労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

コロナ禍

北九州市民は”民度”が低かったのか?

福岡の『海つばめ』読者から、当地のコロナ禍について投稿がありましたので、紹介します。

 

北九州市民は”民度”が低かったのか?

 

第二波の到来か、と心配された北九州市のコロナ感染は沈静化しつつあります。今回の特徴は、市内の全行政地域でほぼ同時期に発生したことです。全ては経路不明、日本独自のクラスター対策、「さかのぼり接触者調査」は全く意味を失いました。ここで再び「日本モデル」は破綻したのです。

 同時に、日本独自のクラスター政策の破綻を隠蔽する「80%自粛」とか「新しい生活様式」も又、見当違いの感染症対策と言うことです。形式的に行動変容を強いることは、医療労働者や感染者に対する偏見や差別、そして自粛警察を生みだしました。 

 

 こんな非科学的な、医学的とも思えない安倍政権のコロナ対策で爆発的感染に至らなかったのは、日本が東南アジアに位置する“幸運”によるのか、今の所、理由は不明ですが、少なくとも「「民度の違い」(第二波が襲った北九州は麻生の地元だ、民度が低かったのか?)ではない。

 

 だが、次のことは確かです。病院や介護・老人施設で集団感染が再び発生し、入院患者や医療・介護労働者を肉体的・精神的な苦境に追い込まれた。これは安倍政権と「感染症村」の頑迷な、利権や面子に囚われたドグマ的な、優柔不断なコロナ対策がもたらしたのです。

 

 「三密」が避けられない産業労働者、社会的・公的な諸施設やそこに働く労働者等の感染症対策は、北九州でのクラスター発生が示すように一歩も進んでいない。国内のPCR検査能力は今もって一日2万件にも達せず、検査能力の強化は私的医療資本や自治体まかせです。しかし、私的な、営利を目的とする医療体制はいきなり公的な役割を強いられ、余りの負担の大きさに経営危機に陥っています。安倍政権は有事に備えるとして兵器の爆買いを厭わない。しかし、労働者大衆の健康と命と労働を守るために必要な医療体制は、安倍には強化する気がなく、また私的な、営利目的の医療では不可能であろう、公的な医療供給体制を構築すべきではないのか。北九州では二か所の基幹病院の集団感染で地域の救急医療が逼迫したのだ。膨大な借金をして資本救済にばら撒く余裕などないのです。

 

 ブルジョア達は、コロナウイルスから自らを「隔離」し、必要なら金に任せた医療が用意されている。労働者大衆は「隔離」ではない社会生活で、協働して働き、物質的に社会を支えています。北九州市のように、いきなり感染者が発生する、このように市中に闇を作ったのは安倍政権です。労働者は、感染の実態を明らかにする、その為に必要な諸検査を実施し、飛沫・接触感染防御を行い、お互い疑心暗鬼に陥ることなく、社会を支える労働を営むのである。

 

 これを安倍政権に望むことは不可能だと思う。第二波襲来の前に、この政権は消えてもらわないと困るのである。

(福岡 読者A

赤旗の『ペスト』書評に異議あり

   赤旗の『ペスト』書評に異議あり

     ――人間賛歌でいいのか

 

 カミュの「ペスト」が爆発的に売れているそうだ。唯一の文庫本である新潮文庫は増刷に次ぐ増刷という。「ペスト」の設定が現在のコロナによる都市封鎖とそっくりだからであろう。“赤旗の書評欄で「ペスト」を紹介しているから読んでみたら”、という誘いがあったので、再度(数十年前の若いころに呼んだが、内容はほとんど忘れてしまった)読んでみることにした。

 

 物語は194*年のアルジェリアの地方都市オランがペストに襲われたことに始まる。主要な登場人物は、主人公であり物語の語り手である医師のリウーである。また後にリウーの親友になるタルーは、検察官の息子でかってはニヒリストだったが、ペストでは自ら保健隊を組織して献身的に働くが最後にペストに斃れる。新聞記者のランベールは、本国に恋人を残してきて、たまたまペストに遭遇した個人主義者で、何とかオラン脱出を試みるが、市民の惨状を目の当たりにし予防隔離所で働くことになる。その他、戦闘的なイエズス会士のパヌルー神父(やはりペストで死ぬ)、年寄りだが事実上衛生隊の代表になるグラン、気が違ってしまうコタールなど多彩である。これら様々な経歴や職業を持つ市民たちが、連帯し協力してペストに立ち向かう、これが小説「ペスト」のテーマである。

 

 問題は、この多彩な登場人物の中に、労働者を思わせるような人物がほとんどいないことだ。作者によれば、主人公のリウーは貧しい労働者の出ということになっているが、ただそれだけで、特に労働者の階級的な活動をしてはいない。アパートの門番や市役所の吏員など下層の庶民も出てくるが、彼らも市民の一人として描かれているだけである。疫病感染は、今回のコロナ禍でも分かるように、社会の様々な階級階層に平等に襲うものではない。オランの20万市民の多数を占める下層階級は最も大きな被害を被ったはずである。新聞記者のランベールのように、富裕層の多くもオラン脱出を図ったであろうことは想像に難くないが、富裕層の動きなどは一切出てこない。

 

 つまり「ペスト」のテーマは、突然のペスト禍に襲われた市民が、共感、連帯や人間愛など万人共通の価値観に目覚め、ペストに打ち勝つという人間賛歌なのである。タルーが医者のリウーに尋ねる場面がある、「なぜあなたは、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?」それに対してリウーは、「さしあたり、大勢の病人があり、それをなおしてやらねばならないんです。…僕は自分としてできるだけ彼らを守ってやる、ただそれだけです。」「僕が心を引かれるのは、人間であるということだ。」それに対してタルーは「そうさ僕たちは同じものを求めているんだ」と答える。そしてカミュは書いている。「リユーは、タルーやコタールなどと共に、あらゆる苦悩を超えて、自分が彼らと一つになることを感じるのであった。」

 

 これらのリウーやタルーの言葉は、カミユの人間主義を表している。彼は不条理の作家と言われている。彼は、この世界と人間との関係を不条理と考える。死、戦争、災害などの不条理と闘うのは、人間の反抗であり、反抗だけが人間であることを確証する、と言う。彼はマルクス主義に対しても反対である、マルクス主義は、イデオロギーであり観念であり、具体的な人間、現実的な人間を捉えていないと言うのだ。

 

しかしカミユの言う「具体的人間」とは、「目の前にいる人間」ということであり、リユーの言うように、目の前にいる大勢の病人を救うこと、目の前の現実だけが具体的なのだ。その結果、カミユの「具体的人間」は、単に“現象”としての人間、逆に、一般市民として抽象化された人間になってしまうのだ。本当の「具体的人間」は、個々の資本家や経営者として、あるいは工業労働者や召使いとして存在している。現象は分析されることによって本質に迫り、総合によって真の具体性に到達しなければならないのである。

 

 ペストという不条理に対する市民の反抗の描写は確かに感動的ではある。しかし不条理一般と人間は闘うわけではない。災害や偶然,死など人間に襲い掛かる不条理は、すべて具体的な姿をとるものであり、人間は個々の不条理の原因を解明し、具体的に闘わねばならないのである。カミユは、不条理に対する闘いを、シーシュポスの神話に譬えて人類の永遠の苦行としているが、これこそニヒリズムである(ニーチェと同じだ)。タルーは、リウーに言う、「あなたの勝利は、常に一時的なものですね。」リウー「常にね、それは知っています。…際限なく続く敗北です。」反抗がもたらす敗北を永遠に続けねばならないが、カミユは、その絶望的な反抗からの救いを、人間の誠実や愛情、連帯等、つまり高貴な“人間性”に求めるのである。ところが彼は、イデオロギーや理念を軽蔑するといっていながら、自らの人間主義が特定のイデオロギーであること、歴史的な刻印を押されたものであることに気が付かない。

 

 カミユは、歴史というものをほとんど語らない。その例外は(「ペスト」では)、死刑を、「忌まわしい虐殺」として考えるタルーに、「歴史はそれを裏書きしており、現在はまるで殺し合いごっこだ」と言わせているだけである。カミユは、歴史に意味を認めないと言い、それを悟った者が自由を獲得すると言っている。

 

しかし、歴史の中に存在しない自由といったものは、具体的な自由ではなく、自由の抽象であり、理念に過ぎない。「ペスト」の舞台は、二十世紀の、二つの世界大戦を経験したフランス植民地アルジェリアの都市オランである。にもかかわらず「ペスト」には植民地支配やそれに対する住民の反抗や帝国主義戦争の影響は全く感ぜられない。それはあたかもオランを「ガリバー旅行記」の架空の国や都市のように思わせるのだ。この歴史感の欠如こそ、カミユの「ペスト」(または「反抗」)を、何か現実感のない抽象的なものに感じさせる原因なのである。

 

 同じ不条理の作家にサルトルがいるが、しかしサルトルは歴史やその時々の社会状況に少なくともコミットしており、カミユの歴史無視の態度とは対照的である(「革命か反抗か」の論争で両者が喧嘩別れした理由はここにある)。とはいえカミユの名誉のために敢えていえば、彼が政治参加をしなかったわけではなく、一時は共産党員でもあったし、第二次大戦中はフランス本国でレジスタンスにも参加している。しかしその動機も、「ペスト」の中でリウーが言っているように、「ひとはいつまでも異邦人ではいられない、人間には果たすべき義務がある」からである。結局、彼の反抗の根源にあるものは、「ペスト」の至る所に出てくる、義務、愛情、共感といった“人間性”への信頼であり、平凡な、伝統的価値観なのだ。カミュが1957年に「人間の良心にかかわる問題に光を投げかけた」としてノーベル賞を受賞したのもうなずけるのである。

 

 慶応の名誉教授の堀茂樹による「赤旗」の書評(524日付)は、カミュの「ペスト」について、「生,死、幸福、別離といった人間存在の条件をめぐる哲学的な問いや、他者との関係において人はどう行動すべきか、という倫理的な問題をも取り上げている」と紹介する。そして、階級闘争や社会主義を、「観念のために身をささげるヒロイズムとして唾棄」し、「具体的な幸福」を追求するという記者のランベールの言葉や、医師のリウーの、「僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだ」を紹介して、「具体的な幸福」の追求や誠実な「職務」遂行を暗黙に支持している。そして最後に評者は、作中人物たちは「疫病の科す試練の中で推移し、変貌し、自己発見をしていく。『ペスト』は人間をどんな本質にも固定せず、あくまで「開かれた存在」として描いている」とまとめている。

 

ここには「ペスト」(カミユ)に対する、いかなる批判もない。「生、死、幸福、別離といった人間存在の条件」や「他者との関係における人の行動」は、歴史的社会的条件の中で初めて具体的な条件や行動なりとなって表れるのであり、そうした条件を無視した「哲学的な問い」は無意味であり、抽象に終わるしかない。作中人物の「自己発見していく」も陳腐な「自分探しの旅」以上の意味はない。

 

つまりこの評者は、階級社会における人間存在は階級的存在としか現れ、階級的存在を否定すれば、抽象的な人間存在つまりブルジョア的な人間にしかならないことが分かっていない。評者は、カミユの社会的義務や共感や連帯などを支持するが、これこそ共産党の没階級主義、市民主義、人間主義そのものである。コロナ禍は、資本主義社会のあらゆる矛盾の根源が、資本主義そのものにあることを何人の目にも明らかにしたが、コロナ禍の試練を人間性礼賛の階級協調主義にしてはならず、資本主義打倒のための契機にしていかねばならないのである。   (神奈川・K)

新型コロナで一儲け図る輩(やから)

 連休明け、緊急事態宣言下でめっきり減った新聞折り込みに「データ入力契約社員複数名急募」のチラシがあった。時給1700円、勤務地は県内の6市、仕事内容は「行政手続きに関する申請書類の内容確認(対面業務)、申請書類のスキャンおよびデータ入力・・・」、期間は5月中旬から7月末(更新可能性あり)、労働時間800から1700(残業月20時間程度)とある。時給1700円は当県の最低賃金790円の2倍以上、金額だけ目に付くように「赤字」で印刷されている。

 一律給付金支給業務だと一見して分かるが、時給1700円で儲けがでるとなると一体委託費はいくらなのか?募集の主は派遣会社大手のパソナだ。地方自治体が直接募集すれば派遣会社の中間搾取分だけ税金がもっと有効に使われると思うと腹が立ってくる。

 さらにパソナの会長は竹中平蔵だが、彼こそは小泉内閣で
経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、総務大臣、郵政民営化担当大臣として派遣労働・非正規労働者の増大政策を 推進してきた張本人である。安倍政権下でも経済特区諮問会議等の委員を歴任して自らが関わる企業に膨大な利益をもたらし政商と言われてきた男だ。コロナ禍により雇止めや一方的解雇で路頭に迷う仲間が増大する一方で一儲けする彼に災いあれ!  (愛媛 F)

「政治の身勝手さに呆れる」――労働者党ブログに賛同

「政治の身勝手さに呆れる」――社会の構造(階級)がますます露呈


 私は、非正規職場でコロナ収束までは職無し手当て無しの不安定感な生活です。生産手段を世界の労働者が手にしていたら、パンデミックや隠蔽など無く、計画的な人員配置、必要な物資の生産が迅速に行われ、安心して生活できるのにと思います。

 

ブログの「学校休校を問う」は現状を端的にわかりやすく書かれてあると思います。知人の教育労働者(休職中)に手紙を添えて送ったところ返事が届きました。返事の手紙の内容は以下です。

 

『デジタル機の学習がOECD最下位、教育予算が2.2%最下位という事実に驚き職場では「英語教育の次はIT教育かぁ。それよりも国語や算数を充実して欲しい。」という声をききます。機械が揃うだけでなく内容も充実させるには、教師達の研修がまず必要でかなり労力を使う、なかなか積極的に踏み込めない現実があると思う。しかしこれからの世の中を生きていく上で必要なものであるなら、一部の高所得者が通う学校だけでなく公立校すべてに必要な教育としてハード面ソフト面ともに整備していく必要があるでしょう。

 今回のコロナは百年に一度のウイルスによる困難といわれているけどオンライン教育が準備されていなかったのは海外もそうだけど全ての国民(子ども達)に行き渡らなかったのはある程度仕方なかったようにも思えます。ただ、国がオンライン教育を主にまさに全ての子ども達が教授できるかのように言うのはおかしいですよね。PCを持っていない子、使えない子、親がみてあげられない子がほとんどなんですもの。教育格差が生じているのに何も手を打たない、ほったらかしの政治家に怒りを覚えます。

 派遣や非正規の保護者の子ども達が毎日家の中でゲームをしていて、給食が無い分、食事にも困っている。 

大きな困難が生じた時、守らない人たちがこんなに沢山いるということが今回わかりました。政治の身勝手さに呆れるし、社会の構造(階級)がますます露呈したのではないでしょうか。』

 

以上が手紙の内容です。私は老眼とPCが苦手なので手紙を利用して出来るところから活動したいと思います。  (福岡 K)



危機は社会の矛盾を暴く!

  大沢真幸の気楽な「国家を超えた連帯」論に物申す


 コロナ危機、コロナパンデミックで明らかになったことがある。資本主義の矛盾が誰にも「見える化」したことである。最大の矛盾は、人が企業に雇われなければ、食っていけない、生きていけないということだ。派遣切りに合った労働者は、「俺たちに死ねということか!」と悲痛な声を上げている。首切りに合った労働者は、生活費はもちろんのこと住む家さえ失うのだ。

 

 ところで、なぜ労働者は、企業に、資本家に雇われなければ生きていけないのか?人間が犬コロのように、食べるものも住むところもなく追い出される!こんなことが、余剰食物を捨てている豊かな、この文明社会にあっていいことなのか?

 

当たり前のことだが、財産を持っていない労働者は、自分の労働力を資本家に売って、見返りに賃金を得ることによってしか生きる術を持たない。これは資本主義である限り、労働者の否定しようのない現実だ。最初から労働者は弱い立場であり、それは我われの言葉にも出ている、いわく「雇って頂く」「給料をもらう」等々。商品の売買については、売り手も買い手も対等であるのが、商品交換の、商業の原則であるはずなのだが、こと労働力という商品に限ってはそうではない。労働者は生きていくためには、日々労働せねばならず、労働するためには資本家に雇われなければならない。この事実こそ、資本主義社会(その名の通り)がまさに資本(家)の社会、企業本位の社会であることを証明している。

 

 安倍は国民生活を守るために、失業を増やさない、雇用を保障するなどと気楽に国民に約束する。しかし資本主義社会では、労働者を雇う、雇わないは、資本家の、企業の自由である。政府が資本家に労働者を雇うことを命令したら、“社会主義”になってしまう?それは資本主義の否定ではないのか?

 

 当たり前だが、労働者は企業に雇われて初めて生活できる、企業に雇われなければ生きていけないという現実、この事実をトクと考えてみなければならない。これは誰にとって正しいことなのか、また企業が労働者に生殺与奪の権を握っているが、なぜそんなことが正しいのか、また許されるのか、誰がそれを決めたのか?

 

 企業や資本家がこの社会の主人公になったのは、世界史を見てもたかだか2,300年前からのことで、そんな昔のことではない。もちろん我われ働く者は、この階級社会において被支配階級として、その時々の支配階級であった君主や貴族らに苦しめられてきた。ところが資本主義は、この僅か2,300年の間に、これまでの人類が蓄積した富をはるかに上回る巨大な生産力を獲得したのである。ところがこの生産力は、資本主義自身がその手に負えないような怪物に育ってしまった。その証拠には、この巨大な生産力は、いまでは過剰資本、過剰生産としてその行き場を失い、不況や恐慌の原因となって資本家を苦しめているのである。コロナ危機による自国封鎖によって資本の移動が禁止され、海外市場からの資本の引上げによって世界中に余剰労働力が溢れているのだ。

 

 国際協調が叫ばれてはいる。社会学者の大沢真幸は、「国家を超えた連帯」、人類は「運命共同体」だ、などと述べている(朝日朝刊、4月6日)。気楽なもんだ!大沢は、記者から「(国際連帯は)絵に描いた餅では?」と質問され、次のように答えている、「新型ウィルス問題が、そうした膠着状態を変える可能性があります。」「気候変動問題の存在を否定したトランプ大統領も、新型ウィルスについては『問題ない』の自説をすぐに引っ込め、真剣に取り組まざるを得なくなった。非常時には歴史の流れが一挙に加速されます。」バカも休み休み言ってほしいものだ。コロナ危機がもたらしたものは、歴史の流れを加速させるどころか、反対の自国封鎖であり、自国第一主義であった。バカなトランプがコロナの急速な拡大に慌てて取った措置は、海外からの入国禁止であり、国際協力とは逆のWHOに対する威嚇であった。

 

 この国際社会が、ブルジョア国家の集合体である限り、国際連帯などは夢である。大沢は、政策の決定権は、「国民国家が握っている」「それは私たちが、現時点では自国に対して一番レベルの高い連帯感・帰属意識を抱いているからです。それを超える連帯を実現させなくてはいけない」と述べて、国民の国家への帰属意識を変えろと言っている。ブルジョア国家への帰属意識が生まれるのは自然だが、それはまた反動権力によって意図的に強化される。いかにして「国家を超える連帯」を実現するのか?大沢は「実現させなくてはいけない」と理想を叫ぶだけで、せいぜい「非常時が歴史の流れを加速する」ことに期待するだけだ。彼はブルジョア社会にあって、労働者がブルジョア的な国家意識を超える階級的存在であることを見ない。人はみな平等で、個人として尊重されねばならず、階級など存在しない、国家は至高の存在であるなどと、ブルジョアジーは労働者に説教する。個人主義や人間主義は、封建制と闘う近代においてこそ意味があったが、現代の資本主義社会においては、ブルジョアジーの階級支配を隠蔽するイデオロギーに堕している。それは国家主義、愛国主義の根源である。労働者とブルジョアたちの間には、平等も連帯もない。しかしながら、資本主義経済の発展と共に拡大する労働者階級の闘いは、ブルジョア国家の枠を乗り越えて労働者の国際的連帯へと発展する。資本家階級という同じ支配階級によって搾取され抑圧されている階級として、各国の労働者階級は同一の利害関係と同一の目標を持っている。ここにこそ労働者階級の国際的連帯の基礎がある。残念ながら、現在19世紀後半に現れたような労働者の国際的連帯の動きは見られないが、しかし今度のコロナパンデミックのように資本主義世界の危機と自国本位の矛盾が明らかになり、「国家を超えた連帯」が求められれば求められるほど、労働者の国際的連帯と資本家階級に対する闘いは、必然的に発展するであろう。「国家を超えた連帯」を実現するにはそれ以外にない。

 

 すでに世界史の段階は、人間を単なるモノとして、いわゆる人材として扱うことを許さない時代に差し掛かっている。人間をモノとして扱った奴隷制や人格的隷従を強いた封建制と比べてみれば、人格はともかく労働力を商品として売ることができるようになった資本主義は、人類史の大きな進歩と言わねばならない。しかし今、その極限まで発展した商品経済は、その無政府性ゆえに過剰資本、過剰生産に苦しみ、その破綻を明らかにした。無計画的な商品経済は、喜びをもって自由に働き、必要に応じて取る社会へと移行すべき時が来たのである。商店のような自営業者や小生産者はどうなるのか、彼らも商品経済ではないか、と言われる。その通りである。彼らは確かに企業や資本家のように労働者を搾取したり、労働者をモノ扱いしたりしていない。しかし彼らも商品経済に依存している以上、その労働によって生計を立てねばならない、商品や生産物は売れなければならないし、利益を上げねばならない。顧客に対するどんなに愛想のいい笑みや親切も、その裏には利益が絡んでいる。仕事一筋の名人も、その作品が売れなければ生きていけない。殻らが自分の仕事にどんなに誇りを持ったところで、しょせん、商品世界から逃れることはできないのである。

 

 一方で医療崩壊は深刻だ。マスク、防護服、人工呼吸器、検査器等が足りない。しかしこれらを作っているのは企業である。政府がいくら要請したところで企業が動かなければ、生産も調達もできない。企業は利潤で動いているのである。コロナ禍は、いかに資本主義が突然の災害に無力であるかを明らかにした。中国は共産党の独裁国家であるが、その強権性を駆使して(その善悪は別だが)コロナを終息させた(まだ決定的ではない)。自由な人間の共同社会である共産社会であればコトは簡単だ。そこでは自分本位の商品交換もない、利潤のためにしか生産も交換もしない資本家も存在しない。必要な物資は、直ちに計画的に生産され配分される。そのために必要な材料や機械などの生産手段や必要な労働力は、統一的な計画に基づいて直ちにいき渡るだろう。社会主義を経て共産主義に到達する長い過程で、個人主義はしだいに克服され、一人は万人のために、万人は一人のために、という相互扶助の精神は、そこでは一般的なものになるだろう。もちろんこうした社会は、一朝一夕に実現されるものではなく、人類は長期にわたって苦しい闘いを経験しなければならないのだが。

 

 しかし、今の資本主義社会に生起しているあらゆる矛盾―自然破壊、原発事故、あらゆる格差と差別、過酷な労働、介護と医療等々―は、その現れ方は違っても、その根源は資本主義体制にある。個々の矛盾の現れと闘うことはもちろん必要であるが、敵は本能寺(資本主義)にあること、それを攻め落とすことが我われ労働者の最終目的であることを忘れてはならないのである。大沢真幸は、「非常時には歴史の流れが一気に加速されます」と言っている。確かにその通りだ。しかしその歴史の流れは、我われがそれをしっかり見据え抑えなければ、前にも後ろにも(ロシア革命にもファシズムにも)向かうものである。15日に、39県緊急事態解除の記者会見で、安倍は、「コロナの時代の新たな日常を取り戻していく。今日はその本格的なスタートの日だ」と述べた。我々はここに反動派の意図を見る。彼らはこの異常事態を「日常化」することによって新たな反動のスタートにすることを画策しているのである。逆に我々は、このコロナの非常時に歴史の流れを「一気に加速」させ、働く者が主人公の世界、社会主義に向かって、さらにその先の共産主義に向かって、労働者の闘いを前進させなければならない。そのための第一歩は、安倍反動政権を打倒し、労働者政権の樹立に向かって闘いを開始することである。 (神奈川 菊池)

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