揺れる「れいわ新選組」
――大西つねきの「命の選別」発言とその顛末――
(『海つばめ』1384号に一部省略して掲載しました。)
大西つねきの「命の選別」発言をめぐって「れいわ」が揺れている。7月3日に大西が自身のYouTube動画で2025年問題など医療・介護の問題に関連して「命の選別をするのが政治の役割だ。順番として高齢の方から逝ってもらうしかない」などと発言したのが発端だ。
7日には山本代表の知るところとなり、大西は一旦は謝罪してこの動画を削除し、その後当事者たち(障害者や難病者たち?)によるレクチャー(話を聞く会)が開かれた。しかし、大西が十分な聞く耳を持たなかったということで、16日にはれいわの総会がもたれ山本代表提出の除籍処分が決定されたのである(党員=構成員は国会議員と予定候補者ということになっていて、評決は14対2だったということなので代表の山本と大西は評決には不参加?)。大西はその後謝罪を撤回し動画も再掲載するとともに、総会翌日の17日には改めて自説を繰り替えし独自に活動を継続する旨の会見を開いた。
総会後の山本の会見によれば、除籍理由は「決意(綱領)」(「あなたが明日の生活を心配せず、人間の尊厳を失わず、胸を張って人生を歩めるよう全力を尽くす」等々)と政策(「保育、介護、障害者介助、事故原発作業員など公務員化」による人員増)に背反している、一言でいって「すべての人は生きているだけで価値がある」、「積極財政によって底上げをしていく」というれいわの基本思想に背反しているというものだ。大西も別の所では「医療・介護労働者の待遇を改善して従事者を増やす」ということも言い、積極財政については政府紙幣の発行によって財源を生み出すというれいわ以上に“過激な”ことを言っているのだからどうしてこのような「命の選別」発言が出たのか疑問に思う向きもあるかもしれない。
大西はこの問題を特に考えるようになったのはコロナ禍の現実に接するようになってからだとも言っている。3月11日付けの動画を見ると自粛による経済活動の減退を恐れ「長期化すれば国力にも影響し、国家の存続にも関わる。……我々はどこかの時点で、このウィルスを受け入れて、救える命、救えない命の見切りをつけるしかない。」などと言っていて(まるでトランプやブラジルのボルソナロ大統領のようだ!)、自身の政治活動なども結構活発にやっていたようだから「れいわ」との齟齬もこの頃から始まっていたようだ。
彼が単にお金のことだけではなく実際の経済的リソース(「若者の時間や労力」等)について考える思考経路をもっていることはそれ自体としては良しとしても、「若者の時間や労力」あるいは「経済的価値」と「高齢者等の生存」を直ちに天秤に掛けるやり方はいかにも乱暴で一面的である。実際、現在の生産力水準(潜在的経済力)をもってすれば十分解決できるはずで、現在日本には6000万人以上の労働力人口なり就業人口がいるのだから、例えば、一か月に一日介護なり医療に従事する“共同介護休暇日”のようなものを設けるだけでも毎日200万人の追加従事者を確保できるのだ。
大西が2011年に立ち上げたフェア党はその理念として「フェア」であることの他に個人の「自由と自立」を最初に掲げていて彼もそれを中心的信条としているようだが、そこには個人主義的な「自由と自立」を第一に掲げ他を返り見ない「驕り」があるように感じられる。山本の会見に同席した木村・船後両議員もそれは感じたようで、それのみならず彼らは「恐怖」を感じたと必死で訴えている。
欧米のポピュリストの中で大西に似た主張を掲げているものとしてはオランダ自由党のウィルデスがいる。EUの制約内で活動している彼らと大西とでは財政論なども異なるが、ウィルデスらはイスラムや移民の排斥を合理化するために自由や民主主義といった“西欧的価値観”を絶対化して持ち出しているのだが、大西は若者の「自由や自立」「時間や労力」を盾に高齢者や社会的弱者を選別しようというのだ。一見リベラルを装い、物事を合理的に考えているように見えても、大西の立場は新手のファシズムといったものに限りなく近いのだから誰しも「恐怖」や「戦慄」を覚えざるを得ないのだ。
大西の経済についての見解は途方もないものだ。彼はMMT(現代貨幣理論)の理論を概ね容認しているのであるが、ただ国債発行と日銀券の増発というような間接的なやり方では金利生活者等を利するばかりであり格差をますます助長する、むしろ直接政府紙幣を発行すべきだと言っている。格差や貧困の問題に言及しながらも、問題を金融・財政的にしか考えないでそれで事足りるとする大西の限界であり(これはれいわの山本やその支持者も同様だ)、戦前の高橋財政やその帰結などを見るまでもなく、MMTやまして大西のような政府紙幣発行論は労働者や社会的弱者を救うどころか途方もない混乱と災厄に落とし込むものである。
こうした理論は欧米のポピュリストでももてはやされ最近は日本でもその信奉者が増えてきているのであるが、資本主義の行き詰まりを反映した最も退廃した理論であり、その意味である種危険で決して容認できない
“経済理論”である。
(注)大西は政府紙幣発行論に関連して金利生活者等の不労所得を排撃しているのであるが、さらに土地所有にもとづく不労所得も排撃し土地の段階的な“国有化“(国家による買い上げと使用権の設定)を提言している。これによって「人、モノ、情報、お金の流れを自由にし」「今生きている人々の時間と労力を……本当に意味のあること」に使うことができるようになるなどと言うのである。ある種の”新自由主義的国家社会主義“(?)のようなことを主張しているのであるが、こうした不労所得そのものが一般企業の上げる利潤(剰余価値、つまり労働者の労働搾取)からのおこぼれであることを理解していない。だから、大西にとっては一般企業(あるいはその経営者)は労働の搾取者としてではなく労働者とともに「新しい(実質的)価値」を生み出す積極的な主体として理解されているのであり、「若者に夢とチャンスを」などといっても片手落ちで、実際上はこうした一般企業(資本)の利害を体現しているにすぎないのである。
大西の除籍処分には、さらにその後の顛末も付け加わった。この処分に総会で反対票を投じた二人のうちの一人、沖縄出身で東京選挙区の予定候補となっている野原よしまさ(沖縄創価学会の現役学会員)が7月25日に離党届を出したのだ。理由は、「党規約を含め党運営のあり方」が山本中心で独裁的になっていて容認できないというものだ。この届はまだ受理されておらず党事務局側は「話し合い」を持ちかけているようだが、れいわの動揺は覆い隠しようもない。
山本は「れいわは右でも左でもない」といいつつ、消費税廃止・減税の勉強会(国民民主党の馬淵澄夫らと昨年11月に立ち上げた「消費税減税研究会」)に維新の会ブレーンで反韓・反在日発言もしている大学教授(高橋洋一)を講師として呼ぶなど内部からも批判が上がってきていた。今回の大西の問題を見ても、フェア党というれっきとした政党を立ち上げている大西や現役創価学会員の野原をそのままれいわのメンバーとしているなどなりふり構わないポピュリスト振りなのである。
結局は山本の「独裁」に行きつくしかないであろうが党運営・組織運営はルーズそのものである。格差や貧困、社会的弱者の問題に敏感に反応しながらも、その真の原因である資本主義的搾取や利潤獲得をめぐる無政府的な競争に無自覚であり、したがって地道な組織的活動や強固な階級的団結の必要性については思いも寄らない山本にとって、孤立し疎外された「無辜の民衆」の情動に訴えかけるとともに反緊縮の積極財政(国債増発等による野放図なバラマキ)によって全ての問題が解決できると夢想するのが関の山なのだ。
山本の立場は、その扇動的な言辞とバラマキの規模を別とすれば他の野党とそう大きく異なるものではない。今後もこのポピュリスト的立場を徹底していくのか、それとも他の野党との協調路線に転換していくのか先のことはわからない。しかし、いずれの場合であっても労働者・働く者にとっては現下の政治的危機、つまり、ますます退廃し無能をさらけ出すとともに反動化・右傾化を深める安倍自民党と、これとまともに闘えない野党、等といった政治構造はそのままである。労働者・働く者はこうした一見華々しい「れいわ」の動きに惑わされることなく自らの闘いを進めていく必要がある。
(長野、Y.S)