概念なきMMT派の貨幣論
――権力の債務証書に過ぎないと
MMT派の財政バラ撒き論の理屈は、「政府の債務=民間の黒字」という「マクロ会計の恒等式」が常に成立するということである。つまり「政府の赤字は民間の黒字になる」のだから、政府は何の遠慮もなく無制限に借金ができるというのである。否、そうすべきだと言う。この理屈を一貫させるなら、税金は民間の収入を減らすものであり、従って税金などは一切不要である、税金の代わりに政府が発行する貨幣で賄うべきだということになる。なんと立派な妙薬を発見したものである。
MMT派のこうした理屈の根底には、貨幣は権力者(現代においては主権国家)が発行した「債務証書」、つまり権力者の「負債の記録」にすぎないという貨幣論がある。しかもそれは、古代の部族共同体においても存在したと主張する。
この小論では、この特有な貨幣論の基本部分を取り上げる(L・ランダル・レイ著の『MMT』)。
貨幣発生の条件
レイは、貨幣は古代共同体においても貨幣が存在したと認識する。しかし残念ながら貨幣は共同体の内部では発生しない。この内部では、共同体の成員が作った生産物は商品という形態さえ帯びることもない。
それは商品を分析し、貨幣生成の必然性を考察することによって理解されることであるが、レイにそれを要求するのは無理らしい。だが、どんな社会的な条件で貨幣流通が起きるのかは、歴史的な〝労働集合体〟を見れば分かることではある。この基本的な点から始めることにする。
例えば、古代の部族共同体でも、中世の家父長制家族においても、しいて言えば近代の工場内部(資本の搾取労働の場である)の工程や部署を覗いても、貨幣は存在しないし、流通もしていない。
それは何故か。これらの内部での労働は、独立した個々人や独立した工程の私的労働ではなく、彼らの生産した生産物もまた成員や工程毎の私的所有物ではないからだ。それらの内部では、複雑な段取りや生産工程があり、労働の分割や分業が行われていたとしても、域内においては、商品交換は必要なく、従って貨幣も一切介在しないのだ。
ではどのようにして生産物は商品となり貨幣も生成されるのか。生産物は、私的所有者の生産物が彼らの間で相対し、交換されることによってである。私的所有者の生産物が交換を通じて社会的関係を取り結び、私的労働が社会的労働として反映(対象的性格で)させられることによって商品となるのである。
歴史的には、商品は共同体と共同体の間で発生した。まずは、共同体の欲望を超える量の生産物が他の共同体のとの間で交換され始める。当初は「物々交換」として、時間の経過と共に不断の交換が進むにつれて、交換は規則的で相互的な社会的な行為となる。それらの交換割合は、最初は偶然的である。
しかし、そのうちに、ある一部の生産物は、共同体間の相互の欲求により初めから交換を念頭に置いて、あるいは交換を目的として生産されるようになる。この瞬間から、その生産物は商品となる。
同時に、商品の量的な交換割合(交換価値)も次第に固定し、例えば、魚10匹、毛皮1枚等が米一升と交換されるようになり、量的割合も次第に厳密さを増していくならば、この米は、諸商品の等価物としての地位を得る。
諸商品が米に対して自らの交換価値として相対するならば、狭い域内ではあるとしても、この米は諸商品の一般的等価物(貨幣)となるのである。従って、この時には既に、米と交換される諸商品には同一な共通物(価値)があることを各交換者は経験のうちに知りえるのである、だからこそ、ある量的な割合としての交換が広範に成立していくのだ。
こうした商品交換の発生と貨幣の成立について、レイは全く無頓着である。それ故に彼の貨幣論の狭隘さが常に暴露されるのである。それを次に見ていく。
権力者発行の債務証書はどこに?
レイは、今から数千年前の古代メソポタミア(今のイラクあたり)の部族共同体の内部において、既に、権力者の債務証書としての貨幣が生まれていたと断じる(309頁~)。
古代メソポタミアについては、発掘が進み大分全容が分かってきている。この人々は、肥沃な土地(チグリス川とユーフラテス川の三角州や川岸地域)に自生した大麦などの各種穀物を食料にするなど、定住した生活を営み、部族ごとに城壁(外部の遊牧民族の襲撃から防御するため)のある共同体を作っていた。
共同体には神殿の付属倉庫があり、人々は、大麦やビールや家畜などを神殿司祭者に一部を上納する一方、それらを成員たちの為に保管し必要になった時には持ち出していた。倉庫への入庫と出庫の様子を示す記録(文字)は、共同体の財産管理というような極めて実務的な要請によって発明されたのであって、レイが言うような神殿権力と成員間の「債権債務」を示すものでは決してなかったのだ。支配者を示す文字はなく、共同体を示す文字が発見されていたことも理解を助けるはずだが。
また、商品交換が部族共同体の外で行われるに従って、また、商品価値が人間労働の物質化として妥当され発展してゆくにつれて、貨幣(貨幣の形態)は貴金属に移っていく。だが、レイは、貨幣生成の必然性についてはもちろん、こうした貨幣史とも真面に向き合おうとはしないのだ。彼は次のように呟く。
「硬貨とは何であり、なぜ貴金属を含有していたのか?
確かによく分からない。ケインズが言ったように、貨幣の歴史は『時間の霧のかなたに消え去ってしまっている…』。要するに、我々は推測するしかないのだ。」(314頁)
にもかかわらず、レイは、貴金属貨幣も権力者の債務証書(債務の記録)だったと頑張るのだから、そうなのかを簡単に見ていくしかない。
古代メソポタミアを含む古代オリエント地域から地中海沿岸地域では、銀が秤量貨幣(重さが価値を示し、切り分けて使える貨幣)として取り扱われていたことが分かっている。
この銀貨幣は、「コイル」の形(直径約5cm、長さ約22cmのコイル状で、最古は紀元前20世紀に発掘)や「輪」の形をしていて、商品交換の際には、彼らは相手の穀物や家畜等と一定の重さの銀貨幣を交換価値として割り出し、コイルを切断するなどして使っていた。
この秤量貨幣は、商品交換が盛んな地域や遊牧民族の間では、直ぐに重さが決まった定量貨幣へと変化発展し、長い間使用され続けていったが、それは金属の自然属性(加工性、耐劣化性、美観、非生活物資)が貨幣の機能に適していたからであると同時に、最初から重さを記した貨幣の方がより機能的であったからである。
この定量貨幣は紀元前7世紀のリュディア(現在のトルコ)が最初であったという。この貨幣は小型(11cm×13cmの楕円形)であり、金銀の自然合金を「打刻」して作られ、貨幣を示す紋様と一緒にその重さが刻印されていた。
何故か。それは〝小売り用〟に頻繁に使用するためであり、その「便利さゆえに、古代ギリシャ・オリエント地域に瞬く間に広まった」(『貨幣の世界』日銀)。
このように、金属貨幣の登場と普及は、私的所有を基礎とする商品交換の一定の到達点であるが、レイには考えもつかないことなのだ。もちろん権力者が財政の都合で貨幣を発行する場合はあった(日本の封建制下でも)が、それは限定的であったということなのだ。
今回は貨幣の基礎と古代共同体の貨幣を中心に論じたが、封建制社会においても、主権国家の債務証書として貨幣が常に発行されたという事実を見つけることはできない。レイの貨幣論は一面的であり、間違っている。 (W)