マルクスが若い時に書いた職業選択についての論文を紹介
神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第49号で、幸徳秋水の『死刑の前』を論じる中で、マルクスが若い時に書いた職業選択についての論文が紹介され、興味深い内容ですので紹介します。筆者が『死刑の前』を取り上げたのは、幸徳秋水という明治の社会主義者の死生観や人生観にとどまらず、ひろく社会変革を志す人間に共通な思想を示唆しているということで取り上げています。『死刑の前』は中央公論社版の「幸徳秋水」(『日本の名著』44)に所収されています。(担当)
幸徳秋水『死刑の前』(下)
※(上)は『死刑の前』の内容紹介が主ですので省略します。
幸徳の『死刑の前』は、幸徳の研究家の神崎清氏によれば、大逆事件の被告の多くの手記が東京監獄で押収されて行方へ不明になっていたが、太平洋戦争後に奇跡的に発見され、我われの目に触れるようになったということである。
前号で述べたように幸徳は、その第 1 節で、死刑を前にして、今の自分にとって「死刑は何でもないのである」と述べ、第2節以下でその理由を展開している。まず幸徳は、師の中江兆民以来の唯物論(当時にあっては極めて珍しい)を展開している。
つまり、死は、「人間の血肉の新陳代謝がまったく休んで、形体・組織が分解されるのみではないか。」
形成されたものは、必ず消滅する、始めがあるものは必ず終わりがある、と喝破する。
それゆえ、誰もが死が遅かれ早かれ訪れることを知っているし覚悟もしているが、それにもかかわらず、なぜ死を恐れるのか?
それは、死そのものを恐れるのではなく、死にまつわる他のこと――例えば死の苦痛、一人で死ぬ不安、残す財産、妻子等々――が、死の恐怖の原因となっているからである。これらのものは死ぬ本人にとっては、存在しないものである。
それが証拠に、本人に、もしこれらのものを凌駕する事情、例えば、恋愛や名誉、あるいは自由などの理想があれば、人はこれらのために、進んで命を投げ出すではないか。要するに、死そのものは問題ではないのであり、問題は、いかにして死ぬか、いかに生を送るか、ということなのである。
第3節で幸徳は、今日の社会では、大部分の人が、過度の労働や栄養不足、また環境の悪化等で、天寿を全うするのは困難である、と働く者の生きることの困難さを指摘する。人びとの死の多くは、老衰による自然死ではなく、病死や事故死による”不自然な死“である。それでは、長生きして自然な死を迎えるのがいい、というのであろうか?
しかし、それは違うと幸徳は言うのである。大事なことは、いかなる死であっても、自分が満足と幸福を感じて死ぬことにある。その生においても死においても、自己の分相応の感化・影響を社会に与えることにある。短命に終わっても生死を超脱して、少なからぬ社会的価値を与えた多くの人々がいたではないか。
第4節では、長寿を得ても、必ずしも幸福や満足を得ないこと、むしろ、社会的価値を残したものには短命だったものが多いこと、そして最後の第5節では、刑死が恐れられるのは、極悪人・重罪人が多いからであるが、しかし、刑死した者には、また敬うべき,尊とぶべき、歴史に残る人も多かった。私自身がどちらであるかは、私が論ずべきことではなくて後世の歴史が判断することである。私は、私の人生を十分の満足と安心をもって死ぬ。今や、その時である。ここで、彼の『死刑の前』は終わっている。
幸徳が、一貫して主張していることは、ただ生きるということではなくて、その生が充実したものでなければならない、ということである。充実と言っても、アナーキストの大杉栄がいうような個人主義的な、本人だけの“生の充実”ではなく、その内包は社会的な価値を持ったものであったかどうか、ということである。私は、ここでマルクスが、若い時に書いた職業選択についての論文を思い出した。そこでマルクスは次のように書いている。
「しかし、職業の選択に際して我われを導いてくれなければならぬ主要な導き手は、人類の幸福であり、我われ自身の完成である。これら両方の利害が互いに敵対的にたたかいあうことになって一方が他方を滅ぼさなければならないのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである。
……我々が人類のために最も多く働くことのできる職業を選んだとき、重荷も我われを屈服させることはできないであろう。なぜなら、その重荷は万人のための犠牲に過ぎないからである。またその時、我われは、貧弱で局限された利己主義的な喜びを味わうものではない。」(全集40巻)
これを書いたときマルクスはまだ17歳であるが、自己の完成は同時代の人々の完成や幸福のために働くことによってのみ達成されると述べている。自己の完成と社会的価値のために働くこととは、(一般に考えられているように)矛盾するどころか、両者は同一のものであり、それこそ狭い利己主義を克服できる道である、というのである。
後年のマルクスが、唯物史観に到達するはるか以前に、若干17歳の若者がここまで考えたとは驚きである。その後のマルクスは、社会的価値つまり社会主義のための長寿(と言っても65歳だが)を全うしたが、幸徳は、同じく社会主義実現のために闘いながら、39歳という短命に終わった。両者ともに、社会主義という社会的価値を実現するために闘うことが、利己主義的な幸福を超えて自己の完成につながるということで一致しているのである。
人間は「社会的な動物」(もともとは「ポリス的な動物」)とアリストテレスは言った。まず社会があって、そこに人間が生まれてくるのである(マルクスは、それをより厳密に「一定の生産関係の中に」生まれる、と言っている)。人間は本来社会的な動物なのだから、自己の生命や性格も社会によって基本的に作られるものであるがゆえに、人間の社会性・共同性を資本主義社会の止揚によって回復しなければならないというのである。
近代以前は、個人より前に共同体があったのであり、共同体のために生きることは当然とされてきた。個人と社会が分裂し、個人の幸福や利益を優先する個人主義、利己主義が現れるのは、商品経済が発展する近代以降のことである。死に対する恐怖も死そのものに対する恐怖というより、利己的恐怖、自己愛の現れにすぎない。生命を自分だけの生命と思えば、実存主義者のカミユのように自殺を賛美したり、サルトルのように“生”に嘔吐したりすることになる。
幸徳やマルクスは、資本主義の発展から生まれてきた個人主義、利己主義を克服・止揚する道を社会主義実現のために闘うことに求めたのである。幸徳自身は、「死刑を前」にして、明治政府の厳しい弾圧の中で社会主義のために精一杯(分相応に)に闘ったことによって、満足と安心立命の境地を獲得した。潔く死刑を甘受しようというのが、幸徳のみごとな達観であった。(K)
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横浜労働者くらぶ学習会案内 ― 2月の予定
◆『プロメテウス』63号(全国社研社刊)学習会
日 時:2月12日(水)18時30分~20時30分
場 所:県民センター703号室
学習範囲:特集「斎藤幸平“理論”を撃つ」の2論文
◆マルクス主義学習会 ~エンゲルス『空想から科学へ』
日 時:2月19日(水)18時30分~20時30分
場 所:県民センター70 3号室
学習範囲:第3章「資本主義の発展」
◆『資本論』第1巻学習会
日 時:2月26日(水)18時30分~20時30分
場 所:県民センター703号室
学習範囲:第23章3節「相対的過剰人口または産業予備軍」~5節d「恐慌が労働者階級の最高給部分に及ぼす影響」まで
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