労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

選挙奮戦記

選挙奮戦記 【5】

IMG_0351選挙奮戦記  【5】      
  ―かく闘いたり、 一闘争委員の報告―

  運動員が増してくると、宿泊の問題が起きてきた。事務所は闘争委で満員(最大六人)で、それ以上泊まれないので、事務所から歩いて数百㍍のところの新アパートの一室を、一ヶ月程借りることにした。契約はIさん(闘争委長)や圷さんがやってくれた。

 最初は、事務所が六人だと狭いので、闘争委の宿泊に利用する予定だったが、動員が増えるに従い、新たに来て頂いた運動員や代表委の宿泊所として利用された(ちなみに、闘争委が利用したのは筆者の二泊のみで、他の闘争委は最後まで宿泊できなかった。写真は選挙事務所の様子、右があくつ候補)。

 また「新アパ」は、後に日中はポスターの裏打ち、葉書の修正、ビラの証紙貼り等の作業場として大いに活用された。しかし、そこには、北久里浜のニトリから仕入れてきた三組の布団(レンタル料より安く買えた)しかなく、それでも収容できないので、横浜駅前のカプセルを三つ予約して使用して頂いた。中には、事前に自分でホテルを予約して来て頂いた方々もおり、大変な迷惑をかけた。特に女性の方々は、長期にわたり宿泊先を確保(横浜や鎌倉等に)して頂き感謝申し上げたい。「宿泊先は確保できた」ということであったが、宿泊の問題も今後の課題として残った。

 ビラの宅配は、十月八日をもって終了した。この宅配には、神奈川や埼玉のシンパ、Mさん(静岡)の娘さんにも参加して頂き、連日、精力的に続けることができた。特に神奈川のシンパのYさんは、街宣時のビラ撒きやポスター裏打ち、証紙貼り、葉書修正など、長期間にわたり党員と代わらぬ労力を頂き感謝したい。また、Mさんは静岡から(明け方始発のJRに乗って)、夫婦交代で幾度も駆けつけて頂き、娘さんも土日を利用して三度も手伝ったもらうなど、まさに家族総出の闘いであった。その他、この記には載せられなかった多くの各支部の党員の方々にも感謝します。

 ビラの宅配総数は、街宣ビラも含めて、約七万枚(正式な枚数は後ほど出るとして)程であった。十万枚という目標には到達できなかったが、猛暑の中を「やりきった」という感が強い。Sさん(闘争委)の緻密な計画に基づいて、横須賀市に初めて大量の「労働者党」の主張が届けられた。

 一方、政党ポスター(大と小の二種類)はかなり早くから事務所に届けられ、その計画も考えられたが、手間暇がかかるということで全て断念し、ビラ配布に集中したことを併せて記しておきたい。

 最後に、宅配の中で筆者が今でも思い出す景色がある。それはどこであったか忘れたが、高台の坂道を息せききって登りながらビラを撒きつつ、行き止まった所から目に飛び込んできた光景。―鮮やかな紺碧の海に浮かぶ濃緑の小さな島の光景―思わず疲れを忘れた瞬間!美しい相模湾の「絵葉書」に、筆者は思わず微笑んだ。三浦海岸といい、ここはまさに観光地なのである。

 宅配は終ったが、宣伝カーによる朝晩の駅頭街宣とビラ配布、その後の流し、小演説は間断なく続けられた。一日には、林議長が乗車し、二日には三浦駅と長沢駅で、三日には朝晩とも衣笠駅で、四日には朝晩とも横須賀中央駅で、五日には久里浜駅と衣笠駅で、六日には追浜駅でというふうに。

 一方、事務所や「新アパ」で仕事をしている闘争委や運動員は、その時間になると中断して、筆者の車(さいわい七人乗り)で、或いはバスや電車を乗り継いで、その日の駅頭に集合し、圷候補の演説を聴きながら、ビラを撒いた。

  特に二十代、三十代の若い労働者(男女とも)は受け取りが悪い。ある者は、身体をよじって拒否し、すり抜けていく。四十代以降は、時々受け取る。受け取りの良いのは、ある程度年配の労働者たちで、特に女性はよく受け取ってくれる。
 ある時、若い女性労働者がわざわざ来て、「下さい」と言って取っていった。珍しいと思いながら、圷さんが今訴えている「非正規労働者」だろうかと思ったりもした。朝は皆急いでいるので、夕方の方が受け取る率は高い。中には、がんばってと千円をカンパしてくれた年配の労働者もいた。

 十月八日の夕方からは、ポスター(約八百枚)の裏打ち作業が始まった。両面テープで囲い込む方式が採用された。Tさん(代表委)が段ボールの切れ端で作った物差しを使って一人がテープをカットし、もう一人がポスターに貼り付ける分担作業である。大阪からは新たにKさんやMさんが新幹線で、静岡からはTさんやMさんが車で駆けつけ、運動員は最大となった。

 作業の中心は「新アパ」で行ったが、ネットで注文したテープが少量しか届かず、夕刻に市内の店を何軒か回って買い占めに走った。静岡組はホテルに持ち込んで作業を続けた。余談ではあるが、大阪組は、豪快で愉快な人たちが多く、作業中も話題に事欠かかなかったが、作業は順調に進み、九日夜には、明日十日告示分(約六百枚)は完成した。

 また、ネットで注文するはずだった候補者タスキは間に合わず、筆者が急遽手作りすることになった。Wさん(代表委)が買ってきてくれた赤布(白タスキの逆をとって赤タスキに)を圷さんサイズに切って、アイロンで白テープを貼り付けた。「あくつ」の上部に、圷さんのイラスト画を配置した。後で、Iさん(福山)が布を二重にし、M娘さんが持ってきてくれた赤糸でタスキの形に仕上げてくれた。ついでに、残った生地で、「あくつ」と白で大書きした赤旗(あくつ旗)を作った。タスキは選挙中最後までもったし、赤旗は選挙中活躍した。

 九日夜には、明日の告示後のポスター掲示隊の集まりを「新アパ」 でもった。二日間で七六三か所(横須賀六三〇、三浦一三三)を貼るのを目標とした。

  まずレンタカー五台(軽四、小普一台)を二日間借り受け、K車(静岡)と併せて六組とした。①K、Uさん(静岡組)、②筆者、Sさん(筆者組)、③K、Sさん(大阪組)④K、Mさん(大阪・堺組)⑤D、Iさん(福山組)、⑥H、Yさん(京都組)※前者が運転手。

 次に配分に移ったが、神奈川支部が作成してくれた横須賀市の七枚の掲示板地図を参考にして配分した。筆者組は、心強いSナビさんがいるので、横須賀の一番の密集地を受け持った。その他、注意事項等を確認し合った。

  十月十日、いよいよ告示日がやって来た。これから十二日間の熱き闘いが始まる。   続く




選挙奮戦記 【4】

選挙奮戦記  【4】       
  ――かく闘いたり、一闘争委員の報告――

  連日の宣伝ビラ配布の中 で、幾つかの反応があった。
 ひとつは事務所への怒りの 電話で、「安倍を批判するビラを撒くな。自分は安倍を支持している。ビラは送 り返してやる。」 というも ので、この男性は実際に、東京の事務所に着払いで送り返してきた。『悪臭ふんぷんの安倍政権打倒』と銘打った『海つばめ』(一次ビラ)を読んだのかどうかは定かではないが、自民党王国のポストに届けられたショッキングなビラだったのだろう。

 もうひとつは、我々がSナビさんとMさん(静岡)とで、岩戸の一戸建てで撒いたもので、「新聞がポストに入っていたので電話しました。(略)『海つばめ』に書いてある通りだと思います。ぜひ頑張って下さい。」 (詳しいやりとりはブログ日誌参照)という激励の電話であった。
 九月三十日の横須賀中央駅での夕街宣では、Hさん(闘争委) が演説をしたが、ちょうど天皇制批判をしている時に、ビラ裏面の「真子批判」に賛同すると話しかけてきた年配の男性がいた。「この批判に賛成だ。天皇制の評価に賛同する。事務所はどこにあるのか。」 と言ってきた。「ぜひ他の記事も読んで下さい。事務所は佐野町にあります。」 と言うと、ビラを大事そうにポケットにしまい去っていった。

  十月に入っても、宅配と朝夕の街宣は続けられた。H車(神奈川)が加わって宣伝カーと併せて3グループとなった。我々は、静岡だけの4人組で、2千百枚を撒いた。三日にはK車(静岡)も加わり、新たにSさん(愛知)やOさん(長野)もビラ撒きに参加した。

 五日の朝街宣は、久里浜駅で、圷さんを先頭に、代表委のWさんも参加し、合わせて十人という大所帯で貫徹された。大阪からSさん、Mさん、Kさんが加わった。名古屋からFさんも駆けつけた。人の話によると、Kさん(大阪)がビラを撒くと、不思議と人が話しかけてくると言う。Kさんの人柄と豪快な笑顔が顔に浮かぶ。また、Sさん(大阪)とビラ撒きに出ることが多くなったが、配達歴四十数年のベテランは、流石に速くて的確であった。この頃には、二次ビラ(『安倍政権こそ国難だ』)が撒かれ、裏面には共産党批判が載せられた。

 十月一日の夜に、事務所で一回目の代表委と闘争委合同の会議が行われた。主に告示後の闘いが話し合われた。まず、「長時間労働に象徴される搾取労働の即時廃絶」、「非正規労働に代表される差別労働の即時廃絶」 という闘いの基本的なスローガンが確認され、候補者カーにもそれをそのまま掲載すること、闘争委の考えた略式のスローガンは修正された。
            
 次に、公示後の事務分担が決められた。選挙葉書、新聞折り込みチラシ、選挙公報、新聞広告(一次)の原稿(二次は闘争委が担当)は代表委が担当すること、選管での事前説明会への参加や告示日の候補者受付、各支部で宛名書きされた葉書の整理や指定郵便局への届け、折り込みチラシの新聞配分計画と運搬、広報の届け、広告の新聞社との交渉は闘争委が、また掲示ポスターの作成と貼付計画、公示後の候補者カーの運営計画等も闘争委が受け持つこととなった。また、第一声をどこでどう行うかも討議された。最後に、全国の支部へ闘争報告を発信することも確認された。

 三日の事前説明会へは、闘争委員長のIさんと神奈川のIさん(闘争委)が参加すること、十日の告示日の候補届けには圷さんとIさん(闘争委)が、葉書はHさん(闘争委)が、新聞チラシの計画と候補者カーの運営計画は神奈川支部が、広報と広告はIさん(闘争委長)が、ポスター関係は筆者が担当することになった。

  筆者は早速ポスター制作に取りかかった。候補者ポスターといえば、大概が候補者の大写しの写真だが、それとは違うものを作ることにした。圷さんの似顔絵は前に自宅で描いておいたものを採用した。似顔絵は意外性があると考えた。右側にスローガンを、下にえんじ色(京急電車カラー)に白抜きの「あくつ」 を配置した。バックの緑とオレンジは、圷さんがそれが好きだ(湘南電車のツートンカラー)ということで、それらの色を配した。デザインはすぐにできたが、それをパソコン上に取り込んで作成するのに時間がかかった。堪能なIさん(闘争委長)が腕を振るった。かっては、デザインさえ詳しくしておいて、あとは地元の印刷屋に頼むというやり方だったので、時間がかかった。

 こうしてポスター原案は出来上がったが、筆者は重大なミスを犯した。それは採寸を間違えたことである。選挙法によれば、候補者が講演会や集会を計画しておればその分横幅を大きくできる。我々は初めからそういう計画は無しと決めていたので、それをまともにとって、30×42㎝としたのである。一回り小さな手作り感のある?ポスター案が出来上がった。

 結局、講演会や集会をやるやらないを問わず、下の方に講演会実施等と書いておけば、もう12㎝横幅がとれたのである。失敗であった。

 ポスターの印刷は、Iさん(闘争委長)が、ネットで印刷を頼むことになった。しかし、どこも注文が殺到し、注文できないことがわかった。期日は迫っている。Iさんが、ウイング社のSさんに頼み込んで、ようやく知り合いの業者に作ってもらう運びとなり、一安心した。しかし、一千枚を裏打ちするという仕事が加わった(今のポスターは、裏シールを剥がしてすぐに貼れるものが主流)。

  ネットによる注文は、安価で便利であるが、かなり前から注文しておかないと期日までに届かないという危険性がある。その他の注文品にも同じことがおきた。今後利用する時には、このことを肝に銘じたい。

  選挙葉書の印刷にもミスがあった。静岡からの指摘で、表面上部に「郵便はがき」 の文字がないことが判明し、一万数千枚の葉書にゴム印を打つ仕事が加わった。さらに、地方から発送されてきた葉書には、宛先が県外のものは論外だが、宛名面の左側をある決められたサイズだけ空白にするよう指示されていたが、その指示か不明確?で、それが守られていない葉書が多数みられた。これらの葉書にシールを貼って、再度住所・氏名を書き直したり、修正液で消したりする作業が加わった。また、支部に残った残りの葉書を送り返す指示が遅れ、何百枚かの葉書利用ができなかった。
  名簿も古いものを利用したため、数千枚が宛名不明で返品された。最初から選挙人名簿や電話帳を利用したものとすべきであった。これらのミスは、今後十分に生かされねばならない。
                  続く   

選挙奮戦記 【3】

IMG_0072選挙奮戦記  【3】
――かく闘いたり、一闘争委員の報告


 公示前の駅頭街宣が始まった。時刻は朝8時前。初日は、乗降客の最も多い京急横須賀中央駅西口。圷候補を先頭に、Iさん、Kさん、Tさん(共に神奈川)、Hさん(闘争委)、Mさん(静岡)、Sさん(闘争委)、そして筆者と多数揃った。

 それぞれゼッケンを付け、労働者党と「海つばめ」の赤旗を各所に取り付けて開始。まずIさんがハンドマイクを手に演説し、続いて圷候補が演説を始める。我々は、「新しくできた労働者党です」と声を出しながらビラ(宅配ビラ)を撒く。ビラの受け取りは余り良くない。おそらくこの自民党王国で、駅頭にて街宣が行われるのは久しくなかったのではないかと思われ、ビラの受け取りに慣れていない感がある。

 駅頭街宣は、神奈川支部と代表委によって、既に9月13日から始められてきたが(党のブログ参照)、かなり目立ち、注目を引いた。早速、二十歳の若い労働者が「革マルや中核の急進派と違うのか」と質問してきた。「我々は新しくできた労働者の政党で、急進派とは違う。労働者党員を国会へ送ろうと活動している」と説明した。また、病院への送迎バスを待っていた高齢者にビラを渡すと、「安倍は良くない。公明党もずるくて嫌いだ。選挙になるとバスで(期日前)投票所に連れて行かされる。しかし、小泉はいいよお。」と話していた。安倍は悪いが、進次郎はいい、と考える有権者が多いことだろう。

 夕方も5時半頃から街宣を行った。こうして、これから毎日朝夕の街宣が始まった。後に、ハンドマイクが小さいということで、Fさん(名古屋)から愛知の性能の良いものを送ってもらい使用した。また旗の数も少なかったので後に補充された。

 翌日は、北久里浜駅頭で行ったが、Tさん(京都)やIさん(福山)も新たに加わった。
 翌々日の朝は激しい雨のため中止したが、夕方は追浜駅頭で実施した。駅前の歩道橋の上でのぼりを立て演説した。強風と雨のためビラの受け取りは芳しくなかった。

 追浜駅で何回か街宣をすると、この駅を利用する労働者と横須賀中央駅利用者との違いに気づく。中央駅は官庁や商店街があったり、横浜や東京への通勤客が多いせいか、スーツ姿やそれなりの服装をした労働者が多い。一方追浜駅の方は、日産やその下請け等の工業地域にあるので、現場労働者風の服装をした労働者がほとんどである。ビラを横目に無表情で通り抜けていく労働者が多いが、これらの労働者が連合の締め付けから解放されて、労働者党神奈川支部に結集してくることを切に願う。
    
 「長時間労働に象徴される搾取労働の廃絶、労働者の代表を国会へ!」 「非正規労働に代表される差別労働の一掃、安倍政権を打倒しよう!」 と書かれた宣伝カーのスローガンこそ、日本の全国の労働者に届けたい我々の当面の目標である。

 こうして朝夕の街宣は始まったが、¨ビラ折機¨が事務所に導入されるまで、圷候補と闘争委の多忙な日々が続いた。早朝に起床し、朝食の後に朝街宣に出かけ、そのまま平均二千~三千枚のビラを車に積んで宅配、四時近くまでビラを入れ、夕街宣の五時にはその日の駅頭へ集合、一時間半程街宣をした後に 事務所に戻り夕食をとる。夕食後は、圷候補は翌日の演説の原稿を考え、Sさんは明日の宅配の計画を練り、住宅図を明日の人数分だけコピー作成し、我々はIさん(闘争委長)が印刷してくれた五千枚のビラ折りを始める。
 筆者は、このビラ折りが正直辛かった。五百枚ずつに分けられたビラを半折りにするに一時間程かかり、それらを梱包する。全て終了すると夜中の一時をとうに回っている。それから、風呂に入り、テーブルを片付け、押し入れから布団を引っ張り出してきて、布団に潜り込む。五分としないうちに眠りに着く。もしビラを四つ折りにしていたら、おそらく三時過ぎまでかかっていたに違いない。

 だから、闘争委がなんでも参加せさぜるを得ず、また夜のビラ折りが優先されて、闘争委の毎日の会議が全くとれなかった。このことは、全体的な活動の当初の「無計画性、その場主義、場当たり的な対応、分担の不明確さ等」 に少なからず影響したと考えられる。(闘争委の筆者なりの総括は、後に述べたいが、とりあえず、一ヶ月という準備期間の短さ、不慣れな選挙闘争や選挙法の未知、代表委との連携問題、少ない闘争委メンバー、明確な分担制と責任者の不明瞭さ、演説内容やビラ内容等の吟味の時間の無さ等々がある)。〝ビラ折機〟の導入は、やっと我々に会議の時間を与えてくれた。五百枚の半折りをわずか七、八分でやってくれるのである。文明の器機とはすごいものだ。

 十月に入り、日中は相変わらず活動に励み、夜に少し時間がもてて、筆者はようやくポスターやタスキ、あくつ旗、ポスター掲示計画等に着手することができた。(しかし、それはとんでもない遅さだった!)。他の闘争委の人たちも、それぞれ仕事をする時間が生まれた。我々は、「長時間労働から解放された(少し)」 のである!   続く

選挙奮戦記 【2】

選挙奮戦記  【2】
――かく闘いたり、一闘争委員の報告――

    
   神奈川十一区は、三浦半島にある横須賀市と三浦市から成る。横須賀市は、人口40・2万(世帯数16・2万)、三浦市は4・4万(世帯数1・7万)、合わせて40・2万(世帯数1 8・3万)、有権者数は約39万人である。こうした数字から、我々は宣伝の対象を横須賀市(横浜、川崎、相模原に次ぐ県内4位の人口をもつ)に絞った。

 我々は、ビラ配布のついでに三浦市にも出かけたが、そこはのんびりとした農漁村といった風情で、中央には広大な畑作地が広がっていた。農業もしているHさん(闘争委)は「いい黒土だ」と言っていたが、三浦大根をはじめとする畑作物の産地である。海沿いには小さな港が幾つかあるが、鮪で有名な三崎港などは、ほんとに小さな漁港で、市場の建物がぽつんと建っていた。地元の人の話によると、平日はこんなものだが、土日は観光バスが押し寄せ、多くの客で一杯だという。

 さて話を戻すと、、横須賀市は大きく中部の人口集中地域(本庁、衣笠で人口各6万・世帯数2・5万以上)、北部の工業地域(追浜、田浦で人口2~3万・世帯数2万以上) 、南部地域(久里浜、浦賀で人口4~5万、世帯数3・5万) に分けられる。

 交通は、横浜から京浜急行とJR横須賀線が走るが、圧倒的に乗降客数は京急が多い。駅の中心は、横須賀中央(乗降客3・3万人)、久里浜(2・1万人)、追浜(2万人)、北久里浜(1・3万人)、汐入(1万人)である。これらの駅から、横浜や東京方面へ多くの人々が移動する。後に、これらの駅頭は朝夕の街頭宣伝の中心となった。
       
  横須賀・三浦は、百年以上続く小泉王国(自民党王国)である。明治から小泉又次郎(後に公職追放)―純也(女婿)―純一郎(長男)―進次郎(次男)と4代に渡ってその王国を築いてきた。純一郎、進次郎は典型的な世襲議員であり、今や「強固な地盤」を世襲する職業軍人ならぬ、職業議員といって良い。

 進次郎の前回衆議院選は16万8千票(83・3%)、その前は18万4千票(7 9・9%)と圧倒的な集票マシーンぶりである。従って、前回は民進党が怖じ気づき、共産党(瀬戸、16・7%) のみが出馬。前々回は、民主(10・9%)、共産(7・7%)、無所属2(いずれも0・9%以下)であった。

 進次郎の引き継いだ「地盤」(後援会組織や町内会組織、商工会関係、婦人部や県議市議組織等々)がどのようなものであるか調査してないが、小泉一家が長年この地に税金を湯水のごとく投入し続けてきたことは確かであろう。例えば、この地には、東名横浜町田I Cから繋がる横浜横須賀道(有料バイパス)や首都高に繋がる横浜道があるが、実にりっぱな高速道である。筆者は、折り込みチラシをTさん(代表委)とともに横浜の新聞折り込み店まで運んだり、Hさん(闘争委)と選挙葉書を横浜の郵便局に運んだ折りに利用させてもらったが、わずか四〇分程で横浜の海沿いの新聞店倉庫に着いた。

 こうしたりっぱな交通網も小泉一家の「賜(たまもの)」なのであろうか。三浦の畑作物は寸時に東京の大消費地に届けられ、追浜工場の日産車も寸時に横浜港へ運ばれるということか。余談だが、横横道に一つだけ横須賀SAがあるが、そのトイレは小さなSAにしては、実に立派である。愛知の伊勢湾岸道にある刈谷SAの1億円の女子トイレとまではいかないが、金を掛けたトイレであることは間違いない。ぜひ一度ご利用あれ?
      
 さて、今回我々としては、前回同様、進次郎と共産党(瀬戸)との三つどもえの闘いを想定したが、降ってわいたように大阪から希望の党(真白、小沢の飼子)が出てきて、目算が狂った、と言わざるをえない。

 二五日、Hさん(京都)。Tさん(神奈川)らと浦賀方面へビラ配布。この日からしばらく運動員が減り、配布数が落ちた(二千二百枚)。二三、二四日の配布強化デイの運動員数で以後もこなしていけば、おそらく十万枚は達成できただろうと思う。この日は、浦賀方面へ出動した宣伝カーと海沿いのコンビニで落ち合い、流しの音量等を外で聴くことにした。

 暫くして、圷さんの運転する宣伝カーがやって来た。Mさん(静岡)の声がスピーカーから流れる。コンビニの周りの道をぐるぐる回って(ミニストップを包囲した?)、音量を確かめる。

 「さすが地方選をやってきたMさんの、場に応じた流しはうまい」とは圷さんの弁。声は近くではよく聞こえるが、車の窓を閉めてしまうと聞こえない。横須賀市は車の数がすこぶる多い。バスがあるとは言え、地理的、地形的に車がないと生活できないところがある。また、横須賀市のあちこちに群立する高層マンション内もおそらく聞こえないだろう。選挙戦における宣伝カー流しの比重は高いが、それを補足する新たな宣伝方法が考えられても良い時代になっているのではないかと筆者は思う。

 Mさんの流しの元原稿は、数日掛けて闘争委員が検討し合って作成したが、表現が抽象的(例えば、反動的、強権的、国家主義的等々)という批判が出て、何度か手直ししたり、テープに吹き込んでくれたMさんやIさん(福山)の手で修正されたりした。しかし、聴衆の耳に納得的に入っていくには、徹底して不十分なものであった。こうした、労働者にとって分かりにくく現実的でない表現や内容は、他のところでも見られて、今後の課題となった。     続く

選挙奮戦記(一闘争委員の報告) 【1】

選挙奮戦記  【1】

MAH00069(2)―かく闘いたり、一闘争委員の報告―(静岡K)

 自宅に戻り、体重計に乗ったら五㎏も減っていた。圷候補やIさん(闘争委長)、Hさん(闘争委副)、神奈川のIさん(闘争委、候補カー長)らは、もっと減ったに違いない。激しく闘い、しかも楽しくもあった一ヶ月の激闘を振り返る。

 なおこの記とともに、労働者党のプログ『闘争日誌』を併せてお読み頂きたい。この記は、あくまでも一闘争委の見た選挙戦であることをまずお断りしておきたい。

 九月二十三日早朝、IMさん(静岡)と車にて選挙事務所に到着。圷さんに、近くで借りた駐車場(二台分)を教えてもらい、早速事務所へ。プログの写真でしか知らなかった事務所は、通りから細い山道を少し登った、山の緑の木々に囲まれた所にあった。後に、途中の坂道を「心臓破り」と呼んだ人や、夜に道に迷って助けを求める人もいた。

 実は、闘争委の初会合は一九日であった。筆者はそれに間に合わなかったが、林さん(党議長)や代表委の面々、闘争委のHさん(京都)、Sさん(大阪)、Kさん(静岡)らが、事務所の清掃と大改造に汗を流したことを聞いた。大変な労力だったらしい。
          
 事務所は、玄関を上がると印刷機やコピー機、電話、パソコンなどが置かれた事務所と、大きな座卓を二つ並べた八畳の仕事部屋兼食卓があり、それに台所、風呂・洗面所、トイレなどが併設されている。事務所は、圷さんの亡き母上が住んでおられた家をお借りしたもので、男どもが急にドカドカと上がり込んで来て、さぞかし驚かれていることだろうと察しられた。

 後に、ここに代表委と闘争委併せて六人が、まさにごろ寝することになった。Iさん(闘争委長)は印刷機とコピー台に挟まれて布団に潜り、代表委のTさんなどは、頭が玄関に落ちるのではないかと筆者は心配した。『おじさん×6』(妻からの返信メール)の生活は、こうしてスタートしたのである。

 さて、着いたその日はちょうど事前のビラ配布、政党ポスター貼り、朝夕の駅頭街宣、宣伝カーの流しの始まる日であった。中でも事前ビラ(一次、内容はブログ参照)は、横須賀市・三浦市併せて十八・三万世帯に対し。この日を初めに、十万枚を配布する目標が掲げられた。

 早速、S(闘争委)、IM(静岡)、M(静岡)、IM娘さんの五人で筆者の車にて出かけた。もう一台は宣伝カーで、H(闘争委)、K(東京)、S(岩手)、I(福山)さんのグループである最初は団地やマンション等が主な対象とされた。我々は、津久井や野比のハイツや団地、一戸建て集合住宅の一部等を受け持ち、宣伝カーの方は、久里浜の県営・市営、森崎の団地等を受け持った。一人五百枚を目標に、初日は併せて五千枚と、まずまずのすべりだしであった。

 ビラ配布は人数と足(車)の数によって決まる。人数不足はいなめないが、選挙戦を通じて徹底して不足したのは車と運転手である。常時あったのは宣伝カーと筆者の車のみで、もう一台常時あれば、行動範囲が広がり、さらに多くのビラが届けられ、ビラ以外の場でも役立ったという感が強い。レンタカーも考えられたが、多費用と運転手の不足もあって、ポスター貼りでのみの使用となった。次回参議院選では、選挙区が広がることからして、候補者カー以外に、安い中古車(十万円代で)を購入し、常時使用できるようにしたい。(候補者カーとは別の政党カーを兼ねても良い)。次の二十四日は、神奈川支部隊(KM、K、Tさん)も加わり、合計六千百枚を撒いた。我々は三人で千六百枚であったが、今日は一戸建てへの配布であったので、体力を消耗した。

 特に三浦半島は平地が極端に少なく、坂がきわめて多い、また山を切り開いた台地の上に多くの住宅やマンションが建っている。坂道を登りながらの宅配は脚力がいる。しかも、道の片方に連なる住宅群のポストはそれぞれ階段を七、八段上らねば届かない。以後、「平地」での宅配に出会うと「ほっ」 とし、嬉しくなった。

 事前ビラの宅配は、晴天に恵まれたが、三十度近い暑い日々が続いた。一週間もぶっ通しでやり続けると、シャツに白く塩が噴き出してくる。午後になると、ボォーとして熱中症に似た症状が出てきて、思わず木陰で休む。水分を補給して、再び残りのビラを配り始める。

 三浦海岸よりの住宅地等には小アパートが時々あって枚数がはける。しかし、道が複雑で迷いやすい。なので地図に印をつけながら撒く。高台を見上げるとあちこちに高層マンションがあり、少なくとも五十世帯以上は住んでいると思われる。しかし、マンションも大きく2種類あって、管理人が睨みをきかす所は、声をかけると断られるが、オートロック式の所は必ず玄関の横手に集合ポストがあって、軽く五十枚以上は撒ける。しかし、昼になると管理人が「ただいま不在です」の札を立てていなくなるマンションもあり、ラッキーだと思い、失礼ながら入っていって撒く。

 一戸建て住宅のポストも何種類とあって、一番入れやすいのは蓋のない壁ポストである。最近のは、防犯も兼ねた、上に蓋があったり、蒲鉾形の蓋を開け閉めしたりして入れるものや、2㎝ほどの入り口の縦型のものもある。つい最近まで住宅を見ると、ついポストを見てしまうのは後遺症なのであろうか?

 配布のビラはA3の『海つばめ』である。本当は事前に四つ折りしておけば、うんと撒きやすいが、それができなかったのには事情があった。そのことはまた後で述べよう。

 筆者はSさん(闘争委、大阪北)と同乗することが多かった。Sさんは、事前ビラ配布計画の中心を担い、綿密な配布計画を提供してくれた。夜遅くまで明日のビラ配布計画を練り、配布者に手渡す住宅地図をコピーする姿に、頭が下がった。また、現地でも宅配を指導し、的確な指示のもとに配布が行われた。さらに、感心したのは、短期間に横須賀・三浦市の地理に精通したことだ。生まれつきの方向オンチの筆者の車の助手席に座り、的確に道案内をしてくれる。車のナビより的確なので、筆者は失礼ながら、「Sナビ」と呼ばせて頂いた。   続く                             

 (あくつ選挙の現地闘争委員会の一人として活躍したKさんの「奮闘記」です。何回かの連載で掲載します。なお、「闘争日誌」は23日付の14回で終了とします)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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