労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)


マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅤ

―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平

                                                                宮 本 博

 

「アジア的生産様式」をめぐって

 マルクス批判家だけでなく、前期と後期とを峻別して前期のマルクスを否定して後期しか評価しないマルクス「再生派」にあってもこの「アジア的」という形容詞そのものが、マルクスがアジアを見下し蔑視した証拠とされている。

 

ある論者に言わせると、「アジア的生産様式」論=「アジア停滞」論というわけだ。とりわけ、この概念を使ったのは生涯にただ一度だけ、1869年に出版した『経済学批判序言』においてだけであったことからもなおさらであり、「資本の普遍化傾向」を唱え、「西洋」対「東洋」ないし「進んだヨーロッパ」対「遅れたアジア」という自分の認識図式の誤りに気付いたマルクスは自己批判的に修正して、それ以後二度と「アジア的生産様式」という言葉を使用しなかったのだ、とマルクス思想を前期と後期とを「切断」する彼らはマルクス弁護を買って出る。全くもって余計なお世話である。

 

 「アジア的生産様式」という概念については、林紘義著『人類社会の出発点、古代的清算様式―ー「アジア的生産様式」論の復活を』において詳細に述べられている。「悪名高い言葉であって、無視しなければならない」と多くのマルクス思想解釈者が言っているのとは真逆に、林氏はこの生産様式を「共同体から階級社会への第一歩を踏み出した人類最初の社会」であり、「人類史にとって普遍的なものである」とし、この社会を「古代的生産様式」と呼んでいる(前掲書 p.8)。

 

そして言う、「我々は、マルクスの『アジア的生産様式』の概念を断固として擁護するのだが、その概念は決して“アジア“の歴史に限定されるのではなく、人類史にとって普遍的であると主張する。アジア的生産様式は共同体所有から私的所有への第一歩として現れるが、同時にそれは、また人類が”未開“から”文明“へと足を踏み入れ、歴史的に前進し、進化していく第一歩でもある。共同体所有から出発したばかりの社会として、この生産様式は一つの共同体をまだ根底としているが、しかしこの共同体はすでに支配階級になり上がった──なり上がりつつあった──首長層によって簒奪され、収奪されている。そしてこれらの首長層の頂点に立ったのが、世界中のどの地域においても、歴史の初期に出現した古代の王権である。小規模な共同体権力はより大規模な共同体権力によって従属、支配され、あるいは吸収され、より大きな共同体権力に統合されたのである」(同書p.15)。「文明の出発点として、そしてまた同時に私的所有の出発点として,『アジア的生産様式』は人類史の必然的な一つの、そして最初の社会経済構成体もしくは最初の階級社会として位置づけられるのであり、またマルクスによって最初に位置付けられたのである」(同書p.17)。

 

 マルクスが「アジア的生産様式」という言葉を使ったのは上述したように生涯で一度だけではあるが、しかしだからといってこの概念を軽視していたとか、いわんや”アジア蔑視“という誤りに気付き自己批判的に反省して以後使用しなくなったということは全くありえない。

 

マルクスにこの概念を与えたのは、1850年代初め、イギリスのインド(ムガール帝国)侵略と支配の現状についてアメリカの新聞への寄稿文を書いたり、当時のインドの経済的社会構成体の研究を深めていく過程で、インドの(中国など、広くアジアの)社会を根底から規定している土地の共同体所有を発見したことにある。

 

18536月のエンゲルスあての手紙のなかで「(インドの『ムガール帝国に記述を含む旅行記』を著した)ペルニエは、正当に、オリエントのすべての現象についての基礎形態を──彼はトルコやペルシアやヒンドスタンについて語っている──土地の私的所有が存在していない、ということのうちに見いだしている。これこそがオリエントの天国に至るためにも現実の鍵なのだ」(全集㉘ p.210)とアジア的生産様式の基本的特徴を述べている。

 

『要綱』でも「生産者と生産手段との本源的所有」の諸形態としてではあるが「アジア的な・・・形態にあっては、個々人の所有ではなく占有だけがある。・・・古典古代人・・・にあっては、国家的土地所有と私的土地所有との対立的解体《があり》、・・・ゲルマン的形態では、・・・そのものとしての共同体所有は、・・・個人の土地領有にたいする共同の付属物としてのみ現れる(『要綱』Ⅲ p.417 『資本主義生産に先行する諸形態』国民文庫版p.24)」と述べている。またマルクスは言う、「種族共同社会、自然的共同団体は、土地の共同的領有(一時的な)と利用の結果としてではなく、その前提として現れる」(同書p.408)、と。

 

林氏は前掲書で次のように述べている。「マルクスが共同体に根底を置く『アジア的生産様式』と呼んだ社会経済構成体は、古代の一つの社会経済構成体の残滓であって、それは決してアジアだけに固有なものではなく、その存在自体は、すべての人類の諸集団の歴史的な──社会的において歴史的な──初期の段階、その出発点において普遍的であったという認識に到達しつつあったのであり、『先行する諸形態』ではそれを一般的な形で、一定の意味で共同体所有と関連する他の二つの社会経済構成体――古典・古代的(ギリシャ・ローマ的)及びゲルマン的な所有――との区別と比較の中で検討しているのである。彼はますます『アジア的生産様式』は人類の歴史的な出発点において普遍的なものであったという確信を強めて行ったのであ」る(p.56)。このことは1859年の『経済学批判』の中で、「原生的な共有の形態は、とくにスラブ的な、しかももっぱらロシア的な形態だというのは、近ごろひろまっている笑うべき偏見である。それは、われわれがローマ人、ゲルマン人、ケルト人のあいだで指摘することができる原初的形態であるが、これについては、さまざまな見本をそなえたりっぱな見本帳が、いまでも、一部分は廃墟としてではあるとはいえ、インド人のあいだに見いだされる。アジア的な、ことにインド的な諸共有形態のいっそうの詳しい研究は、原生的共有の種々の形態からどのようにしてその崩壊の種々の形態が出てくるかを示すであろう。こうして、たとえばローマ的およびゲルマン的私有の種々の原型が、インド的共有の種々の形態からみちびきだされるのである」(国民文庫版p.23~4の〈注〉、この文章は、全集㉓a p.104『資本論』でも〈注〉として再録されている)と述べていることからも明らかである。更にまた18683月のエンゲルスあてのマルクスの手紙には次のように書かれている。「(僕は老マウラーの)最近の著書を読んでドイツのマルクや村落などの制度について勉強した。彼は、土地の私的所有が後代に至ってはじめて発生した、ということなどをくわしく論証している。・・・ちょうどいま興味があるのは、一定の期間(ドイツでは当初は毎年)における土地の再分配というロシア的な風習がドイツでは所によっては18世紀にいたるまで、また19世紀にさえ至るまでも、保存されていた、ということだ。アジア的またはインド的な所有形態がヨーロッパのどこでも端緒をなしている、という僕の主張した見解が、ここでも(マウラーはこの見解についてなにも知らなかったのに)新たな証拠を与えられている」(『全集』㉜p.36~7 下線部強調は引用者)、と。

 

この「アジア的生産様式」の詳しい内容については、林氏の前掲書を読んでもらうとして、ここで指摘したかったのは、従来からほとんど顧みられることなく無視され足ざまに扱われてきたこの概念は、“アジア“だけに限定されたものではなくて、「それを一つの歴史的社会として、人類が原始共産主義(氏族共同体)の社会から一歩踏み出し、前進するや否や陥った最初の階級社会」(林氏前掲書.同箇所)だったということである。



(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか