敗戦記念日について想う

  8月15日は敗戦71年の“記念日”です。記念日だと言うのは、ブルジョア帝国主義戦争の挑発者としての、日本の天皇制軍国主義の国家が敗北し、解体された日だからであり、日本の労働者、勤労者の闘いによってではないにしても、天皇制ファシズムの体制が解体し、日本の労働者、勤労者の歴史的な闘いが始まった日だからです。

 ブルジョア自由主義的マスコミや世論は、戦争や原爆の「悲惨さ」を叫び、「戦争は二度と繰り返してはならない」、平和憲法を守れと叫んでいます。しかし彼らは15年戦争や原爆の悲劇――労働者、勤労者にとっての悲劇――をもたらした原因や根源について、それがどんな階級や勢力の罪であり、犯罪であったかについては一切語らず、抽象的に「平和」だ、「戦争に反対だ」と叫んでいます、そして憲法を守れば平和が保たれるかの幼稚な幻想にしがみつき、ますます進むべき道を見失っています。

 オバマが広島にやってきたから、何か平和が保障され、日米のわだかまりが薄められたとかいう向きもありますが、日米の関係だけとっても、安倍政権や反動はオバマの広島訪問によって、むしろアメリカ原爆投下という犯罪が客観的に明らかになった、アメリカの明確な謝罪も近いなどと幻想するのですから、「わだかまり」はかえって強まったとさえ言えるのです。

 そして安倍政権は、一層自信を深め、自らの国家主義の路線につき進もうと策動するのですから、オバマの広島訪問で平和や核兵器の廃絶が近づいた、等と評価する自由主義的、市民主義的諸君の甘さや幻想はどうしようもありません。

 “戦争犯罪人”の一家の連中が(天皇一家や岸信介の係累たちが)、何百万、何千万の日本とアジアと欧米の労働者、勤労者の死に責任を負うべき連中、支配階級の一家の連中が、平和についておしゃべりし、平和主義の代表であるかに振る舞う偽善が、日本中にはびこっています。

 そして彼らはかつての日本の天皇制ファシズムの軍国主義を美化し、正当化して、またまたそんな国家を生み出そうと策動を強化しているのです。抽象的で無力な平和主義者や空虚な“純粋”民主主義者とは手を切って、断固たる階級闘争の道を歩むべきときです。