労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

林紘義の政治経済評論

昭和天皇と「戦争責任」ーー責任回避と人間的卑しさと

 昭和天皇に15年ほど「仕えた」侍従の日記が見付かり、その中の一部が注目を浴びている。

「仕事を楽にして細く長く生きても仕方ない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸に会い、戦争責任のことなどいわれるなど」。

 マスコミなどは、こうした天皇の発言は、天皇が晩年まで、「戦争責任」のことを「気にしておられた」──国民のために?──証拠として重大だと騒ぎ立てている。

確かに天皇にとっては、気になることではあったろう。しかし彼は一体、どんな気持で、意図で、自分の「戦争責任」について言及したのだろうか。いくらかでも、真剣で、まじめな契機があったのだろうか。それが問題である。


 自分に決定的な戦争責任があると誠実に反省してのことだ、ときっぱり言い切れる人は少ないだろう。歴代の天皇についてみても、自ら歴史に対して、自らが原因の一つになって国民が不幸や絶望や悲劇の歴史を経験したなどということで、「責任」を感じた天皇がいたということは、はばかりながら我々は浅学にして、そんな知識は余り持ち合わせていない。少なくとも、歴史と政治に直接の責任を負わなくなった、古代以降の──せいぜい平安時代、あるいは武士の時代の初期あたりから後の──天皇は、支配階級の寄生的存在として、歴史に対して基本的に責任を負うというより、自らの地位と生存を保持し、生き延びることに汲々としてきた連中、すでに歴史を前方に推し進める、社会の主役から降りた連中にすぎない、つまり〝無責任な〟、そしてむしろとことん利己的で、〝自己中心的な〟連中として、よく知られている。そんな連中が眞の意味で歴史と国民に対して「責任」を自覚し、それを背負うことはないし、ありえなかった。

昭和天皇も同様であり、彼は例えば1931年から45年までの、内外の諸国民に対して、労働者・働く者に対して露骨に抑圧的、収奪的であり、凶悪だった日本のブルジョア帝国主義の時代について自ら「責任」を感じたり、それを主体的に自覚し、引き受けるどころか、最後には、自らその加害者どころか被害者の役割を演じることで「戦争責任」の罪から逃れ、マッカーサーに助けられるなどして、1945年以降の歴史を生き延びてくることができたにすぎなかった。

彼が例えば東京裁判で「戦犯」として裁かれ、死刑になった、太平洋戦争中の〝盟友〟の東条に対し、その行為や「戦争責任」に対して、どう考えていたかは明らかになっていないが、しかし彼が東条らに対してとった態度は客観的に明らかにされている。

それは、東条ら戦犯が、靖国神社に祭られるようになったときから、天皇がその参拝を一切行わなくなったことからもうかがい知られるのである。この天皇の行為は、戦犯が祭られるようなところには行くことはできないという意思表示として、天皇の〝平和主義〟と15年戦争の歴史に対する反省と否定的意思を表明している証拠として、ブルジョア世論は〝好意的に〟解釈してきたが、そんな評価は余りに卑俗で、ばかげている。つまり天皇は15年戦争の時代を通して、常に、あるいは原則的に〝平和主義者〟だったという、あり得ない、愚劣な神話を彼らはいまだに信奉し、振りまいているのだが、しかし天皇が基本的に15年戦争を肯定し、その戦闘に立ちさえしてきたという事実はあり得ても、一貫して反戦平和の戦士であり、英雄であったなどという証拠はどこにも存在していない(戦争をして大丈夫かといった、〝個人的な〟危惧を表明するといったことはあり得も、である。しかしそんなものも、国民のことを心配してとのこととは全く別で、大規模な戦争を始めて、もし負けたときはどうなるのだといった、天皇としての自分の地位が動揺し、責任を問われることを心配しての、個人的動機からする発言でしかなかったのである。東条らが、大丈夫ですと保証すれば、それで簡単に満足する類の疑惑である)

東条は東京裁判の当初、自らの戦争責任を問われ、天皇の意思に反して戦争を始めたと非難された時、自分は骨の髄まで天皇制主義者であり、天皇の意思に反して太平洋戦争を始めるはずがないと抗弁したが、しかしすぐに自らがすべての責任を負うかの立場に転向し、その立場を最後まで貫いた。自分の天皇制主義者としての「信念」を貫けば、戦犯の追及が天皇に及ぶことになると悟ったから、あるいはそのように外部からいわれ、強い圧力を加えられたからであろう。かくして天皇は自らの「戦争責任」をほっかむりして明らかにせず、マッカーサーに助けられて、天皇の地位を守り通したのである。

客観的に、東条は天皇の責任まで自ら背負って死刑になったともいえる。天皇にとっては、命と地位までも守ってもらった真の〝忠臣〟であり、大恩人である。

しかし昭和天皇は、自分はアメリカの戦後政策を受け入れ、東京裁判の結果を尊重し、戦後の天皇として生きてきたから、仮に東条らが「戦犯」の汚名をそそがれ、靖国神社に祭られるようになっても、そんなところにお参りできないという態度をとったというわけである。かっこうよく振る舞い、筋を通したかに振る舞ったというわけだが、ある意味で、徹頭徹尾利己的で、これ以上ないない厚顔無恥とさえいえる。昭和天皇の見え透いた態度は空々しく、果たして東条らに対して忘恩の振る舞いではないのか(右翼反動派は、天皇に相応しくない──というのは、天皇は完全無欠の道徳の鏡でなくてはならないから──言動を見過ごして、なぜ告発し、非難しないのか)

昭和天皇も、自分たちが生き延びるために、ありとあらゆる策略や権謀術数に溺れ、巧みに、陰険に支配的諸勢力を〝手玉にとり〟、利用しながら──そして利用のしがいの無くなった者たちを冷淡に、無造作、無慈悲に切り捨てながら──生き延びてきた、歴代の天皇たちと同じような、卑しい策謀家ではなかったのか。

昭和天皇が、自らの「戦争席に」を気にしていたといっても、それは単に、すでに東京裁判で〝無罪〟となった、自らの「戦争責任」が改めて問題になり、喧喧囂々(ごうごう)の議論と検証の対象となり、自分の「責任」が問われることを恐れてのことだけであって、真摯な反省などといった心象とは何の関係もない。

長い歴史の荒波の中で〝鍛えられ〟、生き延びてきた天皇一家の連中は、そんな〝ヤワな〟連中ではない。

天皇一家は、いま〝平和主義的ぼけ〟に浸りきっている日本のブルジョアやプチブルや遅れた労働者・働く者の中で──今ではブルジョアだけでなく、共産党まで天皇制の有益な役割を持ち上げ、賛美する有様である──、彼らの偽りのアイドルとして、偽善的に〝平和主義者〟を演じることで、その延命を図るに急である。それもまた、天皇一家の歴史的に身につけてきた、〝自然な〟行為もしくは〝深謀遠慮の〟知恵であり、また自らの延命策動である──それ以上のものでは決してない──ということを、労働者・働く者は確認しなくてはならない。

天皇一家は戦後、神でも、その子孫でもなく、単なる「人間」であり、特別の人間でさえないと自ら語ったのだから、今や労働者・働く者は、天皇一家を、欲も煩悩も俗物根性も偽善も人並みに──というより、普通の労働者・働く者以上に、はるかに執拗かつ強烈に──有し、自らの利益や地位を守るためにありとあらゆる努力や策謀にふける、ブルジョア支配階級内に繰り込まれた「ありふれた」人間集団として、汚い偽善者集団として評価し、扱い、処遇することを学ばなくてはならない。

 

西部邁の自死

『海つばめ』で健筆を揮う林さんが、西部邁の自死について文章にしたためました。西部の生き様もさることながら、60年安保闘争の一断面を知ることができる興味深いものですので、紹介します。

 

西部邁の自死


 西部が自死した。病気を苦にしていたということもあるらしいが、80代に差し掛かって「覚悟」の自殺にも見え、〝虚無主義〟
(ニヒリズム、と外国語でいった方が、西部にふさしいか──北海道の田舎のくせに、彼は案外ダンディで、気取るところがあったから)を底に秘めていた、いかにも西部らしい死に方だと思った。私にそんな潔い勇気があるかは心許(こころもと)ない。


 信州の片田舎から出てきた、ぽっと出の、単純素朴な〝ヒューマニスト〟だった私が〝学生運動〟に〝主体的に〟参加を決意し、自治会の常任委員に進んでなったのは、やっと2年に進級する前の春休みからであって、1年生の私は自治会の連中に反発する〝ノンポリ〟で、せいぜいクラスの自治委員をやったり、デモには〝義務感から〟参加する程度の、小説を読みふけるくらいが関の山の学生だった。


 2年生になる前に「これではいけない」と反省し、常任委員に自ら自治会室に行って申し出ると、そこにいたのが坂野潤治であった。4月から西部が入学してきたが、彼は1浪している間に、考えるところがあってか知らないが、入学と同時に学生運動に積極的に参加してきたので──その点では、故樺美智子と同じだった──、たちまち私と西部の人生が交わることになった。


 共産党からブントに移り、安保闘争を共に闘い、そしてプロ通派のメンバーとしてブントの〝分派闘争〟と終焉までを共にしたが、その後の道は全く分かれてしまった。彼は青木らと共に〝ブル転〟し、青木昌彦らと共にブルジョア的、反動的な陣営に移ってしまった。


 青木は私より半年早く生まれ、西部は私より半年遅く生まれたので、私は年代的には丁度2人の真ん中に位置していたが、1958年早春、始めて3人は学生運動の場で出会い、61年早春のプロ通派の解散の時まで、ほとんど同じ経歴をたどったことになる。


 もちろん、青木は私より1年先に入学し、私が入学してすぐ、自治委員になり、原水爆反対のデモのことで、クラス討論の相談で自治会室に行くと、そこに常任委員の青木がいたから、青木との出会いは57年4月だが、運動家として青木と関係するのは、58年の春である。付言すれば、58年5月、私を共産党に──従って社会主義、共産主義運動と名のつくものに──誘い込み、誘導し、私の運命を狂わせた悪い男は青木で、「林は小説家になりたいのだろう。そしたら、色々な経験をしておかなければ」と言葉巧みに誘惑した。


 58年夏、全学連は広島の原爆反対の世界大会に動員をかけ、平和主義に反対するデモを敢行したが、そのとき、東京から広島まで夜行列車で、西部らとともに、満員列車の通路にたむろし、語り合いながら行ったことを思い出す。


 西部が59年、志に反して?、駒場自治会の委員長に祭り上げられ、学生運動のヘゲモニーを巡って59年から始まったブントと共産党との泥仕合の中で奔命に疲れせしめられ、消耗し、苦悩することになったのは、青木や清水らの意思と画策のためである。


 59年秋の国会突入の年、すでに私は全学連・都学連の常駐のメンバーとして、首都の学生運動のために24時間フルともいえる活動に走り回っていたが、そんなとき、日比谷野外音楽堂で駒場自治会の委員長として学生を導いてきた西部とちょっと立ち話をした時があった。


 彼は、委員長職に対するグチらしきものを漏らしたが、突然どんなきっかけからかは覚えていないが、「しかし俺は林が好きだょ」と言われた。私も、西部にはどこか理解できない所があると感じつつも、人間として憎めないところがあり、彼が嫌いではなかった
(これは青木や清水についても同じで、青木を「ブルジョア的だ」と毛嫌いした兄からは、「お前は青木・清水派だ」と断じられたくらいである。確かに後に兄の分派──愛知分派──でなく、プロ通派=〝プロ通左派〟に属したのだから、そういわれても仕方なかった)


 青木も西部も〝ブル転〟したり、〝バック転〟
(〝保守派〟、反動派への転向)したが──私の理解しがたいところだが、彼らの根底にある、階級的な本性が出たということか──、また彼らのような器用な生き方のできない私は〝転向〟できず、彼らと道が分かれ、それ以降、どんな学生運動当時のあれこれの仲間意識の会や集まりに全く出なかった。


 だから、個人的な付き合いは一切無かったが──これは兄に対しても同様である──、〝あの世〟に行ったら、彼らとも話すことができるかも知れないとも思う
(樺美智子も交えて?)。 (林 紘義)

〝黒幕〟は安倍政権そのもの

〝黒幕〟は安倍政権そのもの

法違反と不正と虚偽のオンパレード森友学園

 

 森友学園の経営についての追及が進むにつれて、公金横領や詐欺や補助金の略取や、等々どれだけの腐敗が出てくるか分からないような状況になっている。幼稚園の内容も、3才から天皇制国家主義の教育という、安倍政権の理想そのままに、あきれはてたものが暴露されている。安倍政権や反動派も今や、経営者の籠池は教育者の名に値しないとか、森友学園の教育は教育ではないとか云いはやし始めている。これまで、散々に森友学園でやられていた〝教育〟なるものを美化し、持てはやし、チヤホヤしていたかを忘れたかに、である。そして今や、国有地を買い戻すと云った、姑息な手段で、この事件の幕引きを図ろうとしています。もちろん、労働者、勤労者はそんなことを許さず、安倍政権の打倒まで、この闘いを拡大して行かなくはならない。

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★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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