神奈川で『資本論』などの学習活動をしている『横浜労働者くらぶ』の会報で、宇野弘蔵を高く評価する柄谷行人氏について、その非マルクス主義を指摘する論評が掲載されています。『資本論』の理解の一助になると考え、紹介します。(担当)―—会報での文章を一部校正しています。——

 

「“交換”こそが『資本論』の中心」!?

― 柄谷“理論”は正しいか?―

 

先月の『資本論第2巻』学習会で、Hさんが、朝日新聞(3 13 日朝刊)で、柄谷行人氏が「“交換”こそが『資本論』の中心」だ、と述べていると紹介された。私はそれを読んでいなかったが、マルクスの経済学は、生産こそ経済の土台であり生産関係によって流通の在り方も決まる、交換が中心というのはおかしい、と意見を述べた。家に帰って早速当日の新聞に載っていた柄谷氏の「私の謎 マルクスの可能性 上」を読んだ。これまで私は、柄谷氏の著作を読んだことがなく、以前週刊文春(2023.1.512 合併号)で池上彰との対談とこの朝日の連載記事でしか氏の理論を知らなかったが、それでも氏の理論は非常に問題があると感じていた。柄谷氏の著作も読まないで氏の理論を論評するのは、無責任のそしり

を免れないが、文春と朝日の対談で知ることができる限りで氏の理論を見てみたいと思う。

 

★宇野派に無批判に追随!

 

氏は昨年の同じ連載の「マルクスの本領 上」(23.8.9)で次のように述べている。「一番よく読んでいたのは、マルクス経済学者の宇野弘蔵です。『経済原論』など、入学して早速買いましたね。」「この本(鈴木鴻一郎(宇野派)の『経済学原理』)は、宇野の考えをさらに進めて見事にまとめている、『資本論』のことが初めてよく分かった」。

 

これを見てもわかるように柄谷氏は、あまりにも無邪気に宇野派の資本論理解を正しいものとしている。しかし当時においても宇野派の資本論理解には多くの批判があった。柄谷氏はそれらを検討したのだろうか? 宇野派に対する批判には触れておらず、到底そのようには思えないのである。

 

★史的唯物論はマルクスのものではない?

 

「マルクス主義の主流派は、『資本論』は大事だと言うけれども、あくまで<史的唯物論>が基礎にある。 <史的唯物論>は、元来エンゲルスが考えたようなもので、マルクスの思想とは言えない。一方、宇野派は『資本論』を緻密に再構成したのです。」

 

ここで氏は、何の根拠もなく突然、マルクスと史的唯物論(唯物史観)を切り離し、史的唯物論をエンゲルスの創始であるかに(一部のインテリも言っているが)語っている。

 

しかし史的唯物論は、エンゲルス自身が、「唯物論的な歴史観は、私ではなくてマルクスが発見したもの」(『ドイツ農民戦争』序文)と述べ、またマルクス自身も、唯物史観を“導きの糸”にしたと語っている(『経済学批判』序文)ように、唯物史観はマルクス主義の剰余価値論と並ぶマルクスの二大発見である(『空想から科学へ』)。しかし史的唯物論については、ここでは問題から外れるので問題にしないでおこう。

 

柄谷は「宇野派は『資本論』を緻密に再構成した」というが、これは宇野が、ウェーバー流に資本主義の理想型、つまり、資本主義が永遠に自己運動するという、いわゆる“純粋資本主義”なるものを考えたことを指している。こうして宇野は、『資本論』から、資本主義の生成、発展、没落を説く史的唯物論を余計な物、単なるイデオロギーとして排除したのである。柄谷の理論はあまりにも無批判に宇野派に追随しているのだ。

 

★「交換の謎」「交換の物神の力」など

―― “交換”を呪物化!

 

柄谷理論の中心は“交換”である。柄谷は次のように述べている。「『資本論』において着目すべきなのは、物の交換がもたらす観念的な力(物神)だということです。しかし、従来のマルクス主義では、”中心”は史的唯物論、つまり生産様式にあると考えられていて、”交換”の問題は”周辺”に追いやられてほぼ無視されていた。僕はそれを前面に出したんです。」(23.8.9)「<物神>という考えは、マルクスの冗談だと受け取られていました。…しかし、僕は、マルクスは本気で物神のことを考えた人だと思った。マルクスこそ、交換の謎を見ていた、と。

 

柄谷はここで、交換を何か生産様式と対立する別個の存在として考えているようだが、エンゲルスが「唯物史観は、次の命題から出発する。すなわち、生産が、そして生産の次にはその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であるということ」(『空想から科学へ』)あるいはマルクスが「生産者たちが相互に取り結ぶ社会的関係、そのもとで彼らがその諸活動を交換しあうことによってのみ、生産する」(『賃労働と資本』)等と述べていることから明らかなように、決して交換は生産と切り離されたものではなく生産様式の一部であり、生産関係そのものなのである。

 

柄谷は、「マルクスも労働価値説を引き継ぎましたが、彼の独自性は、商品と商品との交換様式から価値を考えたところにある。宇野や宇野派はこのことをつかんでいたと思います。この交換にはマルクスの言うところの<物神>(フェティッシュ)の力が関わっている。」(23.8.9) 柄谷は、「マルクスの独自性は、商品と商品の交換様式から価値を考えたところにある、宇野や宇野派はこのことをつかんでいた」というが、いったいどうゆう意味か?

 

マルクスは、交換様式から価値など考えたりしていない。彼は、単純な商品において、人間の欲望や使用価値を捨象して、抽象によって価値の実体を把握したのである。また、宇野や宇野派が「交換様式から価値をつかんでいた」というのは、宇野が、物々交換から始まって資本主義的商品の交換に至るまでの商品経済の発展が価値の実体を明らかにした、などといって宇野が抽象を否定したことを指しているのか?

 

柄谷の宇野への追随は限りがない。さらに柄谷は、ここで「交換の謎」とか、「交換のもたらす観念的な力」、「物神の力」などと述べているが、それが何であるか一向にはっきりしない。商品の物神性とは、生産物が商品になることによって抽象的人間労働が価値として現れ、その価値を、商品があたかも自然的属性のように持っているように見えることを言うのである。

 

「交換の謎」とか「交換の物神の力」などと交換に何か呪物性があるかに語っているが、マルクスが商品の物神性に似たものとして宗教を例示していることに暗示を受け、柄谷がこじつけたのだろうか?

 

★商品には価値が内在しない!?

 

さらに柄谷は次のように述べる。「いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”をはらんでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから」と。

 

しかし、商品が「価値をはらんでいない」、「価値が内在していない」としたら、価値が交換価値として現象することはないし、商品交換も生じない。柄谷は、物神性の”錯覚“がどこから来るのか分かっていないのだ。

 

マルクスは、次のように述べている。「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎に満ちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。」(岩波第1分冊p131)つまり抽象的人間労働は、生産物の歴史的形態である商品形態において価値として現象するのである。

 

★価値は「異なる価値体系間の交換から生まれる」!?

 

では、商品に価値が内在することを否定した柄谷は、どこに価値の創造を求めるのか? 柄谷は、価値は異なる価値体系との交換から生じるなどと、とんでもないことを言い出す。彼は、対談者が、「たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますよね。」ということばに答えて、次のように言う。「産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆に言うと、交換が成立しなければ、商品に価値がない」(24.3.13)と言う。

 

これは大変な商品価値の理解である! 柄谷は「交換が成立しなければ、商品に価値がない。」というが、そもそも商品は他の商品の存在とその交換を前提にしているのだ。柄谷にとって、価値とは抽象的人間労働が対象化されたものではなく、単なる“利益”にすぎない。柄谷のいう価値体系は、「場所や時代によって変わる」“値段”体系に過ぎず、「異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む」というものなのだ。

 

ここでは、価値と利益は同じものとされ、産業資本(商人資本はともかく)は、「異なる価値体系間の交換から価値を生み出す」と言うのである。産業資本は商人資本と同列に置かれ、剰余価値を労働者から搾取し利潤を生みだすのではないかに言う。商人資本と同じく「詐欺、瞞着、略奪」から利益を生み出すかに言うのである。

 

もう沢山である。初めに断ったように私は柄谷氏の著作を読んでいないが、朝日新聞の対談だけで以上の感想を持った。氏は、珍奇な宇野理論を正しいと思い込み、自分に都合の良い部分をとっているだけである。改めて氏の著作を読む気も失せてしまった。(K)

 

『労働者くらぶ』通算第40号2024424日『横浜労働者くらぶ』発行

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 5月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・5月22日(水)18 30 分~20 30   / 県民センター703 号室

*第12章第3節「工場制手工業の二つの基本形態」から第13章第1節「機械装置の 発達」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・5月8日(水)18 30 分~20 30 県民センター703 号室

*第 8 章「固定資本と流動資本」から第10章「固定資本と流動資本にかんする諸理 論」まで学習します。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

・5月15日(水)18 30 分~20 30 / 県民センター703 号室 *論文「青年同盟の任務」他2篇を読みます。

 

連絡先

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