労働者党党友から「マルクスは『オリエンタリスト(西欧中心主義者)』だったのか」という「斎藤幸平批判」の投稿がありました。労働者党の理論誌『プロメテウス』63号で「斎藤幸平“理論”を撃つ」の特集をしましたが、投稿は意義ある内容ですので紹介します。(担当)(改行、頁分けは担当が編集)
マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)だったのかⅥ
―― 1868年頃を境にマルクスを前期と後期とに「切断」した斎藤幸平
宮 本 博
マルクスの「ザスーリチへの手紙」(1881年)について
「ザスーリチへの手紙」の内容については、林紘義氏の前掲書のp.87~99で詳細に論じられているし、斎藤氏の解釈に対する批判は『プロメテウス』63号の田口騏一郎氏の「斎藤幸平の“脱成長コミュニズム”論批判
」の第4項“停滞的なミール共同体の美化”(p.67~73)に詳しいので、「ザスーリチへの手紙」をどのように評価するかはこの前二者に任すとして、ここではそれとは異なった視点から少し述べたい。
斎藤氏はマルクスの立場が、社会主義・共産主義へ至るには必ず資本主義を経なければならないという「単線的歴史観」から、当時ロシアに残存していた土地の共同体所有である農村(農耕)共同体だった「ミール共同体」を積極的に評価することによって資本主義の成長発展期である西欧とは異なり資本主義を経なくても社会主義・共産主義に至ることが可能であるという「複線的歴史観」へと変化したのだ、と述べている(『マルクス解体』p. 290,『人新生』p.176)。
その証拠として彼が提示するのは、1875年フランス語第2版発行に際してマルクスが編集部に送った手紙である。そこには「(本源的蓄積による)資本主義体制の根底には、生産者と生産手段との根源的な分離が存在する。・・・この発展全体のすべての基礎は、耕作者の所有剥奪(収奪)である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである・・・だが、西ヨーロッパのすべての国もこれと同一の運動を経過する」(全集⑲ p.116)、「(上述の引用の後に)だから、この運動の『歴史的宿命性』は、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです」(全集⑲ p.238 、『ザスーリチの手紙への回答の下書き』に再録、〈第一稿〉p.386、〈第二稿〉p.399 、〈第3稿〉p.404)と、「ロシアの共同体に反対して人々が言い立てている論拠のうちで、最も真面目なものは、次のことに帰着する。西洋の諸社会の起源にまでさかのぼると、西洋のどこでも、土地の共同所有が見いだされるであろう。それは、どこにおいても、社会的進歩とともに、私的所有に席をゆずって姿を消した。だから、それが、ロシアにおいてのみこの同じ運命を免れることはできないはずである、と。私は、この議論が〈ヨーロッパに関係するかぎりで〉ヨーロッパの経験に立脚しているかぎりで、これを考察するであろう」(全集⑲ p.404)である。
ここで、現行版『資本論』(1867年)とフランス語第2版(1875年)の当該箇所(第一巻第第24章第1節「本源的蓄積の秘密」の最終部分)を比較してみよう。現行版では「農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程をなしている。この収奪の歴史は国によって違った色合いをもっており、この歴史がいろいろな段階を通る順序も歴史上の時代によって違っている。それが典型的な形をとって現れるのはただイギリスだけであって、それだからこそわれわれもイギリスを例にとるのである」(全集㉓b p.935~6)に対して、フランス語第2版では「こうした発展全体の基礎をなすもの、それは、耕作者の収奪である。この収奪が徹底的なかたちで遂行されたのは、今のところイギリスにおいてだけである。したがって、われわれの素描においては、当然、この国が主役を演じるであろう。だが、西ヨーロッパの他のすべての国々もすべて同じ運動を通過しているのであって、ただ異なるのは、この運動は、環境によってその地域的色合いが変わり、あるところではそれがより狭い範囲にとじこめられたり、あるところではあまり目だたない特徴を示したり、またあるところでは違った順序をたどったりすることだけなのである」(林直道編訳『マルクス資本論第一巻フランス語版』p.131)となっている。
ザスーリチへの手紙のなかでマルクスは、フランス語版の上の箇所を引用し、「この過程(耕作者の収奪)の『歴史的宿命性』は西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されている」点を強調したのである。その意味は、西欧ではすでに私有の一形態=自己労働にもとづく個人的私有が確立していたので、それの資本主義的私有への転嫁が問題となっていたのに対し、ロシアではそもそも農民による土地私有はないのだから耕作者の収奪の必然性という問題は問題として成り立たない、というのであった。
そして、勿論ロシアが西欧にならって資本主義国民たろうと目指すならば、その場合には共同体農民を収奪しプロレタリア化することが必要になってくるけれども、あなた方はロシアを共産主義へ進めようとしているのだから、農民収奪は何ら歴史的宿命でないばかりか、共同体自体を「社会的再生の拠点として」発展させることが可能である(ただし大工業と西欧の労働者階級の援助のもとに)と答えたのであった。
1882年1月の「『共産党宣言』ロシア語第2版序文」(マルクスは翌年の3月に亡くなっているので、エンゲルスとの連名ではあるが、これがマルクスの最後の言葉だろう)にはロシアについて、次のような文章がある。「・・・ロシアはどうか?・・・『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の解体が不可避的にせまっていることを宣言することであった。ところが、ロシアでは、資本主義の思惑が急速に開花し、ブルジョア的土地所有がようやく発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることが見られる。そこで、次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体(オプシチナ)は、ひどくくずれてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか?
それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展で行われたのと同じ解体過程をたどらなければならないであろうか? この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(全集⑲ p.288)。
斎藤氏は、ロシアの農村(農耕)共同体が資本主義的近代化の破壊的過程を経ることなく、既にある共同体的所有に基づいて社会主義・共産主義へと飛躍できる可能性に言及しているザスーリチへの手紙を根拠に、マルクスの歴史観は1881年までに大きく変化したのだと主張する。そして上述の「ロシア語第2版序文」を引用した後、次のように言う。
「マルクスとエンゲルスは、ロシアの共同体が資本主義段階への移行を避けることができるだけでなく、『西欧のプロレタリア革命にたいする合図』を送ることで、コミュニズムの発展を開始すべきだとさえ言う。ここでも彼らは、歴史の原動力として、ロシア社会の積極的な主体性を認めているのである〔この箇所で彼は〈注〉として、(かつてマルクスは「アジア的またはインド的な所有形態がどこでも端緒をなしている」と主張していたが、ここでその見解を訂正したのだ)と述べているが、どこをどのように読めばそういった解釈が出てくるのか、まさしく神のみぞ知りたもう──引用者〕」。更に続けて『全集』⑲ p.389を例証にして言う、「この議論を、ロシアに限定する必要はない。同じ論理は、当時マルクスが集中的に研究していたアジア、アフリカ、ラテンアメリカといった地域の他の農耕共同体にも適用できるだろう。事実、マルクスは、アジア的共同体を、戦争や侵略による破壊を免れた最も新しいタイプの農耕共同体としてとらえていたからである」(『マルクス解体』p.292)。
マルクスがここで意図した内容をまったく無視して、自分の興味と関心の赴くままに「牽強付会」した見本がここにある。当時のマルクスの関心は、人類の歴史的発展段階が無階級社会だった原始共産主義社会から土地の共同所有と私的所有とが混在していた最初の階級社会である「古代的生産様式」(前掲の林氏にならって“アジア”という狭い地域に限定される印象のある「アジア的生産様式」に替えて、この名称を使っている)を当時新しく解明されつつあった古代社会の知見をノートに書き留めて深く研究することによって、唯物論的な歴史観を完成させることにあったと考えられる。
斎藤氏によると、晩年のマルクスはかつてあった構成員全員が土地や森林などのコモンを共同所有することによって大地にやさしい定常型の脱成長コミュニズムを研究するために亡くなるまでの数年を送ったのだと言うのである。現代の「人新世」における地球温暖化などの自然環境破壊をこれ以上進行させないためにも、今こそ、大いなる自然と共生共存していた原古の共同体の研究をしていた晩年のマルクスの諸作業を掘り起こすことによってマルクスを再生復活させなければならない、斎藤氏のこの間の試みはすべてこの一点に集約できる。
的場浩司氏も斎藤氏と同じように言う、「マルクスの1870年代以降の態度の変化と研究の変化をマルクスの研究ノートの編集が新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)の中で進められている。マルクスのアジア、ロシアに対する視点の変化について、この時代のマルクスの研究ノートは重要な示唆を与えているといってよいかもしれない」、と。
1991年ソ連邦崩壊を転機に「死せる犬」としてマルクスを扱う“送葬派”に対して、ほとんどすべてのマルクス思想を研究している――むしろ、大学でマルクス研究を飯のタネにしている──“再生派”は、マルクスはその西欧中心主義的な世界把握や単線的歴史観を1881年の「ザスーリチへの手紙」において決定的に放棄し、その後のマルクスが本来のマルクスなのだ、と言い募るのを常としている。(斎藤氏を絶賛している佐々木隆治氏――彼はこの1月『なぜ働いても豊かになれないのか―マルクスと考える資本と労働の経済学』という新著を出しているが、それは12年前の『私たちはなぜ働くのか』という著書に若干加筆修正したもので、相も変わらず前著と同様、「マルクスは(資本という)物象の力を弱め労働の自由を拡大する」手段として、「第一に労働時間の短縮、・・・第二に生産の私的性格を弱める」こと、「第三に、労働者の生産手段にたいする従属的な関わりを変容させていくことである。・・・賃労働においては、このような生産者と生産手段の自由な結合の可能性は剥奪されているが、部分的に取り戻すことが可能である。それは、現代では、労働組合による経営権への関与というかたちで実際に実現されている」(p.219~224)と言うのである、なんという能天気な物言いだろう――もその仲間で、彼らは構造改革的な「アソシエーション」という言葉を好んで多用する特徴がある。)まったくもって、「小さな親切、大きなお世話」なのだ!
(党友からの投稿)マルクスは「オリエンタリスト(西欧中心主義者)」だったのか