも分かるように、社会の様々な階級階層に平等に襲うものではない。オランの20万市民の多数を占める下層階級は最も大きな被害を被ったはずである。新聞記者のランベールのように、富裕層の多くもオラン脱出を図ったであろうことは想像に難くないが、富裕層の動きなどは一切出てこない。
つまり「ペスト」のテーマは、突然のペスト禍に襲われた市民が、共感、連帯や人間愛など万人共通の価値観に目覚め、ペストに打ち勝つという人間賛歌なのである。タルーが医者のリウーに尋ねる場面がある、「なぜあなたは、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」それに対してリウーは、「さしあたり、大勢の病人があり、それをなおしてやらねばならないんです。…僕は自分としてできるだけ彼らを守ってやる、ただそれだけです。」「僕が心を引かれるのは、人間であるということだ。」それに対してタルーは「そうさ僕たちは同じものを求めているんだ」と答える。そしてカミュは書いている。「リユーは、タルーやコタールなどと共に、あらゆる苦悩を超えて、自分が彼らと一つになることを感じるのであった。」
これらのリウーやタルーの言葉は、カミユの人間主義を表している。彼は不条理の作家と言われている。彼は、この世界と人間との関係を不条理と考える。死、戦争、災害などの不条理と闘うのは、人間の反抗であり、反抗だけが人間であることを確証する、と言う。彼はマルクス主義に対しても反対である、マルクス主義は、イデオロギーであり観念であり、具体的な人間、現実的な人間を捉えていないと言うのだ。
しかしカミユの言う「具体的人間」とは、「目の前にいる人間」ということであり、リユーの言うように、目の前にいる大勢の病人を救うこと、目の前の現実だけが具体的なのだ。その結果、カミユの「具体的人間」は、単に“現象”としての人間、逆に、一般市民として抽象化された人間になってしまうのだ。本当の「具体的人間」は、個々の資本家や経営者として、あるいは工業労働者や召使いとして存在している。現象は分析されることによって本質に迫り、総合によって真の具体性に到達しなければならないのである。
ペストという不条理に対する市民の反抗の描写は確かに感動的ではある。しかし不条理一般と人間は闘うわけではない。災害や偶然,死など人間に襲い掛かる不条理は、すべて具体的な姿をとるものであり、人間は個々の不条理の原因を解明し、具体的に闘わねばならないのである。カミユは、不条理に対する闘いを、シーシュポスの神話に譬えて人類の永遠の苦行としているが、これこそニヒリズムである(ニーチェと同じだ)。タルーは、リウーに言う、「あなたの勝利は、常に一時的なものですね。」リウー「常にね、それは知っています。…際限なく続く敗北です。」反抗がもたらす敗北を永遠に続けねばならないが、カミユは、その絶望的な反抗からの救いを、人間の誠実や愛情、連帯等、つまり高貴な“人間性”に求めるのである。ところが彼は、イデオロギーや理念を軽蔑するといっていながら、自らの人間主義が特定のイデオロギーであること、歴史的な刻印を押されたものであることに気が付かない。
カミユは、歴史というものをほとんど語らない。その例外は(「ペスト」では)、死刑を、「忌まわしい虐殺」として考えるタルーに、「歴史はそれを裏書きしており、現在はまるで殺し合いごっこだ」と言わせているだけである。カミユは、歴史に意味を認めないと言い、それを悟った者が自由を獲得すると言っている。
しかし、歴史の中に存在しない自由といったものは、具体的な自由ではなく、自由の抽象であり、理念に過ぎない。「ペスト」の舞台は、二十世紀の、二つの世界大戦を経験したフランス植民地アルジェリアの都市オランである。にもかかわらず「ペスト」には植民地支配やそれに対する住民の反抗や帝国主義戦争の影響は全く感ぜられない。それはあたかもオランを「ガリバー旅行記」の架空の国や都市のように思わせるのだ。この歴史感の欠如こそ、カミユの「ペスト」(または「反抗」)を、何か現実感のない抽象的なものに感じさせる原因なのである。
同じ不条理の作家にサルトルがいるが、しかしサルトルは歴史やその時々の社会状況に少なくともコミットしており、カミユの歴史無視の態度とは対照的である(「革命か反抗か」の論争で両者が喧嘩別れした理由はここにある)。とはいえカミユの名誉のために敢えていえば、彼が政治参加をしなかったわけではなく、一時は共産党員でもあったし、第二次大戦中はフランス本国でレジスタンスにも参加している。しかしその動機も、「ペスト」の中でリウーが言っているように、「ひとはいつまでも異邦人ではいられない、人間には果たすべき義務がある」からである。結局、彼の反抗の根源にあるものは、「ペスト」の至る所に出てくる、義務、愛情、共感といった“人間性”への信頼であり、平凡な、伝統的価値観なのだ。カミュが1957年に「人間の良心にかかわる問題に光を投げかけた」としてノーベル賞を受賞したのもうなずけるのである。
慶応の名誉教授の堀茂樹による「赤旗」の書評(5月24日付)は、カミュの「ペスト」について、「生,死、幸福、別離といった人間存在の条件をめぐる哲学的な問いや、他者との関係において人はどう行動すべきか、という倫理的な問題をも取り上げている」と紹介する。そして、階級闘争や社会主義を、「観念のために身をささげるヒロイズムとして唾棄」し、「具体的な幸福」を追求するという記者のランベールの言葉や、医師のリウーの、「僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだ」を紹介して、「具体的な幸福」の追求や誠実な「職務」遂行を暗黙に支持している。そして最後に評者は、作中人物たちは「疫病の科す試練の中で推移し、変貌し、自己発見をしていく。『ペスト』は人間をどんな本質にも固定せず、あくまで「開かれた存在」として描いている」とまとめている。
ここには「ペスト」(カミユ)に対する、いかなる批判もない。「生、死、幸福、別離といった人間存在の条件」や「他者との関係における人の行動」は、歴史的社会的条件の中で初めて具体的な条件や行動なりとなって表れるのであり、そうした条件を無視した「哲学的な問い」は無意味であり、抽象に終わるしかない。作中人物の「自己発見していく」も陳腐な「自分探しの旅」以上の意味はない。
つまりこの評者は、階級社会における人間存在は階級的存在としか現れ、階級的存在を否定すれば、抽象的な人間存在つまりブルジョア的な人間にしかならないことが分かっていない。評者は、カミユの社会的義務や共感や連帯などを支持するが、これこそ共産党の没階級主義、市民主義、人間主義そのものである。コロナ禍は、資本主義社会のあらゆる矛盾の根源が、資本主義そのものにあることを何人の目にも明らかにしたが、コロナ禍の試練を人間性礼賛の階級協調主義にしてはならず、資本主義打倒のための契機にしていかねばならないのである。 (神奈川・K)
彼らには当該作と併せて「もう一方の」、同格の(←この場合は、世界文学;有名;長編)作品を指し示すしかない。
その任に当たる最適の作品は、私見では『駱駝祥子』(老舎)である。
『ペスト』の”虚空に浮遊する「上等」な「超」階級性”と、『駱駝祥子』の”地裂に転落する「下等」な「没」階級性”をカップリングし、<対比=共通><対照=一致>の論理構造を感性レベルで認識させるしかない。
内容の紹介は割愛するが、現今のコロナに揺れる社会状況を見事に射抜く名言を引用しておく。
「雨は金持の上にも降れば、貧乏人の上にも降る。善人の上にも降れば、悪人の上にも降る。とはいえ、雨はけっして公平とはいえぬ。もともとが不公平な世の中の上に降るからだ。」(岩波文庫P.298)