労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

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生涯革命家であった林紘義氏を偲ぶ――獄中日記を紹介

神奈川で『資本論』の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」発行の『労働者くらぶ第25号』から、労働者党元代表の林同志について書かれた記事を紹介します。

 

マルクス主義者であり生涯革命家であった林紘義氏を偲ぶ

――林紘義著『哀惜の樺美智子』の中の獄中日記を紹介

 

2017年の衆院選で圷事務所であった横須賀の実家を片付けていたら、本でぎっしり詰まった引き出しから、60年安保闘争でなくなった樺美智子さんの遺稿集『人しれず微笑まん』(三一新書)と林紘義著『哀惜の樺美智子』(三一書房)がでてきた。しばらくその2冊のページを懐かしくめくってみた。

 

林著の『哀惜の樺美智子』には副題として「60年安保闘争獄中日記」とあるように、195912月初めに逮捕され翌年7月まで獄中でまさに本の虫になってレーニン全集やドストエフスキー文学など計画的に読了していき、独房での生活は彼を確固たる革命家に鍛え上げていったと言えるだろう。

 

獄中日記のページをパラパラとめくっていたら、ふと目にとまったところがあった。そこを紹介してみたい。

 

「規則正しく、熱心に読書。決してこの期間をムダにしてはいけない!」そして、前年の秋、地下鉄での友人Tとの会話を思い出す。友人Tは「林、資本主義社会の矛盾の根本は何だと思う?」「生産と所有の機械的分離だろう?」「そうかなぁ?」「じゃあ、何だ?」「労働者の商品化さ。人間が商品化されるということさ」そこで二人はなかなか譲りあわずにはりあった。

 

またしばらくして――2、3週間のちか――会ったとき、「林、まだあの意見に固執するのか?」「するね」とぼくは答えた。「考えてもみろ、社会主義革命が起こって、では社会主義的生産を組織する、ということになった場合、「労働者を商品化しないように…」というのは正しい。

 

しかし労働者の商品化というのは、流通過程におけることで歴史的な生産過程および社会関係の解明とはなっていない。それは違う次元の問題だと思う。それはむしろ結果であって原因ではない。だから、ぼくは賛成できなかった。うれしいことに、マルクスも次のように言っている!

 

 「資本主義的生産は、生産的労働者が彼自身の労働力を自分の商品として資本家に売り、この労働力が次いでその資本家の手で単に彼の生産資本の一要素として機能するということに基づく。流通に属するこの取引――労働力の売買――は生産過程を導入するばかりでなく、生産過程の独自的性格を含蓄的に規定する」(『資本論』第2巻 青木書店版502頁)

 

 そして続けて、マルクスは明言する。「一つの流通行為をなす導入的行為、すなわち労働力の売買は、それ自身また社会的生産物の分配に先行し、その前提をなす生産諸要素の分配――すなわち、労働者の商品化としての労働力と、非労働者の所有としての生産手段との分離――に基づく」

 

 そしてこの議論について林氏は、自ら振り返って、注を書いている。

 

資本主義の矛盾の根本――このような議論にたいした意義があるとも思えないが、宇野理論(もしくは新左翼一般)の俗流ヒューマニズムへの批判の萌芽みたいなものがある。資本主義の矛盾の根源を「労働力の商品化」に求めるのはそこに直接に「人間疎外」「非人間化」――“もの”でないものの“物化”!?――を見るからで、そこには社会的矛盾を、社会体制の問題としてよりも、まず人間個々人の疎外の問題に引き付けて理解しようとするプチブル的傾向があった。それに対して、ここには漠然とではあっても、生産手段の私有の(つまり私的所有に基礎をおく社会の)止揚が根本であって、この課題を“ヒューマニズム”的解釈でゆがめることへの“即自的”反発みたいなのがあったのだ。こうした似非ヒューマニズムは、黒田哲学においても、宇野経済学においてもはっきりと見てとれたのである。

 

 ここにおいても、林氏のマルクスの思想理論をゆがめることなく、労働者の目指す視点が間違いなくとらえられていたことが友人Tとの議論からも読み取れる。

 

林氏が逝去されて、早や3年がたとうとしている。かつて林氏に90過ぎまでは活躍してほしいというようなことを言ったことがあるが、それは叶わなかった。残念である。だが残った我々でマルクスの理論を労働者の理論を的確に現代に反映していくし、していかなければならないと思うのである。(A)

 

〔「横浜労働者くらぶ」2月の予定〕
横浜学習会予定202302

   連絡先 080-4406-1941(菊池)
  Mail:Kikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

《横浜労働者くらぶ》の会報の紹介

神奈川で学習会活動を取り組む《横浜労働者くらぶ》の会報を紹介します。

神奈川6-1

神奈川6-2

神奈川6-3

神奈川6-4

斎藤幸平「人新世」ブームに思う

斎藤幸平「人新世」ブームに思う

――既存〝左翼〟への不信とマンモス資本主義への抵抗と――

 

 斎藤幸平の『人新世の「資本論」』については『海つばめ』1391号(20201122日)でも書評が掲載されたが、この本はその後も好調に売れているようで、書店には山積みで置かれ、中央公論社の2020年新書大賞にも輝いたという。多くの新聞その他で書評や対談等が組まれ、今年1月にはNHK-Eテレ「100de名著」でも斎藤の解説によるマルクスの『資本論』が取り上げられた。

 

NHK-Eテレでは2010年にも『資本論』が取り上げられた(解説者、的場昭弘)。10年前は2008年のリーマンショックから始まる世界金融危機の影響があったのだろうが、今回は格差の一層の拡大や気候変動などの地球環境問題、新型コロナのパンデミック、等々が影響しているのだろう。一種の閉塞状況の中でマルクスの〝新解釈〟(!?)が歓迎されている面もあるかもしれない。

 

 『人新世の「資本論」』では主に気候変動の問題を扱いながらマルクスの(かなり牽強付会な)〝新解釈〟が述べられているが、Eテレの「100de名著」では一応『資本論』(第一巻)の概説をしながら、最後の第4回目に〝新解釈〟や具体的な展望に触れられている。

 

〝新解釈〟については『海つばめ』の書評で既に触れているので、ここでは「100de名著」のテキストに添って、主に斎藤の上げている「具体的な展望」について論じてみたい。

 

 NHKの「100de名著」は一回25分の番組で、一か月(4回)でワンシリーズとなっている。斎藤の『資本論』は、一回目が「商品による物象化」、二回目は「資本と剰余価値、過労死問題」、三回目は「相対的剰余価値の生産(イノベーション)、ブルシェット・ジョブ」等が取り上げられ、資本による土地や“公共物”の「囲い込み」を強調している点が特徴的で、この点が第4回目の「商品化の力を弱めて、人々が参加できる民主主義の領域を経済の領域にも広げよう」、コモン(公共領域)を広げていく抵抗、等々の改良主義的抵抗の美化と結びついている。

 

4回目は上述のように、マルクスの〝新解釈〟や具体的な〝展望〟が述べられていて、ここに斎藤の独りよがりや学者としての立場上の限界、NHKの〝公共〟放送としての限界、等々が特徴的に見られるのである。

 

斎藤があげている具体的な展望例は、電気を地産地消する「市民電力」の取り組み、協同で事業を運営する「ワーカーズコープ」、インターネットアプリを介してスキルやモノをシェアする「シェアリング・エコノミー」、スペインのバルセロナの呼びかけで始まった「ミュニシパリズム」(地域自治主義)、「ドーナツ経済」の考えを導入して公営住宅を拡充したりレアメタル等を生産するアフリカ・コンゴとの連帯を進めるアムステルダム市、等々である。

 

彼はこれらの例を実在する「アソシエーション」への動きとして持ち上げ、何か大きな希望であるかのように言及しているのである(同様の例は、『人新世の「資本論」』でもより詳しく取り上げられている)。

 

これらの例に共通して見られるのは、既存の〝共産主義運動〟や〝社会主義運動〟の枠を破ってグローバル資本主義や独占的大企業の横暴に抵抗する地方的・市民的な運動である。

 

ここには既存〝左翼〟に対する不信とマンモス化する資本主義に対する抵抗が共存しており、斎藤が心惹かれるのもそこにあるのだろう。

 

しかし、「市民電力」のような地域的で小規模な取り組みだけでは巨大電力会社の足元にも及ばないし、バルセロナやアムステルダムの例は日本にもかつてあった革新自治体の現代版にすぎないであろう。

 

日本でも昨年ワーカーズ・コープ法(労働者協同組合法)が成立し、何か労働者の自主的参加による事業が可能になったかに持ち上げられているが、労働者協同組合といっても実際は主としてサービス業の中の隙間的な部門や資本力のない地方での労働力活用策程度のものでしかなく、体のいい派遣会社(最も低賃金の)のようなものでしかないのだ。

 

したがって、このような運動が広がっていったとしても、それで自動的にコミュニズムが成立するわけでは全くない。

 

資本主義のあらゆる矛盾の現れを捉えて幅広く連帯し、協同組合的な運動等により問題の現実的な解決を図っていくことも場合によっては必要であろう。しかし、もっとも重要なのは最終的な権力奪取であり、それによる社会全体の改造である。

 

斎藤は、彼の言う〝コミュニズム〟を本気で実現したいと思うのならば上記のような運動の限界をこそ指摘するべきであり、また、体制内化してもはや〝コミュニズム〟の〝コ〟の字も忘れてしまった既存労働運動や既存〝左翼〟運動の批判的な吟味こそが必要ではなかろうか。

 

斎藤の著書やNHKの番組を見て痛快に感じた人も多いだろうが、それだけではせいぜい単なる〝ガス抜き〟程度にしかならない。

 

また、『資本論』や「コミュニズム」に対する関心が高まることは大いに歓迎すべきことではある。しかし、実際に運動を進めていくことは決してそう簡単ではないし、日本や世界の運動の現状は必ずしも楽観できる状況ではないことも冷静に考える必要がある。

 

我が労働者党は各地で資本論読書会や学習会も進めている。斎藤の著書などを通じて『資本論』や「コミュニズム」に関心を持たれた労働者・働く皆さんには是非とも我々の読書会・学習会にも顔を出していただき共に闘いの方途について学習していきたいものだ。

 

(長野・YS) 

中央『資本論』学習会について

中央『資本論』学習会について

 

東京都内では、5日時点でコロナウイルス感染者が8人増え、合計で52人になるなど(実際は10倍いるといわれています)、ますます拡大する気配です。

 今まで様子を見ながら日程を延期してきましたが、中途半端にずらしていては、集中した闘いが出来ませんので、思い切って延ばし、メーデー後の5月から中央『資本論』学習会を開催することにします。開始にあたっては、改めてお知らせします。

 ブログでのお知らせが遅れましたが、中央『資本論』学習会は、
講師として予定していた林紘義党代表が亡くなられ、
取りやめとしました。(2022/5/2)

中央『資本論』学習会第1回報告要旨

2月24日開催を予定していた、中央『資本論』学習会第1回の報告要旨を掲示します。

新型肺炎感染の拡大対応で開催を延期し、様子を見ながら日程を延期してきましたが、中途半端にずらしていては集中した闘いが出来ませんので、思い切って延ばし、メーデー後の5月から中央『資本論』学習会を開催することにします。開始にあたっては、改めてお知らせします。


中央『資本論』学習会

第1回 単純商品と資本主義的商品
     ――交換価値(価値)とは何か
 

 

1、問題の所在

 

 マルクス主義とか、「生産的な労働」とか言うと、古臭い、時代遅れだ、せいぜい19世紀の、150年も昔の、すでに賞味期限が切れ、忘れられ、放置された骨董品的理屈だと言わそうですが、果たしてそうでしょうか。


 しかし生産的な労働は、現世代の生活と生存を保障し、次世代につないでいくための、基本的な人類の社会的、個人的な活動の中心をなすものであって、マルクスもクーゲルマンへの手紙において、それを止めたら人類は3ヵ月といわず、3日も生きていられなくなるだろうとまで言っています。


 事実我々が毎日、衣食住のための多くの生産的な労働による、多種多様な消費財(商品)を買うことなしには、まともに生き、生活していくこともできませんし、次世代を担う子供たちも生み、育てていくこともできないのは全く明らかです。


 我々は確かに不可欠なものとして消費財は買いますが、生産はしていないというかもしれません。しかし仮に国内で生産されないとしても、そうしたものは海外から輸入されているから同じことです。その意味では、日本人が作らなくても、衣食にせよ、石油やスマホ等々にせよ、海外の多くの生産的に労働する人々の世話になっているのです。

今、資本主義の高度化の中で、爛熟する中で生産的な労働者や直接的生産者の比重が低下しているように見えるなら、それは、資本、とりわけ大資本による労働の搾取が絶対的、相対的に強化され、資本の取得する剰余価値(利潤)の急速な増大や、資本の海外輸出による外国の労働者の搾取等々によって社会全体において寄生的な階層や、資本の傭兵――そのものの軍隊とか検察、警察機能を持つ部分とか、政治や司法を担うブルジョア的勢力とか、役人とりわけその上層のエリート層とか等々――はいうまでもなく、〝文化人〟やマスコミやインテリ等々のブルジョア的階層や、その他にも〝主婦層〟とかの非生産的な人々も増え続け、膨大な人口を占めるようになっていること等々に原因があるのです。


 したがって、どんな社会であれ、社会と個々人の生存と世代交代を根底的に支える生産的な労働と、その比重と重要性と意義がなくなったり、後退することは決してありません。

 

2、困難な資本家的商品の「価値規定」

 

 交換価値(価値)の概念を理解し、受け入れた私にとって、最初から、疑問に思うというか、漠然としてであれ、分からないという感覚が残ったのは、価値の実体がその商品のために支出された、社会的に必要な人間労働であるというのはいいとしても――そして、それは〝単純商品〟の場合は、容易に理解できるとしても――、資本主義的に生産された商品の「価値規定」――労働時間による価値表現――はいくらであるかということは分かるのだろうか、分かるとするなら、いかにしてであろうか、ということでした。


 マルクスは色々なところで、それについて語ってはいますが、しかしそれは抽象的に、しかも主として消費財について、さらにその分配法則に関連してだけでした。


 『資本論』の冒頭の4節のロビンソン・クルーソーの例についても、孤島に暮らすたった一人の場合について論じ、1日の生活時間、労働時間をいくつかに分割して生活し、生きていく事実を上げ、こうした法則は人間社会において一般的であり、将来の社会主義社会においても適用でき、同様だと述べ、また『ゴータ綱領批判』では、「彼は自分が一つの形で社会に与えたのと同じ労働量を、別の形で返してもらうのである」、「個人的消費財が個々の生産者の間に分配されるときには、商品等価物の交換の時と同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい労働の量と交換される」というだけです。


 しかし、こうしたマルクスの言葉を合理的に理解し、資本主義的商品の価値規定を、その法則を少なくとも理論的に理解することは困難であり、至難の業に見えました。


 そして1990年前後、ソ連邦の解体と、ソ連共産党とその権力の瓦解という歴史的な大事件が突発し、一体社会主義社会と呼ばれて来た社会とは何であったのか、本当に社会主義であったのかという疑問とともに、社会主義の概念と、共産党国家の歴史的な意義と理解が問題となったし、ならざるを得ませんでした。


 日本共産党の中でも、党を上げての大論争が始まりました。党自体も、それを正面から取り上げざるを得ず、ある程度まで党内の不満や議論を組織することで拡散させ、本当の議論を抑圧しようとして、アカハタ評論版などを利用して、議論を〝組織〟し、管理しました。


 管理された党内論争の中で、主流をなしたのは、党中央に沿った意見――というより、党の中央官僚をいわば〝右から〟批判する見解――が幅を利かせ、ソ連邦とソ連共産党が破綻したのは、ブルジョア的政策を推し進めたから破綻したのでなく、反対に社会主義的政策――党内右翼の反動派は、スターリン主義の国家的な統制された資本主義を社会主義の名で攻撃し、ブルジョア的政策をさらに前進させ、深化させなかったから、スターリンらが反対に機械的な〝社会主義的な〟政策をおこなったから、ソ連やソ連共産党は破綻し、なくなったのだと言いはやしました。


 そして労働の分配法則も、労働時間でやろうとしたから、そんなできっこないことをやったから失敗したのだとわめき、結論として、社会主義における分配を今と同様に賃金制度でやるしかない、やるべきだと知ったかぶりをしてわめき散らしました。つまり社会主義における分配方式も資本主義と同じだというわけです。


 こうした連中は、「社会主義では、我々はもう生産物を交換しない、だから労働生産物も〝価値〟として現れない」というマルクスの単純な言葉さえ知らないふりをし、無視したのです。そもそも労賃による〝分配法則〟とは、労働の搾取と同じことであるという初歩的な知識さえ、共産党の愚者たちにはなかったということです。


 こうした事態は、我々をいたく刺激し、スターリン主義者の見解やたわ言に激しく反発し、社会主義における分配法則の発見の追求を新しい熱意とエネルギーをもって開始することにつながりました。一体社会主義社会と呼ばれて来た社会とは何であったのか、本当に社会主義であったのかという疑問とともに、です。


 その努力の一つの集大成が7年前の東西の首都(大阪と東京)で開かれた労働者学校とその議論でした。その段階でも我々はまだ、色々の間違い――その筆頭は「有用労働による価値移転」論――や未熟さを残しつつも、正しい方向に向かって議論を前方に押しやりました(このあたりの事実や経過や議論の内容は、プロメテウス55・56号合併後に詳しいので、参照してください)。


 そしてその過程で「有用労働による価値移転」論や、ブルジョアたちが世界中で珍重している「産業連関表」等々の愚昧で、不合理に行き着くしかない俗説を克服して、正しい解決に向かって前進したのでした。


 今や、共産党は中国も社会主義ではなかったとようやく認めましたが、ではどういう歴史的な生産様式の社会であったかについては、またソ連や中国のえせ社会主義とは違う、社会主義については何も語ることができませんし、しようともしていません。


 その正しい解決――商品の価値規定、とりわけそれに基づく消費財の分配法則――を明らかにすることこそ、そしてそれを深めることこそ、代表委員会による『資本論』学習会の最大の意義であり、課題です。この課題は、今回の第1回から最後の第12回までを貫く、学習会の基調音であり、主旋律であるといえます。

 

3、2つの「価値論」

 

 しかしその答えを語るのは、今回の課題ではありません。


 我々はまず単純商品と資本主義的商品の同一性と違いを明らかにしなくてはなりません。すでに戦前から国内外のブルジョア学者を先頭に、『資本論』の第1巻と3巻の「矛盾」という形でやかましく論じられてきました。


 彼らが〝大発見〟であるかに大喜び、はしゃいで語った「矛盾」とは、マルクスは1巻では、商品の「価値通りの」交換を説きながら、3巻では資本家的商品の価値通りではない、それから偏倚し、違った商品の交換(不等価交換)を語っている、論理を首尾一貫させ得なかった、マルクスの労働価値説は破綻した等々の幼稚な批判であって、単に資本主義では商品は、「費用価格+平均利潤」の価格――マルクスはこの価値の修正形態を「生産価格」という名で総括しました――で売買されるということを理解しない、ブルジョアやブルジョア学者たちの無学や愚昧を暴露しただけでした。


 元来、商品の「価値説」――交換価値(俗にいえば、「価格」と理解してください)を規定し、決定するものについての理論――には、基本的に2つの理論があります。


 もちろん、それは2つどころか、実際にはブルジョア的なもの、プチブル的なもの、訳の分からないようなもの等々、無数にあります。


 たとえば最も俗受けするが、徹底的に無内容なものに〝需給説〟――需要と供給の状態、状況によって、それらの相互関係、相互作用によって「価格」が決まるといったもの――や、〝効用価値〟説――商品の買い手の使用価値(効用)に対する欲求や、偏愛さえによって、またその程度によって決まるなど枚挙にいとまがありません――かの悪名高い宇野理論も、結局は〝需給説〟や〝効用説〟の亜種、俗種といったものでしょう――が、基本的にブルジョア的な「価値構成説」(以後、構成説と略称)と、マルクス主義つまり労働者的な理論としての「労働価値説」(〝価値分割説〟、以後分割説と仮に呼ばせてもらいます)があります。


 構成説がブルジョアの価値論(実際には〝価格論〟)だというのは、彼らが資本の〝人格的な〟存在として、日常的な経済活動に従事する限り、彼らにとって不可避の、自然の意識として生じるものだからです。


 そもそもブルジョアの経済活動の目的は資本の増殖です、100万円の資本を投じて、商品を生産して110万円で売ることによって利潤を確保するためです。


 そのために彼は市場から生産財(不変資本の形態転化したもの)を買い、他方では労働力の対価として、賃金(可変資本の形態転化したもの)を労働者に払って雇い、働かせます。もちろん資本家の可変資本は賃金に転化しますが、その賃金は労働者にとっては収入であり、所得であって、消費財の対価として支出されます。


 しかし〝労働力〟(精神的、肉体的な力、能力)以外、何も売るべき〝経済財〟を所有しない〝無産の〟労働者は、賃金でもってブルジョアから消費財を買う(交換する)しかありません(この場合、消費財を生産するのもブルジョアであると想定します、もちろん消費財の生産を行うのは、現実には農漁民等々の小生産者、つまり〝家族経営〟で生産的労働に従事する人々であって、ブルジョアでない場合もいくらでもありますが)。 


 かくして賃金は、再び可変資本としてブルジョアの手元に還流しました。このことは可変資本とは事実上、ブルジョアが所有し、資本によって――否、直接生産者(労働者)によって――資本として再生産される、労働者の消費財だということです。


 かくしてブルジョアにとっての費用は資本だということです。素材的にいうなら、不変資本(生産財つまり機械や工場等々の労働手段と、原材料等々の労働対象に分かれますが)及び可変資本(消費財)です。


 ブルジョアはこうした資本(一般的には資本としての貨幣、つまり貨幣資本)をもって経済活動を始め、もしくは継続し、利潤(剰余価値)――実際には平均利潤――を得て、その循環を終えます。


 だからブルジョアにとっては、差し当たりは経済活動の循環を保障するもの、つまり不変資本と可変資本の合計が〝費用〟として現象し、それが商品の交換価値を規定し、左右し、決定するものに見えます。これがブルジョアにとっての「商品価格」です。


 しかし現実には商品は費用価格だけでなく、利潤も含めて、つまり費用価格+平均利潤(前に述べた生産価格)で売られ(交換され)ます。


 したがってまたブルジョアにとっても、後者の意味での費用価格(説)こそが真実であり、労働価値説に対置されるということです。我々は、後者の意味での費用価格によって議論することにします。したがってまた、ブルジョアの費用価格説を批判する場合も、後者の観念についてのものになります。


 この理論がブルジョア的な「構成説」と呼ばれるのは商品の「価値」(商品の価格)を、生産に要した諸契機の価格の合計、算術和として提示するからです。つまりこれがブルジョアたちの実際の経験に基づく〝価値論〟なのです。


 商品の価値(価格)は不変資本(機械、工場等々)の価格と、可変資本(労働力の価格、つまり賃金)と利潤(剰余価値つまり労働者が生み出した資本価値を超える超過分)の合計から〝構成される〟という話になります。商品の価値は、そのものとしてまずある――そしてその後に、不変資本や可変資本に分かれ、さらに利潤が加わる――のではなく、ブルジョアにとっての諸費用(諸価格)の総計としてあるということです。


 これに反して、マルクスの労働価値説はそもそも交換価値を分析して、その結果として価値概念に到達したものですから、まず商品に結晶した人間労働は、量的には異なるが、質的には全く同質のものとして1つの大きさであり、だからこそそれは資本価値や労賃や利潤として分解され、分割され得るのです。


 もちろん構成説はブルジョアの自然のドグマとして、例えば「〝有用労働による〟価値移転説」等々と不可避的に結びつきますし、資本主義の理論的、内在的な批判的認識も困難にします。ブルジョア社会における、「価値」に関する、二つの基本的な理論をしっかり区別することは、マルクス主義的理論を学ぶ上で第一義的に重要です。

 
                              林 紘義

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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