労働者党第5回大会報告――勝利目指しリベンジを決議

 10月初旬、14名の全国の支部から選出された代議員を結集して開催された労働者党第5回大会は、13名の賛成、保留1という圧倒的な多数をもって、今後も労働者党の原則的な政治闘争を貫徹し、党を再建、強化、拡大して国政選挙闘争に再び参加し、22年の参院選までに、我々の、そして労働者の大きな希望であり、未来でもある国会議員(団)を勝ち取るという方針を決定した。

 昨年の春、19参院選参加を決定した大会が、参加者のわずか過半数を1名超えるような、薄氷の採択であったことを振り返ると、ほぼ全員一致の固い決意と覚悟の決定となったことは、まさに隔世の感がある。我々は19参院選を闘うことによって、さらに強くなり、団結をうち固め、再挑戦する苦難の道を選んだのである。

 我々は満を持して参加した19参院選では、自ら目指した勝利の課題――腐敗した議会や議員のごみ溜めの中に、労働者の代表を、闘う戦士を送り込む――からすれば、確かに「敗北」したが、しかし唯一、安倍政権に正面から対決し、偽りの労働者の味方を装う野党共闘派を暴露し、断固として闘い抜いた党として、誇りをもって我々の闘いは原則的であり、正しく、決定的に重要であったと総括し、さらなる闘いに挑むことは必要であり、不可欠であること、我々が闘いを止めたら、労働者に対する裏切りでさえあることを確認し、再挑戦を決定したのである。

 

安倍の「一派独裁」との闘い

 

 安倍は「全世代型社会保障」というこけおどしのスローガンを高々と掲げ、自らを議長とする「全世代型社会保障検討会議」をでっち上げ、意気揚々と「令和時代の新しい社会保障制度を大胆に構想する」と見栄を張り、何事かをやっていると派手に見せびらかすために、盛んに乳幼児教育無償化等々のあれこれのバラまき政策にせっせと励んでいる。

 我々は、安倍の表看板であり、最重要視した政治路線――憲法改定という安倍の究極の野望を引っ込め、〝温存した〟ので、安倍にとっては国民をたぶらかして支持率を高め、今後の政権の維持と延命のテコにするための〝とっておきの〟政策、全世代型社会保障の幻想、つまり消費増税の使い途の「転用」と、乳幼児教育無償化等々への流用という政策――に対して、正面から対決し、そんな間違った政策に反対し、粉砕して、安倍政権の打倒に道を開くという戦略の下、一貫して闘った唯一の政党であった。


 実際安倍政権の参院選の看板政策、というより策動は、卑しく、また有害で、反動的なものであった。

そもそも民主党政権下の2012年の3党合意による5%の消費増税(おおよそ年々14兆円にもなる、労働者への追加重税)は、その80%(11・2兆円)が、破綻し、恐るべき結果を、国家財政の破産や国民経済の崩壊や国民生活の破壊をもたらしかねない国家破綻を回避すべく、財政再建のために、そしてその20%(2・8兆円)が膨張する社会保障――少子高齢化の中で、破綻の時代を迎えようとしている医療、介護、年金――の財源(国家補填のカネ)を捻出して行くために、そのためにのみ、使われるべきであると明確に決められたのであった。

 当時の民主党政権の消費増税に賛同した自公は、もともと消費増税は自分たちがやりたかった政策だったのだから、こんな僥倖はまたとない、これ幸いとばかりに、いそいそと野田の政策の乗ったのである、これで、消費増税の責任と悪評は民主党とその政権に転嫁できる、自民政権がやれば、政権の命運をかけてやり、政府や政権の瓦解にもつながりかねない増税を、民主党とその政権でなかったら、年々14兆円にもなる消費増税を国民が受け入れることはないと、〝野党共闘〟ならぬ〝与野党共同〟で消費増税を成し遂げ、有卦(うけ)に入ったのである。


 三党による5%もの大幅な消費増税もまた、労働者を裏切り続けてきた民主党政権の、最後の裏切り、置き土産であった、というのは、こんな政治ばかり3年間もやっていた民主党は、その直後に崩壊して、安倍自民党に政権を奪われたからである。自業自得というしかない。


 そして5%の消費増税のうち、3%は14年に、残りの2%は15年にと、国民生活への影響を緩和するために2回に分けて行われると決められた。


 そして民主党政権の後を受けて、消費増税を実行に移した安倍政権は、2014年、最初の消費増税3%分、つまり8・4兆円の消費増税を実行したが、その結果かどうかは分からないが、安倍政権にいわせると、「経産省の役人に『大丈夫と言われて』消費増税をしたが、結果として『アベノミクスの腰を折られ』、アベノミクスの効果が表れるのを妨げられた」とぼやくような、経済の停滞や衰退が続き、さらに深化する時代を迎えてしまった。


 もちろんたまたま訪れた経済の不振や渋滞が、消費増税のためであるといった証拠はどこにもなかったのであり、そんな偽りの〝因果関係〟をやかましく言いはやしたのは、アベノミクスのありもしない〝効果〟を大げさに言いはやさなくてはならなかった、リフレ派学者や安倍政権そのものであったのだが。


 しかし安倍は15年、消費増税による消費の冷え込みや〝需要〟縮小による不況の再来や経済の停滞を極度に恐れ、
世界中から嘲笑され、呆れられるような、「リーマン・ショック並みの」経済危機が迫っているといった、見え透いた虚偽の口実を持ちだして増税を延期し、またさらにもう一度、19年にまで延期することも辞さなかった。


 しかし悪党の安倍は、17衆院選では、すでに化けの皮がはがれて、薹(とう)の立ってきたアベノミクスに代わる、新たな〝社会改革〟の観念、「全世代型社会保障」といった、珍奇な、新しい策動を思い立ったのである。〝国難〟――と安倍は言いはやしたが――として現れてきた少子高齢化や、国家的衰退や、財政崩解や社会保障の危機に対処するべく、国民を幻惑する新政策、乳幼児教育無償化などの目くらまし政策を持ち出し、悩みの種の消費増税も実行して、そのための財源として「転用」し、バラまき政治も拡大し、「禍(わざわい)転じて福となす」といった策動を思い立ったというわけである。


 この新しい安倍の〝経済政策〟は、基本的に、限界と破綻が明らかになってきたアベノミクス、つまり〝異次元の〟金融緩和政策に代わる、無責任で、危険な野放図の、つまり自民党の得意とする、十八番(おはこ)の伝統的な政策、財政膨張政策(国債発行に、つまり借金に依存する、無政府主義的で、無責任な膨張政策、財政崩壊や国家経済の崩壊、労働者の生活破壊に行きつくしかない膨張政治)に移っていく――後退して行く――きっかけ、突破口になり、安倍政権の新しい国民瞞着、国民総愚民化による政権の延命を保障する確かな方途となるはずのものであった。


 この政策の目指すものは、14兆円の消費増税のうち、80%と決められていた財政再建のための財源を、別の社会保障のために、すでに20%は社会保障のためと謳われていた、そんな社会保障――便宜のために、取りあえず〝本来の〟社会保障、〝旧来の〟社会保障と呼ばせてもらうが、つまり3党合意で謳われた、少子高齢化によって膨れ上がっていく医療、介護、年金等々のための社会保障――とは区別される、安倍の言うところの新しい「全世代型社会保障」(その典型的で、具体的な政策こそ、乳幼児教育無償化等々である)の財源に、使途変更するというものであった。


 我々はすでに、労働者党を再建し、直ちに参加した17衆院選の時から、安倍のこの新手の政策に反対し、そんなものは労働者にとって有害である単なる思い付きのようなものであって、そんな新しいバラまき策動に反対し、粉砕するための闘いを呼びかけたが、そんな我々の闘いは偶然のものではなく、09年の民主党政権の時から顕著になってきた、卑しい半デマ・ポピュリズム政治の横溢する風潮に対する――その延長線上には、虚偽と大衆扇動という半デマ・ポピュリズム政治の本性からして、まちがいなく、ファシズム世界が大口を開けて待ち伏せていること、しかも安倍政権自身がすでに半ば、そんな政権に堕していることを我々は確信するのだが――、断固たる闘いを開始したのであり、我々の19参院選闘争は、直接にその延長戦として、一層深化させられて闘われたのであった。

 

『乳幼児教育無償』の内実

 

 今では乳幼児教育無償化政策等々は、安倍政権の延命のため、選挙や当面の支持率のためにのみ、単なるバラまきということだけに持ち出されたものであって、労働者のためでも、少子高齢化という〝国難〟と闘うためでも、経済成長や財政再建のためでもないことがすっかり明らかになっている、というのは、そんな偽りの政策は、その反対の結果しかもたらさないことが暴露されてきてしまったからである。


 少子高齢化という〝国難〟と闘うというのだが、少子化を逆転させる結果には全くなっていないだけでなく、少子化は安倍政権7年間の後半になればなるほど、その傾向はますます進行しており、合計特殊出生率は1・42という最低水準にまで下がってきている。


 人口の高齢化に備える、といったことに全世代型社会保障が貢献しているなどということもあり得ない、というのは、そもそも安倍政権は最初から「シルバー民主主義」なる観念を持ち出し、今の社会では高齢者ばかりが優遇されていると、高齢者を侮辱し、辱め、軽視するように〝失礼な〟暴言を繰り返し、高齢者の社会保障を後退させるようなことばかりしてきたし、今もしているからである。


 高齢化社会で、医療や介護の費用が増えて行くのは当然であり、必然であって、だからこそ我々は、労働者・働く者は、現実に直面する社会保障の問題も真剣に考え、その困難な問題に向かい合い、合理的な解決の道を探り、明らかにしていかなくてはならないと強調してきたのであって――例えば、19衆院選において等々――、今の世界は「シルバー民主主義」だ(高齢者をいつくしみ、敬い、大切にする社会はおかしいというのか)、そんな社会から〝全世代に〟社会保障を敷衍する社会に〝変革〟すべきだといった理屈を並べるのだが、また何という粗暴にして、野蛮な観念、「社会の余計者、邪魔者は消せ」といった、野蛮なファシズムに無限に接近して行くような観念ではなかったか。


 そもそも、乳幼児教育無償化といった政策0から2才の家庭の乳幼児の一部(低所得家庭)の保育費用や、3から5才児の保育園児や幼稚園児の全家庭の費用の無償化――が、なぜ、いかにして〝社会保障〟なのか。


 労働者世帯や母子家庭は自らと後に続く世代――乳幼児等々――のために自ら働き、また一部は社会のために働く(例えば、税金を払う等々)ためであって、社会によって救済されるためではない、つまり本質的に社会保障の問題ではないし、あり得ない。必要なものは、働く人々が自立した、社会の構成員として立派に生きて行く手助けをするための、偽りのバラまき社会保障ではなくて、保育の充実等々の、労働支援に属するものである。


 実際、労働者が求めるのは国家や権力者による生活保障ではなく――自ら働き、自ら生活を成り立たせている、誇り高き労働者は、こじきでも、物乞いでもない、つまり被救恤民とは全く違った、社会的階級であり、階層である――、自らがまともに働くことのできる諸条件を、つまり生活するに必要な仕事や、十分な賃金や、健康に働き得る労働条件を手にすることにあって、安倍や政権の空人気や、目先の選挙のために、労働者の汗と膏(労働によって得たものという意味での汗やアブラ)の結晶であるカネを無駄に投げ与え、税金を浪費するところにあるのではない。


 安倍政権の乳幼児教育無償化政策がまともな労働者への支出ではなく、まさにバラまきであり、バラまき以上でないことを教える証拠や事実はいくらでもある。


 消費増税のうち、財政再建から「乳幼児教育無償化」という名のえせ社会保障に転用される8000億円のうち、0~2才の家庭の乳幼児のために支出されるカネはわずか1%であり、50%ほどが3~5歳児の〝教育無償化〟に行く(その他は、安倍の言うところの〝高等教育〟の無償化等々に配分される。この政策もまた典型的なバラまきだが、今回は、それについて詳しく述べる余裕が残念ながらない)。


 他方3~5才の階層は、0~2才の階層の乳幼児――乳幼児を保育所に預けなくてはならない階層――に比べ、その必要性、切迫性がより小さい、比較的余裕のある家庭であり、しかも所得の大小を問わず費用を無償化するというのだから、より豊かな階層の方が利益が大きく、実際そうした世帯では乳幼児に浮いたカネで〝お稽古事〟とか、ピアノとか、水泳等々を習わせるというのだから、安倍政権の政策のバラまき的本性だけでなく、優れて階級的な性格もまた明らかである。


 0~2才までの世帯には、乳幼児教育無償化は所得の低い階層にのみ無償化が適用されるのであって、いかにも貧しい世帯を重視しているように見えるが、しかしそれで何で8000億のわずか1%だけなのか、という疑問はすぐに解消される。何のことはない、これらの階層には、すでに〝既成の〟社会保障の措置が適用されていて、すでに保育料等々の減免措置が行き渡っているからである。安倍政権が全世代型社会保障だなどと言って、今さらの如くしゃしゃり出る必要性はなかったのである。


 さらにバラまきの本性をさらけ出すのが、あらゆる世代を対象とする私的教育資本に大きな儲けを保障するところにも、顕著に、決定的に暴露されている。


 すでに私的な乳幼児施設(資本)に子供を預けている保護者の多くから、資本から保育料、入園料の値上げを通告されているという告発がある。資本は乳幼児教育無償化で保護者負担が減る、だからその分を資本が徴収するというのである。おまけに給食費を別に請求する資本もあり、乳幼児〝教育〟無償化は利用者にとって、実際には乳幼児〝教育〟(保育)の費用増加や不都合さの拡大に行きついている場合さえ出ている。


 朝日新聞は名古屋の30代の女性による、私立幼稚園の〝便乗値上げ〟に対する告発を掲載している。


 「(園からの通告は)これまでの授業料(給食費込み)2万3700円から2万5700円、給食費4500円とし、トータルでは6500円値上げするというものだったが、何に使うのかと園に聞いても応じてくれない。『無償化で保護者負担が大幅に減るから文句はないだろう』と言わんばかりだった。
 女性らがいくら重ねて説明を求めても、園側は『もらわないと国が持っていっちゃう』と言うだけだった。園には約170人が通っており、今回の値上げで、園は毎年1300万以上の増収になる計算だ。女性は『限られた財源が、本当に必要な事業に回らず、経営者の懐に入ってしまうような使い方は許されない』と憤る」。


 全国の私立幼稚園だけでも、8000園が連合会に加盟している。どれほどのカネを多くの私立幼稚園が〝便乗値上げ〟でかすめ取り、どれくらいの〝上納金〟が自民党に〝還流される〟のかは知る由もないが、こうした事実もまた、まさに安倍の消費増税の全世代型社会保障のための「転用」政策の腐敗と本性を暴露している。


 安倍の消費増税転用の政策すなわち全世代型社会保障路線は、私的教育資本――大学生が急減する中で、経営が行き詰まり、破綻に瀕する〝高等教育〟(どんな〝高等教育〟であるやら)もいくらでいる――の救済政策でもあり、さらには私的〝教育〟資本が暴利をむさぼる、絶好の機会を提供したということであり、こうした資本からの自民党と安倍政権に対する〝献金〟(わいろ)もまたうなぎ上りに増えるという仕組みでもある。


 労働者世帯、片親世帯にとっての、緊急の要求は乳幼児教育無償化ではなく、それ以前に、保育施設等々の完備充実であるという、切実な声や要求が全国で澎湃として湧き上がっている現実こそ、安倍政権の消費増税の全世代型社会保障への「転用」が労働者のための政策ではなく、安倍政権の卑しい動機による、税金の私物化であり、浪費であるという真実を明らかにしていないのか。 


 しかも今なお乳幼児のために、したがってまた自らが働き、働き続けることを真剣に、必死で願い、優先して、質量ともに充実した保育施設を期待し、欲している、何万、何十万にも達するとみられる、全国の多くの労働者世帯や女性にとっては、安倍政権の政策はトンチンカンで、的外れで、怒りの対象でしかない。


 彼ら、彼女らの怒りと憤激の声は、今や全国の隅々から、いたるところから上げられ、満ち溢れているといって少しも言い過ぎではない。

 

労働者の非難や怒りの嵐

 

 安倍が政権の目玉商品として、政権の看板政策として押し進めている乳幼児教育無償化政策に対する、当事者や対象者、否、国民全体の批判や怒りは、今やマスコミ紙上を覆いつくしている感さえある。


 参院選後、消費増税とその「転用」政策が実行に移されるやいなや、その矛盾や虚妄性、その反動性や有害性が、安倍と安倍政権のための財政の私物化とバラまき政策であるというその本性が、たちまち明らかになってきたからである。


 我々が海つばめ(1362号、10月6日)で紹介し、その意義について触れた朝日新聞の9月末の「幼保無償化バラ色?」の記事は、そんなものの一つである。


 朝日新聞の「デジタル・アンケート」によれば、安倍の乳幼児教育無償化政策に対する反対は62・5%で、賛成の37・5%をはるかに上回ったことを明らかにし、同時に保育世代の多くの生の声を紹介している(9月29日朝日の特集記事もしくは海つばめ10月6日号参照)。


 朝日だけではない、毎日新聞も、「幼保無償化に不公平感」という記事を載せたが、その中で、切実に保育(施設)の充実を求めている、二人の女性の怒りを紹介している。


 「無償化は、保育ニーズの増加につながると指摘されている。今年の4月の待機児童数は約1万7000人以上に上り、『保育』に走り回る保護者らは複雑な思いを抱く。


 東京都江東区のある認可外施設は、3~5才児で無償化の上限を超える月2万3000円が保護者負担となる。長男(2)が認可保育所に入れず、この施設を利用する女性会社員(35)は不公平感を抱いている。来春には長女(4ヵ月)も保育施設に預けて復職するつもりだが、『今でさえ厳しい認可保育所への入所が絶望的になる』と憤る。


 さいたま市の女性会社員(30)は、長男(1才9ヵ月)が認可保育所に入れず、育児休業を延長した。しかし復職期限の12月が迫り、やむなく認可外施設の空きがある地域への転居を考えている。『保護者同士の競争が激しくなってしまう。待機児童をなくすための政策も同時に進めてほしい』と訴える」。


 彼女は「同時に」進めてほしいと控えめにいうが、本心は安倍政権の政策に対する不満や、その愚劣さや下劣さに対する怒りで心が煮えたぎっているのであろう。


 資本側とみなされる日経新聞にさえ、保育に苦労し、心身をすり減らす女性の憤怒の声が紹介されている。


 「子育て世帯が流入する都市部と周辺では、依然厳しい『保活』が続く。『(待機児童は)≪過去最少』と言われても……。未だに1万人以上が入れず、それぞれの仕事や人生に大きな影響が及んでいることを重く見てほしい』。東京都内に住む会社員の女性(35)は、1才半の子供の預け先が見つからない。今春、待機児童が比較的少ないと評判だった区に引っ越しまでしたが、申し込んだ7カ所の認可保育園全てで落選した。その後も1才児のクラスだけでも250人近くが申し込み、『待機順位は100番目と言われた』。『ズドンと奈落の底に突き落とされた。《女性活躍》と言いながら、こんなに行政が当てにならないなんて』


 4月に会社に育児休業の延長申し出ると、人手不足で『育休日中でも出勤してほしい』と言われ、応じた。5月末から都心までバスと電車を乗り継いで、1時間くらいかけて週2回ほど出社し、その都度、社内にある企業主導型の哺育所の一時利用でしのいで働く。


 復職の期限が迫り、転職も頭によぎるが、預け先がないと、それもできない。同時に始まる幼児教育・保育の無償化はとても遠いことのように感じられる」


 他の35才の自営業の女性も「『今まさに、入れなくて困っている人がいる。無償化よりも、保育園を作ることにお金をかけてほしい』と訴える」(9月7日)。


 これらの証言が明らかにすることは、安倍の全世代型社会保障の観念や、消費増税の使途変更による、乳幼児教育無償化の政策等々が労働者の多くによって支持されないばかりか、反発、不満、批判だけでなく、強い憎しみや怒りによってさえ迎えられているという事実であり、アベノミクスのみならず、全世代型社会保障という観念や、それに基づく政治や政策が今や、広汎な労働者から拒否されているという現実であり、安倍が消費増税を「転用」して増やす支出が、労働者にとって、間違った税金の使い方であり、浪費であって、安倍政権のために、否、安倍個人のために、税金が私物化され、私的に悪用されているという自覚が広がっているということである。

 

問題は野党であり、その闘いだった

 

 我々は参院選における野党の闘いは、決して安倍政権をいくらかでも追い詰め、その打倒の道を切り開いてくことが敵ないばかりか、返って安倍政権に〝名を成さしめ〟、増々安倍の「一派独裁」を固め、強固にするだけであると主張してきた。


 というのは、彼らの闘いは安倍政治の核心を突くものではなく、その中心を、看板の政策と対決し、それを打ち破るといった、現実的なものではなく、つまり安倍政権にとっても少しも恐ろしいものでも、急所を突き、迫るものでもなく、〝痛くも痒くも〟ないようなものだったからである。


 野党共闘派が消費増税反対をいくら叫んでも、自公にはそんな批判は蚊が刺したほどの痛痒さえ感じなかった、というのは、「野党が消費増税反対だって、しかしそもそも消費増税は12年に、民主党政権が行ったものであり、そして立・民や国・民は民主党の後継政党ではないのか、諸君は7年前に自分自身が行った政策に反対だと言うのか、余りに無原則、無節操ではないのか」と一言いわれただけで、もう労働者・働く者に訴え、支持を獲得することは絶望的に不可能だったからである。


 そしてそんな政治経済情勢の危機が深化する中で、国・民や立・民、共産党やれいわは、根底から、アベノミクスや全世代型社会保障等々の安倍の半デマ・ポピュリズム政治に、偽りの経済政策に原則的に反対し、対決して反撃し、闘うことができなかった、というのは、それはまた野党の経済政策の根底でもあったからであり、与野党は政治的な立場の深いところで一致し、事実上共同し、協調していたからである。


 彼らは共に(つまり与野党一緒になって)、金融緩和にしろ、借金依存の財政膨張にせよ、カネのバラまき政治に精を出せば、そんな経済の運営をやれば、そしてその結果、〝消費〟や〝需要〟が拡大すれば、デフレや経済不況が一掃され、経済成長も繁栄も戻り、財政再建も労働者・働く者の生活向上も可能になり、すべてが万々歳の極楽浄土が実現するといった、資本主義の何たるかも知らない、たわいもない、幼稚な幻想に全身で浸っているからである。


 彼らの合言葉はできるだけ大規模で、無制約の膨張政策の重視と、その永遠の継続であり、「緊縮財政」反対であって、そんな政治こそが、国民に不況とかデフレとかの災厄をもたらすのである、といった無政府主義的で、無責任なものである。


 「緊縮政治」
が労働者・働く者にとっておぞましいものであるとしても、だからといって、バラまき政治が正しく、必要だということにならないのである。彼らは、労働者・働く者に矛盾と困難をしわ寄せする「緊縮政治」に反対すると共に、ブルジョアのためにカネをバラまく政策にも断固として反対し、それを粉砕することが必要であること、安倍政権の実行するような半デマ・ポピュリズム政治に耽っていくなら、そんな政治に追随し、迎合して行くなら、結局はファシズムの勝利に行きつくことを理解しないし、できないのである。


 こんな消費増税や消費税は悪で、他の税金なら善だ、消費税反対を謳わないと選挙に勝てない、等々の決まり文句や固定観念から出発して、安倍政権と闘っていけるなどと思うのは幻想で、安倍に「消費増税反対と言っても、そもそも消費増税を決めたのは立・民や国・民を生んだ母体は、民主党ではないのか。そんな民主党の後継政党が、選挙ともなると消費増税反対と叫んでも、今さら片腹痛い、余りに無責任、無節操」と攻撃されれば、ただそのことだけで、安倍政権と堂々と闘うことができず、すごすごと引き下がるしかないのは自明である。


 なぜ労働者・働く者から「吸い上げる」所得税・住民税が法人税と同じような、金持ちからの税収であって、労働者や貧しい働く人々から「吸い上げられた」税金ではないのかについて、つまり例えば所得税が「源泉徴収」で有無を言わさず徴収される労働者からふんだくられる税金であって、ブルジョアや金持ちが支払う税金ではないということについて、志位は、屁理屈や詭弁に頼ることなしには、決して説明することはできないだろう。


 法人税さえ、そのもとは、労働者・働く者の労働の一部である剰余価値であって、ブルジョアから収奪すれば済むといった問題ではない。利潤を単純にブルジョアがすべて個人的に消費するとするなら、法人税を収奪すれは済むと言えるかもしれないが、企業の利潤は企業が成長し、安定して企業活動を行うためのものでもあって、それを収奪すれば資本主義は瓦解するしかないが、そうなっても共産党は困らないのか、諸君は資本主義の止揚ではなく、〝民主的な〟改革された資本主義を、飼いならされた、過度に搾取的ではない、人間的で、〝まともな〟資本主義のために闘うと常日頃から言っているのではないのか、資本主義の生存と継続の根底でもある利潤を収奪して、資本主義を殺してしまったら、「産湯とともに、赤子まで捨てる」といった、自己矛盾の愚行に走ることにならないのか。

  

我々は不死鳥のように蘇る

 

 そんな現在の危機深める政治経済的情勢と状況の中で、我々は参院選に議席獲得を目的に、10名の候補を擁立して確認団体として参加したが、武運つたなく、目標獲得票の10%にも届かぬ得票で惨敗した。


 我々の闘いは、原則的であるとともに、優れて具体的な政治闘争として貫徹されたが、それは労働者階級の闘いは、そしてとりわけ政治闘争は抽象的で、啓蒙的で、〝理念的な〟ものであってはならず、根底において、具体的、現実的で、先鋭な階級的な闘争として闘われ、貫徹されなくてはならないという信念からであった。


 そうしたものとして我々の参院選の闘いは取り組まれ、闘われたのであったが、我々は参院選の闘いの焦点は、安倍が自らの最大の政治課題としてきた憲法改定でも、森友・加計事件に代表された政治腐敗でも、選挙前に大きな話題になった年金問題でもなく、衆院選から参院選に掛けて、「経済で争う」といって、安倍が正面に押し出してきた全世代型社会保障の観念と、その具体的な実践的な課題としての、消費増税を財源とする乳幼児教育無償化の看板政策に対する闘いとして、安倍政権との闘いを闘い抜いた。


 もちろん我々の闘いは後半戦の段階において闘いの前面に押し出されたのであって、労働者・働く者の闘いとして発展し、我々の得票に影響を及ぼすものとして浸透できなかったが、選挙後の、労働者の全世代型社会保障の観念や乳幼児教育無償化の政策に対する、拒絶反応の表面化は、我々の闘いが広汎な労働者の利害と要求に合致するもの、その意味では野党共闘派の闘いよりもはるかに正当であり、重要であったかを明らかにした。


 問われ始めたのは、単に消費増税や消費税に反対するといったことではなく、むしろ税金の使い道であり、安倍政権のバラまき政治、半デマ・ポピュリズム政治であって、そんな現代の与野党共闘の腐敗政治が問われる時代が訪れている。 


 我々が安倍の半デマ・ポビュリズム政治に断固として、執拗に反対し、それを粉砕することを呼びけるのは、安倍の政治が続き、日本の隅々まで浸透し、勝利するなら、日本は戦前の天皇制軍国主義のファシズム国家が再現し、国民(や近隣諸国民)の奴隷化や、専制主義や独裁や戦争や、大なる悲劇や不幸や生活破壊や死さえ襲いかかる、地獄のような社会や時代――ブリューゲルの描いた「暗い絵」が示唆するような――がやってくると確信するからである。


 半デマ・ポビュリズム政治やそんな政治が流行する時代と社会の行く末は、労働者の闘いの敗北と、ファシズムの勝利であり、反対に、半デマ・ポビュリズム政治の打倒、つまり安倍政権の打倒と野党共闘派の粉砕の彼方にこそ、労働者の勝利と未来があるのである。


 議論の中で、これまでの闘いは困難そのものであって、今後はそれ以上の困難の闘いになる、そろそろ闘いを止めるべきだ、そもそも今回の闘いも意義がなかった、間違っており、闘うべきではなかった等々、敗北主義的な総括する代議員もいないこともなかったが、代議員の多くは、全国で8万もの労働者が、他の野党ではなく、我々の訴えに反応し、支持して投票したのである、我々が闘いを止めたら、裏切られたと思い、絶望するだろうという意見や、得票の少なさを見て、もう闘うのは無理だと思ったら、闘いを応援して一緒に闘ってくれた若い夫婦から、これからどうするのか、どうして闘っていくのか、衆院選に立候補するのかと聞かれて、ヤメルことはできないと思ったといった発言が続き、代表委員のウェッブ担当の渡辺はインターネット関係の反応について、「最近も、京都の学生がHPの録画を見て興味を持ったとして電子版の定期購読をしてくれた。さらに、ツイッターで知った非常勤の大学講師は、投票日前日に各党各候補者の選挙公報を見た、この時に労働者党を初めて知ったが、労働者党の訴えが日本の数ある政党の中で、一番しっかりしていると感想を持った、だから労働者党に投票したとツイッターで語ってくれた。この人はその後、はっきりと労働者党を支持しているとツイッターで明言している。こういう人も生まれているわけで、今後我々がいろいろな手段で働きかけていけば、党の活動を広げ掘り起こしていくことができると思う。自信をもってやって行きましょう。」と報告した。また選挙区や候補者による、有権者からの熱い支持や思いも紹介され、全体として党を維持し、強化してさらに引き続いて闘うべきという、代議員の全員の意思が明らかになって行った。


 異常な困難だという意見については、我々はすでに昨年秋、10名の候補者がようやくそろって、闘いの意思を海つばめで明らかにした時、林子平の6無斎の和歌に託して、「『6無斎』の党として闘い抜く」として、自らの決意を明らかにした(海つばめ1337号、18年10月7日号)。


 我々の短歌は以下のようなものであった。

「組織無し、カネ無し、地盤無し、知名度無し、おまけに高齢者が多くて、余命無し、しかし闘いを諦めたくも無し」


 最後の「しかし闘いを諦めたくもなし」は、林子平の歌の最後の部分、「しかし死にたくもなし」のもじりであり、我々の究極な決意の表明であった。


 失うものの何もない労働者の党として、我々は1年半前と同様に、同じ困難な主体的な条件のもとにあって、同じ決意をもって、勝利に向けての闘いの意思を明らかにしたのである。


 我々の参院選は形としては完敗であったが、政治闘争の内容としては安倍政権を圧倒して勝ったのであり、そのことに誇りをもって確認する。そして我々の闘いはマルクス主義を思想的、実践的根拠とも基礎ともする、誇り高き労働者の党として、半デマ・ポビュリズム諸党と区別される、事実と真実を実践的な導きの糸として、正々堂々と闘う〝正規戦〟を安倍政権に挑むのであって、安倍政権と同様な、半デマ・ポピュリズム政治に迎合し、追随し、現(うつつ)を抜かすしか能のない、破廉恥な野党共闘派のゴミくず政党らと自らを〝区別する〟のである。