労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

「資本論」学習会の議論から

マルクスが若い時に書いた職業選択についての論文を紹介

マルクスが若い時に書いた職業選択についての論文を紹介

 

神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第49号で、幸徳秋水の『死刑の前』を論じる中で、マルクスが若い時に書いた職業選択についての論文が紹介され、興味深い内容ですので紹介します。筆者が『死刑の前』を取り上げたのは、幸徳秋水という明治の社会主義者の死生観や人生観にとどまらず、ひろく社会変革を志す人間に共通な思想を示唆しているということで取り上げています。『死刑の前』は中央公論社版の「幸徳秋水」(『日本の名著』44)に所収されています。(担当)

 

幸徳秋水『死刑の前』(下)

※(上)は『死刑の前』の内容紹介が主ですので省略します。

 

幸徳の『死刑の前』は、幸徳の研究家の神崎清氏によれば、大逆事件の被告の多くの手記が東京監獄で押収されて行方へ不明になっていたが、太平洋戦争後に奇跡的に発見され、我われの目に触れるようになったということである。

 

前号で述べたように幸徳は、その第 1 節で、死刑を前にして、今の自分にとって「死刑は何でもないのである」と述べ、第2節以下でその理由を展開している。まず幸徳は、師の中江兆民以来の唯物論(当時にあっては極めて珍しい)を展開している。

 

つまり、死は、「人間の血肉の新陳代謝がまったく休んで、形体・組織が分解されるのみではないか。」 形成されたものは、必ず消滅する、始めがあるものは必ず終わりがある、と喝破する。

 

それゆえ、誰もが死が遅かれ早かれ訪れることを知っているし覚悟もしているが、それにもかかわらず、なぜ死を恐れるのか? それは、死そのものを恐れるのではなく、死にまつわる他のこと――例えば死の苦痛、一人で死ぬ不安、残す財産、妻子等々――が、死の恐怖の原因となっているからである。これらのものは死ぬ本人にとっては、存在しないものである。

 

それが証拠に、本人に、もしこれらのものを凌駕する事情、例えば、恋愛や名誉、あるいは自由などの理想があれば、人はこれらのために、進んで命を投げ出すではないか。要するに、死そのものは問題ではないのであり、問題は、いかにして死ぬか、いかに生を送るか、ということなのである。

 

第3節で幸徳は、今日の社会では、大部分の人が、過度の労働や栄養不足、また環境の悪化等で、天寿を全うするのは困難である、と働く者の生きることの困難さを指摘する。人びとの死の多くは、老衰による自然死ではなく、病死や事故死による”不自然な死“である。それでは、長生きして自然な死を迎えるのがいい、というのであろうか?

 

しかし、それは違うと幸徳は言うのである。大事なことは、いかなる死であっても、自分が満足と幸福を感じて死ぬことにある。その生においても死においても、自己の分相応の感化・影響を社会に与えることにある。短命に終わっても生死を超脱して、少なからぬ社会的価値を与えた多くの人々がいたではないか。

第4節では、長寿を得ても、必ずしも幸福や満足を得ないこと、むしろ、社会的価値を残したものには短命だったものが多いこと、そして最後の第5節では、刑死が恐れられるのは、極悪人・重罪人が多いからであるが、しかし、刑死した者には、また敬うべき,尊とぶべき、歴史に残る人も多かった。私自身がどちらであるかは、私が論ずべきことではなくて後世の歴史が判断することである。私は、私の人生を十分の満足と安心をもって死ぬ。今や、その時である。ここで、彼の『死刑の前』は終わっている。

 

幸徳が、一貫して主張していることは、ただ生きるということではなくて、その生が充実したものでなければならない、ということである。充実と言っても、アナーキストの大杉栄がいうような個人主義的な、本人だけの“生の充実”ではなく、その内包は社会的な価値を持ったものであったかどうか、ということである。私は、ここでマルクスが、若い時に書いた職業選択についての論文を思い出した。そこでマルクスは次のように書いている。

 

「しかし、職業の選択に際して我われを導いてくれなければならぬ主要な導き手は、人類の幸福であり、我われ自身の完成である。これら両方の利害が互いに敵対的にたたかいあうことになって一方が他方を滅ぼさなければならないのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである。

 

……我々が人類のために最も多く働くことのできる職業を選んだとき、重荷も我われを屈服させることはできないであろう。なぜなら、その重荷は万人のための犠牲に過ぎないからである。またその時、我われは、貧弱で局限された利己主義的な喜びを味わうものではない。」(全集40巻)

 

これを書いたときマルクスはまだ17歳であるが、自己の完成は同時代の人々の完成や幸福のために働くことによってのみ達成されると述べている。自己の完成と社会的価値のために働くこととは、(一般に考えられているように)矛盾するどころか、両者は同一のものであり、それこそ狭い利己主義を克服できる道である、というのである。

 

後年のマルクスが、唯物史観に到達するはるか以前に、若干17歳の若者がここまで考えたとは驚きである。その後のマルクスは、社会的価値つまり社会主義のための長寿(と言っても65歳だが)を全うしたが、幸徳は、同じく社会主義実現のために闘いながら、39歳という短命に終わった。両者ともに、社会主義という社会的価値を実現するために闘うことが、利己主義的な幸福を超えて自己の完成につながるということで一致しているのである。

 

人間は「社会的な動物」(もともとは「ポリス的な動物」)とアリストテレスは言った。まず社会があって、そこに人間が生まれてくるのである(マルクスは、それをより厳密に「一定の生産関係の中に」生まれる、と言っている)。人間は本来社会的な動物なのだから、自己の生命や性格も社会によって基本的に作られるものであるがゆえに、人間の社会性・共同性を資本主義社会の止揚によって回復しなければならないというのである。

 

近代以前は、個人より前に共同体があったのであり、共同体のために生きることは当然とされてきた。個人と社会が分裂し、個人の幸福や利益を優先する個人主義、利己主義が現れるのは、商品経済が発展する近代以降のことである。死に対する恐怖も死そのものに対する恐怖というより、利己的恐怖、自己愛の現れにすぎない。生命を自分だけの生命と思えば、実存主義者のカミユのように自殺を賛美したり、サルトルのように“生”に嘔吐したりすることになる。

 

幸徳やマルクスは、資本主義の発展から生まれてきた個人主義、利己主義を克服・止揚する道を社会主義実現のために闘うことに求めたのである。幸徳自身は、「死刑を前」にして、明治政府の厳しい弾圧の中で社会主義のために精一杯(分相応に)に闘ったことによって、満足と安心立命の境地を獲得した。潔く死刑を甘受しようというのが、幸徳のみごとな達観であった。(K

 

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横浜労働者くらぶ学習会案内  2月の予定

      

◆『プロメテウス』63号(全国社研社刊)学習会

  時:2月12日(水)1830分~2030  

  所:県民センター703号室

学習範囲:特集「斎藤幸平“理論”を撃つ」の2論文

◆マルクス主義学習会 ~エンゲルス『空想から科学へ』

  時:2月19日(水)1830分~2030  

  所:県民センター70 3号室

学習範囲:第3章「資本主義の発展」

◆『資本論』第1巻学習会

  時:2月26日(水)1830分~2030  

  所:県民センター703号室

学習範囲:第233節「相対的過剰人口または産業予備軍」~5d「恐慌が労働者階級の最高給部分に及ぼす影響」まで

 

横浜労働者くらぶ

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平民社以後の社会主義運動(2)

先月に続き、神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第46号で、平民社後の昭和に入ってからの社会主義運動について紹介しています。日本における社会主義運動について理解する参考になると考え、紹介します。(担当)

 

 

平民社以後の社会主義運動(2)

 

「労働者くらぶ」前号(45 号)で「平民社後の社会主義運動」について述べましたが、大正末期で終わってしまい、昭和に入ってからの活動については、ほとんど触れることができず中途半端に終わってしまいました。そこで今号では、昭和に入ってからの10 年間ほどの運動(主として共産党の活動になるが)に簡単に触れて補足したいと思います。

 

先に述べましたように、日本共産党は、コミンテルンの日本支部として1922 年(大正11 年)7 月に秘密裏に結成(堺利彦委員長)されますが、党の綱領や規約もない、党とは名ばかりのもので、主要メンバーの翌年の検挙であえなく壊滅してしまいます。関東大震災の大杉らの虐殺や政府の弾圧もあって、解党論が主流になり、24 4 月に解党してしまいます(第1 次共産党)。

 

堺や山川らの解党派は、共産党を離れていきますが、解党派は、山川が第1次共産党結成時に発表した論文「無産階級の方向転換」に従って、合法的な無産政党の結成に向かっていきます。そして27 年には「労農」を創刊し、論文「政治的統一戦線――無産政党合同論の根拠」を発表し「共同戦線党」の結成を提唱します。山川の「方向転換」論と「共同戦線党」論の意義については前号で触れましたので省略します。

 

一方、再建派は、26 12 月に党再建(佐野文夫委員長)を果たします。この時、再建共産党の理論的指導者になったのは福本和夫です。福本は、思想的に純化したマルクス・レーニン主義の党を作り上げるとして、理論闘争を重視した「分離・結合」論を提唱しますが、この左翼急進的な方針は、政治運動、組合運動、さらには文化運動にまで分裂主義やセクト主義を持ち込むことになりました。この福本イズムは、コミンテルンから批判され、撤回されますが(福本も自己批判)、その後も長く共産党の運動に影響します。

 

25 年の普通選挙法(同時に治安維持法も成立)に基づいて最初の総選挙が28 2 月に実施されます。再建された共産党は、合法無産政党である労働者農民党を隠れ蓑にして、共産党の党名入りのビラを配布するなどして公然たる宣伝活動を開始しますが。無産政党各党は、計8 名の当選者を出しますが、これに恐怖した政府は、総選挙の3 週間後の3 15 日に、全国の共産党員やシンパの一斉検挙を行います(3・15 事件)。

 

さらに翌年4 16 日にも残った党員やシンパの一斉検挙が行われ(4・16 事件)、再建されたばかりの共産党は大打撃を受けます。この2度の大弾圧によって共産党は、経験豊富な幹部をことごとく失い、指導部は、未熟な活動家によって構成されることになります。416 後に再建された共産党の委員長になったのは、田中清玄(当時23 歳)でありもう一人は佐野博(24 歳、佐野学の甥)でした。彼らの打ち出した方針は、武装自衛団、武装デモ、赤色テロなどの極左的冒険主義でした(武装共産党)。

 

もっとも、これらの過激な方針が採択されたのには背景があります。当時は、29 年にアメリカから始まった大恐慌が世界に拡大していくときにあたり、コミンテルンは、社会民主主義者を敵とした急進的な「社会ファシズム」論を採用します。また国内においても金融恐慌や世界恐慌の影響が深刻になり、労働争議や小作争議が頻発し階級闘争の高まりがありました。指導部の二人は30 年に相次いで逮捕されて武装共産党は壊滅します。

 

彼らに代わって新しい指導部についたのは,クートべ(ソ連の幹部養成大学)帰りの風間丈吉(28歳)と飯塚盈(みつ)延(スパイM)です。この指導部によって武装共産党は修正されますが、しかし社会ファシズム論に基づいて、社会民主主義者との闘いに熱中し、セクト主義はそのままです。もっとも、「大衆へ」のスローガンを掲げて、この時期の共産党は、戦前で最も勢力の拡大した時期といわれます(党員は約600名ほど、「無産者新聞」2万~4万部、「赤旗」約7000部)。

 

この頃の共産党は、319月に満州事変が勃発したときにあたり、「非常時共産党」(31年~32年)と呼ばれます。しかし、この共産党も、3210月の熱海事件の大検挙で壊滅してしまいます。そのあと短期間、山本正美や野呂栄太郎の委員長が続きますが、野呂の時に幹部に昇格したのが宮本顕治です。

 

野呂が逮捕された直後に起こったのが「スパイ査問事件」(3412月)で、このとき査問の責任者になったのが宮本であり当時24歳(彼もまたスパイの通報でその直後に逮捕される)でした。

 

そして、ただ一人の中央委員に残った袴田里実が357月に逮捕されて、名実ともに戦前の共産党は消滅するのです。この間、336月に、416事件で逮捕されていた幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中から転向声明を出します。続いて田中清玄、風間丈吉等、主だった幹部や多数の党員が雪崩を打ってそれに続きます。

 

33年に野呂らによって再建された共産党も、その直後に指導部の検挙や「スパイ査問事件」などで解体してしまいます。ですから戦前の共産党の活動は、2612月に共産党が再建されて以来、33年に消滅してしまうまでの実質8年間位です。

 

22年(大正11年)に結成された第1次共産党は、山川ら社会民主主義者を含んだ、ほとんど実態のない党でしたから、今日まで続いている日本共産党とは別個に考えられます。

 

戦後の共産党を長く指導した宮本顕治の戦前の党活動も23年ほどにすぎません。戦後の共産党の幹部らは、「獄中18年」(徳田久一)とか「獄中12年」(宮本顕治)とかの「非転向」を誇っていますが、軍部ファシズムの本格的な台頭や帝国主義戦争の勃発を前にして、前衛としての共産党は、(レーニンが言った「戦争を内乱へ」どころか)どんな役割も果たすことなく、崩壊してしまったわけです。

 

こうした共産党の党活動の理論の中心にあったのが、コミンテルンの方針です。日本共産党は結成当時、理論的に未熟であったのと同時に、コミンテルンの支部として作られたのでコミンテルンの方針は絶対であったわけです。

 

第2次共産党の再建時に出されたのが27年テーゼです。この27年テーゼでは、党の闘いを理論闘争に限定した福本イズムは、党と労働組合等の大衆団体との相違を無視し、労働組合を機械的に政治化するものとしてその急進主義を批判されます。共産党はこの批判を受け入れますが、それはコミンテルンの権威に屈服したにすぎず、その後長く福本イズムは共産党の体質であるセクト主義や分裂主義となって生き続けるのです。

 

一方、27年テーゼは、日本の急速な資本主義的発展を指摘したものの、日本の革命は民主主義革命から社会主義革命へと連続するというスターリン主義の二段階革命論に立っていました。つまりロシア革命と同じ理論に基づいてコミンテルンも共産党も、天皇制の打倒を革命戦略として掲げたのです。

 

しかし第一次世界大戦後の日本は、すでに独占資本主義の段階、国外に多くの植民地を有する帝国主義の段階に達しており、天皇制はすでに独占資本の階級支配の道具、隠れ蓑になっていました。

 

確かに国内にはなお半封建的な遺物があって、それらを一掃する民主的課題はありましたが、封建制の廃止は、帝国主義段階においては、独占資本の打倒、社会主義革命のための闘いと結びつけ、それに従属して闘われねばなりません。

 

天皇制の廃止など封建制一掃のブルジョア革命を達成したのちに社会主義革命をめざすというのでは、労働者の革命闘争をブルジョア民主主義革命という誤った方向に向かわせたのです。

 

32年テーゼ(河上肇の翻訳)は、この27年テーゼをより厳密に完成したものであって、そこでは日本の支配的な制度を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有制、独占資本主義の三つの要素の結合として特徴づけ、特に天皇制については、封建的な地主階級と独占資本の利益を代表しつつ「その独自な相対的に大なる役割」を「エセ非立憲的形態」で粉飾されているに過ぎない、としました。

 

そして、天皇制こそ「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし、残存物)の主要支柱」、「搾取階級の現存の独裁の強固な背景」であると規定し、天皇制の国家機構の粉砕こそ日本の革命運動の第一義的な任務である、としました。

 

この32年テーゼは、今なお共産党によって「画期的な指針」(「共産党の70年」)として賛美されており、この党の小ブル民主派の本質を規定するものとなっています。

 

この32年テーゼと27年テーゼの間に、モスクワ帰りの風間丈吉が持ち込んだ31年テーゼというのがありますが、これは社会主義革命を戦略目標として提起したものですが、残存したトロツキー派(当時すでにトロツキーは追放されている)によって起草されたもので、すぐスターリン派の32年テーゼによって葬られているので、日本共産党に理論的影響はありません。

 

戦前の共産党の綱領的立場は、労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げにして労働者階級の闘いを、天皇制の廃止を含む封建制の一掃という、ブルジョア的課題に捻じ曲げたものでした。

 

戦前の共産党の闘いが、天皇制の打倒を掲げ、いかに表面的には戦闘的、急進的にふるまおうと(これこそ、戦前の共産党の“革命的”という神話を生み出したのですが)、プロレタリアートの社会主義のための闘いとはほど遠い小ブル民主主義派の闘いでしかありませんでした。

 

27年テーゼや32年テーゼに基づいて、日本資本主義の分析を行ったのが、野呂栄太郎などの講座派(「日本資本主義発達史講座」岩波書店)です。彼らは、32年テーゼに基づいて日本資本主義の半封建的な性格と絶対主義的な天皇制の支配を強調し、民主主義革命から社会主義革命へという二段階革命を主張したのです。

 

この講座派に対し、日本の現状を、ブルジョア国家ととらえ、日本の革命は社会主義革命である、として共産党を批判したのが、山川や荒畑、猪俣津南雄ら社会民主主義者の「労農派」です。

 

しかし、彼らも、社会主義の闘いの前に、それに移行するための民主主義的な条件を作り出さねばならないとして、彼らの戦略も結局は、二段階革命論の共産党と同じものでした。ただ彼らの「社会主義革命」論は、天皇制との闘いを回避するための日和見主義的口実にすぎなかったのです。

 

以上、これまで、1901年に幸徳らによって結成された社会民主党(即日禁止)以来の社会主義運動の戦前までの歴史を大急ぎで追究してきましたが、その歴史は政府権力による激しい弾圧の歴史でした。

 

この歴史から私たち労働者階級は、何を学ばなければならないのか? それは、マルクス主義に基づいた、公然・非公然に柔軟に対応できる強固な労働者の前衛党がなければ、資本主義と闘うことも、その打倒も、不可能だということです。

 

レーニンが『何をなすべきか』で強調した労働者階級の前衛党を、戦前も、そして戦後も、日本の労働者階級は持つことができませんでした。幸徳らの社会民主党の結成以来、120年がたっていますが、幸徳らのめざした資本主義の廃止、社会主義の実現はおろか、幸徳らを虐殺した天皇制も、象徴とはいえ残存しているのです。

 

現在、幸徳を直接行動に走らせた、ブルジョア議会主義の腐敗、堕落ぶりは、目を覆うばかりです。共産党や立憲民主党など野党が、党利党略、自党第一に走り、この絶好の機会に政権交代さえできない姿は、戦前の無産政党各党が離合集散を繰り返し、やっと実現した社会大衆党が、結局、政府のお先棒を担いで、国民を戦争協力に駆り立てていった悪夢を思い出させます。

 

共産党や社民党(旧社会党)の源流は、幸徳らの社会民主党や平民社にあります。ところが、彼らは、平民社の社会主義運動についてほとんど語りません。なぜか? それは、彼らがブルジョア議会主義の腐敗・堕落に骨の髄まで染まり、労働者の階級闘争を忘れ、「社会主義」という言葉さえ口にすることを憚っているからです。

 

幸徳らの社会主義運動の記憶を持ち出せば、彼らのブルジョア的堕落は一目瞭然だからです。彼らは、今の地位に満足していたいのです。戦後80年、日本の労働者も、いいかげんに目を覚まさなければなりません。共産党の、エセ・マルクス主義におさらばし、革命的マルクス主義の旗を高く掲げて、労働の解放をめざす労働者党に結集し、労働者の前衛党を作り上げていきましよう!(K

 

横浜労働者くらぶ学習会案内11月の予定

 

◆「資本論」第1巻学習会

日時:11月27日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室

学習範囲:第6篇19章~第722

 

◆「資本論」第2巻学習会

日時:11月13日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:第20章1節~9節

 

◆マルクス主義学習会 ―― エンゲルス「空想より科学へ」

日時:11月16日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:序文と第1章「空想的社会主義」まで

 

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平民社後の社会主義運動

神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第45号で、明治から大正にかけての社会主義運動について紹介しています。8月と9月の学習会で、幸徳秋水の『社会主義神髄』と平民社の闘いについて取り上げ、その後の社会主義運動についてまとめたものです。日本において社会主義運動が歩んだ困難な闘いについて、正しく(共産党のように「神話化」することなく)理解を深める参考になると思います。

 

 

平民社後の社会主義運動

  

  幸徳秋水の『社会主義神髄』と平民社の闘いについては、8月と9月の学習会のテーマになりましたが、その後の社会主義運動については、まだ議論されていません。そこで、簡単に触れておきたいと思います。

 

 平民社の解散(190510・5)後、幸徳は悪化した健康の回復もかねて米国へ亡命(190511141906・6月末)しますが、米国滞在中に、思想上の大きな変化をします。その表明が、帰国直後の「世界革命運動の潮流」と題する演説です。

 

この演説については、前号の「労働者くらぶ」で紹介しましたが、要するに、幸徳は、いかに社会主義者の議員を議会に送り込んでも世の中は変わらない、労働者自身の直接的な力、ゼネストで革命を起こさねばならない、と言っているのです。

 

幸徳は、米国の社会主義者やロシアの無政府主義者(エス・エル党員)との交流や第2インターの議会主義・改良主義の限界を見聞するにつけ、議会主義への批判を強めていくのです。幸徳は、この思想の変化を、「我ながらほとんど別人の観がある」と述べています。

 

この変化は、これまでモデルとしてきたドイツやフランスの社会民主党のブルジョア的議会主義の腐敗・堕落ぶりに反発するまっとうな革命派の反応ですが、しかし腐敗や堕落を批判するあまり、議会や選挙を利用して労働者の階級闘争を高めていくという革命的議会主義を否定することになりました。

 

 しかし、この幸徳の「思想の変化」は、これまで、普通選挙によって合法的に社会主義を勝ち取ると信じてきた多くの社会主義者に衝撃を与え、ここに、これまでの議会主義を維持しようとする田添鉄二らの議会政策派と幸徳らの直接行動派との対立が生まれるのです。

 

当時は、桂内閣に代わって多少自由主義的な西園寺内閣の時代で、1901(明治34)年の社会民主党の即日禁止後、日本で初めての合法主義的な社会主義政党(「国法の範囲内で社会主義を目指す」としている)である日本社会党(19061281907222)が結成されており、その第2回大会で両派は激突するのです。

 

結局、この対立は、直接行動派の主張を多く取り入れた堺利彦の折衷案が採択され、その後、議会政策派は労資協調の日和見主義を深めていきます。それに対し、直接行動派は、ますます観念的な急進主義を深めていき、幸徳もクロポトキンの『麺麭(パン)の略取』を翻訳したりします。

 

  そこに起こったのが「赤旗事件」(1908622)です。これは党員の山口孤剣の出獄歓迎会で、大杉栄や荒畑寒村が「無政府共産」と書いた赤旗を掲げて示威運動をしようとしたのを警察が弾圧した事件です。

 

この事件の責任を取って西園寺内閣は総辞職しますが、それに代わった桂内閣(第2次)は、社会主義者に対し徹底的に弾圧する方針で臨み、堺、山川、大杉に懲役2年、荒畑は懲役1年半という重刑を課します。

 

このように、発売禁止、裁判責め、罰金責め、監獄責めで、手も足も出なくなった社会主義運動の一部が、絶望感、無力感、権力に対する憤激に襲われるようになるのは当然です。ここから個人的テロに訴える連中が出てきます。          

 

  宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄、古川力作が集まり、天皇といえども血を流す人間に過ぎないことを示すために、天皇暗殺の計画をするようになるのです。幸徳の直接行動論は、決して個人的テロを容認するものではなく、幸徳自身「暗殺にては(社会)主義は成功せず」と語っています。

 

彼の直接行動は、労働者の革命的な大衆行動によって「いっさいの生産・交通の機関の、その運転を停止」させることなのですが、しかし、社会主義運動の撲滅の機会を狙っていた桂内閣は、宮下の爆弾製造の事実をつかむと、これを徹底的に利用し、幸徳をリーダーとする社会主義者の天皇暗殺の一大陰謀事件をでっちあげ、全国各地の社会主義者数百人を検挙し、最終的に幸徳ら26人を起訴したのです。

 

幸徳は、赤旗事件を知らされると(高知で療養中)直ちに上京、その途次、新宮の大石誠之助や大阪の森近運平の所に立ち寄るのですが、この3人の間に明治天皇暗殺の共同謀議があったとされたのです。

 

大逆罪は、犯行を企てたというだけで死刑であり、いきなり非公開の大審院が最終審で、一人も証人を許されない暗黒裁判です。これだけの大事件が、起訴からわずか20日間で26人の審理を終わり(19101229)、開けて1月18日に24名の死刑判決(翌日12名が明治天皇のお情けで無期懲役に減刑される)が下されます。

 

そして判決の1週間後には、はやくも幸徳ら11名が処刑されてしまいます(菅野だけ翌日)。この事件は、初めから幸徳を標的にし抹殺しようとした謀略であり、明らかに国内外の批判や抗議(米国をはじめロンドン、パリ等で大きな抗議運動が起こっていた)を既成事実によって封じようとするものでした。

 

  大逆事件によって恐怖した明治政府は、社会主義運動に対していかなる小さな芽もつぶしにかかろうとします。悪名高い特別高等警察(特高)が設けられたのもこの時です。大逆事件は新聞によってセンセーショナルに報道され、社会主義者は、国民から「社会主義者と鮮人などの不逞の輩」と、恐れられるようになり、社会主義や天皇制は、口にするのもタブーになりました。

 

ほとんど唯一、大逆事件を批判した徳富蘆花は、『謀叛論』で大逆事件を「謀殺・暗殺」と書いています。石川啄木は、遺稿の中で「この時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ」と憤りをぶつけています。また自然主義のエミール・ゾラに心酔していた永井荷風は、自分はドレフュス事件のゾラにはなれない、と言って江戸趣味に引っ込んでしまいます。

 

明治の思想界や文壇で、彼ら以外に大逆事件に言及したものは、ほとんどいません。それほど大逆事件の影響は大きかったのです。

 

 大逆事件のあと、社会主義運動や労働運動の「冬の時代」が始まりますが、幸運にも、「赤旗事件」によって獄中にあった堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、山川均らは、大逆事件を免れることができました。かろうじて社会主義の灯を守ったのは、堺利彦の始めた「売文社」でした。

 

しかし、明治の終わりから大正にかけて、東京市電のストライキから少しずつ労働運動が復活し始めます。それに刺激を受けて社会主義運動もようやく動き出しました。大杉と荒畑は、弾圧をカモフラージュするために文芸雑誌と銘うって、「近代思想」を発刊します。

 

またこの時代は、憲政擁護運動(第1次)などのブルジョア自由主義運動(大正デモクラシー)が始まりますが、大正3年の第1次世界大戦の勃発とそれを契機とする日本資本主義の飛躍的な発展は、労働運動の急速な発展を引き起こしました。

 

そうした中で大杉と荒畑は「近代思想」を廃刊し、新たに月間『平民新聞』を発刊します。また堺利彦も、新たに「新社会」を創刊(1915)し、マルクス主義やボルシェヴィズムの紹介に力を入れていきます。

 

 こうした中で起こったのが大正6年(1917年)のロシア十月革命です。この時の興奮を、山川は、「ロシア革命の報道が来た時の感激は大変だった。道を歩いている労働者が相擁して泣いた。私自身もじっさい泣きました」と語っています。

 

一方、国内では富山から始まった米騒動は全国各地に波及していくとともに、第一次世界大戦の好景気の反動恐慌で失業者が激増し、労働運動は一挙に高まっていきます。月間『平民新聞』は、アナーキズムにのめり込んでいく大杉栄とマルクス主義を深めていく荒畑寒村との対立が次第に表面化していきます。

 

労働運動の中では、はじめ幸徳らの直接行動論の影響や大杉などの活発な働きかけによってアナーキズムの影響が強かったのですが、ロシア十月革命の影響や関東大震災で指導者の大杉栄が虐殺されたことによって、次第にボルシェヴィキ派が優勢になってきます(アナ・ボル論争)。

 

こうしたなか、コミンテルンの働きかけによって1922年(大正117月)に日本共産党が誕生するのですが、しかし党と言っても理論的にも組織的にも準備のない、数十人の非合法グループ(堺利彦を委員長、荒畑寒村、山川均も含む)にすぎず、翌年の主要メンバーの検挙で壊滅してしまいます。

 

 一方、当時左翼陣営の理論的指導者とみられていた山川均が、共産党結成と同じ月に「無産階級の方向転換」という論文を発表します。

 

ここで山川は、「無産階級の前衛である少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底して純化した。そこで無産階級の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、はるか後方に残されている大衆の中に、再びひき返してくることでなければならぬ。……『大衆の中へ』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならない。」さらに社会主義運動は、「大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動…を重視しなければならない。」と主張しました。

 

確かに、平民社後の労働運動は、直接行動論の影響で、急進的なサンディカリズム的傾向(これは大杉らのアナーキズムに引き継がれる)を強く残しており、克服されねばならなかったのですが、しかし山川の主張には、労働者の階級闘争を指導するマルクス主義の立場に立った前衛党を結成するという認識はありません。

 

「無産者階級の前衛たる少数者」といってもプロレタリアの前衛党ではなく、単に革命的な活動家グループでしかありません(その意味では、幸徳の「志士仁人」と大して変らない)。また「当面の生活を重視する運動」は、労働運動を、単なる生活改善、改良主義の運動に向かわせるものです。

 

山川の理論は、しっかりした綱領や規約を持った前衛党の意義や役割を否定し、日常の生活改善を目指す、労働者の自然発生的な闘いに追従したものでした。この方向転換論の延長線上に「共同戦線党」論も出てきますが、しかし山川の共同戦線党は、労働者や農民、都市の小ブルジョア等の反ブルジョア的な諸勢力を集める合法政党でしかなく、労働者階級の前衛党ではありません。

 

山川は、このような合法無産政党を、マルクス主義用語で粉飾し、革命的な意義があるかのように語ったにすぎません。無産政党各党は、離合集散を繰り返し、最後に社会大衆党として実現しましたが、この党は、日本帝国主義のお先棒を担ぎ、労働者大衆を戦争協力に駆り立てていったのです。

 

 コミンテルン(共産主義インターナショナル)の要請に従って、1926(大正15)年12月に共産党は再建されますが(堺、山川などは不参加)、このときの再建理論になったのが、福本イズムです。福本和夫の「分離・結合」論は、政治運動や労働組合運動、文化運動の中に、分裂主義やセクト主義を持ち込み、コミンテルンからは、極左偏向主義等と批判されますが、その後も共産党内で影響を持ち続けることになります。(K

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内10月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

10 23 日(水)18 時30分~20 30 / 県民センター703 号室

・第6篇「労働賃金」第 17 章~第 20

◆「資本論」第2巻学習会

10 9 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

・第3篇「社会的総資本の再生産と流通」第 18 章~第 19

◆マルクス主義学習会 ―― 幸徳秋水「社会主義神髄」続き

10 16 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

・今回は、「平民社」以後の社会主義運動について討論します。

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新たに参加される際には事前に確認してください。急な変更などあります。

連絡先)Tel080-4406-1941(菊池)

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憲法第1条はなぜ「国民」ではなくて「天皇」か

神奈川で『資本論』などの学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」が5 22 日に発行した「労働者くらぶ第41号」で、憲法第1条が「天皇」であることについて論じています。興味深い内容ですので紹介します。(担当)

 

「第1条 なぜ国民ではなくて天皇か」

 

憲法記念日の朝日新聞朝刊の読者欄に「憲法と私たち」という特集があった。その一つに上記の見出しがついた珍しい投稿があった。

 「憲法の第1条に天皇の地位は『主権の存する日本国民の総意に基づく』とあることが、私はずっと気になっていた。国民の総意と言うが、私はこれまで一度も天皇制についてどう思うかと問われたことはない。…何年か前に憲法学者の講演を聴きに行った。『なぜ憲法の第1条が天皇なのか』という私の質問に『戦争の反省から、まず天皇についてしっかり定めておくことが大事と考えたから』と答えがあったのだが、物足りなく感じた。天皇よりまず国民が大切なのではないだろうか。…まるでタブーのように天皇制について誰も気さくに語り合わないことがかえって薄気味悪い。」(無職 愛知県 79 歳)

 

★「戦争の反省」は本当になされたのか?

 

珍しいというのは、自民党でさえ政党活動費の公表が「政治活動の自由」の制限になるというほどの、この“自由な”国において、このような天皇制についての投稿にめったに出会わなかったからである。この筆者の意見は全く当然である。民主主義の、国民主権の国の憲法の初めに、どうして国民ではなく天皇が来るのか?これでは、日本の主権者は国民ではなく天皇になってしまうではないか、投稿者は、そう思っているのである。

 

それに対して学者先生は、「戦争の反省から、まず天皇から定めた」というのであるが、一体その反省とはどうゆう反省だったのか? あの戦争が「天皇の名」においてなされたことは誰でも知っていることであり、天皇は神聖不可侵の絶対的な主権者だったのである。その彼は、敗戦が明確になってから2年間も戦争を継続し、それによって東京大空襲、沖縄戦、広島長崎の原爆投下を招き、何百万の人命を犠牲にしたのである。

 

天皇の責任は明らかだ。こうゆう意見に対して、昭和天皇は軍部ファシスト

や資本の傀儡にすぎず、本当は平和主義者だったとして天皇を擁護する意見が、マスコミや言論人によって喧伝されている。しかしこのような天皇弁護論は、少し歴史を紐解いてみれば、全く事実に反することがわかる。

 

戦前の天皇は積極的に内閣の人事に口出しし、少なくとも敗戦の色が濃くなるまでは戦果を喜ぶ好戦論者であった。仮に彼が軍部の傀儡であり平和主義者であったとしても(事実ではないが)、統治権の総攬者であると憲法で規定されている本人が、退位や譲位もせずに戦前と同じ天皇の地位に留まるというようなことは、恐るべき厚顔無恥、道徳性の無さと言えるのだ(第1次、第2次世界大戦後、敗戦国の君主は退位どころか君主制そのものが崩壊している)。

 

企業のちょっとした不法行為や不祥事でも会長や社長が引責辞任するのを考えてみれば、いかに昭和天皇が恥知らずな存在であったかが分かる。学者先生が「戦争の反省から」というならば、あの戦争の最高の責任者としての天皇の責任こそ問われなければならないのである。

 

★民主社会においては君主制は矛盾である!

 

一体だれが“反省”したのか?少なからぬ国民は、もう天皇のための戦争は沢山だ、天皇もいらないと反省した。ところがソ連をはじめ連合国の多くの、また少なからぬ世論の天皇制廃止論を無視して、天皇制を存続(昭和天皇の退位すら求めず)させたのは、天皇制に戦後支配の利用価値を見出していたマッカーサーであった。

 

自民党は、現在の憲法は押し付け憲法であるから自主憲法に変えねばならないとしているが、この象徴天皇制については、押し付けられたとは感じていないらしい(よくぞ残したと喜んでいる)。そもそも民主主義(議会制)と君主制(封建制)とは水と油であり、立憲君主制といったものは両者の妥協の産物、矛盾そのものなのだ。

 

一体、天皇とか皇族と言ったものは、我われと同じ国民なのかどうか、一般の国民を“民間”と呼ぶ以上、天皇や皇族は特別の存在、聖家族であるのは間違いない。フランス革命の国王裁判において、ジャコバン党のサン・ジュストは、市民社会において国王はその存在自体が悪である、と断罪した(そして断首された)。矛盾は解消されねばならないのであり、矛盾だらけの天皇制も消滅するのが歴史の必然である。

 

★日本資本主義の帝国主義化は天皇制イデオロギーを強化する!

 

国会では、またまたくだらない皇位継承の議論が始まるようである。 自民党は皇位の安定的継承を目指すというが、男系男子か女系天皇でもいいのか、女性皇族は結婚で皇籍を離れるか否か、旧宮家の復活はどこまでか等々、馬鹿げた議論が繰り返されることになる。

 

驚くべきことに国会の全政党が、天皇制の存続を前提に、国民主権もそっち抜けにして、いかにして皇位を継承させるかを議論しているのだ。戦前から天皇制の廃止を主張してきたマルクス主義の(エッツ!)日本共産党は、現憲法を絶対視し、女性天皇を認めたうえで、天皇制の存廃については将来の「国民の総意」によるとして大衆追随主義(いつものことだが)に堕している。

 

国民の多くは、明日、天皇制が廃止されても 戦前と戦後の変化ほどの関心も示さないだろうが、しかし、軍事予算は前年比 16%増の7兆9千億円となり、日本資本主義の帝国主義化がすさまじい勢いで進んでいる今日、天皇制イデオロギーの果たす役割はますます必要となっている(戦前の轍を踏むな!)。

 

日本の労働者は、天皇制の強化に断固として反対すると同時に、その策動を強める日本帝国主義に反対して闘わなければならない。(K)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内6月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

6 月26 日(水)18 30 分~20 30 / 県民センター703 号室

*第13 章第 1 節「機械装置の発達」から第第 3 節「機械経営の発達」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

6 12 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*第 7 章「回転期間」から第9章「前貸資本の総回転」まで学習します。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

6 月19 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*論文「われわれの革命について」他論文を読みます。

 

横浜労働者くらぶ連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

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柄谷“理論”は正しいか?――「“交換”こそが『資本論』の中心」?

神奈川で『資本論』などの学習活動をしている『横浜労働者くらぶ』の会報で、宇野弘蔵を高く評価する柄谷行人氏について、その非マルクス主義を指摘する論評が掲載されています。『資本論』の理解の一助になると考え、紹介します。(担当)―—会報での文章を一部校正しています。——

 

「“交換”こそが『資本論』の中心」!?

― 柄谷“理論”は正しいか?―

 

先月の『資本論第2巻』学習会で、Hさんが、朝日新聞(3 13 日朝刊)で、柄谷行人氏が「“交換”こそが『資本論』の中心」だ、と述べていると紹介された。私はそれを読んでいなかったが、マルクスの経済学は、生産こそ経済の土台であり生産関係によって流通の在り方も決まる、交換が中心というのはおかしい、と意見を述べた。家に帰って早速当日の新聞に載っていた柄谷氏の「私の謎 マルクスの可能性 上」を読んだ。これまで私は、柄谷氏の著作を読んだことがなく、以前週刊文春(2023.1.512 合併号)で池上彰との対談とこの朝日の連載記事でしか氏の理論を知らなかったが、それでも氏の理論は非常に問題があると感じていた。柄谷氏の著作も読まないで氏の理論を論評するのは、無責任のそしり

を免れないが、文春と朝日の対談で知ることができる限りで氏の理論を見てみたいと思う。

 

★宇野派に無批判に追随!

 

氏は昨年の同じ連載の「マルクスの本領 上」(23.8.9)で次のように述べている。「一番よく読んでいたのは、マルクス経済学者の宇野弘蔵です。『経済原論』など、入学して早速買いましたね。」「この本(鈴木鴻一郎(宇野派)の『経済学原理』)は、宇野の考えをさらに進めて見事にまとめている、『資本論』のことが初めてよく分かった」。

 

これを見てもわかるように柄谷氏は、あまりにも無邪気に宇野派の資本論理解を正しいものとしている。しかし当時においても宇野派の資本論理解には多くの批判があった。柄谷氏はそれらを検討したのだろうか? 宇野派に対する批判には触れておらず、到底そのようには思えないのである。

 

★史的唯物論はマルクスのものではない?

 

「マルクス主義の主流派は、『資本論』は大事だと言うけれども、あくまで<史的唯物論>が基礎にある。 <史的唯物論>は、元来エンゲルスが考えたようなもので、マルクスの思想とは言えない。一方、宇野派は『資本論』を緻密に再構成したのです。」

 

ここで氏は、何の根拠もなく突然、マルクスと史的唯物論(唯物史観)を切り離し、史的唯物論をエンゲルスの創始であるかに(一部のインテリも言っているが)語っている。

 

しかし史的唯物論は、エンゲルス自身が、「唯物論的な歴史観は、私ではなくてマルクスが発見したもの」(『ドイツ農民戦争』序文)と述べ、またマルクス自身も、唯物史観を“導きの糸”にしたと語っている(『経済学批判』序文)ように、唯物史観はマルクス主義の剰余価値論と並ぶマルクスの二大発見である(『空想から科学へ』)。しかし史的唯物論については、ここでは問題から外れるので問題にしないでおこう。

 

柄谷は「宇野派は『資本論』を緻密に再構成した」というが、これは宇野が、ウェーバー流に資本主義の理想型、つまり、資本主義が永遠に自己運動するという、いわゆる“純粋資本主義”なるものを考えたことを指している。こうして宇野は、『資本論』から、資本主義の生成、発展、没落を説く史的唯物論を余計な物、単なるイデオロギーとして排除したのである。柄谷の理論はあまりにも無批判に宇野派に追随しているのだ。

 

★「交換の謎」「交換の物神の力」など

―― “交換”を呪物化!

 

柄谷理論の中心は“交換”である。柄谷は次のように述べている。「『資本論』において着目すべきなのは、物の交換がもたらす観念的な力(物神)だということです。しかし、従来のマルクス主義では、”中心”は史的唯物論、つまり生産様式にあると考えられていて、”交換”の問題は”周辺”に追いやられてほぼ無視されていた。僕はそれを前面に出したんです。」(23.8.9)「<物神>という考えは、マルクスの冗談だと受け取られていました。…しかし、僕は、マルクスは本気で物神のことを考えた人だと思った。マルクスこそ、交換の謎を見ていた、と。

 

柄谷はここで、交換を何か生産様式と対立する別個の存在として考えているようだが、エンゲルスが「唯物史観は、次の命題から出発する。すなわち、生産が、そして生産の次にはその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であるということ」(『空想から科学へ』)あるいはマルクスが「生産者たちが相互に取り結ぶ社会的関係、そのもとで彼らがその諸活動を交換しあうことによってのみ、生産する」(『賃労働と資本』)等と述べていることから明らかなように、決して交換は生産と切り離されたものではなく生産様式の一部であり、生産関係そのものなのである。

 

柄谷は、「マルクスも労働価値説を引き継ぎましたが、彼の独自性は、商品と商品との交換様式から価値を考えたところにある。宇野や宇野派はこのことをつかんでいたと思います。この交換にはマルクスの言うところの<物神>(フェティッシュ)の力が関わっている。」(23.8.9) 柄谷は、「マルクスの独自性は、商品と商品の交換様式から価値を考えたところにある、宇野や宇野派はこのことをつかんでいた」というが、いったいどうゆう意味か?

 

マルクスは、交換様式から価値など考えたりしていない。彼は、単純な商品において、人間の欲望や使用価値を捨象して、抽象によって価値の実体を把握したのである。また、宇野や宇野派が「交換様式から価値をつかんでいた」というのは、宇野が、物々交換から始まって資本主義的商品の交換に至るまでの商品経済の発展が価値の実体を明らかにした、などといって宇野が抽象を否定したことを指しているのか?

 

柄谷の宇野への追随は限りがない。さらに柄谷は、ここで「交換の謎」とか、「交換のもたらす観念的な力」、「物神の力」などと述べているが、それが何であるか一向にはっきりしない。商品の物神性とは、生産物が商品になることによって抽象的人間労働が価値として現れ、その価値を、商品があたかも自然的属性のように持っているように見えることを言うのである。

 

「交換の謎」とか「交換の物神の力」などと交換に何か呪物性があるかに語っているが、マルクスが商品の物神性に似たものとして宗教を例示していることに暗示を受け、柄谷がこじつけたのだろうか?

 

★商品には価値が内在しない!?

 

さらに柄谷は次のように述べる。「いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”をはらんでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから」と。

 

しかし、商品が「価値をはらんでいない」、「価値が内在していない」としたら、価値が交換価値として現象することはないし、商品交換も生じない。柄谷は、物神性の”錯覚“がどこから来るのか分かっていないのだ。

 

マルクスは、次のように述べている。「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎に満ちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。」(岩波第1分冊p131)つまり抽象的人間労働は、生産物の歴史的形態である商品形態において価値として現象するのである。

 

★価値は「異なる価値体系間の交換から生まれる」!?

 

では、商品に価値が内在することを否定した柄谷は、どこに価値の創造を求めるのか? 柄谷は、価値は異なる価値体系との交換から生じるなどと、とんでもないことを言い出す。彼は、対談者が、「たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますよね。」ということばに答えて、次のように言う。「産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆に言うと、交換が成立しなければ、商品に価値がない」(24.3.13)と言う。

 

これは大変な商品価値の理解である! 柄谷は「交換が成立しなければ、商品に価値がない。」というが、そもそも商品は他の商品の存在とその交換を前提にしているのだ。柄谷にとって、価値とは抽象的人間労働が対象化されたものではなく、単なる“利益”にすぎない。柄谷のいう価値体系は、「場所や時代によって変わる」“値段”体系に過ぎず、「異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む」というものなのだ。

 

ここでは、価値と利益は同じものとされ、産業資本(商人資本はともかく)は、「異なる価値体系間の交換から価値を生み出す」と言うのである。産業資本は商人資本と同列に置かれ、剰余価値を労働者から搾取し利潤を生みだすのではないかに言う。商人資本と同じく「詐欺、瞞着、略奪」から利益を生み出すかに言うのである。

 

もう沢山である。初めに断ったように私は柄谷氏の著作を読んでいないが、朝日新聞の対談だけで以上の感想を持った。氏は、珍奇な宇野理論を正しいと思い込み、自分に都合の良い部分をとっているだけである。改めて氏の著作を読む気も失せてしまった。(K)

 

『労働者くらぶ』通算第40号2024424日『横浜労働者くらぶ』発行

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 5月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・5月22日(水)18 30 分~20 30   / 県民センター703 号室

*第12章第3節「工場制手工業の二つの基本形態」から第13章第1節「機械装置の 発達」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・5月8日(水)18 30 分~20 30 県民センター703 号室

*第 8 章「固定資本と流動資本」から第10章「固定資本と流動資本にかんする諸理 論」まで学習します。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

・5月15日(水)18 30 分~20 30 / 県民センター703 号室 *論文「青年同盟の任務」他2篇を読みます。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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