多く語られることのないハワイへの移民たちによる労働者の闘いを伝える「ハワイの移民事情」について紹介します。(神奈川でマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」発行の『労働者くらぶ第312023年7月19日刊』から)

ハワイの移民事情


 世界保健機構(WHO)は世界の新型コロナウイルスの感染状況が改善傾向にあるとして、5月5日「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」を解除した。これを受け日本でも8日付けで、全世界に発出しているレベル1「十分注意してください」を解除した。

 

4月末の連休の始めには新型コロナウイルスの感染症の分類を2類相当から5類への引き下げに伴い、新型コロナウイルスに関する規制が解除され、水際対策なども無くなりいわゆるコロナ前に戻ったのである。そして5月の連休では国内旅行はコロナ前の状態に戻ったと言われ、海外旅行に関してはこれからといった状況である。円安の進行の下ではなかなか海外旅行とはいかない。そこで政府は海外旅行へのバラマキ支援策の大盤振る舞いをこれから始めようとしているのである。

 

日本人の海外旅行の人気はハワイが高い。ハワイと日本とのかかわりは古くて深く、1868年にはグアムとハワイへ向け日本人の移民が始まった。江戸幕府から明治政府への移行期にあり、パスポートなども手にすることなく外国の地を踏むことになった。ハワイへは153人が渡り、後に彼らは明治元年にちなみ「元年者」と呼ばれるようになった。

 

日本人の移民の流れはハワイ、アメリカ本土、ブラジル、そして南洋、オーストラリアへ向かい、1920年代には日本の移民政策は最盛期を迎えた。移民は受け入れ国政府の労働力補充の経済的要請であり、経済を維持し国家を守るための資本主義の延命政策、賃金奴隷の輸入である。実際移民で渡航した人々の労働は過酷で、ルナと呼ばれる現場監督が鞭で殴るなど酷使や虐待が行われ、1日炎天下の10時間労働、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を引かれた文字通り半奴隷のような生活であった。

 

当時のハワイ王国はイギリスの臨時政府の手からアメリカやフランスの支援を受け主権を回復していったが、今度はイギリスに変わりアメリカの植民地支配が広がっていくことになるのである。1893年アメリカ軍はクーデターによりハワイ王国を終焉させ、1898年にはアメリカはハワイ併合へと進んでいくのである。

 

  1868年から始まったハワイへの日本人移民は1900年までは国や民間企業の斡旋によりやってきた契約移民、そして1908年までは自由移民と呼ばれている。ハワイへの移民は日本からだけでなく1830年代には中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェーなどから移民が始まり1850年外国人による土地所有が認められるようになると、白人の投資家たちによってハワイ各地にサトウキビ農園が設立され、一大産業へと急成長した。アメリカの南北戦争などの影響によりサトウキビの需要が更に高まり、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となっていった。
製糖工場で働く日本人移民労働者

 

1900年を超える頃にはサトウキビ労働者の70%を日本人移民が占めるようになり、日本人移民は定着率が高く、この時期までに22万人がハワイへ渡ってきている。ハワイ準州となったことでアメリカ本土の法律が適用されることにより、1924年増加する日本人移民に対し移民法を成立させ、日本人移民のハワイへの移住は不可能になっていく。しかし定住した日本人の子孫が増加したことから、ハワイの全人口の日本人移民と日系人の割合が増加を続け、ハワイでの最大の民族集団になっていった。

 

ハワイ王国の時代の日本人移民は過酷な労働条件、不当な扱いの改善を要求し激しく農園主との戦いが繰り返された。1900年までには数百件のストライキが行われたが、農園労働者の待遇改善の訴えは当時の当地法によって違法とされていたため、指導者たちは牢獄へ送られ待遇改善には至らなかった。

 

アメリカのハワイ合併後は1900年までのハワイの基本法が廃止され、過酷な労働条件は緩和されていきストライキ件数も減少していった。1908年日本人移民の法学者が『日布時事』でハワイとアメリカ本土の労働条件の格差を指摘し、再び労働者の待遇改善を主張したことにより給与の引き上げを支持する「増給期成会」が結成され待遇改善運動が広がり、1909年待遇改善運動に呼応した日本人労働者によってオワフ島各地の農園で一斉に7000人規模のストライキが実施された。これに対し農園経営者の協会はストライキ参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5000人以上のストライキ難民が発生し都市に溢れた。活動家たちは耕地農業妨害罪などで逮捕され、ストライキそのものは失敗に終わったが、経営者側に労働環境の見直しを認めさせ増給をも勝ち取ることとなった。

 

その後第一次世界大戦などの影響によりインフレが進行すると、1920年には他国の労働者も合わせた全農園労働者の約77%が参加したハワイ史上最大のストライキがオワフ島を舞台に展開された。このストライキで1万人以上の日本人労働者が農園から追放されたが、結果的には5割の賃上げを勝ち取り同時に労働環境の改善も勝ち取ることとなった。しかしこうした移民の闘いは労働者の階級的闘いへ発展することは出来なかった。半奴隷的状態から抜け出すための闘いであり、賃金や住居の改善などもっぱら待遇改善の闘いに終始したものであり、従って、資本の勢力との戦いを挑むまでに成長することはなかった。

 

ハワイへの移民たちによる労働者の闘いが多く語られることはないが、日本とハワイとの関係において移民の闘いは決して忘れ去られていいことではないだろう。人気のリゾート地での日本人移民の闘いの限られた歴史や痕跡を辿るのも少し違った意味でリゾート地での過し方ではないだろうか。マリンスポーツやショッピングだけでなく機会があれば是非移民労働者の闘いのエネジーが伝わる場所へ足を運んでもらいたい。 (Ku)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

8月の予定

「経済学・哲学草稿」学習会 ・8月16日(水)1830分~2030

・県民センター 702号室

・第3草稿の2「私有財産と共産主義」 ~4「貨幣」まで

「資本論」第1巻学習会 ・8月9日(水) 1830分~2030

 ・県民センター 702号室

・第7篇「資本の蓄積過程」第22章第3節~第23章第1節まで

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