労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)
マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅡ
―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平
宮 本 博
問題の設定
一昨年の10月『マルクス解体――プロメテウスの夢とその先』(以下『マルクス解体』)が出版された。ここでも斎藤氏は『人新世』や『ゼロから』と同様、マルクスにあっては1868年頃までの生産力至上主義・近代化主義やヨーロッパ中心主義からする原始共同体社会⇒アジア的社会⇒古代的・古典的社会⇒封建社会⇒資本主義社会⇒社会主義・共産主義という単線的歴史観を唱えていた壮年期の思想を自己批判的に修正して、晩期には『ゴータ綱領批判』(1875年)や『ザスーリチへの手紙』(1881年)などから考えるに、自然と共生していたロシアの「ミール共同体」や古代ゲルマン民族の「マルク共同体」を理想とする自然環境に配慮する定常型経済の脱成長コミュニズム〔斎藤氏は、「共産主義」という言葉を嫌い、もっぱら「コミュニズム」という表現を用いている──引用者〕を新たに提唱するようになったのだと言う。この二つの時期の間の「断絶」は繋ぐことのできないもので、この裂け目をルイ・アルチュセールにならって「認識論的切断」と呼んでいる(『人新世』p.196)。こういったマルクスを前期と後期に分ける解釈は昔からあった(もっともアルチュセールや廣松渉が批判の対象としたのは前期の人間主義的な「疎外論的マルクス主義」だったのだが)。
生産力至上主義(近代化主義)だ、ヨーロッパ中心主義だ、単線的歴史観だ、等々のマルクス批判は斎藤幸平氏が初めてではなく、「アジア的生産様式」論争と共に新しい装いをとって1960年代以降、構造主義的人類学を提唱したレビィ・ストロース以来ヨーロッパ近代のオリエンタリズムに対して批判の口火を切った思想家とされるパレスチナ系アメリカ人のエドワード・サイードをはじめとした70年代からのポストコロニアリズムや従属理論の隆盛と時を同じくして起こってきたものである。
マルクス批判家たち(“送葬派”)は別にして、彼を擁護する人たちの一部はマルクスの思想とマルクス死後エンゲルスが主導したマルクス主義とは全くの別物だ──だからこそ、ここからレーニンやスターリンのロシア・マルクス主義が生まれたのだ──と言い、それとは別のグループ(“再生派”と呼ばれているらしい)は少なくとも1868年頃までのマルクスは疑問の余地なく西ヨーロッパ文明優越史観・生産力万能主義の持ち主であったが、晩年のマルクスは1881年の「ザスーリチへの手紙(4つの草稿)」においてそういった考えを放棄して、ロシアに残存したミールの評価と関連して、同じような小共同体・村落共同体を積極的に評価し、資本主義を経ることなしに社会主義・共産主義へと至るという複線的歴史観に修正したのだと言うのである(斎藤氏もこのグループに属している)。
しかしそうした彼ら“再生派”の解釈は正しいのだろうか、むしろ前期と後期とを峻別する彼らはマルクスを不当に辱めているのではあるまいか。以下の小論では、1868年以前のマルクスは「オリエンタリスト」(非ヨーロッパを野蛮で劣った存在みなし卑下するヨーロッパ人)であり、インドに対する植民地政策を「資本の文明化作用」の名のもとに推進するイギリス帝国主義の先兵の役割を担っていたのだろうか、東洋を蔑視し「資本の普遍化作用」を無批判的に推奨する近代化論者だったのか。こうしたことを1853年のアメリカの新聞『ニューヨーク・デイリィー・トリビューン』紙に寄稿された文章、1857年の『経済学批判要綱』に記述されている「資本の文明化作用」、更に1859年の『経済学批判序言』に一度だけ登場した「アジア的生産様式」という概念、そして1881年の「ザスーリチへの手紙」を俎上に載せて論じてみる。
(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか