労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのか

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

はじめに(私の斎藤幸平“理論”との関わり)

昨年10月労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」と題した特集号が発行された。まったく時機を得た企画だった。以前彼の『人新世の「資本論」』(’20年、以下『人新世』)が出版された際に学生時の先輩から「今売り出し中の斎藤幸平はどんな感想でしょうか? 面白いし良いと思うので君も読んでみれば」というメールをもらった。

 

折しも‘211月にはNHKEテレの「100de名著」で斎藤幸平氏による解説マルクス『資本論』(この放送は好評だったらしく’22年にも再放送された)が始まっていたので早速かの先輩に批判文をメールした。

 

当時、『プロメテウス』59号(’21年)にも適切な批判がされていた。しかし、“労働生産物”が2つの相互に矛盾する使用価値と交換価値(価値)という二重の規定を持つ“商品”に転化し、ある特定の一商品が「なぜ、いかにして、なによって」貨幣になるのか、というマルクス『資本論』の根幹部分――労働生産物が価値規定性を持った商品になるのは生産手段の私的所有を基礎にした個々バラバラの私的労働が社会的総労働の一部分だということを実証する必要性があるからだということ――を看過していることにこそ向けるべきだ、と当時思っていた。

 

『資本論』の冒頭がなぜに「商品論」なのかということを、マルクス政治経済思想を研究し多くの著作を出している斎藤氏が知らないはずがない。彼は言っている、「資本主義の暴走が進むなか、〈コモン〔公共財・共有財――引用者〕〉の領域を広げようとする動きは実際に存在します。・・私はこうした動きを、新自由主義の『民営化』に抗する『市民民営化』と呼んでいます。もちろん、『市民民営化』が進んでも、依然としていろいろな財やサービスが、貨幣を使って商品として交換され続けるし、その限りで市場は残るでしょう。とはいえ、資本主義以前の社会においても、市場はあったのですから、別に市場を完全に否定する必要はありません。」(『ゼロからの「資本論』p.214 以下『ゼロから』)。

 

そもそも、労働生産物の商品化がその深さと拡がりにおいて社会全体を捉えつつあった時代こそが資本主義の“ゆりかご”だったこと(「売るために買っ」て剰余価値を労働者から搾取する資本主義経済の基底には「買うために売る」といった貨幣を介した商品交換という市場経済があるのだということ)、さらに彼が「(ある事物の)希少性の増大が商品としての『価値』を増やすのである」(『人新生』P.251)とか、「『使用価値』を犠牲にした希少性の増大が私富を増やす。これが、資本主義の不合理さを示す『価値と使用価値の対立』なのである」(同書P.252)と言っているが、「価値」とはその希少性にその源泉があるといった限界効用価値学説のような説明ではなくて、商品生産のもとでの労働の社会的性格そのものにその根拠があるのだということを少なくともマルクスを学んだ斎藤氏は主張すべきなのだ。

 

また、全4回にわたった斎藤幸平氏のNHKEテレ「100de名著『資本論』」視聴後の感想もかの先輩への返信メールに付け加えた。特に2回目は「何故過労死はなくならないのか」という興味深いテーマだったが全く酷いものだった、彼は言う、「強制である労働を短縮制限し、労働以外の自由時間を確保していくべきだとマルクスは『資本論』のなかで繰り返し主張しています。マルクスが労働日の短縮を重視したのはそれが『富』を取り戻すことに直結するからで、日々の豊かな暮らしという『富』を守るには自分たちの労働力を『商品』にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち『商品』として売る領域を制限していかねばいけない〔なんという言い草だ! 大学に職を得て安穏に暮らしている小ブルインテリの彼の頭の中は“お花畑”なのか――引用者〕」(NHKテキスト「100de名著『資本論』p.63)と。

 

確かに、「労働日の制限・労働時間短縮」は労働者にとって最重要の課題だ。しかしここで声を大にして言うべきことは、そもそも自らの労働力を「商品」として売らざるを得ず、長時間労働や過労死などの労働苦が働く人々――この人たちの日々の労働なくして現在の社会は一日たりとも存続できないにもかかわらず――に降りかかってくるのは彼ら直接的生産者である労働者から生産手段を奪い取った資本によるそれの私的所有にこそあるのだということではなかったか。

 

「(資本による)生産手段の私的所有」ということに一切触れず、それゆえ耳障りの良い「脱成長的な持続可能な定常型経済を基づくアソシエーションによって地球環境を守れ」といった市民主義的に改変されてしまい(マルクスはエコロジストだったという風に)、マルクス主義の根幹部分、その革命性が換骨奪胎され、現在のブルジョア社会にとって無害化された言説を主張するがゆえに、NHKから出演依頼が来たりして、マスメディアの寵児にもなりえたのだろう(今年新年早々NHKBSで「人新世」というテーマで彼が出演していた)。

 

斎藤氏には、資本主義に対する「怒り」や「憤り」というものがその根底にない、「疎外された労働からの解放(賃労働の廃絶)」という視点が全くないのだ。だからこそ革命主体としての労働者人民といった視点が皆無(最近共著『コモンの「自治論」』〈’23年〉を読む機会があったがそこでの変革主体は大学教授や精神科医、東京都杉並区長などの小ブルインテリども)だからこそこういった解説にしかならないのだろう。

 

(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか(宮本 博)