労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

共産党批判

尖閣諸島問題と共産党ーー資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

『海つばめ』1392号(2020.12.13 発行)において、尖閣問題での共産党志位委員長による中国非難について論じていますが、8年前安倍政権登場直前の情勢の中、『海つばめ』1185号(2012.10.28)(トップ記事は「安倍自民党はどこへ行く--国家主義の奔流を許すな--ナショナリズムに傾斜する政党」)において、尖閣問題での共産党の主張を検討し、その誤りを指摘しています。尖閣問題の理解を深める内容ですので紹介します。

 

 

尖閣諸島問題と共産党

「理法」や「話し合い」の問題か

資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

 

 日本と、“近隣の”ブルジョア国家、反動国家との対立が激化し、“紛争”と呼べるようなあれこれの事態さえ起こっている。各国との“紛争”の原因を単純に同じものとして論じることはできないが、しかしその根底は、ブルジョア国家、“国民国家”相互の“私利”やエゴイズムの衝突であり、それをめぐる抗争であるということは自明であろう。我々はここで、“領土問題”についての共産党の観念を検討するが、彼らは“世論”なるもの――もちろん、基本的にブルジョア的、自由主義的な――の注目を浴び、その中で“さかしらぶって”つまり、小利口に、そして大騒ぎして発言しているのである。我々は、こうした検討によって、“領土問題”の本質に接近し、ブルジョアや反動たちの民族主義的、国家主義的、排外主義的キャンペーンや策動や攻撃に対して、労働者がどんな原則的立場に立ち、いかに闘って行かなくてはならないかを明らかにしたいと考える。

 

◆志位の「理」や「理法」とは何か

 我々は差し当たり、“尖閣問題”で発言している、志位の見解を取り上げることにしよう(『赤旗』十月七日、外国特派員協会で行った「講演と質疑」)。志位は主張する。

「中国側が、明代の地図に尖閣諸島が記載されていたということをもって、固有の領土だと述べていることについても、これは成り立たないということを申し上げておきたいと思います。中国側が明代あるいは清代に、尖閣諸島の存在を知っていて、名前をつけていたということは事実です。しかし、これらは領有権の権原の最初の一歩であっても、十分とは決していえません。国家による領有権が確立したというためには、その地域を実効支配していたということが証明されなければなりません。中国側には、たくさんの記録がありますが、実効支配を証明する記録は一つも残されていません。

 以上のような歴史的事実にてらしても、私は日本が1895年に『無主の地』の『先占』という法理によって、尖閣諸島を領有したことが正当だったことについては、疑いのないことだと考えております」

 

 要するに、志位が言うことは、「法理」に基づいて、どこに所属するかもはっきりしていなかった尖閣諸島(つまり「無主の地」)を、日本が先に囲い込んだから、日本の領有は正当だという、ブルジョアたちが言いはやしていることと同じことだけである。そして“領土”の確定――つまりブルジョアたちの世界秩序の、いくらかでも“法的な”形を取った確定――は、十七、八世紀以降の国民国家、ブルジョア国家が登場して以来のことだから、共産党の言うことはごもっともさま、と言うしかないのだが、しかしそんなものは、ブルジョアの立場からの発言であって、単なる私的所有の「法理」であり、その延長線上のことにすぎない。

 

 ブルジョア国家、国民国家はそれぞれ“国境”なるものを明らかにしなくてはならず、それぞれ大急ぎで、近隣の無人の、ある場合には有人の島々や、海洋さえも囲い込んだし、囲い込まざるを得なかったが、それは国家間の紛争や、戦争さえもの一つの原因となったし、今もなっている。

 

 そして領土問題は、それ以降もブルジョアたちの世界秩序の、つまり彼らの利己的な立場や衝動につき動かされ、規定される彼らとその国家の関係、対立や争いや武力抗争さえも不可避的に伴う関係として現われたし、現われざるを得なかったのだが、それはまた資本の支配する社会が一般的にそうであるのと同様であった。

 

 そして日本もまた十九世紀半ば過ぎに“国民”国家として登場したということは、日本の国家の地理的限界をも画したということ、北海道は言うまでもなく、琉球王国等々もその中に囲い込んだということでもあった。もちろん日本はさらに帝国主義の時代に移っていくとともに、その「領土」を朝鮮や中国やアジア諸国にまで拡張しよう(植民地として獲得しよう)としたが、そうした歴史的試みは、二十世紀半ば、アジアの多くの人民もまたヨーロッパの、日本の後を追って国民国家として登場しようとした中で、そして日本の帝国主義が粉砕されることによって挫折し、「見果てぬ夢」に終わったのであった。

 

 実際、尖閣諸島の日本による「領有」は日本の国民国家としての登場によって確かなものになったというより、すでに日本の帝国主義国家としての登場によって規定されているとさえ言えるのであって、その限り、その「領有」の疑わしさ――ブルジョア的「法理」の観点からしても――は、例えば、韓国による竹島の「領有」や千島列島のロシアによる領有と似たようなものであろう。尖閣諸島の領有が一八六、七〇年代でなく、ようやく一八九五年になってからであることが、このことを示唆している。

 

 実際志位は、尖閣諸島の囲い込みは一八九五年の日清戦争や、その後に発展する日本の帝国主義的膨張主義とは無関係だと盛んに――日本のブルジョア帝国主義の肩を持って――わめくのだが、そんな主張は詭弁、強弁のたぐいとしてしか行い得ないのは、反動派や国家主義派の主張がそうであるのと同様である。

 

 たかが百年余の尖閣諸島の「領有」を持ち出しながら、尖閣諸島が「固有の領土」だと叫ぶのは、全く笑止千万のことであろう。一八九五年という年に日本が尖閣諸島を「領有」したのだという主張自体が、尖閣諸島「固有領土」論のナンセンス、皮相さを、その占有が単に日本が中国に先んじて国民国家として――さらには帝国主義国家として――登場した結果にすぎないということを、そしていやしくも社会主義者、共産主義者を自称する志位らがそんな見解を持って回ることが恥ずべきことであることを明らかにしている。

 

 共産党が一八九五年からの領有を言えるのは、ブルジョア的、帝国主義的な“世界秩序”として、その枠内での“法的”な根拠に基づいてのことであって、それ以上ではないのである。

 

 にもかかわらず、他方では、共産党はまさに“歴史的に”、「固有の領土論」を擁護し、正当化しようと悪戦苦闘を重ねて、ありとあらゆる“歴史的な事実”を持ち出している。

 

 しかし共産党が「固有の領土」などと主張しながら、“歴史的に”その「固有の領土」を“論証”しようとすること自体矛盾しており、ナンセンスであろうし、また実際にも、そんなつまらない試みは結局失敗している(中国も台湾も――あるいは「琉球王国」さえも――、一時的であれ、あるいはあいまいな形ではあれ、さらには解釈次第でさえあるような、尖閣諸島の“領有”や占有や実際的な帰属等々を、“歴史的な”領有等々を“証明”できるだろうし、またしているからである。例えば、十四世紀頃には、中国は尖閣諸島付近まで軍事的影響力を及ぼしていた事実がある、等々)。

 

 尖閣諸島が日中の国家間の「係争地」だと強調することと、尖閣諸島が「日本(国家)の固有の領土」であると主張することがまるで矛盾もしないと思い込んでいる共産党は、実際に、中国に対して“強硬”な立場を取り、断固対決せよ――石原がわめくように、軍事対決も辞さず――、と言うも同然である、というのは、中国との「係争」はただ中国の不法にこそ原因があるということでしかないからである。共産党は実際には、不法な中国と闘い――必要なら、そして相手があくまで尖閣諸島の領有を主張し、軍事力にさえ訴えて来るなら、軍事的闘い――をこそ扇動しているのであり、ブルジョア支配階級だけでなく、日本の反動勢力、国家主義、軍国主義勢力の正真正銘の後援者、“心強い”応援者として登場しているのである。

 

◆共産党の「事実」とインチキ「実証主義」

 志位の「法理による」――つまりブルジョア的立場や帝国主義的立場による――尖閣諸島の領有等々の主張のうさんくささは、一つの事実によって浮き彫りになっている。つまり、日本政府は、一八九五年に一日本人から出された、尖閣諸島を日本の「領土」として明瞭に囲い込むことを求める申請を事実上拒否し、領土化にためらいを示したという歴史的な事実――志位にとって極めて具合の悪い事実――が明らかにされ、それは日本政府が尖閣諸島を日本の領土として明確に意識していなかったことを教えるのではないとかいうことで問題になった。

 

 共産党は、尖閣諸島の日本領有が正当であることを明らかにするためには、当時の「歴史的な実証研究」が必要であるとのたまい、彼らの見解は、そうした立派な「実証研究」の結果でもあると、もったいぶって主張している。それで我々もまた、共産党の「実証研究」なるものに付き合わざるをえないのだが、その結果は、ただ共産党の言う「実証研究」なるもののお粗末さ、愚昧さを知る結果にしかならないのである。

 

 共産党の「実証研究」なるものの結論は、一八九五年の日本の尖閣諸島領有(囲い込み)は、その前年の夏に始まった、日清戦争とは何の関係もなく、したがってこの戦争で日本が勝って台湾や澎湖(ほうこ)列島を中国(清国)から奪ったものには入らない、といったことである。つまり戦争に勝って奪ったものでなく、正当なやり方で手に入れた、戦争とは何ら関係ないことだと強調するのである。卑しい心根と詭弁的議論は一見して明らかであろう。

 

 そもそも日本が尖閣諸島を囲い込んだ時期――一八九五年一月――は、日本が実際上、戦闘行為で清国を圧倒し、勝利した時期であって、尖閣諸島の囲い込みは、こうした軍事的勝利と不可分であることは一目瞭然である。そしてもし、日本の勝利が、日本の帝国主義的膨張と不可分であり、その出発点になった――このことは、戦争の勝利品として、巨額の賠償金や台湾などを要求し、清国から横奪したことや、朝鮮の支配権に手をかけたことからも明らかだが――というなら、尖閣諸島の領有もまた、日清戦争や帝国主義的膨張と深く関係したものであることもまた自ずから明らかになるのである。

 

 この問題に関して、志位の弁明は次のようなものである。

「当時の日本政府がこうした対応を取ったのは、日本側が、尖閣諸島を中国の領土だと認識していたからではありません。当時の日本外交文書の記録を見ても、そういう認識が書いてあるわけではありません。当時の清国は、日本から見れば、巨大な帝国でした。そういうもとで、尖閣諸島の領有を宣言すれば、清国を刺激しかねず、得策ではないという外交上の配慮から、この時点では見送られたというのが事実だと考えます」

 

 志位の言うことは、最初からごまかしとして現われる。というのは、日本政府が、日本の領土だと明確に「意識していた」かどうかが問われているときに、中国のことを持ち出すからである。中国が認めていなかったからといって、日本が認めていたことには決してならない。日本もまた認めていなかったかもしれないのである。

 

 志位は自分が「考える」ことが、どんな証拠もあげることなく、そのまま事実であるかの議論をしているが途方もないことであろう。むしろ志位が「考える」ことが事実ではない場合はいくらでもあるのだ。

 

 というのは、日本との戦争でほぼ負けてしまい、張り子の虎であることが暴露されてしまった「巨大帝国」の中国(清国)に、日本がいまさら「刺激しないように」と配慮する必要は何もなかったからである。中国との戦争を決意する前なら、「中国を刺激する」ことを気にしたかもしれないが、しかし断固対決し、実質的に勝利した段階で、つまり「巨大帝国」に見えた中国が実際には、内的に腐敗し、解体している、空っぽで無力な国家でしかないことが暴露されてしまったこの時に、一体どんな配慮が必要だったというのか。

 

 日清戦争の始まる前にでも、日本が尖閣諸島を強引に囲い込んだとするなら、志位のような理屈も成立するかもしれないが、日本が清国をほとんど打ち負かした九五年一月の段階で、「巨大帝国」の清国を恐れて領有化をためらったなどということがあるはずもないのである。単純に、尖閣諸島を領土として囲い込むことに瞬間、疑念があったということ、つまり尖閣諸島が日本の「固有の領土」であると――だから急いで囲い込んでいいと――単純に信じてはいなかったことの方が、むしろ明らかになるのである。

 

 その証拠に、日本はその後、たちまち尖閣諸島の領有を宣言しているのであって、まさに尖閣諸島の囲い込みは、清国との戦争の戦利品、ぶんどり品の一つくらいに考えていたことを教えている。

 

 日本は日清戦争の勝利が明らかになり、確かなものになるとともに、国家として腐敗し、敗北し、半ば解体していた「大国」清国をよそ目に、あたふたと尖閣諸島を囲い込んだのだが、それは第二次世界大戦後、敗戦で瓦解し、事実上「普通の」国家として存在していなかった日本に対して、ソ連が千島列島を、李承晩が竹島を、火事場泥棒さながらに大急ぎで囲い込んだことと同じようなものであって、したがって千島や竹島についてソ連や韓国に「不当だ」と文句を言うなら、中国が日本に尖閣諸島で文句を言うのもまた当然でさえあることを、日本政府や反動派は承認しなくてはならないだろう。そうでなければ、日本政府の主張は決して首尾一貫することはできないのである(世界の労働者はブルジョアたちと違って、その双方を、つまりいかなる国家の国家主義、帝国主義も断固として否定するのだが)。

 

 そしてもし明確に、日本の領土だと意識していたとしたら、どうして領土化の宣言を日和る必要や必然性があったのか。領土であるという明確な意識がなかったからこそ、一瞬日和ったのだが、中国との戦争の勝利があきらかになる中で、たちまち尖閣諸島の領土化を日和る必要をなくして行ったのであり、事実すぐに領土化に走ったのである。

 

 ここでは、一八九五年の段階になっても、つまり中国はともかく日本が国民国家として公然と姿を現わしてから三十年も経過しているのに、中国と同様、日本もまた尖閣諸島を「固有の領土」として明瞭に自覚していなかったという「事実」が浮かび上がって来るだけである。

 

 外交文書に「中国の領土だから、領土化宣言をしない」などといちいち書くはずもないのだが、志位は、こんなへりくつを持ち出しながら、自分たちの推測――つまり、「外交上の配慮」から領有宣言をためらったという憶見――の方は、疑いのない真実であるかに言いはやすのである。自分たちの見解もまた、「外交文書に書いてない」という点では同様である、という反省もないのである。

 

 共産党は盛んに、日清戦争と尖閣諸島の領有は別問題だ、無関係だと言いはやし、こうしたつまらない見解――帝国主義を美化するような俗見――に固執し、こだわっているが、しかし「無関係だ」などとあえて言うのは、一体何のためか、なぜそんな立場が必要なのか。むしろ帝国主義――それがどこの国のものであろうとも、つまり日本のものであろうとも――を暴露するためにも、その反対を明らかにし、強調すべきではないのか。いつから共産党は帝国主義を擁護し、正当化するために粉骨砕身するようになったのか。

 

 さらに共産党は、そんな“状況証拠”だけでは不十分だとばかり、また別の「実証研究」の結果なるものも持ち出している。それは九五年四月に締結された下関条約では、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないという“事実”であり、さらにその後、六月に行われた「台湾受け渡しに関する公文」が日清の間で交換された時の確認でも、尖閣諸島は何ら問題にされず、ただ「台湾の付属島嶼」が問題になっただけだが、その時も、日本に割譲されるのは尖閣諸島を含まない、「福建省付近の島まで」だとされている事実を持ち出している。

 

 しかし共産党の持ち出す「実証研究」の結果なるものは、かえって尖閣諸島への日本の領有が、日清戦争と密接不可分な、その戦争の勝利によって、台湾と同様に中国から奪い取ったものであることを「論証」していないのか。

 

 例えば、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないということは何ら驚くべきことではない。単純に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとみなされていたからであると言う解釈もいくらでも成り立つのである。

 

 また六月の「台湾受け渡しに関する公文」の時に問題になったのは、尖閣諸島ではなく、「福建省付近の島まで」だと言うのだから、これは台湾から見て尖閣諸島の反対側、つまり中国大陸に近い金門島――今では、中国にではなく台湾に帰属している、歴史的に色々な意味で有名な――等々であるのは自明であろう。それを故意に尖閣諸島だと「解釈」する共産党の「実証検討」など、まるで一面的、ご都合主義的で、いんちきそのものと言われてもどんな弁解もできないだろう。

 

◆「国際的アッピール」と「話し合いによる解決」

 志位は尖閣諸島問題で政府のやっていることは「重大な問題がある」として、次のように主張する。

「それは、『領土問題は存在しない』という立場を棒を飲んだように繰り返すだけで、中国との外交交渉によって、尖閣諸島の領有の正当性を理を尽くして主張する努力を避け続け、一回も行っていないというところにあります」

 

 ただこうした最初の発言を取り上げてみるだけで、志位の立場の根拠のなさ、くだらなさ、そして詭弁のたぐいが、つまり志位の見解のプチブル的愚劣さがたちまち明らかになって来る。

 

 「領土問題は存在しない」と主張することと、尖閣諸島領有の正当性を主張することが矛盾したり、対立したりするなどと考えること自体がナンセンスであって、「領土問題は存在しない」と主張することこそ、ある意味で、最高、最強の「尖閣諸島領有の正当性を主張すること」であり得るだろう、というのは、「領土問題は存在しない」と主張することは、尖閣諸島が淡路島や佐渡島等々と同様に、日本の「固有の領土」であることは余りに明白だから、そんな問題は議論したり、正否を検討したりする必要も余地もないと言うことと、実際上同じだからである。「領土問題は存在しない」と言うこと自体、ブルジョアの立場からするなら、最強の「理」をもった説明でもあり得る、つまりこれは尖閣諸島は問答無用で日本国の一部だ、いまさら議論する必要もない、と言うことだからである。共産党員でさえ、誰が北海道や沖縄が日本の一部であると、いまさら「理」をもって説明する必要があると思うだろうか。ブルジョアたちは尖閣諸島は事実上、例えば北海道と同じであると主張するのだが、このブルジョアの立場のどこが、共産党の気に入らないのであろうか。まさに共産党の見解であり、立場そのものではないのか。

 

 志位は、自分の立場の根底を、九月に提起した「提言」の次のような文章を引いて総括している。

「尖閣諸島の問題を解決するためには、『領土問題は存在しない』という立場をあらため、領土に関わる紛争問題が存在することを正面から認め、冷静で理性的な外交交渉によって、日本の領有の正当性を堂々と主張し、解決をはかるという立場に立つべきである」

 

 志位は現実として中国との間で「領土問題をめぐる紛争」があるのだから、「領土問題は存在しない」と言えないと主張するのだが、しかしただ問題をすり替えているにすぎない。中国は「領土問題がある」――つまり尖閣諸島は中国の領土だ――と主張し、日本は日本の領土だと主張しているとするなら、そこに「紛争問題」があることは確かだが、日本の立場から言えば、それは中国が勝手にふっかけてきた、横暴な横槍、不当で不正なもの、理不尽なものであって、「紛争」など事実上ないのである。

 

 実際、志位といった連中ほどの愚昧な連中はいない。彼らは口を開くと、尖閣諸島問題では「領土問題は存在する、それを『存在しない』というから世界にアッピールできない、正々堂々と領土問題は存在すると認めた上で、世界にアッピールせよ」と叫ぶのだが、しかし領土問題が存在すると認めること自体、尖閣諸島が『日本の固有の領土』という共産党の――そして日本の支配階級の――理屈を根底から掘り崩し、否定するものであることが分かっていないのである。

 

 「世界にアッピールすればうまく行く」といった志位のたわ言は、それが実践に移されるや否や、たちまちいたるところで破産を明らかにしている。

 

 例えば、共産党の“忠告”を受け入れたのかどうかは知らないが、玄葉外相はヨーロッパの英仏独などを訪問、尖閣諸島問題で日本の立場の正当性を訴え、EU諸国に味方に付くように要請したが、まるで木で鼻をくくるような挨拶を受けただけであり、共産党の戦略はたちまちその破綻をさらけだしたのであった。

 

 ヨーロッパ諸国が日本の味方に付くのを避けたのは、中国との経済的関係もあり、中国とのいくらかでも“良好な”関係を望んでいて、この問題で日本に味方するメリットを見出すことができなかったからだが、他方では、中国の“帝国主義的”やり方をよからずと思いつつも、日本もまた、一九四五年までの露骨な帝国主義政策を、中国に対する(今中国のやっているのと同様な)悪行狼藉の数々を全く反省していないと見ているからである、つまり喧嘩両成敗の装いに隠れたからである。かくして玄葉の試みはむだ骨折りに終わったのだが、それはまた共産党の政治的立場がどんなに愚劣で、観念的なものでしかないかを暴露したのである。

 

 ブルジョア国家相互の、帝国主義国家相互の「領土問題」が容易に国際的世論といったあいまいなものや、国際的組織(戦前の国際連盟、戦後の国際連合等々)の意思や、当事国相互の「話し合い」で解決するなら、そもそも最初からそんな問題は存在しないという、ごく初歩的なことさえプチブルたちには理解できないのである。

 

 共産党は、「尖閣諸島は日本の固有の領土」であるが、実際に尖閣諸島の帰属をめぐる争いが存在するではないか、そしてそれが現実として存在する以上、存在することを認めてお互いに話し合いのテーブルにつき、「道理を尽くして」話し合えば、相互に納得して解決できると言いたいのである。問題はかくして、共産党のプチブル的俗物たちが、この階級社会のすべての問題が話し合いや相互理解によって解決するといった、安直な幻想や願望に酔っているということに帰着するのである。

 

 実際、階級国家、帝国主義的諸国家の利害の対立や紛争が、すべて話し合いや「道理」に基づいて“解決する”――それがどんなものかは問わないとして――などと考えることは、労働者にとって途方もないことに思われるが――というのは、労働者は搾取されている自分の社会的な地位が、搾取されている状態が、ブルジョアたちとの、「同じテーブルについての」話し合いによって解決するなどと決して思わないし、思うことができないことを、日々の日常的な経験によって、よく知っているから――、気楽なプチブルたちは違うのである。

 

 しかし自覚した労働者は、尖閣諸島をめぐる日中の争いは、ブルジョア支配階級の利害の争いであり、国家の争いであって、労働者人民に何のかかわりもないことを確認し、日中の支配階級の争い、国家間の争いに対して、世界の労働者階級の国際主義と連帯した闘いを対置することによってそれに断固として反撃するし、しなくてはならない。

自給自足経済を理想化する共産党系学者

新型コロナウイルスの世界的な広がりは、日本経済にも生産の縮小・停止、企業業績の悪化に拍車をかけ、労働者の失業の増大、生活苦等々をもたらしている。こうしたなか、共産党機関紙「赤旗」(4月23日)の「危機の経済─識者は語る」欄で、桜美林大教授・藤田実は「産業政策の転換必要」と主張している。

 

藤田は、安倍政権が経済成長戦略としてきた「国際競争力強化」について、競争力強化や新規産業の創設でもめだった成果を上げてこなかったし、それに加えて今回の「コロナショックの中で(企業の国際競争力強化した産業構造は)その脆弱性をあらわにしています」「コロナショックに揺れる日本経済と産業の状況を見ると、企業の国際競争力に依存する経済では、いったん大きな ショックが起きると、経済は大きく動揺することが明確になりました」と日本経済を分析している。

 

コロナウイルスの広がりによって、労働者の移動、活動が制限され、国際的な商品流通が阻害されたことは事実であるとしても、景気の悪化はもっぱらコロナウイルスの蔓延がもたらした結果というわけではない。コロナウイルスが世界的に蔓延する以前に、すでに国際的な信用の動揺、株価の大幅な下落等々として、世界経済は不況に陥っていたのであって、コロナウイルスの蔓延は、国際的な経済の落ち込みをさらに深化させる契機となったのであって、経済不振はコロナウイルスの影響であるかにいうことは、利潤獲得を生産の動機、目的とする資本主義的生産の矛盾から目をそらさせることである。

 

競争力強化によって輸出を拡大することで景気拡大を図ろうとする政府の経済政策は、コロナウイルスの国際的蔓延で、海外需要が激減し、海外からの観光客も激減し破綻したと言う藤田の結論は、「内需重視」への経済政策へ転換せよということである。

 

藤田は言う。

「コロナショックのなかで、農業、部品から完成品までのフルセットでの製造業、医療、卸売り・小売り、研究開発、文化、教育、各種サービス業などの国民の健康と命、国民生活を守る産業、すなわち内需を基準とする産業の重要さが明らかになっています。これらの産業が機能してこそ、日本国民はコロナショックから抜け出すことができるからです。国民生活を重視して業基盤を強化する政策こそが、コロナショック後の日本の産業政策の柱となるべきです。」

 

国民の生活に必要な工業製品や日用品、食料、など海外に依存することを減し、基本的に自国で作れるようにすることこそが、「国民生活を守る」ことであり、政府の産業政策もこうした方向に転換すべきと藤田は言うのである。

 

しかし、農産物の自給は、小規模経営で生産力の低い日本にあっては高い農産品の押しつけであり、「部品から完成品までのフルセット製造業」は、すでに電機や自動車産業で破たんが証明済みである。かつて世界のトップの地位にあった電気産業は海外の製品に押されてほとんど没落、自動車も国内で調達していた部品も海外からの輸入に切りかえがすすんでいる。

 

もともと、狭い農地しかなく、また石油や鉄鉱石など工業用原材料も海外に依存している日本で自給自足的経済など不可能であり、藤田が言うような「国民生活重視」を言えないのは明らかである。日本のみならず、どこの国も外国との貿易なしに経済が成り立たなくなっているのは明らかだ。

 

資本の活動は、国境という狭い制限を突破し、経済の国際的結びつき、相互依存を深めてきた。無制限の生産の発展こそ資本の本性である。しかし、資本は国家を超えることはできず、搾取や抑圧を伴っている。克服すべきは、利潤目的の生産、搾取、抑圧であり、資本の支配する経済であって、国際的な経済の結びつき、相互の依存ではない。利潤の獲得、労働の搾取を原理とする資本による生産を克服した国際社会は、世界の労働者の共同、協力を実現するだろう。協力を実現するだろう。

 

ところが藤田は、歴史を前進させるのではなく、「内需重視」の経済をめざせというのである。藤田の主張は、世界の労働者の連帯、協力に基づく国際社会の実現という労働者の立場を否定し、自給自足の経済を理想化する小ブルジョアの反動的な思想である。 (T

在沖海兵隊は日本防衛に専念すべし? ――ブルジョア民族主義に加担する共産党

在沖海兵隊は日本防衛に専念すべし?

――ブルジョア民族主義に加担する共産党

 

 在沖海兵隊は防衛に専念すべしなどと言うトンマな主張を始めた党がいる。

 こんなトンマなことをいうのは、共産党以外いない。

 彼らは最近、突然に、「在日米軍は日本を守るか」と問い、守ることに専念しないで、あるいはそんなことにはほとんど関心をもたないで、ベトナム戦争とか、中東や西アジアやインド洋界隈や」、要するに世界中の紛争や戦争に「世界の憲兵」として振る舞い、あるいは帝国主義的作戦や活動に出動しているからよくない、と批判するのである。


 それが仮に正しいとしても、帝国主義的策動の道具として、世界の憲兵として振舞うのを止めろというならまだしも、日本の防衛にもっと力を注げ、専念せよなど云う主張は全くナンセンスだ、見当外れであるだけでなく、反動的ではないのか。というのはそんな主張は労働者の国際主義に反し、日本のブルジョアたちの民族主義に加担するも同然だからである。

「1978年、……当時のカーター米政権は自衛隊の軍事分担を大幅に拡大し、在沖縄海兵隊を『日本防衛』から除外する方針を決定した」と非難するが、それのどこが共産党のお気に召さないのか。

 海兵隊を日本の「防衛」のために使用するか、世界中のアメリカの利益と「国防」のために動かすか、あるいはその両方の目的に活用するかといったことはアメリカの判断に属することであって、日本の労働者にとってどうでもいいことである。

 しかし共産党は、海兵隊に日本の「防衛」のためにいてもらいたいのか、日本の「防衛」などにかかわりを持たず、どこかよそに行ってもらいたいのか。

 日本の「防衛」など共産党はどうでもいい、かつての社会党のように、日本は憲法のいうように「戦力」などなしで、世界の「善意」に頼って生き延びていくべきとでもいうのか。


 とにかくそのどの立場を取るにしても、日本独自の「戦力」を持たないというなら、そして絶対平和主義でやるというのでなければ、アメリカの軍隊に頼るか、日本の責任で軍事力を整備して、仮に外国の侵略があったとしたら――それが絶対にないといえないのは、帝国主義が跋扈し、ヨーロッパを蹂躙したドイツのファシズムや、天皇制ファシズム国家日本によるアジア侵略が横行し、最後には世界を二分して戦ったような第二次帝国主義世界大戦の時代を想起するだけで充分である――、労働者がそんな現実に対して命をかけても戦うしかないのは自明である。


 ブルジョア帝国主義がはびこる現代に、プチブル党派の本性を発揮し、そんな現実から目をそらし、対話だ、交渉で解決すればいいといった幻想に溺れるだけではない、あまつさえ民族主義的迷妄を唱えて、ブルジョアや安倍政権を側面から助けるような政党は、腐敗したブルジョア的政党ではあり得ても、〝共産主義〟の政党では断じてないし、あり得るはずもないのである。(林紘義)

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