書評「武器としての『資本論』」(白井聡著)

――何のために、何と闘うのか? 

 

 「武器としての『資本論』」、まことに魅力的な書名である。なぜなら私たちの「資本論を読む会」は、資本論を単に知的な関心や暇つぶしのためではなく、まさに資本論「闘いの武器」にすることを目ざしてしてきたからである。その意味で本書は、まことに私たちの関心を大いに惹くものであった。

 

著者によれば、本書は若い読者のために書かれたというだけあって、叙述は巧みな比喩や実例にあふれており、大変読みやすいものになっている。しかし、この種の著作としての問題は、単に読みやすくわかり易ければよい、というものではない。

 

本当に働く者の未来を切り開くための武器となっているか、ということである。そのための資本論の読解になっていなければ、本書のわかり易さは、逆に労働者の闘いを誤った方向にも導きかねないのである。当然のことながら、こうした観点から本書の評価を試みることにしたい。

 

資本主義は、単なる「商品による商品の生産」社会か?

 

 第1章(講となっている)で著者は、環境破壊、経済危機、戦争など、世界はおかしくなっている。その原因は、間違いなく資本主義である。この資本主義をどうにかしなければ、現代社会の矛盾は乗り越えられないと述べている。

 

「マルクスの目を通して見ると、言い換えれば、マルクスの創造した概念を通じてみると、今起こっている現象の本質が『資本論』の中に鮮やかに描かれていることがわかるし、逆に『資本論』から現在を見ると、現実の見方がガラッと変わってきます。」(p20)まったく同感である。

 

ただ著者は一方で、「『こんな世の中をどうやって生き延びたらいいのか』という知恵を『資本論』の中に探っていく。マルクスをきちんと読めば、そのヒントが得られるのだということを改めて世の中に訴えていきたい。」(p20)とも述べているが、『資本論』は、人々に「生き延びる」といった、消極的な「知恵」を与えるのではなく、資本主義に至るまでの人類に長い歴史の成果に立って、積極的に働く者に、未来の豊かな共同社会を提示した著作であり、著者のように、資本主義を逃避的、悲観的に見ることは、資本主義の歴史的進歩性に対する不信感の表現と思われる。

 

 それはともかく第2章に入ると、著者は資本主義社会を次のように定義する。資本主義社会は、「『物質代謝の大半を商品の生産、流通(交換)、消費を通じて行う社会』(第2章の見出しでは「万物の商品化」と言う)であり、『商品による商品の生産』が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)というものです。」(p31)つまり社会全体が商品化された社会、それが資本主義社会である、というのだ。そこから『資本論』冒頭の有名な文章、「われわれの研究は、商品の分析をもって始まる。」が出てくる、と著者は言う。

 

資本主義とは、商品生産が一般化した社会である、まさにその通りだ。そしてそのことを可能にしたのは、人間の労働力が商品になったこと、つまり労働力という商品によって商品が生産される(「商品による商品の生産」)ようになったことこそ、資本主義社会の特徴だと言う。これもその通りだが、しかしここに一つ問題がある。

 

「万物の商品化」は、単に商品生産が一般化したということでは済まない、生産様式の大きな変化があったということである。このことを著者は忘れているか無視している。つまり商品生産の一般化は、著者も言うようにその要因は、人間の労働能力が商品となったことにあるが、労働力が商品になった背景には、封建社会の崩壊による、「自由な労働者」の出現がなければならない。

 

このように、一般の商品とは異質な、この労働力というものが商品になるということは、単に商品生産や流通が拡大したり一般化するということとは、同じ次元のことではないのだ。労働力商品による商品の生産の背後には、生産様式の革命的変化がなければならないのであり、単に商品経済の拡大、普遍化といった問題ではないのである。

 

そればかりではない。この労働力の商品化の意義は、この労働力の使用によって生まれる剰余価値の取得こそが、資本主義的生産の動機となることにある。著者は資本主義社会を「価値の生産が目的となる社会」と述べているが、同じ価値でも、資本主義社会は、資本家による剰余価値の生産と取得を目的とするものであり、これこそ資本主義を他の歴史的社会と区別するものである。著者は、資本主義社会を、単に量的に拡大した商品社会に解消してしまっているのである。

 

★資本家による生産手段の私有こそ、労働者搾取の根源!

 

 もちろん著者は剰余価値について、特別な1章(第7講「すべては資本の増殖のために―剰余価値」)を設けて説明している。そこでは、「このように労働力の費用(?)以上の価値を労働者が生産することを、剰余価値の搾取とも言うわけですが、これは資本主義社会においては必ず起こることです。」(p121)と述べている。

 

しかしここで問題なのは、「剰余価値の搾取」が問題にされながら、その搾取を可能にする、資本家による生産手段の所有については、全く言及されていないことである。剰余価値の搾取の権原が資本家の生産手段の所有にあり、生産手段の私有こそ資本主義的生産のあらゆる矛盾の根源であるにもかかわらず、資本家による生産手段の私有には全く触れていないのだ。

 

その代わりに著者は、妙な説明に及び、「なぜ、剰余価値の搾取が可能なのか。それは資本主義における労働の二重性に関係しています。…その労働が達成する価値、生産する価値が抽象的人間労働として評価され、それに従った支払いを受けます。それが労働力の交換価値ということになります。つまり労働力商品の使用価値が交換価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれるわけです。」(p121,2)

 

剰余価値の搾取は、資本家が生産手段の所有者であることから、その生産手段と労働力(これもまた時間決めで資本家の所有になっている)の結合によって生まれた生産物も資本家の所有になる。資本家は全生産物の価値の中から、労働力の価値を賃金として支払う、残りの価値のうち前貸ししていた生産手段の価値を引けば、残りが剰余価値として資本家の手に残る。これが剰余価値の搾取である。

 

剰余価値の搾取にとって肝心(白井流に言えば“肝”)なのは、資本家による生産手段の私有なのだ。「資本家による生産手段の私有」を抜きにして剰余価値の搾取を語ることは全く意味がない。

 

労働の二重性(具体的有用労働と抽象的人間労働)などここでは関係なく、しかも「労働力商品の使用価値が交換価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれる」と言うならば、「労働力商品の使用価値である労働が生み出した価値が労働力の価値を上回るからこそ、剰余価値が生まれる」と言うべきである(「労働力の使用価値>労働力の交換価値」という著者の図式も使用価値と交換価値という、比較できないものを比較する錯誤を生む)。

 

こうした、剰余価値の搾取、資本家による労働者の搾取という、労働者にとって最重要な問題を、著者は、単純な商品交換の法則の派生的な現象としてしか説明しないのだ。

 

★宇野派のエセ『資本論』解釈をまねる!

 

 なぜこういうことになるかと言えば、著者は結局、労働力の商品化を、単に商品生産や商品交換の一般化としか見ないで、生産様式の変化(封建制社会から資本制社会への変化)と捉えないからである。ここには、資本主義の本質的特徴を、労働力までもが商品化されたという商品社会の単なる一般化に求める宇野派の影響がみられる。

 

宇野派は、生産過程における労働の搾取を重視せず、剰余価値の搾取を単純な商品交換の法則、つまり価値法則(白井氏は、なぜか「価値法則」という言葉を使わない)によって、剰余価値の法則をも説明できるとしている。

 

しかし剰余価値の搾取は、資本主義的生産の本質を規定し、他の生産様式との本質的相違を明らかにするものであり、エンゲルスが、剰余価値の理論と唯物史観がマルクスの二大発見だと言っているのも、剰余価値説が資本主義分析の要だからである。

 

剰余価値の生産とその搾取を商品交換の法則つまり価値法則に解消するのは、資本主義的搾取の秘密を隠蔽するものである。白井氏は、宇野弘蔵氏を「日本のマルクス研究者として最重要人物のひとり」(p254)として高く評価しており、参考文献の中にも宇野氏の著作(「経済原論」)を挙げているほどだ。

 

宇野氏のマルクス経済学の曲解は、これまでしばしば指摘されてきているが、本書でもその誤りが随所に見られる。例えば、白井氏は、価値は抽象的人間労働の結晶であると言いながら、価値の説明では、「商品として店頭に並んで値段が付いた以上は、価値の量的な比較が可能となります。」(p110)といった、宇野流の、価値論を抜きにした価格論に迷い込んでいる。

 

「交換価値とは、資本主義社会というシステムの中で初めて発生する抽象的な属性、社会的な属性なのです。」(p111)交換価値は商品交換のある所に存在するものだが、これでは資本主義社会にしか存在しないことになる。また、「その労働が達成する価値、生産する価値が抽象的人間労働として評価され、それに従った支払いを受けます。」(121)ということになれば、労働者は、全労働時間に支払いを受けることになり、剰余価値はなくなる、等々。最近のマルクス関係の出版物における宇野派の影響に驚かされる。我々は大いに宇野派のマルクス解釈の偽造を警戒せねばならないと思う。

 

★「収奪者は収奪される」は、正しくないのか?―唯物史観の否定

 

 剰余価値について述べたが、唯物史観についても触れておこう。第2章の1節「資本主義は続くよ、永遠に?!」において資本主義の特殊歴史性を論じられるものと期待したが全く裏切られた。

 

そこではヘーゲルやアメリカの政治学者のフランシス・フクヤマなどを引合いに出して、歴史を自由と理性の実現の過程とみるならば、東西対立で自由主義陣営が勝利したことは、市場経済と議会制民主主義こそが自由と理性を体現していることを証明した、かくして資本主義は人類の到達点であり永遠であることが分かった、というフクヤマの見解を紹介することで終わっているのだ。

 

いまさら人類の歴史が、自由と理性の実現だなどと(ヘーゲルの時代ならともかく)一体誰が考えるというのであろうか!そして白井氏は、フクヤマのこのバカバカしい主張に対して「正しいかどうかは脇において」などと判断せず、「資本主義が永遠なら、資本主義はいつ始まったのか?」と論点を移動してごま化す。

 

13章「はじまったものは必ず終わる」では、マルクスの「収奪者が収奪される」を引用し、あたかも資本主義の没落の必然性を語るのかと思いきや、「『資本論』のこの部分の記述を読んで、『収奪者を収奪すればいいんだな』と思い込み、ひと暴れすることが正しいかというと、果たしてそれはどうでしょうか。実はこの部分は『資本論』全体の体系から見て、いささか疑問を感じざるを得ない(?)記述です。」(p252)などと言って、「収奪者の収奪」を否定しているのだ。

 

そして白井氏は、宇野弘蔵の理屈を引用して次のように述べる、「『資本論』には二つの魂がある。二つの魂の一つは、化学的な資本主義分析(マルクス経済学)、もう一つは革命のアジテーション(史的唯物論)。これらはどこまでいっても相容れないものなので、どちらかを捨てなければならない」とし、「『科学としての経済学』を取り出す一方で、史的唯物論は捨象するという判断を下したのです。」(p254)

 

著者の白井氏は、宇野に対して、「確かにこれは、一つの考え方でありましょう。」などと言って、必ずしも宇野を支持するわけではないかに装っているが、実際には、宇野説に従って史的唯物論を、一種のイデオロギーであり真理ではないとしているのだ(本書の随所にみられる、小ブルインテリのコスイやり方)。というわけで白井氏には、資本主義没落の必然性も、そのための労働者の階級的闘いも、さらには働く者の未来社会(共産社会)の展望も何もないのである。

 

★階級闘争は、単なる賃金闘争か?―物取り主義のお説教

 

 「では、これからどうしたらいいのか。まずどこから始めるのか。それを『資本論』をベースに考えていきましょう。」(p239)と白井氏は、提案する。白井氏の結論は、この最後の章(第14講「『こんなものが食えるか!』と言えますか?」)の最後の節(「階級闘争のアリーナとしての感性」)で説明されている。

 

 そこで白石氏は、「(労働者は)生活レベルの低下に耐えられるか、それとも耐えられないか、…実はそこに階級闘争の原点がある」(p277)とし、「『これ以上は耐えられない』という原点を設けて、それ以下に『必要』を切り下げようとする圧力に対しては、徹底的に闘う。…それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということです。」(p278)

 

これはまさに、賃金切り下げ反対闘争、賃上げ闘争の主張に外ならない。もちろん労働者は、賃金を含めた労働条件の切り下げに反対し、さらには労働条件の向上のために闘わねばならないが、その段階に留まってはならず、最終的には賃金奴隷制の廃止、資本の支配の打倒を目ざして闘わねばならない、というのがマルクスおよび私たちの主張だ。

 

しかるに白井氏は、「『私たちは、もっと贅沢を享受していいのだ』と確信することです。贅沢を享受する主体になる、つまり豊かさを得る。私たちは誰もがこの資格を持っているのです。」(p279)しかしこの白井氏の主張こそ、労働者の階級闘争を、資本家からより多くのパイを得ようとするだけの賃上げ闘争、経済闘争に貶(おとし)めるものではないのか。

 

マルクスは、『賃金・価格・利潤』の著書の最後で、賃金のための闘いは、資本主義的生産の結果と闘っているのであって、その原因(つまり賃金制度、資本主義そのもの)と闘っているのではない、賃上げは、一時しのぎの薬に過ぎないのであって、病気を根治することではない、と賃金闘争に埋没することを労働者に諫めているのだが、まさに白井氏の述べていることは、繰り返されてきた物取り主義、賃上げ至上主義そのものではないだろうか(白井さん、『賃金・価格・利潤』を読んでください)。

 

★贅沢を享受する“感性”が階級闘争の原点だと!?

 

 他方で白井氏は、階級闘争の基礎として、人間の「感性」を持ち出す。彼は次のように言う、「どうしたらもう一度人間の尊厳を取り戻すために闘争ができる主体を再建できるのか。そのためには、ベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。」(p280)

 

いったいこの白井氏の言う「感性」とは何であろうか?「今日の貧困者が食べているコンビニ弁当やカップ麺、チェーン店の牛丼のような貧しい食生活ではなく、」(p281)「贅沢をめざせ!」と言うのだ。「資本の側は、『そんな贅沢をしなくていいじゃないか』とささやいてくるが、」「そのとき『それはいやだ』と言えるかどうか。そこが階級闘争の原点になる。」(p277)つまり感性を磨いて、より良い贅沢な生活を目指せ!、そのための階級闘争だ、これが白井氏の「感性の再建」ということである。

 

なんともヒドイ結論である。彼は第4章で、「肉体を資本によって包摂されているうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ、」(p66)とフランスの哲学者を引用した後、「新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。」(p71)と述べている。

 

しかし資本に魂を奪われ、感性、センスまで資本に包摂され、毒され「人間の尊厳」を否定されているのなら、「もうこんな社会(資本主義)は、いやだ!こんな社会は、ひっくり返せ!」(著者は「はじめに」で「『こんなバカバカしいことをやっていられるか。(社会を)ひっくりかえしてやれ。」ということにもなってきます。』と言っているにもかかわらず)となるのが当然なのだが、白井氏は、資本に奪われた感性を再建せよ、と叫ぶのだ。

 

社会制度の変化があってこそ魂、感性、センスの変化も再建もあるのである。資本主義をそのままにして資本主義による感性の包摂を免れることはできない。感性を過小評価するわけではないけれども、感性に依存して労働者の階級闘争を成功させることはできないのだ。感性の爆発によって闘争が開始されることはあっても、感性だけで闘争を永続させ勝利をかち取ることは不可能である。感性も理論や理性に裏打ちされなければならない。『資本論』を学ぶ意義もそこにあるのだ。

 

★労働者階級を小ブルに貶(おとし)める『資本論』の曲解!

 

 本書の問題点は数限りない。他に一つ二つ挙げてみれば、「『資本論』では「本源的蓄積を起点とする資本制社会の始まりは、基本的に一回きりのこととして描かれています。…しかし実はその後も形を変えながら幾度となく繰り返されてきたのではないかと考えています。」(p173)とか、あるいは、「『階級闘争』を闘ってきたのは『金持ち』だった」(p216)といった首を傾げたくなるような説明もある。

 

はじめに述べたように、「武器としての『資本論』」とは誠に魅力的な書名である。しかしこの武器を、何のために、何と闘うのか、を正しく認識しなければ意味がないのだ。書名に惹かれて読んではみたものの、案の定というか、大山鳴動して鼠一匹という結果であった。

 

著者のような若いインテリにとっては、本書にかなりのページをとって説明されている、20世紀のフォーディズム、ポストフォーディズムなどによって、何か資本主義の本質が変化したという印象があるように思える。

 

白井氏(に限らず小ブルインテリ)の叙述の特徴は、一見マルクスの概念を使ってマルクスを解説しているように見せかけながら、宇野説にみられるような、とんでもないマルクスの曲解、歪曲のマルクス解釈を平気で行っていることである。

 

本書のような、「資本論」の学習を勧める出版物が出ることは、歓迎すべきことだろうが、宣伝文句に惑わされて、これこそマルクスだ、と誤解する読者も出てくることも危惧される。この種の出版物には大いに警戒し、批判的に読むように呼び掛ける必要があるだろう。

(神奈川 菊池)