大阪の『海つばめ』読者から、「12.3 非常戒厳令事件」について投稿がありましたので、全文紹介します。
朝鮮韓国史から見た「12.3 非常戒厳令事件」
宋実成(ソン・シルソン)
(社会言語学者・猪飼野セッパラム文庫スタッフ
1.「12.3 非常戒厳令事件」
12月3日22時、韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が「非常戒厳令」を発令した。特殊部隊が国会と選挙管理委員会に侵入、職員たちと衝突した。銃口をつかんで「쏘라고!(ソラゴ:撃てよ)」と絶叫した女性の姿は強烈だった。国会では「非常戒厳令撤回」が緊急決議され、尹は4日4時に撤回に追い込まれた。金竜顕(キム・ヨンヒョン)前国防相をはじめ、警察庁長官・検察総長・ソウル警察長官など政府首脳ぐるみの企てで、尹に批判的な政治家・政党・運動団体・ジャーナリストらの拘束を狙っていた。首謀者たちは逮捕され、金竜顕は拘置所で自殺を図るも未遂に終わった。「開かれたウリ党」ほか野党が提出した7日の「大統領弾劾決議案」は、与党「国民の力」議員らのボイコットで廃案に。拘束を免れている尹錫悦は「非常戒厳令」の正当性を強弁し、いまだ大統領の座に留まる。14日、一部の与党議員の「造反」で「弾劾決議案」は可決されたが、与党議員の大半は大統領を擁護し続ける。若い女性たちをはじめ老若男女が街中に繰り出し、「尹退陣、内乱首謀者処罰」を求めて連日抗議デモを開く。弾劾裁判所は180日以内に大統領罷免の結論を出す。ところで、尹錫悦をはじめとした韓国保守がなぜこのような愚挙に出たのか、そして、なぜ失敗しても権力にしがみつくのか。朝鮮韓国の歴史から事件を考察する。
2.韓国保守の淵源と保革対立の本質
李朝時代(1392-1910)年、朝鮮農村を支配していたのは貴族「両班(ヤンバン)」だった。ソウルから派遣された代官「郡守(クンス)」が地方行政を司ったが、年貢の徴収など行政を円滑に運ぶには、在地の両班との友好関係が必須だった。そのため在地両班は、広大な農地と奴婢(ぬひ)の保有が認められ、両班が奴婢を殺害しても罪に問われなかった。1894年の「甲午改革」によって両班や奴婢などの身分が法的には廃止されたが、社会的には維持された。旧両班たちは奴婢を引き続き所有すると共に、地主として小作人をも支配した。日本の植民地期(1910-1945)、朝鮮総督府は旧両班地主による奴婢の所有を黙認していた(金宅圭(キム・テッキュ)『韓国同族村落の研究:両班の文化と生活』、学生社、1981)。旧両班地主層は「面長(ミョンヂャン、村長)」として植民地支配を地域で担うことで、農村に君臨した。官憲との連携の下、あらゆる民衆運動を監視・弾圧し、日本帝国の総力戦体制に協力した。李箕永(イ・ギヨン)の小説『땅(タン、大地)』(1948)では、面長の身内の若者は徴用対象者から外し、他家の若者たちを徴用工として送り出した様子が描かれる。1945年8月15日の日本敗戦=朝鮮の解放に伴って朝鮮全土に「人民委員会」が組織され、「親日派の清算」と「農地改革」が課題となった。米軍政下の南朝鮮では人民委員会が弾圧されたため、親日派が「反共保守」に衣替えして生き残った。ソ連軍政下の北朝鮮では1946年3月の「土地改革」で地主の土地が没収されて小作人や零細農民に分配され、両班地主の家の奴婢たちが解放されて市民となった。「8時間労働制・男女同権」も実施され、「民主改革」が急速に進んだ。この北朝鮮での「民主改革」が南朝鮮の民衆運動に波及して1946年の「大邱(テグ)10月抗争」や1948年の「済州(チェヂュ)島4.3事件」が起こり、戦後日本の民衆運動にも影響を与えた。朝鮮戦争(1950-1953)期に韓国社会から左翼的なものが一掃されて以降、あらゆる運動が「非左翼・反共自由民主主義」を前提にした運動へと変質した。1970年代以降の「経済発展」は、民衆に低賃金労働・無権利・言論抑圧を押し付けて実現された。1960年に李承晩(イ・スンマン)大統領を退陣に追い込んだ「4.19革命」、1980年の「光州(クァンヂュ)事件」、1987年の「7月抗争」などの民主化運動は、韓国の保守体制に対する民衆の怒りの爆発であり、韓国の民主化は民衆の多大な犠牲の上に実現してきたのである。
3.歴史の反動としての「12.3 非常戒厳令事件」
尹錫悦は、ソウルの南、公州(コンヂュ)の「代々、儒学者を輩出してきた名門の家柄」の出である(「朝日新聞」2021年11月11日11面)。すなわち「両班」の一族だ。両親ともに大学教授で、父親は「韓国経済学会会長」も務めた。尹は1960年ソウル生まれで、ハイソな子弟が通う名門進学校を経てソウル大学法学部を卒業、検察総長を務めた際に文在寅(ムン・ヂェイン)政権と対立して保守のヒーローに祭り上げられた。大統領選挙本部を自身の幼なじみや知人らで固め、大統領に就任するや彼らを政権中枢に据えた。進歩(革新)政権が実現した成果を覆し、保守・対北強硬・親米親日政策を推し進め、労働・市民運動を弾圧した。「女性家族省の廃止」を公約に掲げて青壮年男性の「女性嫌悪」を煽った(「朝日新聞」2022年3月11日7面)。その結果、昨今韓国では、男性による女性への殺傷・性被害が頻発している。家父長制と男尊女卑の家庭環境で育った尹ならではの振る舞いだ。「徴用工問題」では、過去の清算を握りつぶして日本政府と妥協した。尹の祖父らが村の有力者として植民地支配を担った事実を隠蔽するのと、先の戦争と植民地支配を推し進めた共犯同士の同盟が目的である。尹錫悦の政治、ひいては、韓国保守の政治は、政治的主権、社会的富の所有と分配をめぐる経済的主権、教育と情報をめぐる知的主権を歴史的支配層出身者たちが独占してきた寡頭政治である。それらを民衆たちが奪い取る過程こそが、1920年代から50年代までの朝鮮の民衆運動であり、50年代から今に至る韓国の民衆運動と言える。5歩進んで3歩戻り、さらに5歩進む…。尹錫悦時代は3歩戻る反動期であり、次に5歩進むことは明らかだ。韓国の民衆はそうやって民主主義を実現してきた。アイドルグループ「New
Jeans」の所属事務所に対する労働争議はこのような風土だからこそ起こったのだ。韓国でもほかの国でも市民たちは「労働者としての意識、民衆としての意識」を強く持っている。一方で、日本の市民たちの「労働者意識、民衆意識」はどうだろうか?