ブルジョア民主主義は手段だ!

――「国会召集せず違憲」訴訟の東京地裁判決に思う

 

 先月、あまり目立たなかったが、看過できない判決が出た。事実は、2017年の安倍内閣の時、森友・加計学園事件が発覚し、野党は臨時国会の召集を要求したが、安倍内閣は3か月間も召集せず9月になってようやく招集した途端、冒頭で国会を解散してしまったことである。野党4党は、これを憲法違反だとして提訴した。

 

憲法第53条には、「内閣は、国会の臨時会の招集を決定することができる。いずれかの議院総数の四分の一以上の要求があれば、内閣はその召集を決定することができる。」とある。安倍内閣の憲法違反は、子どもにも分かることだ。

 

ところが東京地裁は、憲法判断もせずに野党の要求を退けたのである。その地裁の判断がまたふるっている。地裁は、臨時国会を要求できるのは、議員という職務上の権限であり個人の権限でないから4党の要求は認められない、というのである。

 

個人の権利と仕事の権利を区別できるのか?八百屋の主人が、窃盗を働いた犯人を訴えたとき、仕事と個人を区別できるのか?こんな憲法違反を見過ごすようでは、「法の番人」もあったものではない。

 

 確かに最近は、いくつか前向きの判決―水戸地裁の東海第二原発の再稼働の差し止めや、札幌地裁の同性婚を認めないことを違憲とした判決など―も出ている。しかしこれらは全く少数である。こうした判決を書く判事も“冷や飯”覚悟なのだ。

 

何よりも、国民の権利のためにある裁判(所)が、働く者にとってほとんど無縁なものになっている。膨大な時間と費用の無駄、少ない利益、「疑わしきは罰せず」の反故、冤罪の多発など、こうしたことから普通の人間は、裁判所などに救済を求めないのである。

 

 三権分立などは、小学校でも教わるが、そんなものは絵に描いた餅である。そもそも最高裁の判事が内閣によって任命されるのである。どこに裁判所の独立があるというのか?

 

裁判闘争には、膨大なエネルギーと費用がかかる。裁判闘争が無意味であるというのではない。ブルジョア民主主義は、少なくとも口先では、公正な裁判や司法の独立を宣言しているし、これまでにも、松川裁判を始め輝かしい歴史的な裁判闘争があった。

 

ブルジョア民主主義を利用しなければ、労働者の団結も国会への進出も不可能である。しかし、ブルジョア階級は、口先では立派なことをいうものの、手を変え品を変えて国民の権利の実行を妨げるのである。

 

そうして国民があきらめ、権力に屈服するのを待つのである。そもそも、ブルジョア民主主義を完全に実行するなど、ブルジョアジーはやる気もないし、やったとしたら自分が支配階級の座から引きずり降ろされるのが分かっているのである。

 

 中国共産党による香港からの民主主義の剝奪、中国国内の自由な言論の封殺、ロシアの反体制派への弾圧等を見ると、ブルジョア民主主義の価値が、いやが上に高まり、ブルジョア民主主義に対する幻想が一層広がるのである。

 

もちろん我々は、中国共産党にもプーチンにも反対し、香港や中国、ロシアにもブルジョア民主主義が保障されることを強く要求するが、しかし我々は、ブルジョア民主主義が、ブルジョアジーの、支配階級の民主主義であることを、かた時も忘れてはならない。

 

かって進歩的であったブルジョア民主主義は、今日では、プロレタリアートを支配する道具に成り下がっている。もういい加減に、我々はブルジョア民主主義に対する幻想を捨てるべきなのだ。日本共産党と同じになってしまってはいけないのである。

 

我々が望むのは、労働者人民のための、被抑圧階級のためのプロレタリア民主主義である。ブルジョア民主主義は、労働者階級にとっては目的でも理想でもなく、労働者国家(半国家)を実現するための手段に過ぎないのである。

(s)

 

《『資本論』を読む会 横浜》の「学習会便り」より一部修正