選挙奮戦記 【10】
――かく闘いたり、 一闘争委員の報告――
以上、だらだらと、止めどもなく述べてきたが、そろそろ終わりにしたい。
最後に、また余談になるが(それか好きなので)、この三浦半島は「明治への扉を開けた地」であることを強調したい。
宅配で、久里浜の海岸を走った時に目にしたのが、ペリー来航の記念碑であった。海岸近くの一角に大きな記念碑が建っていた。
そう、この地は、185 3年6月、ペリーが4隻の黒船を率いて現れた地である。浦賀奉行にフィルモア大統領の親書(開国要求)を渡すべく、一行は浦賀沖へと移動したが、これが翌年の日本の開国、通商条約締結へと繋がる。
巨大な鉄の軍艦を沖合に最初に目撃したのは久里浜や浦賀の人々であった。その驚きは如何ほどであったろうか。
また、浦賀を通った時に、壁に大きく描かれた絵画を見た。それは、江戸から駆けつけた吉田松陰と佐久間象山の会見(徳田屋)の絵であった。
そう、浦賀は松陰が師の象山と共に、ペリーの黒船を見た地なのだ。松陰は翌年、下田沖の外国船への密航を企て失敗。幕府に出頭し、緊縛された。彼は、後にこの罪等で、1858年からの、いわゆる安政の大獄で処刑される。発奮した松下村塾生の高杉、久坂、桂、伊藤、山縣らによる長州藩の討幕運動は一層盛んとなった。
まさに、この地・三浦は、「新しい世への扉を開けた地」 である。
「労働の解放をめざす労働者党」は、この地でデビューした。「『新しい世』への扉を開ける」べく、再びこの地が、その出発点となることを期待したい。
終 (K)
右写真
「太平の眠りを覚ます蒸気船 たった四杯で夜も眠れず」
(ペリー公園に掲げられた狂歌。四隻の軍艦に慌てた江戸幕府を からかった歌と言われる)
選挙奮戦記
選挙奮戦記 【9】
――かく闘いたり、 一闘争委員の報告――
十八日夕刻、筆者はどうしても外せない用事があって帰宅した。残りの3日間を共に闘えなかったことを申し訳なく思う。最後まで圷候補を支えて闘ったIさん(闘争委)をはじめとする神奈川支部の皆さん、Hさん(闘争委)、Iさん(福山)、そして代表委に敬意を表します。
またこの時期になると、運動員も減り寂しくなった。事務所の玄関の土間にあんなに溢れていた靴が少しでしかなくなった。残りの3日間がどのように闘われたかについては、追っつけ党のブログに掲載されるだろうから、そちらをご覧頂きたい。ここでは、最後に、この選挙戦を振り返った組織内の問題や選挙結果について述べたい。
今回の、代表委の下に現地闘争委を置くという方針は、まずくはなかったと思う。理想的には、初めから(一ヶ月まえから)林議長をはじめとする代表委が現地に入って、全体を指導し、闘争委の分担ををきちんと決めて活動を開始する、というのが良い。しかし、その日その日の活動に追われる事務所内で、事前ビラや広報、折り込みビラ等の原稿を練りながら、且つ、それらに対応していくというのは無理がある。(事務所とは別に、近くにアパートを借り、寝食と分離させる、ということであれば、多少は可能か)。
現に代表委のIさんが闘争委長として一ヶ月前から現地に入っている。だが、余りにも仕事が重なり、それを捌くのが大変であった。―電話への対応、メールの受信と発信、闘争日誌作成、物品の注文、マスコミやアンケートへの対応、膨大な数のビラの印刷、新聞店や印刷屋との交渉、東京の代表委との連絡、夜の会議、事前説明会への参加、そして会計管理等々―。筆者も、Iさんがパソコン(器機)に強いということもあってか、多くを頼った。まさに「過重労働」であったと思う。
ここでエピソードをひとつ。Iさんは、ある日、日帰りで帰宅し、その日の夜に事務所に戻って来る予定だったのだが、終電が過ぎても戻らず、皆で心配していた。彼は、日頃の疲れと睡眠不足で、電車に乗ると同時に心地よい眠りに入ったらしく、なんと山手線を一周し、終電に乗り遅れたのであった。結局、夜中の一時過ぎに事務所に元気で現れた。
次回は、ぜひ〃委長とは別に〃、パソコン事務等を一手に引き受けられる人物を配して欲しい。
闘争委がどのようにして選ばれたかは判らないが、もう少し人数が欲しかった。I(闘争委長。東京)、H(闘争委副、京都)、I(神奈川支部長)、S(大阪北)、T(静岡)、筆者(静岡)の6名が闘争委である。
九月一九日の初会合で何が決められたのか知らないが(後でTさんから聞くと、三日間は事務所の整理改造で忙しかったという)、筆者が遅れてきたためか、来て一、二日は闘争委として、何をしてよいのか判らなかった。着いてすぐに宅配に出、後は前述したとおりである。だから、まず闘争委の中で明確な仕事分担をすべきであった。。宅配ビラの責任者は誰(Sさん?)、印刷は誰、駅頭街宣の責任者は誰、その際のビラ配りの責任者は誰、流しの原稿は誰、車の看板替えは誰、ポスターの責任者は誰、葉書は等々と。すれば、もう少し早く作業に取りかかれ、改善の余地もあったのではないか、と思う。勿論、互いに補助しながらのことではあるが。
選挙が慌ただしく始まり、選挙戦の経験も浅く、次々と仕事に追われて、「なし崩し的」に進めざるを得なかったと言えば、その通りではあるが。
次期参議院選は、選挙区が拡大され、準備期間も長期に渡るので、闘争委を増員し、闘争委の日をきった交代制にするとかの工夫も必要であろう。
中央との連絡はIさんが一手に引き受けていたので、よくわからないが、メールや電話での連絡でどうだったのだろう。ただ、宅配ビラ原稿が事務所に夕方5時過ぎに届いて、そこから5千枚印刷し、半折りする当初の作業は前述したが、大変だった。
また、仕方のないことかもしれないが、葉書や新聞広告、折り込みチラシの原稿が締め切り間近に届くと、闘争委で検討する時間がもてなかった。そうした原稿作りも代表委の分担制にすべきであろう。そして、個々について、代表委と闘争委のどちらが決定を下して、事を進めていくかということも曖昧であった。
この記を書き始めたのが投票日前日で、投票の結果は翌々日二十三日の朝刊で知った。十一区の結果は、党のブログに掲載されているので繰り返さない。結果は、三千百三十三票(一・六%)であった。ほんの一ヶ月間の選挙戦にしては、まずまずだと思う。
この三千票を越す票は、、葉書、選挙公報、折り込みビラ、宅配ビラ、ポスター等を読んだり見たり、街頭演説を聞いたりした人々の、明らかに圷候補への支持票である。「やっと投票できる候補者が現れた」とブログへの投稿があったように、それまで全く支持者のいなかった場所で、どこの馬の骨とも知らぬ、ボット出の政党と候補者が、三千人の支持者を獲得したのである。
我々のような後援会組織もシンパ層ももたないミニ政党が獲得できる票とは、一ヶ月ではこのくらいであったろう。
小泉も共産党の瀬戸も、いずれも前回より票を減らしたが(小泉は5・3%減、瀬戸は5・7%減)、その票の多くは、受け皿としての―この党への幻滅感を持ちつつ―希望の党の真白(9・36%、一万八千五百八十三票)へ入ったのではないかと思われる。今の党の現実的な動員力等や生粋の地元候補であったことからしても、この十一区は選挙区として適当であったと思う。
次期参議院選は、選挙区が拡大するので、横須賀市を中心に、どの都市に焦点を絞って闘うかが問われよう。また、他の支部は、労働者党の宣伝を再開し、一人でも多くの党員とシンパ(若い人たち)を獲得する必要があるだろう。
続く (次回で最終回です)
――かく闘いたり、一闘争委員の報告――
演説の中心は、もちろん圷候補だが、その他に応援演説として林議長、I闘争委(候補者カー責任者)、T、Wさん(代表委)、Hさん(闘争委)などが行った。
批判の中心は、筆者が聞いたかぎりでは、安倍政権の一掃―突然解散、アベノミクスの破綻、森友・加計問題と政治私物化、北朝鮮『国難』化、国家秘密法・共謀罪等の国家統合化、『人づくり革命』等のたぶらかし、『働き方改革』等の欺瞞、教育無償化等のばらまき、『全世代型福祉』批判等々―と小泉批判(投票は安倍政権への延命、『こども保険』批判、広報やマスコミ等を通じての策無政策、小泉王国への挑戦等々―。共産党批判―崩壊した野党共闘、天皇制容認、『働き方改革』等の改良主義等々―、民進の解体と希望の党―保身に走った民進議員、超保守の希望の党、小池劇場の終焉―、労働者党の二つのスローガンと党の若干の歴史―略―、圷候補の経歴と決意―略―などであったように思う。選挙後半は、小泉批判や「全世代型福祉」への批判に演説の比重が移ってきたように思う。 駅頭での演説は、一人20~40分程であったが、残念ながら、立ち止まって聞く聴衆はいない。我々のようにビラを撒いていると、演説の内容の一部始終が把握できるが、駅頭を足早に歩き去る労働者・勤労者・市民の耳にはどのように届くのであろうか。だらだらと長くしゃべるより、短く端的に、要点を絞って演説する、ということが必要であろう。団地等の小演説ではそれがなされたのではないか。
筆者は、しゃべり下手で、演説もしたことがないのでえらいことは言えないが、もっと聴衆を引きつけるにはどうあるべきか、ということを考えていた。例えば、「長時間労働や非正規労働」についてしゃべっているのなら、技術的なことだが、時には通勤者に、「あなたの職場はどうですか?残業はありますか?休職に追い込まれた仲間はいませんか?非正規労働の人はいますか?同じ仕事をしてるのに給料が低すぎる、休みがもらえない等と思ったりしてませんか?、」などと、時には訴えることも必要であろう。
聴衆が足を止めて聞き入り、いつの間にか群衆となる。こんな日が訪れることを期待したい。
さて、この記も終わりに近づいてきたので、少し「おじ6」たちの一日の寝食についてもう少し語りたい。 (写真は、「おじ6」たちが寝起きした愛しい「あくつ選挙事務所」)
起床はおよそ5時半~6時、布団を片付け、座卓を並べて、朝食をとる。6時半には朝立ちのため出発しないといけないので、朝食は慌ただしい。幸い米はたっぶりとあったので、昨夜作られた味噌汁を温め、簡単な総菜で食べる。食べ終わる頃、「新アパ」に泊まった運動員がやって来て、食べる。
食後、誰かが薬を取り出すと、「あっ、薬だ」と誰かが言い、皆慌てて自分の薬を取り出す。そう、「おじ6」のほとんどは薬持参なのだ。また「おじ6」 は、食後は日本茶だが、皆コーヒーが好きである。朝起きて一杯、仕事の合間に一杯、インスタントコーヒーの消費量は高い。
運動員は、夜は8時頃に事務所に戻る。候補者カーは、8時半過ぎに戻る。帰ると、まずはコーヒー一杯、そして夕食。夕食時が一番ほっとする時間だ。その日の話題が出たり、情報交換をしたり、新聞を読んだり、明日の予定を確認したりする。夕食後は、それぞれの仕事をし、その日一日を振り返った会議をして、0時ごろになり、交代で風呂に入り、座卓二つを片付け、掃除機をかけ、布団を敷きあう。そのうち、寝る場所も潜り込む布団も固定してきた。消灯になると、5分もしないうちに鼾が聞こえ、すぐに眠りにおちる。もう若くはない「おじ6」共同体の一日は、およそこのようなものである。
忘れてならないのは、家へのメールや電話である。「何か変わったことはないか」とへりくだり、今こんな仕事をしているとメールすると、「頑張って」と返信がくる。帰ってから疎外されないよう?少しは気を遣う。しかし、帰ってから「靜かで良かった」「帰ってきたら床にゴミが増えて、家が汚くなった」などと言われると、がっかりする。※「 」内は、あくまで筆者のことです。 続く
――かく闘いたり、一闘争委員の報告――
十月十二日以降の闘いについては、候補者カー記録を中心に記しておこう。※( )内は反応等である。
十二日(木)
8時より北久里浜駅頭、小演説は北久里浜団地(演説中、自転車の高齢者が『がんばって』と声を掛けてくる。演説中、団地の2階から数人が通路に出てきて聞く)‐森崎団地(高齢者の女性がアパートから出てきて、『暑いから気をつけて』と元気づけられる)‐森崎工業団地‐久里浜団地、夕街宣は18時半より久里浜駅頭。
十三日(金)
(朝、中年の女性が候補者に握手を求めてくる。期日前投票で入れたという男性が現れる)
この頃から雨が続き、傘をさしたり雨合羽を着てのビラ撒きとなる。なお、注文していた大旗(赤布にイラストと「あくつ」と大書きされたもの、80㎝×2m)2枚を使っての朝夕街宣が始まり、大いに目立つ。朝は浦賀駅頭、小演説はかもい団地‐浦丘団地(途中、若い建設労働者が手を振ってくれる)‐若宮台、夕街宣は浦賀駅頭。
十四日(土)
朝は汐入り駅頭(ビラの受け取りが良くない。卒業生が圷候補のところに来る)‐逸見ヶ丘‐池上‐平沢の団地‐衣笠団地‐塩見台団地‐望洋台‐鶴ヶ丘団地‐平成町、小川町、夕街宣は横須賀中央駅(Y字の東口駅頭)
十五日(日)
朝は衣笠駅頭、駅の真ん前のPに駐めて(雨もあって受け取りは良くない。林議長も演説) 。竹山団地‐長坂市営団地‐三崎港‐城ヶ島‐三浦海岸‐長沢団地(演説中、教え子が部屋から出てきて候補者と話す)、夕は横須賀中央駅頭、小泉タワーの向側、雨風強く18時で切り上げる。
教え子の話が出てきたので、いくつか述べる。事務所にやって来てくれた教え子は、筆者の知るかぎりでは3名。ポスターを見て来てくれた造園業の男性、圷候補らと30分程話す。昼間に電話で事務所の場所を尋ねてやって来てくれた女性。また後日、党のブログについて意見を頂く。わさわざ東京からご夫婦でやって来てくれた女性。その他、電話での激励もあった。また、朝夕街宣中に圷候補に話に来る教え子もいた。圷候補が最初に赴任したM高校出身者か多い。もう少し時間があれば、卒業生の中から「圷先生を励ます会」みたいなものが組織されたかもしれなかった。
残すはあと一週間となった。林議長からは、圷候補の演説について(演説を録音して)の意見が出された。「もっと聴衆の心を掴むような、聴衆の心を揺さぶるような演説が欲しい」ということであったと思う。
十六日(月)からは、少し遅すぎた感もあるが、朝7時からの駅頭での朝立ちが始まった。一時間ほど朝立ちをして、後に候補者カーと合流するという形をとった。
十六日(月)
久里浜駅頭で朝立ち。圷候補を真ん中にして、通勤の労働者に「おはようございます!」「お仕事ご苦労様です!」等と声かけをする。Hさん(闘争委)、T、Wさん(代表委)、筆者などが参加した。また、追々、朝街宣に参加するためにやって来た運動員と合流し、「あくつ旗」も利用して実施した。
朝街宣後、桜ヶ丘団地‐望洋台住宅地‐馬堀台団地‐アイビーヒルズ久里浜等々。
十七日(火)
長沢駅で朝立ちをするが、人が少ないので30分程で切り上げて、久里浜駅へ移動する。 移動すると、小泉進次郎と鉢合わせ。小泉は、この日が地元へ入る日なので、他の場所へ移動して欲しいと要求してくるが拒否。Hさん(闘争委)が向の運動員と交渉して、五分ごとに演説をしあうことで合意。小泉カーは結局、専属のアナウンサーが「小泉が久里浜駅に来ていること、夕方に久里浜の平安閣で講演会がある」というのを繰り返すのみで、結局小泉は姿を見せることはなかった。しかし‐電車で来た運動員が目撃したが‐小泉は駅内で多くのファンに囲まれていたということだ。このことについては、後に京急に抗議した。なぜなら、我々が駅内で朝立ちをしようとしたら、駅長らしき人物がやって来て、我々を追い出した!からである。電車、バス、スーパー等を傘下に、この半島をも支配する京急は完全に小泉一家の味方なのである。
この後、小泉カーはどこかへ行ってしまったが、圷カーは、圷候補、林議長が演説を繰り返した。
この日、候補者カーの運転席側の窓ガラスが空いたまま閉まらなくなってしまった。夜に、段ボールで塞いだが、明日朝には応急処置をしなければならない。
十八日(水)
朝立ちは追浜駅で行う。朝食ぬきで追浜へ急ぐ。事務所から30分程で着く。この時間だといつもの渋滞に出会うことはない。
既に共産党の瀬戸カーが駅前を占めていたので、我々は高架橋の階段下で挨拶運動を行う。
この日は気温が低く寒い。挨拶しながら、筆者の身体は自然と日向の方へ移動する。まもなく候補者カーがやって来て、瀬戸カーの後ろにぴたりと着ける。
瀬戸が、10分演説したら移動するというので待つ。その間、朝食を頬張る。瀬戸は、安倍批判や消費税中止、森友・加計批判などをしゃべる。この男は、北海道生まれで、高校卒業後、こちらの電器成型会社に勤務、現三浦半島地区副委員長、葉山町在である。長年、横須賀の原子力空母寄港反対の運動をしており、広報にもそのことを載せている。その広報の最後には、「8時間働けばふつうに暮らせる社会を」と題して、次のような文がある。「『残業代ゼロ法案』を許さず、長時間労働を法律で規制し、過労死を根絶。非正規から正規への流れをつくり、最低賃金を大幅に挙上げます。」
「8時間働き、ふつうに暮らせる社会を」というのが、瀬戸のめざす社会なのだが、それは、〝労働者は永遠に資本の賃金奴隷たれ!〟永遠に搾取され続けよ! “(ふつうの生活《?》で満足しなさい)と言っているのと同じである。また、法律の規制によって長時間労働や過労死が根絶されるなどと労働者の誰が信じようか。労基法等の下で、過労死はおびただしく起きているのである。
さて、瀬戸がいなくなってから、我々の演説が開始された。圷候補が、おでこにちょっとした怪我をしたり、瀬戸が我々の大旗を見て、「選管に抗議する」 などと嫌がらせはあったが、圷候補は、安倍政権とからめた小泉批判や「全世代型福祉」 の批判を堂々と行った。小泉が福祉とからんで高齢者を「老害」 と呼んだ批判の件りは迫力があった。
「・・・皆さん、老害とは老人の老に害と書くんですよ!。小泉坊ちゃんほど、高齢者をバカにした発言はないでしょう?云々」。圷候補の演説も一段と熱を帯びるようになってきた。 続く
選挙奮戦記 【6】
――かく闘いたり、一闘争委員の報告――
十月に入ると、うって変わって気温が下がり、朝晩は特に冷えるようになった。日中も夏から冬に様変わりしたかのようだ。半袖の夏物しか持ってこなかった我々は、何枚か重ね着をして、朝夕の街宣に出かけた。雨が降ると、「おじ6」たちの半乾きの洗濯物が山のように部屋につり下がった。中には、間違って誰かのシャツをきている者もいる。まさに学生寮ならぬ、「おじ6」たちの合宿所だ。
選挙戦で我々が公的に利用できるものは、① 選挙葉書(三・五万枚)② 新聞折込みビラ(計七万枚・二種類)③ 新聞広告(計五回)④ 選挙公報⑤ 有権者への電話⑥ 候補者カーによる宣伝と近くでのビラ配布である。このうちの幾つかについて述べたい。と言うのは、全てについて闘争委で”十分に“検討する暇もなく進めざるをえなかったからである。
①の葉書の処理については既に述べた。形式について、「字数が多くて読みづらい」という意見もあった。しかし、ブルジョア候補たちが一様に大きな写真で顔を売る(媚びる)のに対し、我々は我々の主張を訴え、一人でも多く読んでもらうという観点では、これでいいと考える。ただ、思い切って削っても良いと思える所もあり、もう少し行数が減らせたのではないかと思う。また、圷候補の生き方を訴えている点からして、表面は、実写真にし、小さくイラスト画を添える方が良かったと思う。
②の二次ビラの「庶民派『まじ太』(あくつ)を国会へ!」『きざ夫』はもうたくさんだ!」 の見出しは、いろいろと意見が出たが、やはり今ひとつピンとこない感がある。小泉一家の四代目が「超エリート?」かどうかはわからないが、地元の期待に反して、将来総理の器であるとは微塵も思われず、彼の言動からして(彼の選挙広報を読んでも)賢そうもないが、「人気取り」のスタンスだけはしっかりと身につけている男である
③は、実際に新聞に掲載されたのを見ると、完全に周りの記事に埋没してしまった。幾らかの技術的手直しが必要であった。二次広告は多少手を加えたが、実際にはどうであったろうか。(筆者は見てないので)
④ に、やはり共産党批判と並べて、「希望の党」批判を少しでも載せた方ががよかったのではなかろうか。というのも、「排除します」(今年の流行語大賞候補?)発言で一変に不人気になった(勿論それだけではないが)とはいえ、小池への幻想が残り、落下傘候補をもって受け皿の一つとなったからである。この党がいなかったら、我々の受け皿は少し大きくなっていただろう。
⑤については、闘争委では、やろうという少数意見(筆者もその一人)のため中止となった。
話はそこまでにして、十日以降の方へ話を進めたい。
告示日の候補者受付は8時半頃から始まった。看板を付け替えたリニューアル候補者カーで圷さんやIさん(闘争委)たちが出かけた。運転手は通してKさん(神奈川)、ウグイスはMさん(静岡)、Iさん(福山)、責任者はIさん(闘争委)、あとTさん(神奈川)等が乗りこんだ。また林議長が途中から加わった。
掲示組は、全員8時に横須賀中央駅のレンタル屋に集合して、車を借り受け、ポスター百枚ずつを車に積んで、それぞれの場所へと移動した。
8時半を少し過ぎた頃に圷さんから筆者に電話が入った。「(掲示板は)四番です!」 という連絡を受けて、各組に連絡、一斉にポスター貼りが始まった。
他候補より一番先に貼るのは気持ちが良い。裏テープも剥がしやすく、ピタッと貼れた。これなら雨が降っても剥がれることはないだろう。こうして、昼十一時まで、地図を見ながらひとつひとつ貼り続けた。
十一時半に、ポスター貼りを中断して、全員横須賀中央駅西口に集合した。十二時に、ここで圷候補が第一声をあげることになっており、その応援とビラ配布のためである。合わせて十六人が集結した。
まずKさん(神奈川)が圷候補を紹介した。その声は力強く四方までよく聞こえた。筆者は、それを聴いて恥ずかしながら、ホロッとした。「いよいよ始まったか」という感慨が湧いた。続いて、林議長、圷候補が力強く駅ゆく人々に訴えた。演説をバックに、我々は「労働者党のあくつです」「働く者の代表を国会へ送りましょう」などと言いつつビラを配った。
その後、候補者カーは、駅周辺、衣笠周辺、事務所周辺、等々を流したり、小演説を繰り返しながら、運行表にそって活動した(写真は、初日夕方の京急横須賀中央駅西口でのあくつ候補)。
ポスター組も再び活動を開始した。筆者隊がまず朝一番に貼ったのは事務所の周辺と衣笠地域である。候補者カーが、午前中は衣笠地区を回ると聞いていたからである。第1号は、事務所近く「新アパ」前の掲示板であった。
地図を見ながら、Sさんの指示に従って、ひとつひとつ掲示板を探しながら、貼る。案の定、Sさんの地図の読みは的確で、必ずそこに掲示板があった。狭いすれすれの道、軽でないと入れない道、かなりの坂道、一方通行、交差点、いろいろな障害にもかかわらず、ひとつも見逃すまいと貼る。こんな山奥や崖にあって、誰が見るのだろうという掲示板もあった。
貼り終えた掲示板を通過する時、通行人が覗き込むように「あくつポスター」を見ている光景に何度か出くわした。「ちっちゃいな。何が書いてあるのか?長時間?搾取?非正規?」といった具合であろうか。午前中は一番であったものが、小泉に抜かれ、瀬戸に抜かれた。真白にだけは勝ち続けた。他の組も同じだっただろう。一日だけで、四百弱を制覇した。
夕方五時まで貼り続けてレンタカーを返し、事務所に戻った。そして、衣笠駅前の西友へお握りを買いに走った(店員に感謝されたことは言うまでもない?)。西友のお握りは、安く、種類が豊富である(運動員用の弁当も安く買える)。みんなでお握りをほおばった後は、事務所と「新アパ」に別れて、証紙貼りに精を出した。朝からのポスター貼りと夜の証紙貼りがちょうど重なり、かなりの重労働となった。
折り込みビラは、十五日(日)に読売、朝日、神奈川新聞へ、二〇日(金)に読売、朝日新聞へ折り込む予定なので、十二日の朝までには、一回分として三万五千枚に証紙を貼らねばならない。ビラは事務所の印刷機で、Tさん(代表委)が一気に引き受けてくれた。大阪組は例によって愉快に?、静岡組は漫才をしながら?、他の人たちも黙々と貼り続けてくれた。こうして、十一日の夜までには、一回分の証紙貼りは予定より早く完成したのだった。
翌日のポスター貼りも順調だった。ただ、昨夜は全員で証紙貼りに夢中になって、明日の分のポスターの裏打ちを忘れてた!闘争委数人で夜中の二時過ぎまでかかってやった。
翌日は、Mさん(大阪)に代わりKさん(大阪)が運転手に、Wさん(代表委)とTさん(神奈川)が交代して加わった。十一日の午前中には、三浦市の一部を残して貼り終えた。
特に、K車は経験のあるベテランコンビなので、三浦市全域を翌日の午前十時ごろまでかかって、百三十枚余を貼り終えた。途中電話を入れると、「あくつ、城ヶ島へ渡る!」というUさん(静岡)の威勢のいい声が伝わってきた。こうしてほぼ二日でポスター貼りもやり終えた。 続く
★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
労働者の代表を国会へ!
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