労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅢ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

マルクスの「インド通信」

 1853年には『イギリスのインド支配』(以下『支配』)、『イギリスのインド支配の将来の結果』(以下『結果』)の2つのアメリカの新聞への寄稿文がある。前者には、確かにインドに残存している小規模な村落共同体を「半野蛮」、「半文明」、「未開」などの言葉で表現している(『マルエン全集』⑨ p.126、以下『全集』)。また後者では「インドの社会はまったく歴史をもたない」、「イギリスはインドで二重の使命を果たさなければならない。1つは破壊の使命であり、1つは再生の使命である。――古いアジア社会を滅ぼすことと、西欧的社会の物質的基礎をアジアに据えることである」(同書 p.213)。こうした文章を見るとマルクスは、インド人を見下しイギリスによるインドの植民地支配を推進しようとするイデオロギーがほぼそのままの形で共有されており、資本主義の発展をとことん推し進める近代化論者で、世界の津々浦々をグローバル化するという考えは今日の新自由主義者の発想というより、マルクスの発想であるように思われかもしれない。

 

アジアへの軽蔑、無条件の西欧への礼賛が正しければ、マルクスはひたすら西欧の資本主義を発展させ、それを最終段階で社会主義に移せばいいということになる。1978年の『オリエンタリズム』でサイードがマルクスをアジアに批判的な「オリエンタリスト」に位置づけたことは、まさに西欧近代化主義者としてのマルクスのイメージを決定づけたと言っていい。当時のマルクスを斎藤氏がどのように否定的に見ていたかを知るためにもかなり長いが引用してみる。

 

斎藤氏はまず、サイードの「マルクスは叙述を重ねるごとにますます確信を深めながら『イギリスはアジアを破壊するというまさにそのことによって、アジアにおける真の社会革命を可能にしつつある』という見解に立ち返っていた。したがって、かりに人々の惨状によってマルクスの人間的心情が、つまり彼の同情心がそそられたことは明らかであるとしても、マルクスの経済分析は標準的なオリエンタリズム的企てと完全に合致しているということになる。結局、最後に勝利を収めるものはロマン主義的なオリエンタリズムのヴィジョンなのであって、その時マルクスの理論的な社会経済的諸考察はこの標準的イメージのなかに埋没してしまうのだ」という文章を援用した後次のように言っている(因みに少し前の個所でサイードは、「マルクスの文体を見るとき、我々は、東洋社会が力ずくで変化させられていく過程で東洋人がこうむるさまざまな苦難に対し、我々が同じ人間として当然感じるいとわしさと、この変化が歴史的必然である認識とを、いかにして両立させるかという困難な問題に嫌でも直面せざるを得なくなるのである」という文章がある)。

 

以下は『マルクス解体』のp.268~271にある文章である。

《たしかにマルクスは、当時のインドにおけるイギリス植民地主義の残虐性を認めている。だが、その口調は両義的である。イングランドの植民地主義は、インドの村落に対して「破壊的」に作用する。とはいえ、鉄道、蒸気機関、灌漑システムといった新技術をインドへと持ち込むことで、「西欧資本主義は、アジア社会を『再生』するという『二重の使命を果たさなければならない』」とマルクスは主張した。つまり、近代工業化が、共同体的土地所有を解消して、私的土地所有への置き換え、カースト制を解消するという点に、イギリス植民地主義の進歩的役割を認めているのだ。裏を返せば、マルクスは、インドの村落共同体は外界との交わりが皆無であるために、不変なままで停滞してきたと考えたわけだが、それは、マルクスが植民地支配以前のインドにおける技術革新や商品生産の存在に目を向けることができなかったからにすぎない。アジア社会が静的で受動的であるという過度の一般化を行い、「インド社会はまったく歴史をもたない」とまで述べている。このため、インド人は帝国主義の介入という外からの強制を必要としているとされるのだ。マルクスは、インド人の苦しみ、社会主義的解放に向けた人類の普遍的な進歩のための必要悪として受け入れていたのだろうか。「非ヨーロッパ社会の不変の性質は歴史の進歩の足枷であり、社会主義にとって深刻な脅威だ」とみなしていたのだろうか。だとすれば、サイードのオリエンタリズム批判は妥当に思える。〔その後の文章で斎藤はマルクスを少し擁護しながらも続けて言う──引用者〕・・・マルクスは、イギリス帝国主義を憎み、怒りや批判を表明したにもかかわらず、非西欧社会の受動的で静的な性格を信じ続けていた可能性があるのではないか。その場合これは依然として、オリエンタリズムとして特徴づけることができるはずだ。実際、当時のマルクスは、最終的に人類史全体の進歩という観点から植民地支配を受け入れていたように思われる。生産力の資本主義的発展の破壊的性格に注目し始めた1860年代の初めにも「オリエンタリズム」的な叙述は依然として見出すことができるからだ。・・・個人が犠牲になっても、生産力を高めよ! 人類解放のために、世界中に市場と資本主義を広めよ! これはまるで、マルクスが市場原理主義とグローバル化のイデオローグだったかのようである。・・・1850年代、マルクスがヨーロッパ植民地主義によるアジア社会への介入の必要性を指摘した理由は、まさにこの受動性と停滞性という革命の障害物を除くためであった。非西欧社会は労働力と天然資源を大量に供給することによって西欧資本主義の離陸にとって不可欠の貢献をしたにもかかわらず、歴史的主体性を奪われたままであった。・・・それだけではない。マルクスは『資本論(初版「序文」)』で次のような悪名高い一文を書き残している。「産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国に、ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである」。この単線的な歴史観はヨーロッパ史の軌跡をあまりにも無批判的に世界の他の地域に投影している一地域の特殊的な歴史の暴力的な普遍化は、ヨーロッパ中心主義のもう一つの特徴にほかならないし、それは、植民地主義を正当化する口実として繰り返し用いられてきたものである(『人新世』p.168~170にも同じような文章がある)。》

 

斎藤氏はこうしたマルクスの立場を批判しているが、しかし晩年には、ロシアに残存した小共同体(村落共同体)=ミールの評価と関連してこうした1868年以前の立場を修正したと言うのである。的場昭弘氏も壮年期のマルクスにあったオリエンタリズムを同じように厳しく批判し、後期マルクスを高く評価している。うがった見方をすれば、マルクスを公然と批判する人々がマルクスのアキレス腱として突いてくる「半野蛮」、「半文明」、「未開」などの言葉や次の項で検討する「資本の文明化作用」という言葉を、まず先手を打ってあらかじめ完全に否定しておき、然るのちにロシアのミール共同体での劇的な回心を顕彰し持ち上げるという手法をとる以上は、先手のところでむしろ過度にマルクスの誤謬を強調しておくほうが効果的というわけであるのかもしれない。

 

 周知のように、マルクスは、人類史における資本主義の歴史的必然性とその革命性とを認めている。しかし、このことは、マルクスが資本主義の正当性を認めたことを意味するのだろうか。断じて否である。彼の場合、資本主義の必然性と革命性を認めることがそのまま直接的に資本主義の正当性を承認することにつながらない──直接的生産者から生産手段を奪い取ってこの生産手段を所有している資本家に雇われ賃労働をすることによってしか生きることができなくしているこの資本主義社会はどんなに「自由・平等・博愛」といった美辞麗句に飾られていようとも、古代の奴隷制と同様の「賃金奴隷制」社会なのだと激しく批判告発し、にもかかわらず資本主義社会の生産・労働の社会化の進展と工場労働者たちの階級としての成長とによって物質的にも主体的にも次の社会(社会主義・共産主義者社会)への条件が整備されてくるという見通しを語った──ように、植民地主義の必然性とその革命性とを認めることもまたそのままでは植民地主義の正当性の承認を意味するものとはなりえない。

 

マルクスにあっては、植民地主義の必然性と革命性とに対する彼の認識は、植民地主義に対する彼の強い批判的態度に基礎づけられており、資本主義と同様、植民地主義もまた止揚されるべきものとして認識されていたのである。当時のインド社会の根底をなしている各々が「孤立的地位」を保ち自給自足の閉じられた小共同体(村落共同体)という古い経済社会構造にマルクスはどんな幻想も持っておらず、それを社会の停滞や後進性を規定してきた原因とみなしている。

 

『資本論』にも次のような記述がある、「このような、絶えず同じ形態で再生産され、たまたま破壊されてもまた同じ場所に同じ名称で再建される自給自足的な共同体の簡単な生産体制は、アジア諸国の不断の興亡や王朝の無休の交代とは著しい対照をなしているアジア的諸社会の不変性の秘密を解く鍵を与えるものである。社会の経済的基本要素の構造が、政治的雲上界のあらしに揺るがされることなく保たれているのである」(全集㉓a p.469~470)。

 

イギリスの植民地支配と資本主義的浸透がこうした関係を粉砕し一層する限りで、歴史的進歩の一段階として高く評価したのである。マルクスは、古い停滞したインド社会の解体・分解がイギリス植民地主義者の蛮行がどんなにおぞましく破廉恥な形をとって強行されようとも、それは歴史的には進歩であって、人類史の不可避の過程であることを強調したのである。

 

 マルクスの「インド通信」には、インドの発展段階を「半未開」とか「半文明」と呼んでいることは確かであるが、しかしその反面、ヒンドゥー文明を「偉大で気高い」と評価し、「インド人民の多数が明晰な数学的頭脳〔“ないものがある”というアラビア数字の「0(ゼロ)」を発見したのがインド人だったということは彼らの名誉である──引用者〕と計算や精密科学への才能を驚くほど備えている、彼らの知力は優れている」と記しており、「住民は温雅で・・・最下等の階級でさえ『イタリア人より洗練され器用であり』、その屈従でさえ、ある種の穏やかな気品で埋め合わされて」(全集⑨ p.216~7)いるという事実を『ニューヨーク・デイリィー・トリビューン』紙を購読しているアメリカの読者に正確に伝えようとしていたことを等閑すべきではない。

 

このようにマルクスは、インド人を卑下し見下しているわけではなく、むしろ彼らに敬意さえ払っている。「ところで、この無数の勤勉な家父長的で無害な社会組織が解体され、各構成単位に分解され、苦難の海になげおとされ、その各成員が古代そのままの形態の文化と伝来の生活手段とを同時に失うのをみることは、人間感情にとって胸いたむものであるにはちがいないけれども、われわれは、これらの牧歌的な村落共同体がたとえ無害にみえようとも、それがつねに東洋専制政治の強固な基礎となってきたこと、またそれが人間精神のありうるかぎりのもっとも狭い範囲にとじこめて、人間精神を迷信の無抵抗な道具にし、伝統的な規則の奴隷とし、人間精神からすべての雄大さと歴史的精力を奪ったことを、忘れてはならない」(同書 ⑨ p.126)。

 

つまり、このような偉大な精神の持ち主を閉じ込めている当時のインドの社会経済政治体制の革命的な変革の必要性と歴史的な必然性とを強調するために「イギリスはインドで二重の使命を果たさなければならない。1つは破壊の使命であり、1つは再生の使命である」という表現をしたのだろう。

 

 またこの箇所には、「・・・鉄道制度から生まれてくる近代工業は、世襲的な分業を解体させるであろう。そして、この世襲的な分業は、カースト制、このインドの進歩とインドの力とにたいして決定的な障害となっているものの土台なのである。イギリスのブルジョアジーが、よぎなくなにをしなければならないとしても、それらすべてを合わせても、人民大衆は解放されはしないだろうし、その社会的条件も根本的に改善されはしないであろう。この生産力を〔インド人民が──引用者〕わがものにするかどうかにもよることである。しかし、ブルジョアジーがしないわけにいかないことは、この両者のための物質的前提をつくることである。これまでブルジョアジーは、個人をも全人民をも、血と泥のなか、悲惨と堕落のなかを引きずることなく、一つの進歩でも成し遂げたことがあるか? 大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかり投げ捨てるか、このどちらになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョアジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、われわれは、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待して間違いないようである」という文章がある。

 

つまり、ここから分かるように、イギリスのブルジョアジーはその主観的意図とはかかわりなく、インド人民解放のための物質的前提をつくりださざるを得ないのであるが、しかしそれを利用して、イギリス植民地主義からのインド解放闘争を意識的に担う主体はあくまでインド人民であり、そしてイギリスのプロレタリア階級である。マルクスはこの点を強調することを忘れていない。つまりは、マルクスはインド人を受動的な人民で卑下し蔑視しているような「オリエンタリスト」では断じてないということである。

 

 彼は、『結果』を次の文章で結んでいる。「歴史のブルジョア時代は新世界の物質的基礎をつくりださなければならない。――一方では、人類の相互依存にもとづく世界的交通とこの交通の手段、他方では、人間の生産力の発展と、物質的生産を自然力の科学的支配に転化すること、これがその基礎である。ブルジョア商工業は、地質上の革命が地表を作りだしたのと同じように、つくりだしているのである。将来、偉大な社会革命が、このブルジョア時代の成果である世界市場と近代的生産力とをわがものとし、これらをもっとも先進的な諸国人民の共同管理のもとにおいたとき、そのときはじめて人類の進歩は、むごたらしく撃ち殺した人間の頭蓋骨からだけ神のうま酒を飲もうとする、あのいとうべき異教の偶像に似ることを、やめるだろう」(同書 p.217~8)。

 

このようにマルクスにあっては、当時イギリスの植民地であったアイルランドに関する彼の諸論文にも見られるように、他民族支配を基礎とする植民地主義が止揚されないかぎり、人間社会本来の歴史は始まらないとされる。この意味において、マルクスの唯物史観においては、ブルジョア時代は階級の止揚とともに民族対立の止揚を展望するものとして位置づけられていたといえる。

 

因みには後年になるが、マルクスはイギリスの植民地アイルランドについてエンゲルスへの手紙(186912月)の中で「僕が長い間考えてきたことだが、可能なのは、アイルランドの(イギリスの植民地にされている)体制をイギリスの労働者階級の興隆によってくつがえす、ということなのだ。・・・より深い研究によって、僕は今まではその反対のことを確信するようになっている。イギリスの労働者階級は、それがアイルランドから免れないうちには、けっしてなにごとも達しはしないだろう。梃子はアイルランドに据えられなければならない」(全集㉜ p.336)と反省しているようだ。

 

斎藤氏も含めてこの文章を前期の立場を修正した証拠の一つとしているが、そのようには思えない。というのは、インド「通信」の上述の『結果』を見る通り、植民地解放闘争の主役はあくまで現地の被抑圧人民であって、帝国主義本国のブルジョアジーと闘うことによって彼らを支持援助し共闘するのは帝国主義本国での階級としての労働者人民なのだということ、これはマルクスにあっては生涯一貫している立場なのだと言えるからである。

(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか