労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

書評、新書紹介

『ブラックボックス』(芥川賞受賞作)はプロレタリア文学か?

〈文芸時評〉

 

『ブラックボックス』(芥川賞受賞作)はプロレタリア文学か?

 

 第166回芥川賞を受賞した砂川文次(すながわぶんじ)氏の小説『ブラックボックス』について、審査委員の一人である奥泉光(おくいずみひかる)氏は次のように評した。

 

 「格差社会の底辺で生きる人物を描いた現代のプロレタリア文学。古風なリアリズムを前提に、書かれるべき切実さが小説に滲み出てくるような力感があった」。

 

 この〝現代のプロレタリア文学〟という批評に惹かれて、この小説を読んでみることにした。

 

 28歳の青年サクマは、今はやりの〝自転車便メッセンジャー(配達人)〟として大都会東京で働き、暮らしている。それまで自衛隊や不動産屋、コンビニなど様々な職を転々としてきたが、空(くう)に拳(こぶし)を突き出すような苛立ちと、短気さ、暴力という形でしか意思を現わし得ない行動で、どれも長続きしなかった。今は、煩わしい人間関係の無い、ある面「自由」で、一定の収入を稼げる配送人として働いている。

 

 物語は、交通の激しい都心を自転車で配送先に向かう途中、車と接触し自転車ごと転倒する場面から始まる。その転倒前後のシーンの描写は実に緻密だ。接触し、転倒し、起き上がる、それを事故調書のごとく描く。また、走りながら彼の視界が捉える街の様子も、まるで住宅地図を虫眼鏡で精察しているかのようだ。ビル、行き交う人々、走り去る車……風を切って急ぐゆえに、サクマの視界は狭く、それらをいちいち認識できないであろうが、あたかも一つ一つ視界が捉えているかのごとく描く。現実的にはありえないことではある。

 

 自転車便は、急を要する依頼が多く、出来るだけ早く、1時間後くらいには希望先へ届けねばならない。金融関係や一般企業、デザイン・設計事務所など、ビジネス街からの発注が多い。東京だと丸の内・大手町周辺からということになろう。

 

 運ぶ物は、書類関係や箱物・筒状の荷物がほとんどで、自分の属する会社(事務所)から、所持するモバイル携帯に入る発注先の情報を得て、配達物を受け取り、指定された場所へ一刻も早く届けねばならない。

 

 時給は1350円~1600円で、頭数をこなせばそこそこの収入になる。届けが終了したら、また携帯に連絡が入るので、公園などで待機し、次の発注先の元へと向かう。体力が許す限り、これを毎日繰り返す。よつて、従事者は若年労働者に多く、もちろん非正規労働に入る。

 

 1日が終了したら会社(事務所、取り次ぐ正規労働者が23名いる)に戻るも良し、直接自宅に帰るも良しである。

 

 煩わしい人間関係も身分上の上下関係も無い、一見気楽な(という風に見える)個人営業の仕事である。

 

転倒したサクマは、配送物を先輩でもある同僚に急遽頼み、動かなくなった自転車を引きずって事務所に戻り、自転車の修理に取りかかる。事務所の彼のロッカーには、修理用の用具や自転車のパーツが揃えてあって、数時間で修理を終える。彼は自転車のパーツにもやたらに詳しい。

 

アパートに帰ると、円佳という女性がいる。彼と同棲しており、二人の日常会話は至極短く、肉体関係を除けば、二人の精神的交流や互いの愛情は薄く、彼は暇があればゲームをし、それぞれ勝手に暮らしているという風だ。

 

 配送便を頼んだ先輩の同僚は、近々この仕事を辞めて、アパレルショップを開くという。それを聞いて、後輩の同僚が、同調を求めるごとく、この仕事の将来への不安をサクマに語るが、サクマは関心を示さない。

 

 ただ〝遠くへ行きたい〟というのが、サクマの前からの願望で、それがただ家から離れるだけのことなのか、それとも遠い外国へ行きたいと言うのか、紛争地域のような刺激性のある世界で生きてみたいと言うのか、それがどういう意味なのかは最後までわからない。ただ、「圧迫感のある」家を出るという目的で働き始めたと言うから、家での生活は何らかの理由で居づらく、居心地の悪い環境であったことが覗える。

 

 今日、一定の目標や生きる目的が持てず、人間関係も希薄で、友人もおらず、しかも非正規労働のような不安定な生活を強いられる若者は大都会には多い。そうした生活は、自ずと孤独感を募らせ、自堕落な刹那的気持ちに陥ったり、そのはけ口として自暴自棄になったり、刹那に流されて一時の快楽を求めることもある。そういう意味では、サクマは暴力的であることを除けば、一般的な非正規労働の若者の姿であり、その心象は外からでは伺うことのできぬ「ブラックボックス」(暗箱)みたいなものである。

 

 小説の後半は、いきなり刑務所の生活を描く。突然場面が刑務所になり、読者は戸惑う。暫く読み進めるとその理由が判明する。サクマは、今まで居場所を転々としたため税の滞納があり、その請求のためにアパートにやって来た税務職員の若い方を「笑っている」という理由で、突然ぶん殴り、駆けつけた警察官にも暴力を振るい逮捕された。それで刑務所送りになったのだった。

 

 6人部屋雑居房での生活や、そこで共同生活をする人たちを描きながら、房と作業場を往復する刑務所の生活を細かく紹介する。その描写も緻密だ。これは体験した者でなければ描けないと思わせる。

 

 しかし、ここでも、仲間の一人をいじめる奴がいて、思わずそのいじめる囚人に飛びかかり、鼻骨を折るほどの怪我をさせ、とうとう独房送りとなる。

 

 この50日間にも及ぶ独居房生活を、一日中何もせず、ただひたすら部屋の中央で座り続けねばならない苦痛を描く。この刑務所生活の中で、過去の自衛隊の上官の話や、円佳が妊娠した話などが語られる。妊娠した円佳から手紙が届くが、返事は書かない。手紙を房内に置かれた読み古された少年ジャンプに挟み込む。

 

 独房生活から解放されると、彼は一日も早い出所を希望するようになる。出所という目標に向かい日々進む日常に、何故か安らぎじみたものを感じている。それは、出所という目標があり、それにのみ心を傾けられるという安定した精神からきている。出所すれば、また重い現実が待ち受けるのだが、出所という目標を得て、彼の気持ちは穏やかなものとなっていく。やはり人には、当面でもあれ、生きる目標や目的が必要なようだ。

 

 『(この先)「どうなるかは誰にもわからない。それでいい」。円佳からの手紙は忘れよう』という言葉で、なぜ「それでいいのか」を語ることなく、中途半端なままにこの小説は終わる。

 

 果たしてこの小説は〝現代のプロレタリア文学〟と言えるであろうか。奥泉光氏が評するように、「格差社会の底辺で生きる人物」をありのままに、子細に描写しているという意味では「古風なリアリズム」風ではある。しかしそれは単なる写実主義である。

 

 資本により搾取され、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描き、そうした社会を変革しようとする自覚と行動に立脚した文学、読む者、とりわけ労働者に感動と勇気と未来を指し示す文学を「プロレタリア文学」とするならば、この小説はありふれた単なる私小説である。

 

 「底辺で生きる人物」をリアリズム風に描けば、それが「プロレタリア文学」であるというわけではない。第一、作者はサクマをあくまで客観的に描こうとするが、彼の生活をプロレタリアの生活と捉え、社会からはじき出され、虐げられた厳しい現実と向き合わせるということをさせない。ただ怒りにまかせて暴力を振るわせるだけである。対談における作者の次のような下りが象徴的である。少し長いが引用しよう。

 

 「サクマは低所得者で非正規、個人事業者ですが、そうした人たちは保護するべき、希少動物でしょうか。私にとって、労働者は弱者ではなく強者なのです。現場で肉体を駆使して働いている。使う側より、そちらのほうがめちゃくちゃカッコいい。だから非正規とかギグワーカーといった文言にこめられた、保護とか弱者というニュアンスに対して拒否感や忌避感を抱いてしまう。サクマなら『か弱い人たち』の言葉だというかもしれません。……国として行政として、目指すべき制度、理想の状態はあるし、そうした議論は私もよく目にします。しかし『あちら側』の人たちは制度の話で止まっていて、サクマたちの本当の生活や感覚にもどこまで寄り添えているのか。…サクマであれば、殴って解決しようとするかもしれませんね。自分を安く使っているヤツもムカつくし、それにゴチャゴチャ言ってるヤツもムカつく。『うるせえ、ゴン!』みたいに」(『文芸春秋』3月号受賞者インタビュー、252)

 

 「労働者は弱者ではなく強者」で「現場で肉体を駆使して働いている」から、「使う側より、その方がめちゃくちゃカッコいい」。「非正規とかキグワーカー(単発で仕事を請け負う働き方をする人)と言った文言に込められた、保護とか弱者というニュアンスに拒否感や忌避感を抱いてしまう」と砂川氏は言う。

 

 彼がそう思うのは、昨今の政府や政治家議員、既成政党、評論家たち、つまり「『あちら側』の人たち」が、彼らを『か弱い人たち』として、欺瞞的な、形だけの保護政策を主張したり、取ったりしていると考えているからで、それへの怒りがある。それは全くその通りで、例えば安倍首相(当時)が唱えた非正規労働者への「同一労働同一賃金」や「非正規から正規へ」などか典型的であろう。非正規の賃金は同一どころか、正規とは益々かけ離れ、その職さえ失い、非正規労働者の数は今や四人に一人で益々増えるばかりである。

 

 労働者が「強者」となるのは、資本や権力に対し、何万、何十万と団結して立ち上がった場合であって、孤立した状態では、肉体労働だろうが、何であろうが「弱者」である。サクマが自転車便の仕事を失えば、立ち所に食うに困り、すみかも追われるであろう。妊娠した円佳が失業すれば、幼子を抱えて、どうして生きていくのか。砂川氏は労働の意味も、労働者の立場も理解していない。

 

 最後に砂川氏を紹介しよう。砂川氏は1990年大阪府吹田市生まれの32歳、デビュー作は『市街戦』(文学界新人賞)で、イラク紛争に身を投じたKを描いた。

 

 司馬遼太郎の『坂の上の雲』に憧れて、自衛隊に入隊し、攻撃ヘリの操縦士となる。現在は地方公務員である。

 

 対談によると、自転車便の経験があるかどうかは不明だが、刑務所に入った経験は無く、知り合いから聞いて描いたという。きわめて「安定した」職業の経験者である。

 

 また、芥川賞授賞式で、砂川氏は次のようなスピーチをした。 

 

  「もうしゃべって大丈夫ですか?めちゃくちゃ緊張してるんですけど、っしゃあオラあ!! 海の向こうで戦争が起こっていて!くそみたいな政治家がたくさんいて!そういうものに怒りを感じながら書いていたような気もします。よく聞かれるんですけど、怒ってない気持ちがないわけないじゃないですかあ。っという気持ちです。」と絶叫した。

 

  芥川賞がどういう基準で選ばれるのかは知らないし、興味も無いが、審査員によって候補作がひとつ、またひとつとふるい落とされて、この作品がたまたま残ったというところであろうか。こんな小説が芥川賞に該当するものなら、この賞も地に落ちたものである。読みながらの退屈さはたまったものではない。自転車便という仕事や刑務所内の暮らしぶりはよくわかるが、ただそれをくっつけただけのことである。 ()

佐々木隆治著「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)を論ず

《書評》佐々木隆治著「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)を論ず

 

マルクスを改良主義者に仕立てる学者の一人

――職種別・産業別労働組合の賃金闘争は資本の「物象の力」を削ぐ力と

 

『海つばめ』1395号の「ジョブ型雇用に転換急ぐ企業――『ジョブ型労働社会』論では闘えない」にて、佐々木隆治氏が職種別・産業別労働組合の闘いがあたかも「私的労働としての性格を緩和させる」ことができるかに論じたことを批判した。

 

佐々木氏はマルクス主義経済学者であり『資本論』解説本も出しているが、労働者のために真に労働の解放を目指して闘うのではなく、結局は、マルクスを改良主義者に仕立て上げる学者たちの一人になっているようだ。

 

◎マルクスの改良主義的主張とは?

 

今回、ここで敢えて佐々木氏の理屈を取り上げるのは、彼が職種的・産業別労働組合を正しく導くのではなく、賃金闘争を祭り上げ、結局は労働組合運動を改良的闘いに切り縮めていると判断できるからである――ここで取り上げる佐々木氏の「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)は、大分前になるが、ある地域の『資本論』学習会にて佐々木氏と懇意にしている方から是非読んでくれと紹介され、読後感として「佐々木氏は構造改革論者なのか、労働者として受け入れがたい」と疑問を表明したことがあった。この私の感想が彼に伝えられたとも聞いていた、そういう関わりのあった本である。

 

佐々木氏は次のように言う。

「現存の資本主義社会のもとで、できるかぎり物象の力を弱め、労働の自由を実現しようとする実践に取り組むことである。なぜなら、そのような実践によってこそ、アソーシエイトした諸個人の力量を高め、資本主義的生産様式のラディカルな変革のための条件を形成することができるからである」として、マルクスも言っていることだとしながらその実践方法を3つ挙げている。

 

その第一は「労働時間の規制による自由時間の拡大」である。その理由は自由時間の拡大は「資本への直接的従属から解き放たれ、必ずしも物象の論理に包摂されない、あるいはそれに対抗するための社会的活動に従事する可能性が生まれるからというものだ(178~179頁)。

 

第二は、「物象の力を生み出す根源となっている私的労働という労働の社会的形態を変容させることである。つまり、それをアソーシエイトした諸個人による共同的労働への置き換えていくことである。マルクスは共同的労働においてこそ、物象化を抑制し、自由が可能になることを見抜いていた」、「もちろん、共同労働は資本主義的生産関係の内部では部分的にしか実現できない。例えば生産者協同組合はある意味では生産者はアソシエーション(諸個人のアソーシエイトにもとづく結社)だということができ、マルクスも高く評価するが、それが一つの企業であり、他の資本との競争にさらされている限り、それは依然として私的労働にとどまっている。しかしながら、労働者たちが生産的協同組合や労働組合の活動を通じて結合していくことは、アソシエーションの基礎を作り出す。とりわけ、労働組合は企業を越えて職種別・産業別に組織され、労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させるとともに、職種的ないし産業的規制を要求し、私的労働としての性格を緩和させることのできる力をもっている」(179~181頁)。

 

第三は、「労働者の生産手段にたいする従属的な関わり方を変容させていくことである。…賃労働においては、このような生産者と生産手段の自由な結合の可能性は剥奪されているが、部分的に取り戻すことは可能である。それは、現代では労働組合による経営権への関与というかたちで実際に実現されている」(182~184頁)。

 

◎「生産者協同組合」は貨幣や資本の力を弱めているか

 

マルクスを改良主義者に仕立て上げるのはとりわけ第二と第三である。

まず、第二で佐々木氏が主張するのは、資本の「物象の力」を弱める方法についてである。彼のいう「物象の力」とは、はっきりした定義をしていないので分かりにくいが、「貨幣や資本など」のことのようだ。佐々木氏は「共同労働においてこそ物象化を抑制」すると言い、資本主義においても「共同労働」が部分的に成立する場合がある、それは「生産者協同組合」であり、これは「生産者によるアソシエーション」であると言う。「生産者協同組合」では「共同労働」が部分的に成立している、それゆえに「生産者協同組合」は「貨幣や資本」の力を、資本主義そのものを弱めていると佐々木氏は主張する。

 

それでは「生産者協同組合」とはどんなものかを見て行こう。生産者協同組合は決してめずらしいものではなく、現在では色々な職種別の協同組合が設立されている。農業協同組合や漁業協同組合や各種工業協同組合などがあり、全国で多数が組織されている(児童保育や小売りや信用などの協同組合も含めるなら全国津々浦々にある)。

 

これらの生産者協同組合では、生産手段の共同管理や貸出や共同市場の開催・販売などが行われている。いずれも目的を一緒にする中小企業の経営者・個人経営者が組合に出資して組合員資格を得、組合の諸手段の共同利用や相互扶助を受けることができるようになっている。

 

こうした生産者協同組合もまた一種の企業体であり、「私的労働を廃棄しない」と佐々木氏も認識するのであるが、それにもかかわらず、敢えて資本の「物象化」と闘う「生産者によるアソシエーション」だと美化する必要性があるのか。協同組合に参加する生産者は生産手段を持ち、中には多数の労働者を雇う生産者も無数に生まれている。生産者協同組合に参加する生産者は、最初は個人的でも次第に労働者を雇い搾取する生産者、立派な資本の体現者になっていくのだ。

 

中小零細企業主の彼らが生産者協同組合に参加するのは、大企業からの厳しいコストダウンや品質管理や絶対的な納期対応を迫られる中で、また市場での価格競争にさらされ、常に危機意識を持っているからである。彼らは、こうした荒波を少しでも防ぐために組織している。

 

生産者協同組合に参加する小生産者の意識は佐々木氏が期待するほど〝革新的・革命的〟ではない。資本の「物象化」と闘うという意識がこの中で育っているとはお世辞にも言い難い。漁業や農業や工業の中小零細企業の経営者は、全てではないが、基本的に自分達の小生産や遅れた産業の保護を要求するという保守的な立場にたつ。これは、彼らの個人的な問題ではなく、小規模生産者の置かれた地位から必然的に生まれてくる自己防衛的な観念なのである。それゆえに、生産者協同組合は政治的な圧力団体としても表に登場してくるのである。彼らは政権政党や民族主義政党(共産党など)や地域政党に〝圧力〟をかけ、それと引き替えに支持・支援する。

 

企業が破産し労働者自身が工場を占拠し自主管理で生産を継続するような例もある。この場合は、正式には生産者協同組合とは言えないが、労働者の自主管理生産というくくりで見ることができよう。

 

例えば、かつて名を成した「ペトリカメラ」(カメラメーカー)では、労働者が資本の倒産・破産に抗して闘い、生活のために自主生産を始めた。だがカネ・部品の調達や品質管理・生産管理においてうまく軌道に乗らず、労働者の賃金は「倒産時の6割」にまで下がってしまった。だが、その後に別会社として再建された「ペトリ工業」は、新たに雇用したパート労働者に依存する経営となった。このように、ペトリの労働者自身の自主生産の場合でも、結局は組合幹部が社長=経営者になり、資本間の競争に打ち勝つために労働者に長時間労働や低賃金を強いる結果にならざるをえなかった。こういう例が多いということだ。

 

以上、生産者協同組合を具体的に見てきた。

佐々木氏は生産者協同組合を「アソシエーション」(社会主義的?)と規定する。なぜなら、生産者協同組合は「共同生産」が一定程度成立しているから資本主義と闘っている、つまり資本主義の「物象の力」を弱めていると言う。佐々木氏がそう思うのは自由だが、現実を分析すれば分かるように、佐々木氏の観念は途方もないものである。それゆえに、読者にとりわけ労働者に対して誤った観念を与えるという意味で極めて反動的である。

 

◎マルクスは生産者協同組合を「高く評価」したのか

 

佐々木氏に言わせると、マルクスは生産者協同組合を「高く評価」していたとのことだが本当か。むしろマルクスは生産者協同組合運動に対して全面的に賛成したのではなく、一定の条件の中で支持したのではなかったのか。マルクスは1864年9月28日に行われた「国際労働者協会創立宣言」の中で次の様に述べていた。

 

協同組合運動が「原則においてどんなにすぐれていようとも、また実践においてどんなに有益であろうとも、協同組合運動は、もしそれが個々の労働者のときたまの努力の狭い範囲内にとどめられるなら、独占の幾何級数的成長を阻止することも、大衆の不幸の重荷を目にみえて軽くすることさえも、けっしてできないであろう」(国民文庫=15、大月書店刊、22頁)。

 

要するにマルクスは社会変革の道具となる限りで、協同組合的生産を支持していたのは明らかであろう。先に紹介したペトリの自主管理生産の例でも明らかなように、この闘いは一時的な労働者の利益につながったが、社会的な広がりと大きな協賛とその後に続く動きはなかった。つまり、ペトリの闘いもまた、マルクスの「国際労働者協会創立宣言」で述べた評価と重なるのである。

 

マルクスからいくら引用してもいいが、間違った引用をするのは良くないし、労働者を惑わすもとになる。マルクスの発言を一部切り取り、しかも現実の諸条件を分析しないならば、生産者協同組合が資本主義の「物象の力」を弱めるといくら唱えても、それは空念仏のたぐいなのだ。

 

◎労働組合活動は「私的労働としての性格を緩和」するのか?

  ――私的労働の廃止による共同体社会とは何か

 

また、佐々木氏は生産者協同組合もさることながら、労働組合の活動についても独特の位置づけをする。彼は次の様に言う。

 

「とりわけ労働組合は企業を越えて職種別・産業別に組織され、労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させるとともに、職種的ないし産業的規制を要求し、私的労働としての性格を緩和させることのできる力を持っている」。

 

そこで、以下では労働組合とは何かを考え、さらにそこに止まらずに労働者の進むべき方向を問う。その上で佐々木氏の労働組合論を論じたいと思う。

 

労働者は資本に雇われている間だけ働き、賃金を得て生きていくことができる存在である。このことはどんな労働者も知っていることである。労働者は、資本に労働力を売る「賃金奴隷」であるゆえに、労働組合に結集し、労働者自らの生活と権利を守ろうとすることも周知の事実である。

 

従って、労働者が労働組合に団結し賃金闘争を闘うのも、自らの生活維持費を得るためであり、物価が上がれば労働者はその後追いを迫られるのである。賃金闘争は資本と賃労働の関係が続く限り永遠について回るものであり、その意味で階級闘争の一断面である。

 

しかし労働者は賃金闘争(労働組合運動)に止まることはできない。

「賃金奴隷」のくびきから解放する思想と闘いの必要を自覚した労働者は、労働組合運動の意義を認めつつも、労働者自らが労働の解放を求める政治的・思想的闘いに、すなわち「労働者党」に参加するようになるし、そうして階級闘争を発展させて現実を変革するのである。

 

労働の解放とは、資本と賃金労働の社会関係の廃絶であり、資本主義の基礎である商品関係の廃止でもある。資本主義では、労働力(労働能力)もまた商品となる。この労働力商品の価値とは、労働力を再生産するための労働者の衣食住の費用と規定される。労働力の価値規定に従えば、教育費や専門的修業費がこの中に含まれるのであるから、専門的技術者(医者も)や研究者などの「複雑労働」者の労働力商品の価値は当然に大きく、これが賃金差別の基礎となり、ブルジョアでさえこれを利用する。

 

しかし、労働者がめざす高度な共同体社会(生産手段は社会的共有)では、今まで各人各家庭が背負っていた子供の保育・教育、技術的育成、医療や親の介護などは社会化される。従って、資本主義における賃金は、労働力の価値に基づき、各人各家庭の生活の違いがそのまま労働力の価値規定として反映されていたが、共同体ではこうした違いは無くなっていく。

 

従って、共同体社会では、全ての労働可能な共同体成員は生産(生産的労働)に参加する「労働時間」に基づいて消費財を受取ることができるようになる。つまり各人が生産へ参加し消費財の分配を受け取る関係は透明となり、「単純労働」とか「複雑労働」の概念は不要となり、職種や男女差や人種の違いなどによる一切の差別はない。

 

さらに、この共同体は資本主義と違って、人々が福祉を広く享受できる社会である。高度な生産力を利用して(より数多く生産すると言う意味ではない)、さらに格段と短い労働時間で必要な生活手段を得ることができるようになり、それだけ「自由な」時間も拡大する。

 

それにつれて、今まで社会的生産に参加した「労働時間」に規制されて消費財の分配を受けていた関係は緩和されていき、各人は「能力に応じて喜びをもって働き必要に応じて分配される」ようになる。また、労働不能の人々には「共同体原理」において、共同体の一員として、社会的生産からの控除によって生活が保障される。

 

各人の社会的生産への参加は自主的で創造的であるが、他方で社会的である。社会的であるのは、各生産の場で自主的にかってに生産するなら、たちまち過剰生産または過少生産をもたらすからである。全社会的な生産と分配を合理的に計画しなければならないのである。また各生産の持ち場においても、各人は共同的・民主的な運営を行うのはもちろんである。

 

それゆえ、資本主義では雇用される限りで生きていけるにすぎず、雇用されても非正規労働であれば明日の仕事があるのか絶えず不安であり、安息日は無かったが、共同体ではこうした不安は皆無となり、全ての人々による共同労働と互助に支えられて、資本主義では発揮できなかった人々の限りない能力が発揮されるようになる。

 

労働時間の大幅な短縮は各成員の自由な時間を保証するが、そのためにも、一定の高度な生産力は必要とされるのである。斎藤幸平氏が言うような「スローダウン」の生産と消費を強いるならば、決して高度な共同体社会(共産主義社会)を実現することはできない。もちろん、この共同体社会は利潤追求のためではない、従って、環境に最も配慮した社会になるのであり、それを前提とした社会的総再生産を実行していくのである。

 

回り道をしたが、それでは佐々木氏の労働組合論に戻ることにする。

佐々木氏は職種的・産業別に組織された労働組合が「労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させ」、「私的労働としての性格を緩和させることのできる力を持っている」と言う。まるで労働組合の賃金闘争は、資本の力を弱め資本主義の廃絶に接近させるかである。高賃金によって個人消費を拡大し国民経済を回復するという共産党系学者は多いが、佐々木氏のように、労働組合の賃金闘争を革命闘争のように持ち上げる組合主義者はいてもマルクス主義経済学者はそういない。

 

佐々木氏の労働組合論は、結局次のような結論になるしかない。

労働者は職種別・産業別労働組合を組織し、そのもとで高い賃金を得る闘争に専念していれば、資本主義を弱める運動になるというものであり、結局は労働者を労働組合運動に専念させ、埋没させて、改良主義を強いるのだ。それでいいのか、佐々木氏よ。

 

◎経営参加をも美化し、構造改革派の本性を暴露する

 

 第三で、佐々木氏が推奨することは、労働者の経営参加についてである。

労働者は生産手段から切り離されているから、「経営権に関与」し、つまり経営参加をかちとることができれば、労働者が剥奪されている「生産手段との結合」を取り戻すことが出来ると言う。

 

ここにも佐々木氏の構造改革派としの本領が発揮されている。

労働組合の幹部が経営に参加し、企業経営に影響を与えるとしても、それは強力な労働者たちの闘いがあってこそ諸要求が実現できるのではないのか。しかも現実に労働者の闘いが発展する場合には、経営参加などという牧歌的な構想はどこかにすっ飛んでしまうのが普通である。こんなことは労働組合運動の歴史を紐解けば、直ぐに分かることである。

 

そもそも労働者側と経営者側の要求や思惑が最初から一致するのは、労働者側の賃金アップや労働条件改善要求ではありえず、経営者側の要求するラインのスピードアップや作業効率改善や品質改善運動でもありえない。

 

利潤を追求し他社との競争に勝つために、労使が一丸となるのは、経営者側の要求を労働者が受け入れた場合が多い。その限りにおいて、労使は一体となり、経営参加が上手く機能するのである。戦後の右派労働運動が労使協調路線の上で労働組合幹部が経営協議に参加し、その結果を労働者に押し付けてきた。それゆえに経営参加に積極的な組合幹部は「第二労務部」と労働者に比喩されて来たのではなかったのか。

 

佐々木氏は生コンの労働組合が環境規制を実現させた例をあげているが、その場合でも労働者側が強い要求を突き付けたからであって、経営参加という仲良しクラブの会合の成果ではなかったはずだ。ここでも、佐々木氏は経営参加に「生産者と生産手段の結合」を見出すのであるが、結局は、労使協調路線を賛美する結果になってしまっている。こうした結果を招くからこそ、安易にマルクスの言葉をちりばめるのは止めた方がいいのである。

 

最後に、佐々木氏のような構造改革論(白井聡氏や斎藤幸平氏らの主張もそうであり、別の機会に取り上げたい)を労働者は乗り越え、労働の解放をめざす理論的組織的な闘いに立ち上がるよう訴える。   (W)


《MMT派経済学批判を特集》『プロメテウス』59号発刊

労働者党理論誌『プロメテウス』59号発刊 

《MMT派経済学批判を特集》

厳しい状況の中で発刊できずにいた理論誌『プロメテウス』の59号がようやく出版されました。MMT派の経済学と政策を真っ向から批判した特集は、マルクス主義の観点からの一貫したMMT派批判であり、日本において――否、恐らくは世界でも――初登場であり、歴史的意義を持つと確信しています。特集以外に、時局論集や書評も掲載されています。

purome59表紙

時局論集は、アメリカ大統領選結果についての「危機深めるアメリカ」と、安倍から総理を交代した菅政権を暴く「安倍政治継承うたう菅の所信表明」、それと、来日した中国王毅外相発言を非難した共産志位発言を論じた「愛国共産党・志位の中国外相非難」の3本。

 書評は、白井聡著「武器としての『資本論』」と斎藤幸平著「人新世の『資本論』」の2冊が取り上げられています。時局論や書評は『海つばめ』や労働者党のホームページ及びブログで掲載されたものの中から厳選しました。

次に、59号の編集後記を紹介して、プロメテウス59号購読を呼びかけるものです。

《編集後記》

本号は、当初、MMT派批判を第一部、2019年参院選における労働者党の闘いを第二部とする企画でスタートしました。しかし、最終的に第一部の分量が多くなり、選挙闘争の部分と合わせると頁数が増えすぎるところから、選挙闘争については別の冊子にまとめることにし、MMT派批判特集に絞りました。但し、それだけでは単調になるので、時局論集と書評を載せ、最近の情勢や研究を反映させています。

選挙闘争をまとめた冊子は、年明けには発行となります。選挙冊子をご覧になっていただければ、労働者党が安倍政権(当時)の「全世代型社会保障」という美名に隠れたバラまき政策の批判を通じて、事実上MMT派批判を選挙闘争の中で展開してきたことがお分かりいただけるでしょう。是非、選挙闘争冊子も購読されるよう呼びかけます。

MMT派の批判は、正直、決して簡単でも楽しいものでもありませんでした。彼らは荒唐無稽の反動的ドグマ――政府が自国通貨建てで支出する能力に制約はなく、財政赤字や国債残高は気にしなくてよい等々――をあれこれの衒学的知識をちりばめ、もったいぶって説くことにより、読者をたぶらかしているのであり、その嘘っぱちを一つ一つ摘発し化けの皮を剥がしていくことは決して容易ではなかったのです。しかし、執筆者たちはマルクス主義の観点からその嘘、妄想、虚妄性、反動性を暴くことに真剣に取り組み、何とかまとめることができました。もとより、私たちはこれで十分と言うつもりは毛頭なく、さらに批判を深めていくつもりです。

最後に、論文の中でしばしば、労働者の目指すべき方向として社会主義(共産主義)社会が提起されていますが、労働者党の文献を初めて読んだ方は、プロメ59裏トリミング社会主義と聞くと、すぐかつてのソ連や現在の中国を思い浮かべ、眉をひそめるかもしれません。しかし、私たちは既に1960年代半ば過ぎからいち早く、ソ連・中国の体制を特殊な資本主義(国家資本主義)と規定し、マルクスが『資本論』などの中で提起した共産主義社会とは全く別物であること、商品生産は社会主義でも残るといった市場社会主義論は国家資本主義の現実の追認にすぎないことを明確にしてきました。興味ある方は本誌広告に出ている関連文献を是非お読みください。「目から鱗が落ちる」こと、請け合いです。(S

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マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の 学者インテリの解説(解釈?)

《神奈川から学習会の報告》

 

マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の学者インテリの解説(解釈?)について 

 

 先月、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の学習会が、最終日13名の参加者を得て終わった。『ブリュメール18日』は、1848年の二月革命からルイ・ボナパルトの独裁に至るまでの4年間を、唯物史観と階級闘争の理論でもって見事に分析したマルクスの傑作である。労働者が唯物史観を我がものとし、生の現実を階級闘争の視点から分析するのに必読の書物である。

 

その際、私は平凡社ライブラリーの新訳(私以外にも使用していた)を使ってみたのであるが、そこに柄谷行人の解説(あるいは新解釈、『表象と反復』)が収録されているので読んでみた。しかし驚いた、到底これは働く者には読ませられない、とんでもない解説(解釈)だと思った。それは解説と呼べたものではなく、マルクスの意図とは関係なく自分の新説(珍説?もちろん新説も納得できるものなら、いいのだが)を披露したものであった。

 

解説というなら岩波文庫や国民文庫の方が、はるかに(スターリニズムの影響が少なからずあるが)マルクスの意図に忠実であると思った。ここでは到底柄谷の論文の内容を詳しく紹介する余裕もないが(その必要もないであろう)、気の付いた点をいくつか挙げて、全体を推測してもらいたい。

 

 まず「反復」である。マルクスは『ブリュメール18日』の第1章の冒頭でヘーゲルを引用しながら「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と述べている。柄谷はこれを重大視して、「反復」と言う概念を『ブリュメール』分析のキーワードとするのである。しかし、ここでの問題は、果たして「歴史は繰り返す」はマルクスにとってそれほど重大な概念であっただろうか、ということである。

 

マルクスは、単に1789年から始まるフランス革命と1848年から始まる二月革命の経過との類似を指摘しただけなのであって、革命と言う形式や階級構成は多少似たものであったにしても、その内容は歴史的社会的状況からして、全く違うことを指摘しているのである。それはマルクスがカエサルの帝政とナポレオンの帝政とは同じ帝政でも、ローマ時代と18世紀のフランスとでは経済的社会的条件、階級構成などが全く異なることを指摘していることからも明らかである。

 

マルクスにとって重要なのは、「人間は自分自身の歴史を作る。だが、与えられ、持ち越されてきた環境の下で作るのである。」(第1章)と述べているように「与えられた環境」、つまり革命を取り巻く経済的社会的環境と、そこで行われる、生産諸関係に規定された諸階級間の隠然公然たる階級闘争の分析なのである。

 

マルクスにとっては「反復」という表面的な現象はさして意味を持っていないのである。しかし、柄谷は、冒頭の「反復」からヒントを得たのか(ヘーゲルとマルクスが言ったからか)、「反復」を過大評価して歴史を解釈(観念論だ)しようとしているのだ。

 

ここで柄谷の典型的な議論を挙げてみよう。彼は「反復」を経済危機、景気循環にも発見するのである。彼は、1870年代、1930年代、1990年代の反復性を上げて次のように述べる、「われわれが見るべき反復は、反復強迫である。フロイトが言ったように、それは決して想起されないような『抑圧されたもの』の回帰である。想起される代わりに、それは現在において反復される。われわれが想起できるのは単なる出来事でしかない。それゆえ、1870年代、1930年代、1990年代を出来事において比較することは、そこに存する『抑圧されたものの回帰』を見失わせるだろう。それを見るためにわれわれは『資本論』と、とりわけ『ブリュメール18日』を必要とする。そもそも、マルクスはこの書物において冒頭から歴史における反復性の問題を扱っているからである。」(p269)

 

これは相当難解な文章である。ここで彼は何を言おうとしているのか、論文全体からの部分的抽出で分かりにくいことを考慮しても、彼の言わんとしていることを理解するには困難である。しかし、いったい単なる「反復」ではなく「反復強迫」とは何なのか、また「抑圧されたもの」とは何なのか、そしてその「回帰」とは何をさすのか?彼の言う「抑圧されたものの回帰」と『ブリュメール18日』との関連は、何も説明されていないのである。

 

続けて、彼の説明を聞こう、「この場合、『抑圧されたもの』とは何か。それは冒頭に述べた事柄、つまり議会制と資本主義経済におけるrepresentationの問題にかかわっている。確かにそれらのシステムは抑圧的である。しかし、反復強迫を形成するのはそのような抑圧ではない。決して表象されないような『抑圧されたもの』とは、そのような表象のシステムそのものを可能にしている『穴』である。ところが、この穴はべつに不可視ではない、それどころか、至る所に存在している。ところが、まさにそのゆえに、それが『穴』であることは隠されている。/ 例えば、資本制経済においては、貨幣がそのような「穴」であるといってよい。『資本論』のマルクスは、貨幣が、その担い手としての人間の意志を超えて,無窮動の自己増殖運動を強いられている存在、というよりも『存在と無』(サルトル)であるということを明らかにした。」(p270)

 

議会制と資本主義経済が「抑圧的である」とはどういう意味か。「確かに抑圧的である」と言われても、少しも「確か」ではないのだ。また「反復強迫」(とは何だ?)の「穴」が「至る所に存在する」が「隠されている」とは、どういうことか?また英語の「representation」には二つの意味、つまり表象と代議制の意味があるが、ここではそのどちらを意味しているのか、あるいは共通する「representation」といったものがあるのかも全く説明がないのである(そもそもここで英語を使う意味があるのか)。

 

一般に社会科学では、詩や物語と違って、よほどのことでない限り、隠喩は使うべきではない(やむを得ない場合は、その意味が分からなければならない)。彼は珍しく具体的な例を挙げて、「自己増殖運動を強いられる」貨幣がその「穴」だと言っているが、貨幣は流通手段として運動はするが、自己増殖運動はしない。自己増殖するのは、貨幣が資本に転化するからである(柄谷の貨幣理解はこの程度)。彼はサルトルまで引合いに出して、「穴」を説明しようとするが、混乱は増すばかりだ。

 

さらに柄谷は、議会制について、次のように述べる、「近代において人類が獲得した議会制(代表制)は、現実の可視的な王や大統領や皇帝といった存在者とは別に、けっして埋めようのない穴を持っており、それが「抑圧されたものの回帰」として反復されるということなのである。」(p271)「一方、『ブリュメール18日』は、もう一つの表象システム、すなわち代表制が不可避的に持つ危機を取り上げている。『資本論』が経済を表象の問題としてとらえたとすれば、『ブリュメール18日』は政治をそのようにとらえている。『資本論』が近代経済学の批判であるならば、同様に、『ブリュメール18日』は近代政治学の批判である。」(p272)

 

議会制の危機が反復されるのは、議会制を実現したブルジョア支配そのものから生じるのである。議会制の危機を、意味不明の「決して埋めようのない穴」といった隠喩で説明しようとするのは、柄谷が、近代議会制の本質を何も分かっていないからである。マルクスは,『ブリュメール18日』によって、二月革命によって獲得された議会制が、なぜわずか4年で崩壊せねばならなかったのかを、事件の経過を綿密に跡づけて明らかにしたのであった。

 

そのためにマルクスは、ブルジョア民主主義が持つ矛盾―すなわち封建制打倒のためのブルジョア議会がブルジョア支配の確立以後、そのブルジョア民主主義を徹底できず逆に制限しなければならなくなるというジレンマ―を徹底的に分析したのである。

 

柄谷が、近代代議制が持つ危機や近代政治学の批判を問題にするなら、マルクスが『ブリュメール18日』で力説したブルジョア議会主義(その現れとしての議会主義的クレチン病)とブルジョア民主主義の階級制とその限界を明らかにしなければならないのである。柄谷はマルクスのこうした分析には一言も触れずに、「抑圧されたもの」やその回帰、あるいは「穴」といった訳のわからない言辞を振りまくだけなのだ。

 

もう止めよう。これまで紹介したところからも柄谷の論文の無意味な内容が分かって頂けたと思う。せっかくマルクスが、この『ブリュメール18日』でブルジョア議会制の歴史性とその本質や限界を明らかにし、しかもそのブルジョア議会制を利用しないでは、労働者階級の解放も実現しないこと、またその際、労働者階級は、議会主義的クレチン病(ブルジョア議会だけを闘争手段とする)に陥ってはならず、労働者の階級闘争の発展を目指さねばならないことを(まさに現代への教訓だ)、情熱をこめて説いているにもかかわらず、柄谷は、この『ブリュメール18日』から何事も学んではいないのだ。

 

それもそのはずである。柄谷などインテリ学者先生は、このブルジョア社会で“名誉ある地位”を与えられ、生活を保障された小ブル階級である。マルクスは、『ブリュメール』の中で述べている、「同様に民主派の議員たち(小ブルインテリと読め)は、その教養と知的状態からすれば、商店主たちとは雲泥の差があり得る。彼らを小市民の代表とした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らの頭の中で越えない、ということであり、だから物質的利害と社会的状態が小市民を[実践的に]駆り立てて向かわせるのと同じ課題と解決に、民主派議員たち(小ブルインテリと読め)が理論的に駆り立てられる、と言うことである。」(p67)

 

柄谷らは、決して賃金奴隷制の廃止や資本の支配の打倒を口にしない。彼らはブルジョア社会に寄生する存在であり、労働者の階級闘争や労働の開放とは無縁の存在なのである。

 

柄谷の論文の中には、フロイトをはじめ、ラカン、アルチュセール、カール・シュミットなど著名な学者やその引用がちりばめられている。驚いたことに、柄谷がそうした思想や引用に同意しているのかどうかさえもさっぱり分からないことだ。自分の博覧強記を誇示して、読者を煙に巻くためなのだ。

 

労働者は、こうした学者インテリの“難解な”文章に恐れ入ったり、惑わされたりしてはならない。近年、資本主義の危機と共に、マルクスへの関心が高まっているのに乗じて、柄谷の”衣鉢“を受け継ぐ若手インテリ(白井聡や斎藤幸平など)続々と現れている(柄谷はその親玉といったところか)。

 

彼らは、マルクスの革命的部分を骨抜きにし、マルクスを単なる改良主義者やエコロジストに貶(おとし)めようとしている。こうした学者インテリは、唯物史観も階級闘争も剰余価値の搾取も、いわんや賃金奴隷制の廃止や労働の開放も関係ないのだ。

 

彼らの関心は、ブルジョア社会における名声であり、安定した地位である。”彼らの行くに任せよ“。唯物史観と階級闘争の真理を握っているわれわれ労働者階級こそ、人類の未来を切り開くのである。 (神奈川 S)

【書評】人新世の「資本論」(斎藤幸平著 集英社新書)

【書評】人新世の「資本論」斎藤幸平著 集英社新書)

 ーー温暖化の危機に「脱成長コミュニズム」を対置するが?

 

 菅が所信表明演説中ではほとんど唯一ともいえる“将来ビジョン”として2050年までのカーボンニュートラルを打ち出す中、斎藤幸平の表題の本が話題を呼んでいる。新MEGA等で明らかになった草稿やノートをもとに(特に「資本論」以後の晩期の)マルクスを新解釈し、「脱成長コミュニズム」といった“新しい”マルクス像を提示しているからである。

 西欧諸国等ではこぞって「グリーン・ニューディール」に舵を切る中で、菅の打ち出すカーボンニュートラルは「原子力も安全優先で進める」といった電力資本に配慮した陳腐なものである。それに対して斎藤は、「グリーン・ニューディール」でさえ気候変動を止めることはできない、資本主義がそもそも環境破壊的なのだから資本を廃絶した「脱成長コミュニズム」以外に解決の道はないと極めてラディカルな主張をし、19世紀の“遺物”としてか旧ソ連等によって“手垢にまみれた”マルクス思想の真の姿を提示していると言うのである。

 

◆グリーン・ニューディールではなぜ気候変動を止められないか

 

 まず「人新世」(ひとしんせい)という耳慣れない言葉であるが、これはノーベル化学賞を受賞したオランダのパウエル・クルッツェンが人類が地球に与えた影響があまりに大きいために地質学的に見て新たな年代に突入したとして命名したものである。

 斎藤はさまざまな観点から上記の「グリーン・ニューディール」(気候ケインズ主義)等について論じているが、一つの中心的な観念はイギリスの政治経済学者ケイト・ラワーズの「ドーナツ経済論」である。これは経済発展水準を、地球の環境的上限(プラネタリー・バウンダリー)と衣食住や健康・教育などの最低限の社会的閾値の間に納めなければならないという構想である。しかし、実際には現在の先進国経済は前者の環境的上限をはるかに超える水準にあり、他方、途上国では多くが後者の下限を下回っている。これでは持続可能性もなければグローバルに考えた社会的公平性も確保されないと言うのだ。

 斎藤のもう一つの論拠は、先進国は労働の搾取(収奪)においても環境負荷においてもその矛盾の多くを周辺であるグローバル・サウスに転化し「外部化」してきたということである。先進国の「帝国的生活様式」は、実際にはグローバル・サウスの犠牲の上に成り立っているのだ。だから、例えば「グリーン・ニューディール」等で一見カーボン・ニュートラルが実現したように見えたとしても、「カーボンフットプリント」(原料の生産や廃棄物の行方なども考慮に入れた、CO2の足跡)を見れば、先進国について見ても決して本当のニュートラルではないということである。また、再生可能エネルギーの比率が高まったとしても、その多くは新たな経済成長のためのエネルギーとして使われ、従来の化石燃料の使用量は減少していないとも言う。

 

◆マルクスの新解釈?

 

 斎藤は、マルクスは1867年の『資本論』(第一巻)の出版後にその思想を大きく変えたと言っている。彼によれば、従来のマルクス解釈ではマルクスは「生産力至上主義」であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」をもっていた、マルクスは資本論の中でも、人間の労働は自然と人間との「物質代謝」を媒介することによって人類の生存を可能としている、しかし、資本主義は利潤優先でその場かぎりの「略奪的」生産を行うことによって「物質代謝を撹乱」し「修復不可能な亀裂」を生み出すとも言っている。しかし、晩年のマルクスはロシアのミールやドイツのマルク共同体の研究を通じて、あるいはメソポタミアやエジプト、インドの古代文明滅亡の研究(当時のドイツの農学者フラーツはこうした古代文明が森林の過伐採によって滅亡したと論じていた)を通じて、脱成長的(持続可能な定常型経済)で複線的な歴史観に大きく変化したと言うのだ。

彼は、その証拠としてロシアのナロードニキであった「ザスーリッチへの手紙」や「ゴータ綱領批判」の記述、さらには上掲フラーツの「研究ノート」等々を上げている。しかし、そもそもマルクスが「生産力至上主義」的であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」を持っていた等々の解釈は、旧ソ連のスターリン派の解釈(その意味で世界の“正統”マルクス主義の解釈)でしかないのではないか。マルクスが晩年その関心をより広げ深めていったのは事実であるとしても、上記文献等についての斎藤の解釈はいかにも牽強付会の観を否めない。

 

◆「コモン」という観念

 

 斎藤の「脱成長コミュニズム」で中心的な観念を占めているのは「コモン」という観念である。「コモン」とは「社会的に人々によって共有され、管理されるべき富」であり、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国』で提起した概念であるという。彼は、この観念を用いて「収奪者が収奪される」という『資本論』の有名な個所(第1巻第23章の末尾)を解釈し直しているのであるが、要は「土地と生産手段の共有」のことなのである。これを「コモン」と言い換えたところで、所詮は物事を曖昧化し、我々がなすべきことをぼかす効果しかないと言うべきであろう。『帝国』は世の識者が好んで言及する本であり、先にあげた「帝国的生活様式」とか「周辺と中核」、「外部化」等々もそうであるが欧米の学者や識者が使う言葉をありがたがって無批判に使うのは日本の学者の悪い癖である(あるいは、世界の学者や識者のそれ自身疎外された狭い世界のネットワークではそんなことでしか独自性を誇示できないということか)。

 

◆本源的蓄積とは「コモンの解体と希少性の増大」?

 

  斎藤はマルクスのいう本源的蓄積を解釈して、「本当は、この囲い込みの過程を『潤沢さと『希少性という視点からとらえ返したのが、マルクスの『本源的蓄積論なのである。」(p.237)「コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての『価値を増やすのである。」(p.251)などと言っている。土地や水、等々の場合は確かにそうだ。しかし、それは(本来は価値をもたないものの)擬制的価値(地代、等)であって、(彼がそれを理解していないわけではないとは思うが)本来的な価値の増大は労働の搾取によっているのだ。また、「私的所有になる」のはマルクスの言う土地(大地)だけではなく、既に人間によって作り出された生産手段(とりわけ労働手段)でもあり、しかもそれらは単なる私的所有ではなく資本の所有であり資本そのものとなるのだ。だから、それは単なる希少性ではない。彼が「価値」というものを本当に理解しているのか大いに疑問を持たざるを得ないのであるが、同時に、彼の言うコミュニズムにおいてはそもそも「価値」とか商品交換等々はなくなるのか、なくならないのか、彼の本を読む限りでははなはだ心もとないのである。

 

◆アソシエーションや生産手段の「自律的・水平的管理」の強調

 

  彼もまた多くの識者と同様にアソシエーション論を強調し、生産手段の「自律的・水平的管理」の強調している。しかし、それはよく考えてみると、彼の旧ソ連等の“社会主義”への否定的評価からきているのだということがわかる。

彼は次のように言っている。「従来のマルクス主義が成長の論理にとらわれ続けてきた…実際、ソ連の場合は、官僚が国営企業を管理しようとして、結果的には、『国家資本主義と呼ぶべき代物になってしまった。」(p.351-52)ここで彼はある種の「国家資本主義」といったものを持ち出しているが、その経済的内容を理解しているかどうかは不分明だ。しかし、「官僚が国営企業を管理」することによって権力主義的・独裁的になり「参加型民主主義」が実現していないことを言っているのである。そうした「垂直的」管理ではなく「自律的・水平的管理」が必要だと言いたいのである。

しかし、細部の管理は地方や個々の生産体に任されるとしても国民経済的規模での共同管理(計画化、等)の側面は少なからず必要である。また、「労働に応じて分配」するためには個々の製品がどれだけの労働によって作られているのかを算出しなければならず、そのためには全国規模の集計と計算も必要となる。だから、もちろん「参加型民主主義」が最大限保障されるような仕組みは考えられなければならないとしても、分散した協同組合のようなものだけでコミュニズムが成立することはあり得ないのである。

(長野、YS

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