労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

MMT批判

MMT派に染まる自民党—— 積極財政推進責任者は西田に

『海つばめ』1416号で自民党西田昌司政調会長代理の主張を取り上げましたが、その記事の補足です。

 

MMT派に染まる自民党

積極財政推進責任者は西田に

 

 明治憲法復活を主張する右翼であり、MMTを信奉する西田昌司・政調会長代理(安倍派)が1日(12月)、自民党の「財政政策検討本部」の本部長に座った。

 

本部長の西田は、「経済を再生して財政再建というのが安倍政権以来の政策だ」、「財政再建を謳うのは時代遅れだ」と言い、岸田総裁の直轄機関である「財政健全化推進本部」に牽制球を投げつけた。

 

西田はアベノミクスをMMT理論として復活させたいという根っからの財政膨張派である。アベノミクスは異次元の量的緩和策が主であり、財政膨張策を従の存在にしていたが、その主従を変更すべきだと西田は批判する。

 

いくら量的緩和を行い、国債を日銀が買い集めて日銀当座預金にカネを積んでも、不況の中では銀行からカネを借りる民間企業は少ない、むしろ、消費税を期限付きで中止して消費購買力を高め、国民全員への「旅行クーポン」を支給して観光業界を救済し、長期的には毎年2030兆円の投資予算を用意し、10年間続ければ不況を脱出し、日本経済を再建できると自信満々である。

 

これらのために追加する年間5060兆円のカネは国債を発行すれば済む話だ、MMT理論によれば国家の借金をいくら増やしても何の問題も無いと楽観論を振りまいている。丁度1年前に発行した『プロメテウス』59号にて、「MMT経済学批判」を特集した際に登場願ったL・ランダル・レイや「ばら運動」を主宰する市民派の松尾匡らの論調と全く同じである。

 

日本の国債残高は先進国で断トツの世界一であるが、西田にとって国家の大赤字などは蚊に刺された以上ではようだ。そう考える理由を長々と述べているが、特徴的な西田の見解を取り上げてみよう。

 

「MMT理論の最大の肝は、貨幣の正体がモノではなく、債務」(西田HP)だと西田は述べるが、歴史的事実を捻じ曲げた、古代から現代まで世界の貨幣は債務証書であったというL・ランダル・レイのオウム返しに過ぎない。

 

貨幣と債務は商品交換の発展の中で誕生したが、そもそも概念は別である。歴史を紐解けば分かるように、共同体と共同体の間で発生した当初の商品交換は、その発展と共に金や銀などの重さを価値尺度とした秤量貨幣や定量貨幣を生み出し、その後の商品流通の広がりと一層の発展の中で、掛売買(後払い)が商品売買市場で始まった。

 

この掛売買こそ、後日に貨幣を支払うことを約束した債務証書を生み出したのであり、この債務証書は支払い手段としての貨幣の機能から発生した貨幣の代理に過ぎない。

 

そもそも西田には、商品交換社会に必然である〝商品は貨幣〟だという理論的歴史的理解は全くなく、その意味さえ理解できないのであり、債務証書が貨幣(あるいは通貨)そのものだと盲目的に理解するしか能が無いのである。

 

貨幣=債務証書に見えるのは、資本主義の発展の中で、各銀行が独自に発行して来た信用貨幣を国家の中央銀行として独占し、国家の信用貨幣として中央銀行券が発行されるようになり、さらに金本位制による金兌換(中央銀行券が金と交換可能)が廃止され、金不換の中央銀行券は、ただ国家の債務として流通するようになったからである。そして、今や中央銀行は政府発行の国債を大量発行できるように、ゼロ金利政策を強いられ、そこから身動きができない状態に追い込まれているが、まるで中央銀行が無限に国債を発行(債務発行)し続けることが可能かに見えるからである。

 

また、西田は銀行にとって「日銀当座預金を持つより国債を持っている方が有利」だ、だから銀行は新規国債を常に買い続ける、その結果、「日銀は無限に日銀当座預金を銀行に供給できる」(同上)と言う。  

 

西田は国債と日銀当座預金の金利を比較する。その上で、国債の方が有利だから銀行は国債を買うというが、西田は何も分からずデタラメを言っているか、誤魔化している。

 

銀行は政府の国債を買い資産として保有するが、日銀が国債を高く買上げてくれるなら、国債を売り差額を儲けることができ、その限りで、次々と発行される新規国債を買い続けることが出来るに過ぎない。他方の日銀は、購入した国債の代金(日銀券)を決済用の当座預金に振り込み、銀行との国債購入を終了するのである。

 

西田が言うように、銀行は国債と当座預金の金利差を比較し、国債を持った方が有利だから購入するわけではないのだ。ここにあるのは、政府の大量国債発行を維持するため、政府の借金返済の金利負担を軽減させるために、政府と日銀が借金大国を破綻させまいとして必死に策動する姿があるのみである。

 

しかし、銀行や投資家は国債より有利な投資先があれば、国債を買う道理は無いのであり、また国債に少しでも信用不安が生じるなら、保有する国債を直ちに売るのであり、「銀行は無限に国債を購入」するなどはMMTに凝り固まった西田の妄想に過ぎない。  (W)

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概念なきMMT派の貨幣論

概念なきMMT派の貨幣論

――権力の債務証書に過ぎないと

                    

 MMT派の財政バラ撒き論の理屈は、「政府の債務=民間の黒字」という「マクロ会計の恒等式」が常に成立するということである。つまり「政府の赤字は民間の黒字になる」のだから、政府は何の遠慮もなく無制限に借金ができるというのである。否、そうすべきだと言う。この理屈を一貫させるなら、税金は民間の収入を減らすものであり、従って税金などは一切不要である、税金の代わりに政府が発行する貨幣で賄うべきだということになる。なんと立派な妙薬を発見したものである。

 

MMT派のこうした理屈の根底には、貨幣は権力者(現代においては主権国家)が発行した「債務証書」、つまり権力者の「負債の記録」にすぎないという貨幣論がある。しかもそれは、古代の部族共同体においても存在したと主張する。

 

この小論では、この特有な貨幣論の基本部分を取り上げる(L・ランダル・レイ著の『MMT』)。

 

貨幣発生の条件

 

 レイは、貨幣は古代共同体においても貨幣が存在したと認識する。しかし残念ながら貨幣は共同体の内部では発生しない。この内部では、共同体の成員が作った生産物は商品という形態さえ帯びることもない。

 

それは商品を分析し、貨幣生成の必然性を考察することによって理解されることであるが、レイにそれを要求するのは無理らしい。だが、どんな社会的な条件で貨幣流通が起きるのかは、歴史的な〝労働集合体〟を見れば分かることではある。この基本的な点から始めることにする。

 

 例えば、古代の部族共同体でも、中世の家父長制家族においても、しいて言えば近代の工場内部(資本の搾取労働の場である)の工程や部署を覗いても、貨幣は存在しないし、流通もしていない。

 

それは何故か。これらの内部での労働は、独立した個々人や独立した工程の私的労働ではなく、彼らの生産した生産物もまた成員や工程毎の私的所有物ではないからだ。それらの内部では、複雑な段取りや生産工程があり、労働の分割や分業が行われていたとしても、域内においては、商品交換は必要なく、従って貨幣も一切介在しないのだ。

 

ではどのようにして生産物は商品となり貨幣も生成されるのか。生産物は、私的所有者の生産物が彼らの間で相対し、交換されることによってである。私的所有者の生産物が交換を通じて社会的関係を取り結び、私的労働が社会的労働として反映(対象的性格で)させられることによって商品となるのである。

 

歴史的には、商品は共同体と共同体の間で発生した。まずは、共同体の欲望を超える量の生産物が他の共同体のとの間で交換され始める。当初は「物々交換」として、時間の経過と共に不断の交換が進むにつれて、交換は規則的で相互的な社会的な行為となる。それらの交換割合は、最初は偶然的である。

 

しかし、そのうちに、ある一部の生産物は、共同体間の相互の欲求により初めから交換を念頭に置いて、あるいは交換を目的として生産されるようになる。この瞬間から、その生産物は商品となる。

 

同時に、商品の量的な交換割合(交換価値)も次第に固定し、例えば、魚10匹、毛皮1枚等が米一升と交換されるようになり、量的割合も次第に厳密さを増していくならば、この米は、諸商品の等価物としての地位を得る。

 

諸商品が米に対して自らの交換価値として相対するならば、狭い域内ではあるとしても、この米は諸商品の一般的等価物(貨幣)となるのである。従って、この時には既に、米と交換される諸商品には同一な共通物(価値)があることを各交換者は経験のうちに知りえるのである、だからこそ、ある量的な割合としての交換が広範に成立していくのだ。

 

こうした商品交換の発生と貨幣の成立について、レイは全く無頓着である。それ故に彼の貨幣論の狭隘さが常に暴露されるのである。それを次に見ていく。

 

権力者発行の債務証書はどこに?

 

 レイは、今から数千年前の古代メソポタミア(今のイラクあたり)の部族共同体の内部において、既に、権力者の債務証書としての貨幣が生まれていたと断じる(309頁~)。

 

古代メソポタミアについては、発掘が進み大分全容が分かってきている。この人々は、肥沃な土地(チグリス川とユーフラテス川の三角州や川岸地域)に自生した大麦などの各種穀物を食料にするなど、定住した生活を営み、部族ごとに城壁(外部の遊牧民族の襲撃から防御するため)のある共同体を作っていた。

 

共同体には神殿の付属倉庫があり、人々は、大麦やビールや家畜などを神殿司祭者に一部を上納する一方、それらを成員たちの為に保管し必要になった時には持ち出していた。倉庫への入庫と出庫の様子を示す記録(文字)は、共同体の財産管理というような極めて実務的な要請によって発明されたのであって、レイが言うような神殿権力と成員間の「債権債務」を示すものでは決してなかったのだ。支配者を示す文字はなく、共同体を示す文字が発見されていたことも理解を助けるはずだが。

 

また、商品交換が部族共同体の外で行われるに従って、また、商品価値が人間労働の物質化として妥当され発展してゆくにつれて、貨幣(貨幣の形態)は貴金属に移っていく。だが、レイは、貨幣生成の必然性についてはもちろん、こうした貨幣史とも真面に向き合おうとはしないのだ。彼は次のように呟く。

 

「硬貨とは何であり、なぜ貴金属を含有していたのか? 確かによく分からない。ケインズが言ったように、貨幣の歴史は『時間の霧のかなたに消え去ってしまっている…』。要するに、我々は推測するしかないのだ。」(314頁)

 

にもかかわらず、レイは、貴金属貨幣も権力者の債務証書(債務の記録)だったと頑張るのだから、そうなのかを簡単に見ていくしかない。

 

古代メソポタミアを含む古代オリエント地域から地中海沿岸地域では、銀が秤量貨幣(重さが価値を示し、切り分けて使える貨幣)として取り扱われていたことが分かっている。

 

この銀貨幣は、「コイル」の形(直径約5cm、長さ約22cmのコイル状で、最古は紀元前20世紀に発掘)や「輪」の形をしていて、商品交換の際には、彼らは相手の穀物や家畜等と一定の重さの銀貨幣を交換価値として割り出し、コイルを切断するなどして使っていた。

 

この秤量貨幣は、商品交換が盛んな地域や遊牧民族の間では、直ぐに重さが決まった定量貨幣へと変化発展し、長い間使用され続けていったが、それは金属の自然属性(加工性、耐劣化性、美観、非生活物資)が貨幣の機能に適していたからであると同時に、最初から重さを記した貨幣の方がより機能的であったからである。

 

この定量貨幣は紀元前7世紀のリュディア(現在のトルコ)が最初であったという。この貨幣は小型(11cm×13cmの楕円形)であり、金銀の自然合金を「打刻」して作られ、貨幣を示す紋様と一緒にその重さが刻印されていた。

 

何故か。それは〝小売り用〟に頻繁に使用するためであり、その「便利さゆえに、古代ギリシャ・オリエント地域に瞬く間に広まった」(『貨幣の世界』日銀)。

 

このように、金属貨幣の登場と普及は、私的所有を基礎とする商品交換の一定の到達点であるが、レイには考えもつかないことなのだ。もちろん権力者が財政の都合で貨幣を発行する場合はあった(日本の封建制下でも)が、それは限定的であったということなのだ。

 

今回は貨幣の基礎と古代共同体の貨幣を中心に論じたが、封建制社会においても、主権国家の債務証書として貨幣が常に発行されたという事実を見つけることはできない。レイの貨幣論は一面的であり、間違っている。 (W)

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