労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)
マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅣ
―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平
宮 本 博
「資本の文明化作用」とは
マルクスが「西欧中心主義者=オリエンタリスト」だといった言われなき批判は、彼の『経済学批判要綱』(以下『要綱』)における「資本の文明化作用」という言葉によっても倍加されている。この「文明化」という言葉は、マルクスが生きた18世紀の西欧諸国の非西洋への植民地侵略の生々しい場面にストレートに適応される傾向が強く、極めて情緒的な思い入れとともにマルクス批判の引証にされる傾向があった。
この言葉は、『要綱』で3回登場するだけである。
① 資本に関する章のはじめの箇所。交換価値を措定する活動への誘因はまず(諸民族の生活圏域の)外部からやって来る。はじめ偶然的であった剰余の交換は双方の内部に新しい欲望を目ざめさせ、さしあたりは新しい素材=使用価値の獲得だった流通は生産の組織を次第に交換価値の獲得目的に編成してゆく、「これこそひとが対外貿易の文明化作用と名づけているものである(Dies ist ,was man die
zivilisierende Wirkung des auswartigen
Handels nennt)大月書店版『要綱』第Ⅱ分冊p.177、下線部強調は引用者)。
② 〈資本への移行〉の項目の箇所。「対外貿易のいわゆる文明化作用(Es ist dies die sogenannte zivilisierende Wirkung des auswa。rtigen Handels)(同書、第Ⅴ分冊p.1043 下線部強調は引用者)内容は前掲とほとんど同じ。
③ 〈資本に関する章 第二編資本の流通過程 資本の生産過程から流通過程への移行〉の箇所。
それまでは資本が生産過程でより多くの剰余価値を吸収しようとする運動を見てきた。マルクスはこの箇所で、資本が今や流通の圏域を外に向かって拡大していく過程を分析する。
(a) まず絶対的剰余価値の生産の視点から、資本が「より多くの補完的生産地点を創造する傾向」をもつ、言いかえれば「資本に基礎づけられた生産または資本に照応する生産様式を“布教”しようとすることを指摘する。つまり、資本という概念そのもののなかに、自己運動の極ついには「世界市場を創造する傾向」が当初から含蓄されているのであり、そのゆえに資本は、より以前の自然成長的な諸生産様式を交換に従属させ、それに代えて資本に基礎づけられる生産をうち建てようとするのである(同書、第Ⅱ分冊p.336)。
(b) 他方では相対的剰余価値の生産。生産力の増大にともない、資本は現在の消費の量的拡大につとめなければならないが、それだけでは十分でなくなる。消費者のあいだに新規の欲望をかきたて、新しいい消費財を買わせる工夫をこらす。そしてそのために新種の使用価値を地球上で発掘しそれを素材とした新商品の生産にのりだすことになろう。この新生産体系は労働の範囲を拡げ、多様化し細分化していくだろう。
こうして、資本主義的生産は、一方では普遍的な勤労を創造すると同時に、「自然と人間の諸性質の一般的な開発(=搾取)の体系、一般的な効用性の体系」を創造する。資本は、「まず市民社会を創りだし、そして当の社会の構成員による、自然の、ならびに社会的関連そのものの普遍的領有を創りだす。かくて、資本の偉大な文明化作用(Hence the great civilizing
influence of capital)〔この一句だけが英語表記 下線部強調は引用者〕、つまり資本による一つの社会的段階の生産が出てくるのであり、・・・資本は不断に普遍的であろうとする本姓に駆り立てられて、自然崇拝や民族的な制限と偏見を乗りこえて、自給生活にもとづいた古い生活様式を破壊せずにおかない」(同書、p.338 下線部強調は引用者)。
長々と引用を重ねてきたのはほかでもない。マルクスは、相手となる共同体との間の交換の本性、より多くの剰余価値を取得しようとする資本の本姓を、まったくの感傷を交えることなく冷静に定義し、この運動と傾向とをそれが誰であるか確かめられないが、その人の表現を借りて「文明化作用」と呼んだのではと思う(勿論、「偉大な great」という形容詞もそっくりそのままいただいて)。
この他にも「(資本の)布教的、文明化的傾向」(同書、第Ⅲ分冊p.479 下線部強調は引用者)という別表現がある。こうして、上で強調した箇所を改めてみると、今になってははっきりしたことは不明だが、この用語がマルクスのものではなく、彼がむしろ皮肉たっぷりに使ったものであって、むしろマルクスに先行するまたは同時代の経済理論あるいは外国貿易に関する理論では、「偉大な」という形容詞も含めてこの用語が特に珍しいものではなく当時普通に使われていたものであり、その当時のヨーロッパ人の通念だったように思えてならない。
1848年、エンゲルスと共に書いた『共産党宣言』には次の有名な言葉がある。「ブルジョアジーは、あらゆる生産用具を急速に改善することによって、また素晴らしく便利になった交通にたよって、あらゆる国を、もっとも未開な国までも、文明に引き込む。彼らの商品の安い価格は、どんな万里の長城をもうちくずし、未開人のどんなに頑固な外国人ぎらいをも降伏させずにおかない重砲である。ブルジョアジーは、あらゆる国民、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式をとりいれるよう強制する。あらゆる国民に、いわゆる文明を自国にとりいれるよう、つまりブルジョアになるよう強制する。一言でいえば、ブルジョアジーは、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだす」(全集④ p.480 下線部強調は引用者)。
ここでもマルクスとエンゲルスは、注意深く「いわゆる文明」と言っている。因みにエンゲルスについて言えば、彼も「文明」を一義的にプラス・シンボルにはしていなかった。それは例えば1857年のインドで起こったインド人傭兵の反乱(セポイの乱)の終焉期にアワド王国の首都ラクナウに乱入し12昼夜にもわたって空前の大略奪と暴行をほしいままにした植民地軍の残虐ぶりを『ニューヨーク・デイリィー・トリビューン』紙で次のように記している。
「これは、19世紀の文明国の軍隊としては、まことにひどい事態である」、「イナゴの群れのように都市を襲い、途上にあるものは何でも手当たりしだいに食い尽くすチンギス・ハーンやティムールの群れも、これらのキリスト教的な、文明化された、騎士的な、そして生まれのよいイギリス兵に比べれば、国々にとって祝福であったに違いない」、「ブルジョア文明の深い偽善と固有の野蛮性がいかんなく発揮されたのである」(全集⑫ p.444、p.472 下線部強調は引用者)。
またマルクスは、アメリカの黒人に対する奴隷労働にたいして、「その生産がまだ奴隷労働や夫役などという低級な形態で行われている諸民族が、資本主義生産様式の支配する世界市場に引き込まれ、世界市場が彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事になるまで発達させるようになれば、そこでは奴隷制や農奴制などの野蛮な残虐の上に過度労働の文明化された残虐が接ぎ木されるのである。それだから、アメリカ合衆国の南部諸州の黒人労働も、生産が主として直接的自家需要のためのものだったあいだは、過度な家長制的な性格を保存していたのである。ところが、綿花の輸出が南部諸州の死活問題になってきたのにつれて、黒人に過度労働をさせること、所によっては黒人の生命は7年間の労働で消費してしまうことが、計算の上に立って計算する方式の要因になったのである」(全集㉓a『資本論』p.306 下線部強調は引用者)とも述べている。
マルクスを批判する人たちは、『要綱』のマルクスが西欧文明と解釈された「文明」あるいは「文明化」という事態ないし現象に絶対的に積極的な意味づけを与えていると思い込み、その上サイードの『オリエンタリズム』において「マルクスはオリエンタリストだった」といった批判が加わってこうしたバイアスにかかった固定観念がひとたび形成されてしまえば、上述したマルクスの「インド通信」のような諸時論に頻出する「半野蛮」、「半文明」、「文明」、「野蛮」、「未開」等々の用語に、西欧中心主義者だったとか、近代化主義者だったとか非ヨーロッパ地域を卑下蔑視するマルクスという思い入れを存分に注入することができるのである。
まさに、「資本の文明化作用」という言葉に対する批判は、マルクスが語った文章から片言隻句を取り上げて彼の意図するものとはまったくかけ離れたものとして批判する典型的なやり方である。「資本の文明化作用」という言葉はその文脈から切り離されて独り歩きしているが、この語彙にマルクスが込めたネガティブなニュアンスを読み取るべきである。
「東インドを例にして言うと、・・・だれひとり、そこでは〔農業と家内工業としての綿織物業とを強固に結合させていた──引用者〕土地の共同所有の廃止が、原住民を前進させないで後退させるイギリスの文化破壊行為でしかなかったことを、知らぬはずはない」(全集⑲ p.405)とも言われており、「文明化」という言葉をマルクスは逆説的な意味で、つまり「文化破壊」といった意味にでも使用しているのである。
そもそも、「外国貿易の『文明化』作用」を最初に指摘した論者は『法の精神』(1748年)で知られる啓蒙(=無知蒙昧な状態を人間理性の力によって啓発して教え導くこと、これこそが「文明化」の意味)主義者のモンテスキューで「アジア的」という形容詞自体も彼以来のヨーロッパ中心主義的な既成観念が固着しており、西洋による非西欧諸国への支配、人種差別的で非人間的な不平等が底流としてあった(こうした視点や態度こそがサイードの言う「オリエンタリズム」なのである)。
このように、マルクスの個別的な言辞にのみとらわれている論者たちは、植民地主義にたいするマルクスの評価が肯定から否定へと、あるいは民族解放闘争にたいする評価が肯定から否定を経てさらに肯定へと、二転あるいは三転したと解釈するのである。
(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか