労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

「資本論」学習会の議論から

憲法第1条はなぜ「国民」ではなくて「天皇」か

神奈川で『資本論』などの学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」が5 22 日に発行した「労働者くらぶ第41号」で、憲法第1条が「天皇」であることについて論じています。興味深い内容ですので紹介します。(担当)

 

「第1条 なぜ国民ではなくて天皇か」

 

憲法記念日の朝日新聞朝刊の読者欄に「憲法と私たち」という特集があった。その一つに上記の見出しがついた珍しい投稿があった。

 「憲法の第1条に天皇の地位は『主権の存する日本国民の総意に基づく』とあることが、私はずっと気になっていた。国民の総意と言うが、私はこれまで一度も天皇制についてどう思うかと問われたことはない。…何年か前に憲法学者の講演を聴きに行った。『なぜ憲法の第1条が天皇なのか』という私の質問に『戦争の反省から、まず天皇についてしっかり定めておくことが大事と考えたから』と答えがあったのだが、物足りなく感じた。天皇よりまず国民が大切なのではないだろうか。…まるでタブーのように天皇制について誰も気さくに語り合わないことがかえって薄気味悪い。」(無職 愛知県 79 歳)

 

★「戦争の反省」は本当になされたのか?

 

珍しいというのは、自民党でさえ政党活動費の公表が「政治活動の自由」の制限になるというほどの、この“自由な”国において、このような天皇制についての投稿にめったに出会わなかったからである。この筆者の意見は全く当然である。民主主義の、国民主権の国の憲法の初めに、どうして国民ではなく天皇が来るのか?これでは、日本の主権者は国民ではなく天皇になってしまうではないか、投稿者は、そう思っているのである。

 

それに対して学者先生は、「戦争の反省から、まず天皇から定めた」というのであるが、一体その反省とはどうゆう反省だったのか? あの戦争が「天皇の名」においてなされたことは誰でも知っていることであり、天皇は神聖不可侵の絶対的な主権者だったのである。その彼は、敗戦が明確になってから2年間も戦争を継続し、それによって東京大空襲、沖縄戦、広島長崎の原爆投下を招き、何百万の人命を犠牲にしたのである。

 

天皇の責任は明らかだ。こうゆう意見に対して、昭和天皇は軍部ファシスト

や資本の傀儡にすぎず、本当は平和主義者だったとして天皇を擁護する意見が、マスコミや言論人によって喧伝されている。しかしこのような天皇弁護論は、少し歴史を紐解いてみれば、全く事実に反することがわかる。

 

戦前の天皇は積極的に内閣の人事に口出しし、少なくとも敗戦の色が濃くなるまでは戦果を喜ぶ好戦論者であった。仮に彼が軍部の傀儡であり平和主義者であったとしても(事実ではないが)、統治権の総攬者であると憲法で規定されている本人が、退位や譲位もせずに戦前と同じ天皇の地位に留まるというようなことは、恐るべき厚顔無恥、道徳性の無さと言えるのだ(第1次、第2次世界大戦後、敗戦国の君主は退位どころか君主制そのものが崩壊している)。

 

企業のちょっとした不法行為や不祥事でも会長や社長が引責辞任するのを考えてみれば、いかに昭和天皇が恥知らずな存在であったかが分かる。学者先生が「戦争の反省から」というならば、あの戦争の最高の責任者としての天皇の責任こそ問われなければならないのである。

 

★民主社会においては君主制は矛盾である!

 

一体だれが“反省”したのか?少なからぬ国民は、もう天皇のための戦争は沢山だ、天皇もいらないと反省した。ところがソ連をはじめ連合国の多くの、また少なからぬ世論の天皇制廃止論を無視して、天皇制を存続(昭和天皇の退位すら求めず)させたのは、天皇制に戦後支配の利用価値を見出していたマッカーサーであった。

 

自民党は、現在の憲法は押し付け憲法であるから自主憲法に変えねばならないとしているが、この象徴天皇制については、押し付けられたとは感じていないらしい(よくぞ残したと喜んでいる)。そもそも民主主義(議会制)と君主制(封建制)とは水と油であり、立憲君主制といったものは両者の妥協の産物、矛盾そのものなのだ。

 

一体、天皇とか皇族と言ったものは、我われと同じ国民なのかどうか、一般の国民を“民間”と呼ぶ以上、天皇や皇族は特別の存在、聖家族であるのは間違いない。フランス革命の国王裁判において、ジャコバン党のサン・ジュストは、市民社会において国王はその存在自体が悪である、と断罪した(そして断首された)。矛盾は解消されねばならないのであり、矛盾だらけの天皇制も消滅するのが歴史の必然である。

 

★日本資本主義の帝国主義化は天皇制イデオロギーを強化する!

 

国会では、またまたくだらない皇位継承の議論が始まるようである。 自民党は皇位の安定的継承を目指すというが、男系男子か女系天皇でもいいのか、女性皇族は結婚で皇籍を離れるか否か、旧宮家の復活はどこまでか等々、馬鹿げた議論が繰り返されることになる。

 

驚くべきことに国会の全政党が、天皇制の存続を前提に、国民主権もそっち抜けにして、いかにして皇位を継承させるかを議論しているのだ。戦前から天皇制の廃止を主張してきたマルクス主義の(エッツ!)日本共産党は、現憲法を絶対視し、女性天皇を認めたうえで、天皇制の存廃については将来の「国民の総意」によるとして大衆追随主義(いつものことだが)に堕している。

 

国民の多くは、明日、天皇制が廃止されても 戦前と戦後の変化ほどの関心も示さないだろうが、しかし、軍事予算は前年比 16%増の7兆9千億円となり、日本資本主義の帝国主義化がすさまじい勢いで進んでいる今日、天皇制イデオロギーの果たす役割はますます必要となっている(戦前の轍を踏むな!)。

 

日本の労働者は、天皇制の強化に断固として反対すると同時に、その策動を強める日本帝国主義に反対して闘わなければならない。(K)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内6月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

6 月26 日(水)18 30 分~20 30 / 県民センター703 号室

*第13 章第 1 節「機械装置の発達」から第第 3 節「機械経営の発達」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

6 12 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*第 7 章「回転期間」から第9章「前貸資本の総回転」まで学習します。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

6 月19 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*論文「われわれの革命について」他論文を読みます。

 

横浜労働者くらぶ連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

労働者くらぶ Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

 

柄谷“理論”は正しいか?――「“交換”こそが『資本論』の中心」?

神奈川で『資本論』などの学習活動をしている『横浜労働者くらぶ』の会報で、宇野弘蔵を高く評価する柄谷行人氏について、その非マルクス主義を指摘する論評が掲載されています。『資本論』の理解の一助になると考え、紹介します。(担当)―—会報での文章を一部校正しています。——

 

「“交換”こそが『資本論』の中心」!?

― 柄谷“理論”は正しいか?―

 

先月の『資本論第2巻』学習会で、Hさんが、朝日新聞(3 13 日朝刊)で、柄谷行人氏が「“交換”こそが『資本論』の中心」だ、と述べていると紹介された。私はそれを読んでいなかったが、マルクスの経済学は、生産こそ経済の土台であり生産関係によって流通の在り方も決まる、交換が中心というのはおかしい、と意見を述べた。家に帰って早速当日の新聞に載っていた柄谷氏の「私の謎 マルクスの可能性 上」を読んだ。これまで私は、柄谷氏の著作を読んだことがなく、以前週刊文春(2023.1.512 合併号)で池上彰との対談とこの朝日の連載記事でしか氏の理論を知らなかったが、それでも氏の理論は非常に問題があると感じていた。柄谷氏の著作も読まないで氏の理論を論評するのは、無責任のそしり

を免れないが、文春と朝日の対談で知ることができる限りで氏の理論を見てみたいと思う。

 

★宇野派に無批判に追随!

 

氏は昨年の同じ連載の「マルクスの本領 上」(23.8.9)で次のように述べている。「一番よく読んでいたのは、マルクス経済学者の宇野弘蔵です。『経済原論』など、入学して早速買いましたね。」「この本(鈴木鴻一郎(宇野派)の『経済学原理』)は、宇野の考えをさらに進めて見事にまとめている、『資本論』のことが初めてよく分かった」。

 

これを見てもわかるように柄谷氏は、あまりにも無邪気に宇野派の資本論理解を正しいものとしている。しかし当時においても宇野派の資本論理解には多くの批判があった。柄谷氏はそれらを検討したのだろうか? 宇野派に対する批判には触れておらず、到底そのようには思えないのである。

 

★史的唯物論はマルクスのものではない?

 

「マルクス主義の主流派は、『資本論』は大事だと言うけれども、あくまで<史的唯物論>が基礎にある。 <史的唯物論>は、元来エンゲルスが考えたようなもので、マルクスの思想とは言えない。一方、宇野派は『資本論』を緻密に再構成したのです。」

 

ここで氏は、何の根拠もなく突然、マルクスと史的唯物論(唯物史観)を切り離し、史的唯物論をエンゲルスの創始であるかに(一部のインテリも言っているが)語っている。

 

しかし史的唯物論は、エンゲルス自身が、「唯物論的な歴史観は、私ではなくてマルクスが発見したもの」(『ドイツ農民戦争』序文)と述べ、またマルクス自身も、唯物史観を“導きの糸”にしたと語っている(『経済学批判』序文)ように、唯物史観はマルクス主義の剰余価値論と並ぶマルクスの二大発見である(『空想から科学へ』)。しかし史的唯物論については、ここでは問題から外れるので問題にしないでおこう。

 

柄谷は「宇野派は『資本論』を緻密に再構成した」というが、これは宇野が、ウェーバー流に資本主義の理想型、つまり、資本主義が永遠に自己運動するという、いわゆる“純粋資本主義”なるものを考えたことを指している。こうして宇野は、『資本論』から、資本主義の生成、発展、没落を説く史的唯物論を余計な物、単なるイデオロギーとして排除したのである。柄谷の理論はあまりにも無批判に宇野派に追随しているのだ。

 

★「交換の謎」「交換の物神の力」など

―― “交換”を呪物化!

 

柄谷理論の中心は“交換”である。柄谷は次のように述べている。「『資本論』において着目すべきなのは、物の交換がもたらす観念的な力(物神)だということです。しかし、従来のマルクス主義では、”中心”は史的唯物論、つまり生産様式にあると考えられていて、”交換”の問題は”周辺”に追いやられてほぼ無視されていた。僕はそれを前面に出したんです。」(23.8.9)「<物神>という考えは、マルクスの冗談だと受け取られていました。…しかし、僕は、マルクスは本気で物神のことを考えた人だと思った。マルクスこそ、交換の謎を見ていた、と。

 

柄谷はここで、交換を何か生産様式と対立する別個の存在として考えているようだが、エンゲルスが「唯物史観は、次の命題から出発する。すなわち、生産が、そして生産の次にはその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であるということ」(『空想から科学へ』)あるいはマルクスが「生産者たちが相互に取り結ぶ社会的関係、そのもとで彼らがその諸活動を交換しあうことによってのみ、生産する」(『賃労働と資本』)等と述べていることから明らかなように、決して交換は生産と切り離されたものではなく生産様式の一部であり、生産関係そのものなのである。

 

柄谷は、「マルクスも労働価値説を引き継ぎましたが、彼の独自性は、商品と商品との交換様式から価値を考えたところにある。宇野や宇野派はこのことをつかんでいたと思います。この交換にはマルクスの言うところの<物神>(フェティッシュ)の力が関わっている。」(23.8.9) 柄谷は、「マルクスの独自性は、商品と商品の交換様式から価値を考えたところにある、宇野や宇野派はこのことをつかんでいた」というが、いったいどうゆう意味か?

 

マルクスは、交換様式から価値など考えたりしていない。彼は、単純な商品において、人間の欲望や使用価値を捨象して、抽象によって価値の実体を把握したのである。また、宇野や宇野派が「交換様式から価値をつかんでいた」というのは、宇野が、物々交換から始まって資本主義的商品の交換に至るまでの商品経済の発展が価値の実体を明らかにした、などといって宇野が抽象を否定したことを指しているのか?

 

柄谷の宇野への追随は限りがない。さらに柄谷は、ここで「交換の謎」とか、「交換のもたらす観念的な力」、「物神の力」などと述べているが、それが何であるか一向にはっきりしない。商品の物神性とは、生産物が商品になることによって抽象的人間労働が価値として現れ、その価値を、商品があたかも自然的属性のように持っているように見えることを言うのである。

 

「交換の謎」とか「交換の物神の力」などと交換に何か呪物性があるかに語っているが、マルクスが商品の物神性に似たものとして宗教を例示していることに暗示を受け、柄谷がこじつけたのだろうか?

 

★商品には価値が内在しない!?

 

さらに柄谷は次のように述べる。「いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”をはらんでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから」と。

 

しかし、商品が「価値をはらんでいない」、「価値が内在していない」としたら、価値が交換価値として現象することはないし、商品交換も生じない。柄谷は、物神性の”錯覚“がどこから来るのか分かっていないのだ。

 

マルクスは、次のように述べている。「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎に満ちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。」(岩波第1分冊p131)つまり抽象的人間労働は、生産物の歴史的形態である商品形態において価値として現象するのである。

 

★価値は「異なる価値体系間の交換から生まれる」!?

 

では、商品に価値が内在することを否定した柄谷は、どこに価値の創造を求めるのか? 柄谷は、価値は異なる価値体系との交換から生じるなどと、とんでもないことを言い出す。彼は、対談者が、「たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますよね。」ということばに答えて、次のように言う。「産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆に言うと、交換が成立しなければ、商品に価値がない」(24.3.13)と言う。

 

これは大変な商品価値の理解である! 柄谷は「交換が成立しなければ、商品に価値がない。」というが、そもそも商品は他の商品の存在とその交換を前提にしているのだ。柄谷にとって、価値とは抽象的人間労働が対象化されたものではなく、単なる“利益”にすぎない。柄谷のいう価値体系は、「場所や時代によって変わる」“値段”体系に過ぎず、「異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む」というものなのだ。

 

ここでは、価値と利益は同じものとされ、産業資本(商人資本はともかく)は、「異なる価値体系間の交換から価値を生み出す」と言うのである。産業資本は商人資本と同列に置かれ、剰余価値を労働者から搾取し利潤を生みだすのではないかに言う。商人資本と同じく「詐欺、瞞着、略奪」から利益を生み出すかに言うのである。

 

もう沢山である。初めに断ったように私は柄谷氏の著作を読んでいないが、朝日新聞の対談だけで以上の感想を持った。氏は、珍奇な宇野理論を正しいと思い込み、自分に都合の良い部分をとっているだけである。改めて氏の著作を読む気も失せてしまった。(K)

 

『労働者くらぶ』通算第40号2024424日『横浜労働者くらぶ』発行

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 5月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・5月22日(水)18 30 分~20 30   / 県民センター703 号室

*第12章第3節「工場制手工業の二つの基本形態」から第13章第1節「機械装置の 発達」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・5月8日(水)18 30 分~20 30 県民センター703 号室

*第 8 章「固定資本と流動資本」から第10章「固定資本と流動資本にかんする諸理 論」まで学習します。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

・5月15日(水)18 30 分~20 30 / 県民センター703 号室 *論文「青年同盟の任務」他2篇を読みます。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く! ②

政治不信が高まる中で、「金権政治も必要悪として我慢するしかない」というような“民主主義”に対して、神奈川で『資本論』などの学習活動をする『横浜労働者くらぶ』の会報で、「ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!」と題して2回目がでましたので、紹介します。(担当)

 

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!

 レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を読もう!

 

★秩序とはブルジョア秩序である!

2章は、「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」と題されています。レーニンは続けて次のように述べています。

「いろいろな階級が存在する間は、『純粋民主主義』について語ることはできず、階級的な民主主義について語りうるだけであるのは明らかである。」「近代の代議制国家もまた、資本が賃労働を搾取する道具である」というエンゲルスの言葉を引用しながら、レーニンは続けます。「近代国家の基本法を取り上げてみたまえ。その統治ぶりを取り上げてみたまえ。『法律の前での市民の平等』を取り上げてみたまえ。― そうだとすれば、諸君は、ブルジョア民主主義の偽善を、一歩ごとに、どの国家にも見出すであろう。どんな民主主義の国家であろうと、『秩序が破壊された場合に』 ―― 実際には、被搾取階級が自分の奴隷的地位を『破壊し』、非奴隷的にふるまおうと企てた場合に、労働者に軍隊をさしむけたり、戒厳を宣告したり、等々をする可能性をブルジョアジーに保障している抜け道または但し書きが、憲法の中に設けられていないような国家は、一つもない。」

 

つまり、秩序とは、ブルジョア社会である限り、ブルジョア的秩序のことなのである。国内においてのみならず、国際関係においても秩序とは、ブルジョア国家同士の秩序である。ロシアの十月革命を、世界のブルジョア国家が寄ってたかって圧殺しようとしたことを思い出せばよい。

 

★ブルジョアはあらゆる手をつかって労働者の政治参加を排除する!

レーニンは続ける。「カウツキーは、民主主義は『少数者の保護だ』といったおとぎ話をする。」しかし、カウツキーは、「アメリカまたはスイスのもっとも民主主義的で共和主義的なブルジョアでさえ、ストライキ労働者に対して何をやっているかについては、口をつぐんでいる。…あらゆる重大な、深刻な、根本的な問題のさいにプロレタリアートに与えられるのは、『少数者の保護』ではなくて、戒厳令あるいはポグロム(注、財産の掠奪や大量殺人を伴う反動的な襲撃)であるということである。」(同、p34) 

 

カウツキーは、マルクス主義の基礎である国家の階級性を忘れているのである。「ブルジョア民主主義の下では、資本家は何千というトリックで ―― 『純粋』民主主義が発展していればいるほど、ますます巧妙で効果の確実なトリックで ―― 大衆を統治への参加から押しのけ、集会・出版などの自由から押しのける。……ブルジョア社会への参加を、勤労大衆は何千という垣でさえぎられている。そして労働者は、ブルジョア議会が、無縁な施設であり、ブルジョアジーがプロレタリアを抑圧する道具であり、敵階級である少数の搾取者の施設であることを、素晴らしくよく知っており、感じており、目で見、肌で感じている。」(同、p36)「我々を統治しているのは、ブルジョア官吏、ブルジョア代議士、ブルジョア裁判官である。これは簡単明瞭で、争う余地のない真理であって、最も民主的な国をも含む、あらゆるブルジョア国で、被抑圧階級の何千万、何億の人々が、自分の生活上の体験でこれを知っており、日々これを感じ、肌で感じ取っている。」(同、p37

 

日本の労働者も「これを肌で感じ取って」ほしいのだが。

 

★ブルジョアの平等や自由は口先だけの、形だけの平等や自由だ!

第3章は、「搾取者と被搾取者との平等はありうるか?」である。 レーニンは、そのような平等はない、という。ところが、純粋民主主義者であるカウツキーは、パリ・コンミューンについて被搾取者が多数を占めているコンミューンにどうして暴力が必要なのか、と暴力を批判するのである。彼は、コンミューンは「民主主義を廃止するためにではなく、それを保護するためにしか、暴力を行使しないであろう。……普通選挙権を廃止しようとするならば、それはまことに自殺行為であろう。」と言う。搾取者は少数者であるのだから、多数者である被搾取者に従うべきである、搾取者にも民主主義を保障すべきだ、なぜなら権力が被搾取者の多数者にあるからには、少数者を暴力的に抑圧する必要はない、というわけである。

 

見られるように、このカウツキーの反論には、搾取者、支配者と被搾取者、被支配者との階級関係は全く存在しない。あるのは、多数者と少数者という、単なる数だけである。これに対しレーニンは次のように反論する。

 

「民主主義の『純粋』さにほれ込んだカウツキーは、形式的な平等(資本主義の下では徹頭徹尾いつわりで偽善的な平等)を実際の平等と思っているのである! 全く些細なことだ! 搾取者は、被搾取者と平等ではありえない。」(同、p40) 「ごくまれな特別な場合を除けば、搾取者を一挙に絶滅することはできない。……多くの世代にわたって、教養の点でも、豊かな生活の条件の点でも、習性の点でもまさっていた搾取者と、最も進んだ、最も民主的なブルジョア共和国においてさえ、その大多数が虐げられ、無知無学で、おどしつけられ、ばらばらである被搾取者との間に、平等はあり得ない。搾取者が、変革の行われた後でも、長い間多くの点で大きな実際上の優越を保つことは、避けられない。すなわち、搾取者には、貨幣(貨幣を一挙に廃止することはできない)や、なにがしかの、時にはかなり多額の動産が残っており、手ずるや、組織と管理の技能や、管理のあらゆる『秘訣』(習慣、方法、手段、可能性)についての知識が残っており、より高い教養や、高級技術家連(ブルジョア的に生活し、ものを考える)との緊密な連絡が残っており、はるかに大きな軍事上の技能(これは非常に重要なことだ)、その他いろいろなものが残っている。」(同、p41

 

★ブルジョアジーは死に物狂いでその支配権力を守るであろう!

「こうゆう事情であるのに、いくらかでも深刻で重大な革命の際に、多数者と少数者との関係がいとも簡単に問題を決定すると予想するのは、この上ない愚鈍さであり、ありふれた自由主義者の愚劣極まる偏見である。……あらゆる深刻な革命の際には、なお幾年かの間被搾取者に対して大きな実際上の優越をもつ搾取者は、長期の、頑強な、死に物狂いの抵抗を行うのが通則だということである。甘ったるいばかものカウツキーの甘ったるい空想の中ででもなければ、搾取者が、最後の必死の戦闘、あるいは一連の戦闘で自分の優越性を試してみずに、多数者である被搾取者の決定に服従することは、決してないのである。」(同、p41) カウツキーは、民主主義と独裁を対置し、独裁は民主主義を否定するものだ、という。レーニンは、それに対して、選挙権のような民主主義を制限する問題は、独裁の民族的に特殊の問題であって、ヨーロッパの来るべきプロレタリア諸革命がみな、あるいはその大多数が、ブルジョアジーの選挙権に必ず制限を加えるだろうと、前もって断言するのは誤りであろう。そうなることもありうる。戦争とロシア革命の経験を経た後では、おそらくはそうなるであろうが、しかし、それは、独裁を実現するために必須のものではない。独裁の不可欠の標識、その必須の条件は、階級としての搾取者を暴力的に抑圧することであり、したがって、この階級に関しては『純粋民主主義』、すなわち平等と自由を侵犯することである。」(同、p43

 

★ブルジョア民主主義の幻想から目を覚まそう!

レーニンからの引用ばかりになりましたが、レーニンは労働者に、噛んで含めるように、そして火のような情熱をもって「純粋民主主義」の欺瞞性を暴いています。『背教者カウツキー』は、なお第 8 章まで続きます。皆さんには、ぜひ本書を最後まで読まれて、レーニンのプロレタリア民主主義とプロレタリア独裁の理論を学んでほしいと思います。(K)

 

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

4月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・4月24日(水)19 時~21 / 県民センター703 号室

*第9章「剰余価値の率と剰余価値の量」から、第4篇「相対的剰余価値の生産」

第12章第2節「部分労働者とその道具」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・4月10日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*第5章「流通期間」から、第2篇「資本の回転」第7章「回転期間と回転度数」まで

を読みます。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

4 月17日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*論文「帝国主義と社会主義の分裂」他2篇を学習します。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!

政治不信が高まる中で、“民主主義”である日本だから、「金権政治も必要悪として我慢するしかない」というような“民主主義”について、神奈川で『資本論』などの学習活動をする『横浜労働者くらぶ』の会報で、「ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!」と題して論じていますので、紹介します。(担当)

 

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!

 レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を読もう!

 

★ 朝日の投書(1月25日朝刊)

政治パーティー券の裏金づくりに端を発した政治不信は高まっていく一方である。朝日朝刊(1月25日)の投書は次のように怒りをぶつけている。「この怒りは何だろうか。私たち市民だけでなく、公明党も野党も、もっと怒るべきだ。暴れるほどの強い行動が必要だと思う。」(見出し、「絶大な政治不信、もっと怒ろう」) この筆者の怒りは頂点に達している。その怒りは連立を組む公明党ばかりでなく、国民の怒りを内閣打倒や政権交代に結び付けることができない不甲斐ない野党にもおよび、国民に暴力的な行動まで呼びかけているのである。こうした政治と金、派閥の解消等の問題は戦後何度も繰り返されてきた。そこから生じる政治不信は、とりわけ日本では国際的にも高い水準にあるという(1月25日朝日朝刊)。「国の政策に国民の考えや意見が反映されていると思うか」という質問で、「あまり、あるいはほとんど反映されていない」と答えた割合が、現在リクルート事件が発覚した88年度の63%とほとんど同じになっている(民主党政権誕生の直前の09年1月では807%に達したという(内閣府調査))。これは驚くべき数字であり、国民が政治に期待していないという事実が浮き彫りになっている。

しかし、この政治不信、怒りを、どうすればいいのか? どう解決するのか? それについては投書の筆者も「この怒りは何だろうか?」と、政治不信について疑念を持つだけでなく、逆に「こんな政治家を選んだのは自分たちだけに、政治不信はつらく、悲しい。」と、自責の念(!)に駆られているありさまである。

★ 民主主義にも二通りある!

なぜ政治不信はくりかえされるのか? それは現在の政治が、支配階級の、金持ち階級の、資本家階級の政治であるからだ。労働者人民はそれを感づいてはいるが、社会全体が金で動いている社会なのだから(自分も金で動くか!)、妥協しあきらめているのである。したがって、政治不信をなくすためには、こうした金権社会を根本から変えなければならないのであるが、ここで障害が出てくる。それは“民主主義”である。日本には、習近平の中国とは違って、国民には選挙権も被選挙権もあるし言論や集会結社の自由もまあ保障されているから、金権政治も必要悪として我慢するしかないのではないか、というわけだ。しかし“民主主義”とはいかなるものであるか、ということを考えてみなければならない。”民主主義”にも階級性があり、したがってこの階級社会にも民主主義は2種類あるのだ。1つは資本主義社会の民主主義、つまりブルジョア民主主義であり、もう一つはプロレタリア民主主義である。本書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』は、直接にはプロレタリアート独裁を否定するカウツキーの日和見主義を批判した著作であるが、レーニンは、「プロレタリアート独裁はプロレタリア民主主義であり、ブルジョア民主主義よりも百万倍も民主的である。」として、ブルジョア民主主義の虚偽性を暴露している。ぜひ本書を読んでブルジョア民主主義の欺瞞性を知ってほしい。本書の国民文庫版は、すでに廃刊になって手に入りにくいので(もちろん全集や 10 巻選集で読めるが)、すこし詳しく紹介したい。

純粋民主主義民主主義一般は金持ち民主主義である

まず第1章(本書には章別はなく見出しだけだが)「カウツキーはどのようにマルクスをありふれた自由主義者に変えたか」では、レーニンは、「『民主主義的方法と独裁的方法』との『根本的区別』というカウツキーの大発見」を問題にする。カウツキーに対しレーニンは、「独裁」とは支配階級の独裁であり、ブルジョア国家はブルジョアジーの独裁でありプロレタリア国家はプロレタリアートの独裁である、として次のように述べている。「プロレタリアートの独裁の問題は、ブルジョア国家に対するプロレタリア国家の関係の問題であり、ブルジョア民主主義に対するプロレタリア民主主義の関係の問題である。」(10巻選集p21)カウツキーは、「ブルジョア民主主義という正確な階級的概念を避けて、『社会主義以前の』民主主義について語ろうと努めている。」つまりカウツキーは「18 世紀に顔を向けて、絶対主義や中世的制度に対するブルジョア民主主義の関係について百遍も言われた古臭いことを、その小冊子(カウツキー著『プロレタリアートの独裁』1918)のほとんど三分の一をブルジョアジーにはなはだ気持ちの良いおしゃべりでみたしている。」(同p21)つまりカウツキーは、封建制や絶対主義の時代に進歩的であったブルジョア民主主義を、20 世紀の帝国主義の時代に叫んでいるのだ。ブルジョア民主主義の歴史性をまったく無視しているのである。そのいい例が、いまのアメリカである。トランプのような極めつけの悪党が大統領に返り咲こうというのである。これがブルジョア民主主義のなれの果てである。誰がこんな民主主義を望むであろうか?


★ 資本主義社会はブルジョア独裁である!

さらに進んでカウツキーは、「マルクスは 1875 年に一度手紙の中でやったプロレタリアートの独裁という片言を」ボルシェヴィキが思い出したのだと述べて、マルクス主義にとって重要な概念である「プロレタリアート独裁」(マルクスは著作の随所でこれについて述べているのに)を、マルクスの単なる思い付きであったかのように述べたうえさらに、「残念なことに、マルクスは、彼がこの独裁をどう考えていたか、をもっと説明することを怠った。…文字通りに取れば、”独裁“ということばは、民主主義の廃棄を意味する。」(同)と述べるのである。このカウツキーの独裁と民主主義を対立させる概念の中には、マルクス主義者としての階級性は一切なく、単なる純粋民主主義者としてのカウツキーが現れているだけである。そしてカウツキーは、独裁とは「一個人の全一的な権力を意味する。」というのであるが、レーニンは、カウツキーに反対して、独裁は一握りの人間の独裁もあれば、寡頭制の場合も、一階級の場合もあるとして、次のように定義する。「独裁とは直接に暴力をよりどころにし、どんな法律にも拘束されない権力である。」「プロレタリアートの革命的独裁とは、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によってたたかいとられ維持され、どんな法律にも拘束されない権力である。」(同p25) レーニンは、カウツキーを次のように断罪する。「自由主義者ならば、『民主主義』一般をうんぬんするのは、当然である。マルクス主義者は、『どの階級のための?』という質問を提出することをけっして忘れないであろう。」(p24) レーニンは、カウツキーが、「マルクスが、イギリスやアメリカでは、平和的変革、すなわち民主主義的な方法による変革が可能だと考えていたことで、証明される。」と語っていることを引用し、レーニンは、カウツキーが、独裁を個人の権力を意味するというのは、プロレタリアートという階級の独裁を否定し、「平和的な変革、すなわち民主主義的な方法による変革」を考えているからであるとし、「ここに問題の眼目がある。すべての逃げ口上、詭弁、ペテン師的偽造がカウツキーに必要なのは、まさに暴力革命を拒否するためであり、自分が暴力革命を放棄したことを、自由主義的労働者の側へ、すなわちブルジョアジーの側へ移ったことを覆い隠すためなのだ。」(p28)と述べている。


資本家民主主義よ、さらば!

働く者の民主主義を実現しよう!

カウツキーは、自説を強調してパリ・コミューンをひきあいに出して次のように述べる。「パリ・コミューンは、プロレタリアートの独裁であったが、このコミューンは普通選挙によって、民主主義的に選出された。…マルクスにとっては、プロレタリアート独裁は、プロレタリアートが多数をなす場合、純粋民主主義から必然的に生まれてくる状況であった。」(p28) カウツキーは、何としてでもプロレタリアート独裁を純粋民主主義と結び付けたいのである。しかしエンゲルスは、パリ・コミューンについて次のように述べている。「革命は、たしかに、およそあらゆるもののなかで最も権威的な事柄である。革命は、住民の一部が、小銃や銃剣や大砲、つまりきわめて権威的な手段を使って、住民の他の部分に自分の意志を押し付ける行為である。…パリ・コミューンが武装した人民のこの権威をブルジョアに対して行使しなかったなら、それは、ただの一日でも持ちこたえたであろうか? それどころか、われわれはコンミューンがこの権威を行使しなさ過ぎたこと(注、ヴェルサイユへ即時進撃しなかったこと、銀行の接収を躊躇したこと等)で、責めてよいのではなかろうか?」(p29) エンゲルスは、ここで純粋民主主義など全く問題にしていない。問題は革命を成功させるか否か、ということである。1918年当時、ドイツなど西ヨーロッパ中が革命に沸き立っていた時に、カウツキーは、民主主義だ、多数決だなどとお説教を垂れるのであるが、第1次大戦の開戦直後に(1914 年8月)に、ローザ・ルクセンブルクが、ドイツ社会民主党(カウツキーはその理論的指導者の一人)は、いまや悪臭紛々たる屍である、と言ったのも当然である。

レーニンは第1章を要約して次のように述べている。「カウツキーは、プロレタリアートの独裁の概念をまったく前代未聞のやり方でゆがめ、マルクスをありふれた自由主義者に変えてしまった。すなわち『純粋民主主義』についての俗悪な文句をしゃべりたてて、ブルジョア民主主義の階級的内容を美化し、あいまいにし、被抑圧階級による革命的暴力をなによりも忌み嫌う、あの自由主義の水準に、彼自身ころがり落ちてしまった。」(p30

我々の周りには、純数民主主義者がうようよいる。純粋民主主義、一般民主主義に騙されてはいけない。労働者階級は、純粋民主主義=ブルジョア民主主義にたいし、働くものの民主主義を対置し、プロレタリア国家の実現をめざさなければならないのである。(第2章の「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」は次号に回します)(K)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 3月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・3月27日(水)19 時~21 / 県民センター703 号室

*第8章「労働日」第5節「14世紀から17世紀末」~第7節「イギリス工場立法」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・3月13日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*第5章「流通期間」~第6章「流通費」まで読みます。


◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

・3月20日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*論文「マルクス主義と改良主義」他3篇を学習します。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

イスラエルの軍事企業と契約した日本の軍事企業

神奈川県で『資本論』の学習会を行っている仲間の「横浜労働者くらぶ36号」で、日本の軍事企業について調べレポートしており、軍事強国化と闘う材料になると思いますので紹介します。(担当)

 

イスラエルの軍事企業と「武器の生産・販売取引」を契約した日本の軍事企業

 

日本は197年、当時の佐藤総理が「武器輸出三原則」を表明し、武器輸出を全面禁止してきた。

 

その内容は、(1)共産国、(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国、(3)国際紛争当事国又はそのおそれのある国に対しては、武器輸出を認めないというものだった。

 

しかし、日本の武器等の輸出を巡る方針は第二次安倍政権の発足以降、大きな転換を見せた。

 

2014 年に安倍政権が 「武器輸出三原則」を撤廃し、武器の輸出入を基本的に容認する「防衛装備移転三原則」を閣議決定してから、武器輸出の動きは加速した。

 

この背景は大学での軍事研究と武器輸出の国策化に対して、一貫して財界から強い要請があった。20159月、経団連は大学に対して「安全保障に貢献する研究開発に積極的に取り組むことを求め」、政府に対しては「防衛装備品の海外移転は国家戦略として推進すべきである」と主張して、軍事費の拡大と東アジア諸国などへの武器輸出の推進を強く要求した。

 

政府にはこうした輸出の促進を通じて、日本の防衛産業を強化するねらいがあった。防衛装備品の輸出が厳しく制限されるなかで、受注先が自衛隊にほぼ絞られて頻度も少なく防衛産業から撤退する企業が相次いでいる中、自衛隊の装備品の安定的な調達や整備にも支障が出かねないという危機感が政府にある。そこで海外への輸出拡大を進めて、市場を広げることによって防衛産業の衰退を防ぎたい思惑がある。

 

はじめての防衛白書第3には、「日本の防衛装備品の研究開発・生産・調達を安定的に確保し、新しい戦い方に必要な先端技術を防衛装備品に取り込むためには、日本の防衛生産・技術の基礎を確立することが大切です。/民間企業が積極的に防衛の仕事に携わってくれるよう、防衛事業が魅力的なものとなるよう防衛省も様々な取組をおこなっています。」と書いてある。

 

こうした中、世界最大級の防衛装備品の見本市「DSEIジャパン2023」が2023315日から17日まで、幕張メッセで堂々と開催された。

 

開催前には学者や市民らが反対の共同声明を発表していた。また「平和国家」を標榜する国で繰り返される武器見本市に批判が上がり、会場入り口には約四百十人の市民らが集まり「武器はいらない」と訴えた。

 

もともとは英国で2年ごとに開かれてきたが、日本では2019年以来2回目となる。今回は、米国やドイツ、イスラエルなど65カ国から250社以上が参加した。防衛省や外務省、経済産業省などが後援し、会場内には日本、英国、イタリアが共同開発する次期戦闘機の模型なども飾られた。

 

この見本市で、日本エヤークラフトサプライと伊藤忠アビエーションはイスラエル軍事企業エルビット・システムズ社と<武器部品の生産・販売に関する協力覚書>を締結した。

 

日本エヤークラフトサプライが生産や保守管理を担い、伊藤忠アビエーションが販売促進を行うという。

 

【エルビット・システムズ社とは】

エルビット・システムズ社は、国際的なハイテク企業で、幅広く、防衛、自国の安全保障、および世界中の商業プログラムに携わっている。同社は、空中、地上、および海中での無人システムのリーダー的企業で、Hermes 900 MALE UAV、先端的 ROOK 無人ロボット車両、および Seagull 無人軍艦プラットフォームを含むシステム・ポートフォリオを擁している。

 

モデルHermes 900 UAS は、さまざまな高性能センサーを装備しており、広いスペクトル域で地上や海の標的を検知できる。Hermes 900 は、地平線や水平線のかなたまで持続してマルチペイロード機能を提供しており、イスラエル国防軍(IDF)のみならず世界中で数十カ国が調達している。Skystrikerは完全に自律した徘徊型兵器(LM)で、操作者が指定した標的を特定、捕捉し、機体内部に装着した最大10キロの弾頭で攻撃できるため、高精度の成果が可能である。

 

エルビット・システムズ社は、ガザへのジェノサイドを強行しているイスラエル軍に武器を供給し、パレスチナとの戦いで、パレスチナ人を実験台にして武器を開発してきた企業である。

 

【日本エヤークラフトサプライとは】

  防衛・航空宇宙機器の輸出入及び、製造、修理を事業としている会社であり、以下の様な挨拶文がホームページに掲載されている。

 

「日本エヤークラフトサプライ株式会社は、日本の防衛・航空宇宙産業の発展に寄与することを使命として1958年(昭和33年)3月の創業以来、社是「誠実・信頼・感謝」の基に、防衛・航空宇宙業界における専門商社として、お客様の様々なご要望にお応えすべく取組んで参りました。」

 

エルビット・システムズ社と業務提携を結ぶことによって、同社がエルビット・システムズ社のシステムをローカライズを含めて、提供することによって整備や改修も容易にできるという契約である。主要取引先は防衛省である。

 

【伊藤忠アビエーションとは】

伊藤忠アビエーションは100%伊藤忠商事の子会社であり、主に海上自衛隊が運用する航空機に搭載される機体部品・電子製品に関するプログラムを担当している。 具体的には、海外メーカー製防衛装備品についての提案、輸入販売、修理・整備に関する支援をしている。

 

防衛部門の紹介(同社ホームページより)

 2010年度より運用を開始した、ボーイングKC-767空中給油・輸送機の後方支援を実施しています。KC-767空中給油・輸送機は、航空自衛隊の戦闘機や輸送機などに空中給油を行うのみならず、輸送機として人道支援等我が国の国際貢献にも大きく寄与しています。/2000年度より運用を開始したE-767早期警戒管制機の後方支援を行っています。E-767早期警戒管制機は空から常時警戒を行い、日本の空を守るかなめとして活躍しています。/川崎重工業がライセンス国産を行うボーイングCH-47J/JAヘリコプターに使われるボーイング社製品の輸入販売及びサポートを行っています。CH-47J/JAヘリコプターは、陸上自衛隊及び航空自衛隊で運用されている大型輸送ヘリコプターで国内外における災害救助で活躍した実績を持ちます。/F-15J/DJ戦闘機をはじめとする防衛省が運用する多数の航空機用装備品を製造しているHoneywell International Inc.の輸入販売を行っています。〉

 

伊藤忠アビエーションは以下の表に見る様に政府・防衛省と深く結びついている。
伊藤忠防衛費

 3
1日に、イスラエルを代表する新聞ハアレツが「ロシア侵攻の初期の勝者、イスラエルの防衛産業」というタイトルの分析記事を出した。副題は、「ウクライナ戦争でドイツは国防予算を倍増し、他の欧州諸国も武器の調達に躍起になっている。大勝利を収めたのはエルビット・システムズ(Elbit Systems)で、株価は2日間で18%急騰している」というもの。 

31日に、イスラエルを代表する新聞ハアレツが「ロシア侵攻の初期の勝者、イスラエルの防衛産業」というタイトルの分析記事を出した。副題は、「ウクライナ戦争でドイツは国防予算を倍増し、他の欧州諸国も武器の調達に躍起になっている。大勝利を収めたのはエルビット・システムズ(Elbit Systems

で、株価は 2 日間で 18%急騰している」というもの。

 

 「ウクライナ紛争によって恩恵を受ける軍需産業の株価は軒並み10.20%上昇! 大儲けで笑いが止まらない!」とイスラエルの防衛産業がウクライナ戦争から初期に得た利益に特化して報道している。

 

ハアレツの記事は「イスラエルの防衛産業関係者」の言葉として「ウクライナでの一連の出来事」により、「目が覚めた。我々は未曾有のチャンスを手にしており、その可能性は狂おしいほどだ」と、率直な「歓喜」の声を伝えている。

 

多くのウクライナ人、ロシア人が命を失い、土地を追われて難民化している状況に、これほどまで歓んでいる者たちがいる。

 

彼らはこの紛争が即時停戦に終わるのは望まず、ウクライナとロシアの早期の和解を望まず、逆に戦線の拡大を望んでいることだろう。その分だけ「兵器市場」が爆発的に拡大するのだから。

 

パレスチナとの戦いでもイスラエル政府に武器を収め大きな利益を得たことだろう。

 

イスラエルの代表的な防衛産業のエルビット・システムズは、米国子会社であるエルビット・システムズ・オブ・アメリカ(ESA)を通じ多数の米国の軍事企業を傘下に収めているのを始め、英国、ドイツ、オーストリア、ルーマニア、ハンガリー、スウェーデンなど、NATO各国に多くの子会社を所有している。

 

その株式はテルアビブ株式市場や米国ナスダック、フランクフルト株式市場、シュトゥットガルト株式市場、ミュンヘン株式市場などに上場され、世界中から資金を集めている。

 

エルビット・システムズ社との契約は日本の企業がイスラエルの戦争犯罪企業の共犯者となるということである。いま目の前で行われているガザ虐殺への加担そのものである。

 

 パレスチナ労働組合が、全世界の労働者に向けて、イスラエルへの武器輸出を阻むために闘うことを必死に訴えている。世界各地では軍事企業をストライキやデモで実力包囲する闘い、武器運搬のための荷役積み込みを阻止する闘いが展開されている。

 

 日本では戦争の準備が急速に進められている。中国が攻撃してくるとの口実で南西諸島での要塞化が進んでいる。「反撃能力」に活用するミサイルの配備を急ぎ、日米合同訓練が定例化する中、大規模な弾薬庫の増設や港湾整備に向けたボーリング調査が近く本格化し、ハード・ソフト両面で整備が急ピッチで行われている。

 

 日米間で協力を決めた民間施設の利用も広がる。地元が反発する中、新石垣空港(沖縄県石垣島)を使用し、訓練期間中、大分や奄美、徳之島の空港には米オスプレイが相次いで緊急着陸した。

 

政府は23年度から5年間の防衛費を総額43兆円程度とする方針で、見本市にも力が入っているようだ。防衛相は314日の記者会見で「諸外国との防衛装備・技術協力をより一層推進したい」と述べた。

 

戦争を食い物にする資本家と結託するブルジョア政治家は許せない。資本の支配は絶対イヤだ。 (Y) (一部加筆)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

1月の予定:いよいよ『資本論』第2巻の学習会が始まります。奮ってご参加ください!

◆「資本論」第1巻前半学習会

 (1月3日は会場の都合で中止です。)

124日(水)19.21 / 県民センター703号室

*第7章「剰余価値率」を学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

110日(水)1830.2030  /  県民センター703号室

*第1章「貨幣資本の循環」(エンゲルスの序文も含む。)

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

117日(水)1830.2030  / 県民センター703号室

*論文「マルクス主義の歴史的発展」他2篇をやります。

会場都合などで日程変更することもありますので、事前にご連絡ください。

連絡先

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

Tel 080-4406-1941(菊池)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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